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なんだと?
メアリは持っていたスプーンをメキャッと握りつぶした。スプーンの上のジャムが飛び散った。
後ろでメイドが「ひっ」と悲鳴を上げた。
「まさか、だんなさまに限ってそんなこと……」
……あるかもしれない。
メアリはナプキンで手に着いたジャムを拭き拭きそう思った。
決して不実な人ではない。メアリも子どもたちも大事にしている。仕事もきちんとこなす。伯爵家の事業は手堅く順調だ。社会的にも信用されている。銀行からの信用も厚い。
結婚生活に不満はない。
……ないのだが、残念なことに(?)ロバートは見目が麗しい。加えて人当たりもいい。モテる。結婚後もだ。当然邪念を持ってすり寄るご婦人は後を絶たない。
そのへんは手慣れたロバート。軽々と捌いていく。
結婚前には浮いた話のひとつやふたつや三つや四つあったのだ。まだ婚約前、メアリも実際にどこぞの令嬢と連れ立って歩くロバートを何度も見かけたこともある。しかも毎回違う人だった。
確かにステキな紳士だった。メアリだってロバートを見たらぽわんっとなった。
それがいろいろな兼ね合いをとって、ロバートとの結婚話が出た時には、のぼせ上ったのだ。
ただ、あの数々の浮名を流すロバートと平和で幸せな結婚生活ができるのかは甚だ不安だった。
そこはメアリの両親が、きっちりと条件を付けた。結婚を望むのであれば、身辺整理は当然のこと。
まかり間違って嫉妬に狂ったご婦人によって、メアリに危険が及ぶなどもってのほかだ。もちろん結婚後もしかり。
ロバートの対応は迅速だった。どれだけの労力とお金をかけたのかは知らないが、あっという間にさっぱりすっきり身ぎれいになった。
ロバートの対応に、メアリも両親も満足して無事に婚姻が結ばれた。
メアリは舞い上がった。ロバートが自分のために稀代のプレイボーイの名を返上したのだ。
わたしは最強。それくらいの気持ちだった。うぬぼれても仕方あるまい。
安心できると思っていた。
だが逆に言えば、その気になればいくらでも浮気ができるということ。言い寄ってくるご婦人の中に気に入った人がいればすぐ。もうすぐに浮気ができる。
じっさいに、あやしいことは今までに何度かあった。憎たらしいことにロバートは隠すのもうまいのだ。
そういう駆け引きが得意な(?)ロバート。たぶんお相手もそういう駆け引きに手慣れた女性なんだろう。
節度を守った(?)スマートなお付き合い。
もしかしたら、メアリもどこかで会っているかもしれない。でもふたりともそんな関係を悟らせない。
ひょっとして、陰でほくそ笑んでいるのかも。
疑ってしまえば泥沼に落ちる。あの人かもしれない。この人かもしれない。あの人が怪しい。この人も怪しい。
疑心暗鬼とはまさにこのこと。
夜も眠れなくなる。食欲もなくなる。
「メアリ、どうしたんだい?」
寝込んでしまったメアリを心配して、ロバートが早々に帰宅する。いたわしげに、つきっきりで看病する。
それでメアリは少し安心する。
家令と侍女が「浮気なんてしていませんよ。奥様はこんなに愛されているじゃありませんか」と言われて、また少し安心する。
気にしちゃいけない。ちゃんとわたしのところに帰ってくるもの。子どもたちのこともかわいがっているもの。
だいじょうぶ。
メアリは自分に言い聞かせた。
それなのに!
浮気相手に子ができ、妻を入れ替えようなどと不届きなことを考えるならば、だまってはいられない。
子どもたちを守らなくては!
「わかりました、会いましょう」
家令は追い返してもいいのでは? と言ったけれどメアリは席を立った。
ここで引いては女が廃る。売られたケンカなら買おうではないか。
件の令嬢は玄関ホールに立っていた。もちろん応接間などに通す必要はない。立ち話で十分。むしろ屋敷の中へ入れてやっただけありがたいと思え。
わたしが妻なのよ!
「話を聞きましょう」
挨拶も抜きにメアリは女の戦いのゴングを鳴らした。
また二十歳前じゃない? 17,8くらいかしら。こんな少女に手を出すとは。
夫の趣味に、メアリは不愉快になった。
なによ。わたしだってまだ23よ。まだまだ若いわ。若いはずよ。
子どもをふたり産んだら、おなかも胸もちょっとたるんとしてしまったけれど。
それにしても、なんかちょっとダサくない? ドレスもどこかあか抜けないし、派手な割に安っぽい。化粧はしているが、なんだか粉っぽい。色も合っていない気がする。
あなた、リップはピンクよりオレンジが似合うと思うわよ。
お安い化粧品をお使いなのかしらね。
メアリがくっと背筋を伸ばせば、子爵令嬢はひくっと頬をひきつらせた。
「わ、わ、わたし、身ごもったのです」
「それは聞きました。それで?」
「うっ。えっと、えっと、わたしたち愛し合っているのです」
負けない! 負けませんとも!
「ええ、それで?」
「わ、わ、わたしと結婚してくださると伯爵はおっしゃいました」
「そう、わたくしは何も聞いておりませんの」
「うっ。だ、だ、だから夫人とはり、り、離婚をすると」
「わたくしと離婚をすると夫が言いましたの?」
「ははははい」
「そう」
玄関ホールに-196度の風が吹いた。
「ああ、そうですか。わかりましたとわたくしが言うとでも思いましたか」
「うっ」
どうしてこの子はいちいち「うっ」となるのかしら。
「だだだだだって」
「だ」が多い!
「だいたい夫抜きであなたとわたしで、どんな話ができるとお思いですの?」
「うっ」
話にならない。横に立った家令が小さくため息をついた。
「とにかく、わたくしは何も聞いておりません。夫に確認はしてみます。話はそれからです」
「わわわわたしたち、愛し合っているんです」
何回言うんだ。
「ええ、わたくしたちも愛し合っております。かわいい子どももふたり授かりました。夫は今朝も出がけに愛しているよと言いましたが?」
どやっ。
子爵令嬢は、涙目でふすーふすーと鼻を鳴らしながら睨みつけてくる。
なんか、めんどくさい。
「話はそれからです。今日のところはお引き取りを」
できる家令は、子爵令嬢の肩を持ってくるりと回れ右をさせた。そのまま玄関扉から外へ押し出した。
それからメアリのところへ戻ってくると
「やりましたね」
とにっこり笑った。いや、全然やってない。こっちだって泣きそうだ。
ティールームに戻ったメアリは、やけくそのようにスコーンにジャムを山盛りにしてかぶりついた。