第1章第1節:百八歳の目覚め
……。
意識が、ゆっくりと浮上する。
水底から水面へ向かうような、曖昧で、それでいて確かな浮遊感。
最後に感じていたのは、薄暗い病室の天井と、自身の呼吸が次第に浅く、遠くなっていく感覚だったはずだ。長年酷使してきたこの身体も、とうとう限界を迎えたのだと、そう静かに受け入れたはずだった。百と八年。言語学者、是枝春子としての生は、そこで幕を閉じた。……はずだった。
なのに、なんだろう、この微かな温もりは。
瞼の裏側に、柔らかな光を感じる。
痛む箇所も、苦しい感覚もない。ただ、穏やかな、満たされたような静けさがそこにあった。死後の世界とは、このようなものなのだろうか。それにしては、妙に……生々しい。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、私は瞼を開いた。
最初に映ったのは、見慣れない緑色の……葉叢? いや、もっと大きい。木の枝葉が幾重にも重なり、その隙間から、きらきらと木漏れ日が降り注いでいる。風がそよぐたびに、光の模様が揺らめいた。
身体を起こそうとして……驚いた。
信じられないほど、軽い。
まるで、長年着込んでいた重い外套を脱ぎ捨てたかのように。
私はゆっくりと、自分の右手を持ち上げてみた。視界に現れたそれに、思わず息を呑む。
……なんだろう、この手は?
小さく、華奢で、驚くほど白い。皺一つなく、陽光に透けるような、瑞々しい肌。それは、百八年生きた私の手では断じてなかった。まるで……そう、まるで少女の手だ。
震える指先で、そっと自分の頬に触れてみる。柔らかい。弾力がある。次に髪へ。肩口で切り揃えられた、絹のように滑らかな感触。色素の薄い、柔らかな茶色の髪。
信じられない。信じたくない。しかし、この感覚は紛れもない現実だ。
私は、是枝春子は……この見慣れぬ場所で、全く別の、若い、おそらくは少女の身体で、再び目覚めてしまったらしい。
転生。
近年の若者向けの小説などで見かける、荒唐無稽な概念。まさか、この私が、それを経験することになろうとは。
混乱と驚愕が、嵐のように胸中を吹き荒れる。百八年の知識と経験を持つこの精神が、見たこともないほど若く健康な肉体に宿っている。この途方もないギャップ。
だが、混乱の底から、別の感情がむくむくと湧き上がってくるのを止められなかった。
それは、純粋な……感動。
この身体は、動く。自由に。軽やかに。前世の晩年には、ベッドから起き上がることさえ億劫だったというのに。手足の先まで、血が巡っている。生きている。
深い、深い呼吸をしてみる。肺を満たす空気が、甘く、新鮮に感じられた。
なんということだ。
ふむぅ……。これは、一体……。
言語学者としての探求心が、状況への困惑を抑え込み、静かに頭をもたげ始めていた。