深紅のブラジャー
夜の帳が下りた商店街は、いつもよりも不気味なほど静まり返っていた。
ネオンサインの光さえ、どこか震えるように点滅のペースを落としているように見える。
私、麻衣はその通りを足早に歩いていた。
いつも閉店時間を過ぎても残業が多い職場だが、この日はひときわ遅くなってしまった。
ランジェリーショップで働いているといっても、華やかさとは裏腹に裏方の仕事は山ほどある。
締め作業を終え、やっと店を出られたのは夜の十一時を回る頃だった。
商店街を抜けると、道の先にぽつんと灯りを残したままの小さな古道具屋が目に入る。
普段なら素通りしてしまうところだが、その日はどうにも呼び寄せられるように店先に目が留まった。
ショーウィンドウの奥に、どこか年代物のブラジャーが吊るされている。
まるで蝋細工のように光を吸収せず、陰湿な闇を纏っていた。
「なんで、あんなものが……」
そう呟いたものの、急いで帰りたい気持ちもあり、一旦は視線を外そうとした。
けれど奇妙な胸騒ぎが私を捉えて離さない。
あのブラジャーの存在が、こちらを監視しているように感じられて仕方がなかった。
翌日、いつものように勤務先に向かうと、店長が珍しく私を呼び止めた。
「麻衣、ちょっと在庫整理を手伝ってくれる?どうも商品数が合わないのよ」
店長ははきはきとした物言いの女性で、社員からの信頼も厚い。
私も「はい、わかりました」と返事をする。
今日はメインフロアでの接客よりも、バックヤードでの整理が多いらしい。
段ボールを運び込み、バーコードをスキャンし、棚に詰めて……そんな単純作業のはずだった。
だが、その日は見慣れない段ボール箱がひとつ、古びた文字で「返品不可」とだけ書かれたまま棚の奥に放置されていた。
好奇心に負けて蓋を開けてみると、中には色とりどりのブラジャーが詰められている。
新品というにはあまりにも古めかしい生地で、どれも経年劣化のような黄ばみや小さなシミがあった。
その中のひとつ、深紅のレースブラが目を引いた。
赤といっても鮮やかなものではなく、どこか血の色を思わせる沈んだ深みがある。
私は思わずそれを手に取り、裏返してタグを見る。
タグの文字は擦れて読めない。
しかし、触れた瞬間にひやりとするような感触が手のひらに広がった。
その日の閉店後、店長と一緒に在庫のチェックをすることになった私は、その深紅のブラジャーのことを尋ねた。
「店長、あの箱にあった古いブラジャー、あれは何なんですか?誰かのお下がりみたいにも見えましたけど」
店長は怪訝そうな顔をして首を傾げる。
「そんな商品、うちが仕入れるわけがないでしょう。業者の送り間違いじゃない?」
「でも箱には『返品不可』って大きく書いてあって……」
「それは変ね。後で業者に問い合わせようかしら。とりあえず今は倉庫にしまっておいて」
そう言われて、私は何とも言えない不安を抱えたままその深紅のブラジャーを再び箱に戻した。
家に帰っても、あのブラジャーの感触が頭から離れない。
まるで人肌を触れたような、生々しい冷たさだった。
そして、夕べの古道具屋で見たブラジャーの影が心にちらつく。
その夜はいつもより疲れていたはずなのに、なかなか眠れなかった。
浅い眠りの中で夢を見た。
夢の中で私は深紅のブラジャーを握りしめている。
するとブラジャーは急にうねり、まるで生き物のように私の胸元に張り付いてくる。
どんどん締め付けが強くなり、息ができなくなるほど苦しい。
「助けて……」
息が詰まるような感覚とともに目を覚ますと、胸はいつも通りで、もちろん何も張り付いてはいない。
だが、自分の胸を押さえる手が震えていた。
翌朝、店に出勤すると、バックヤードで不審な物音がするという話を他のスタッフから聞いた。
昨晩から誰も出入りしていないはずの場所で、深夜に何かが擦れるような気味の悪い音が聞こえたのだという。
「倉庫に人が入り込んでいるのかしら。怖いわね」
スタッフたちの言葉に、私も同調したい気持ちはあった。
けれど、その音の正体を想像すると、胸の奥が冷たく疼く。
倉庫にあるのはあの古いブラジャーたち。
もしもそれらが動き出していたら……そんな馬鹿な考えが頭をよぎってしまう。
私が押しつぶされそうな不安を抱えていると、店長が慌ただしく駆け込んできた。
「ちょっと、昨日しまったはずの箱がなくなってるのよ。誰も持ち出してないわよね?」
「そ、そんなはず……ちゃんと倉庫の隅に置きましたよ」
「他のスタッフも心当たりがないって言うし。大きな箱がまるごと消えちゃうなんて信じられないわ」
店長の苛立ちが表情に出ているのを見ながら、私は背筋が凍る思いがした。
あれほど不気味だった箱が、どうして突然姿を消したのか。
まさか誰かが盗むとは考えにくい。
値打ちのないはずの古いランジェリーなんて持ち出す理由も思いつかない。
その日の夜も残業となり、店内に残っていたのは店長と私の二人だけになった。
私は店の奥にある従業員用の休憩室で、溜息をつきながら先ほどまでの仕事の疲れを紛らわせていた。
すると、どこからかかすかに話し声のようなものが聞こえる。
女の声……それも怒りと悲鳴が混ざったような、耳に馴染まぬ唸り声にも感じる。
立ち上がり、そっとドアを開けると、声はバックヤードのほうから聞こえてきた。
「店長、今、誰かいましたか?まだスタッフが残ってるんでしょうか」
そう聞くと、店長も首を振りながら耳を澄ませる。
「聞こえないわよ……何の音?」
そう言いかけた瞬間、急に照明がパチパチと瞬いた。
まるで店自体が歪んだ意志を持ち始めたように、不規則な点滅を繰り返す。
店長が懐中電灯を手にして先導し、私が後に続く。
バックヤードへの扉を開けると、かすかな血のような臭いが漂ってくる気がした。
思わず口元を押さえながら、私は店長の背中に身を寄せる。
「大丈夫、私がいるから」
店長の声も震えている。
段ボールやハンガーが乱雑に散乱している狭い通路を進むと、奥の方に何か赤いものが落ちているのが見えた。
あの深紅のブラジャーだ。
まるでそこに人がいたように胸の形を保ったまま床に転がっている。
「こ、これは……?どうしてここに……」
店長が驚いた声を出すと同時に、店の照明が完全に消えた。
暗闇の中、私は店長の腕を強く握る。
何かが動いている。
棚の奥か、あるいは床の上を這うような小さな気配。
店長が懐中電灯を照らした光が、奇妙な影を捉えた。
それは箱に詰められていたはずの古びたブラジャーたちが、床をずるずると引きずられるように動いていたのだ。
まるで目に見えない手が、それらをゆっくりと引っ張っているかのように。
「嘘でしょ……」
店長の声が震えている。
私も言葉にならない悲鳴をあげそうになる。
すると、深紅のブラジャーだけが急に身震いするように揺れた。
何かが封じ込められていたかのように、内部から小さな爪で引っかくような音がする。
嫌な汗が背中を伝う。
店長が震える声で「麻衣、逃げるわよ」と耳打ちした。
けれど足がすくんで動けない。
目を離せずにいると、深紅のブラジャーのカップ部分がわずかに盛り上がり、裂けたように隙間が開いた。
その中から黒い粘液のようなものが垂れ落ちる。
生温い空気が吐き出され、まるでそれが誰かの息遣いのようだ。
次の瞬間、深紅のブラジャーが宙に浮き上がるように跳ねた。
私たちの頭上にまで浮かび上がり、ひとりでに動き出す。
「嘘……そんな……」
言葉にならない動揺を抑えきれないまま、店長と私は後ずさる。
それなのにブラジャーは逃げ場を塞ぐように、ふわりふわりと私たちの前に滑り出てくる。
「ねえ、麻衣。もしものときは……」
店長の言葉は最後まで聞こえなかった。
音もなく宙を舞っていた深紅のブラジャーは、まるで血に飢えた生物のように店長の胸元に食らいついたのだ。
店長が悲鳴をあげるが、言葉にならず、唇からは泡のように息が漏れるだけだった。
ブラジャーのレースが店長の体に吸い付くように締め上げ、店長の胸の輪郭を強調するように浮かび上がる。
それはまるで呪縛のようで、店長の呼吸を奪い取っていくかのように見えた。
私は恐怖に身がすくみ、助けようにも近づけない。
「助けて……」
店長の声はか細く、やがて床に崩れ落ちる。
深紅のブラジャーからは黒い液体が滴り、店長の胸元を赤黒く染めていく。
その光景をただ眺めるしかできない自分が、情けなくも恐ろしかった。
店長の動きが完全に止まった瞬間、ブラジャーはゆっくりとその締め付けを解いた。
しかし、ほどかれた店長の胸からはいつもの張りが失われているように見える。
何か大切なものが奪われ、痕跡を残していないかのようだ。
店長はうっすらと目を開いているが、意識があるのかどうかもわからない。
そのまま動かず、胸の起伏は小さく痙攣している。
私はようやく悲鳴を上げ、店長のそばまで駆け寄った。
「店長、しっかりしてください!」
そう叫んだが、店長は何も答えない。
その胸はすでにブラジャーによって深い苦しみを刻まれた痕跡だけを残し、呼吸さえ乱れているのかわからなかった。
ふと気づくと、深紅のブラジャーは再び静かに宙に浮き、私のほうを向いている。
まるで獲物を品定めする捕食者の視線を感じた。
恐怖のあまり、私は店長を見捨てるような形で後ずさった。
理性ではいけないとわかっていても、その場に留まるのは危険すぎる。
「誰か……助けて……」
震える声が店内に虚しく響く。
けれど、人通りの少ない深夜の商店街に、この店の異常に気づく者はいないだろう。
深紅のブラジャーはまるで呼吸をするかのように左右のカップを波打たせた。
私はその不気味な揺れに目を奪われ、身体がすくんでしまう。
それでも何とか足を動かし、バックヤードから店のフロアへと逃げ出す。
暗闇の中を駆け抜けようとしたとき、背後でシュルシュルと布が擦れる音が聞こえた。
振り返ることはできない。
全速力で店の扉へと向かい、鍵を開けようとするが、開かない。
鍵がうまく回らないのか、あるいは扉自体が何かに押さえつけられているのか。
「開いて……お願い……」
私は手のひらが汗で滑るのも構わず、必死でドアノブを回す。
すると、背中に何かが触れた。
ちりちりとした感覚と同時に、冷たい何かが私の肩から腕を這い下りる。
悲鳴を抑えきれず振り返ると、そこには宙に漂う深紅のブラジャーが。
私の肩にレースのストラップを絡ませるように、まるで誘うかのように近づいてくる。
「イヤ、来ないで!」
私は肩を振り払うが、その動きに合わせてブラジャーも揺れるだけ。
何かどす黒い液体を滴らせながら、まるで私の胸に引き寄せられるように形を変えようとしている。
パニックの中でドアノブを強引に回し続けるうちに、ようやくがちゃりという音が響いた。
ドアが開いたのだ。
私はその隙間から外へ飛び出す。
転がるようにして外の歩道へ出ると、街灯に照らされた商店街の冷たい空気が頬を打った。
意識が朦朧とする。
けれど、なんとか立ち上がり、後ろを振り返ると店のドアは固く閉ざされたままだった。
一瞬、あの深紅のブラジャーが追ってくるのではないかと恐れたが、店の中は深い闇に沈んでいるだけだった。
そのまま私は夢中で逃げ出した。
人気のない商店街を走り抜け、自宅へたどり着いたときには息が上がり、体じゅうが汗まみれだった。
ドアを閉め、鍵をかけ、部屋の灯りを全部点けてようやく安堵する。
けれど、あの店長の姿が頭から離れない。
ブラジャーに締め付けられた胸、意識が遠のいていく顔……。
助けを呼ばなければならない。
そう思うのに携帯電話を手に取る指が震えて、通報の番号が何度も押し間違う。
ようやく警察に繋がったが、状況を説明するにも混乱していて何を話しているのかわからない。
それでも「助けてほしい」と訴え続けると、向こうも何とか住所を聞き出し、警官を派遣すると言ってくれた。
私はその言葉にすがるように電話を切った。
だが、本当に間に合うのか。
店長は無事なのか。
考えれば考えるほど、不安と恐怖が広がっていく。
深紅のブラジャーがまるで生きているかのようにうごめいたあの光景が、何度も脳裏に焼き付く。
その後、店長は行方不明のままとなり、店も閉店を余儀なくされた。
警察は店内を捜索したが、明確な手がかりは見つからなかったらしい。
ただ、バックヤードの床には薄くこびりついた黒い液体の跡があり、店長のものと思われる一房の髪が落ちていただけだったという。
そして深紅のブラジャーはどこにもなかった。
私が唯一言えることは、この世には触れてはいけない「何か」が存在するのだ、ということ。
あの古道具屋に飾られていた謎のブラジャーも、店の倉庫に紛れ込んだブラジャーの数々も、きっと同じ根を持つ呪いだったに違いない。
今もなお、夜の街角でちらりと見かける不気味なランジェリーの影が私を震え上がらせる。
胸元を覆うはずの優美な衣装が、いつしか命を奪うための狂気に形を変えてしまうことがあるのだとしたら。
そう思うたびに、私は自分が着けているブラジャーさえ、ひどく恐ろしく感じてしまう。
私は新しい職場を見つけ、ランジェリーではない洋服の店で働いている。
だけど、夜の閉店後にひとり残業する日は必ず背中が薄ら寒くなる。
時折、棚の奥や試着室のカーテンの隙間から、じっと私を見つめる深紅のレースがそこに潜んでいるような錯覚に陥るのだ。
それは一瞬で消える幻影でしかないのに、どうしようもなく胸がざわつく。
あの時の店長の苦しげな表情が、闇の中で生き続けていると信じて疑えない。
そして私は祈る。
自分が二度と、あの忌まわしいブラジャーの餌食にならないことを。
けれど同時に、どこかでいつか再会してしまうのではないかという絶望を、心の奥底に抱き続けている。
胸を包むものが、この世で最も優しい布でありながら、最も恐ろしい死の罠にもなり得る事実を、あの夜の出来事が私に刻み付けた。
それは消せない傷であり、終わらない悪夢となって私を蝕んでいる。