7.家族の団欒
玄関へ行こうとしたら、すでに生ける屍は戸を開けて、リビングに入ってきたところだった。
遅れて両親も入ってくる。
こっぴどく叱られた生徒みたいに、兼光と綾女は肩を落とし、下を向いている。
沙月は、対面式キッチンのそばにあるテーブルを示した。
奈桜が生前使っていた定位置の椅子を引く。
甦った姉は覚束ない足どりで進んだ。
歩くたび、ナメクジみたいに粘液が床に尾を引いた。
どうにか着席した。
沙月はその左隣についた。
両親はそれぞれ、テーブルの反対側に座り、口をつぐんだまま項垂れている。
「このボードに書いて。なんであの野辺送りのとき、帰ってこられたの? やっぱり、行きと帰りの道を別々にしなかったから?」
沙月は身を乗り出して言った。
奈桜は傷だらけの手で水性ペンのキャップを取り、白い黒板にのろのろとペン先を走らせた。
家族はそれを見つめた。
――あんなの コドモだまし。イキとカエリのミチ モンダイではない。
「だったら」と、沙月はわめいた。「どうして帰ってきたの? なにが望みなの?」
沙月はホワイトボードを引ったくり、ティッシュで姉の書いた文章を消した。
そしてボードをぴしゃりと置いた。
奈桜は即座に文字を書いた。筆圧が弱く、筆跡は生前の美しさの欠片もなく、ひどく震えていた。
――このイエは あまりにも ムナしい。フツウが よかった。
奈桜自ら左手でティッシュをつまみ、ボードの文字を消した。消すそばから、コーヒー色をした腐汁で汚した。
ふたたびペンで、意思を示した。
――フツウにアイされたかった。それだけ。やりナオすタメに カエってきた。それだけじゃ ダメ?
沙月はその文章を見るなり、自身の胸元をつかんだ。
悲鳴をあげたくなった。
代わりにボードをくるりと半回転させ、両親に見せてやった。
激しい慟哭が二人の口から放たれた。
兼光は自身を罰するかのように、テーブルに額を何度もぶつけた。
両手で顔を覆った綾女は、しきりにごめんねごめんね、と連呼する。
沙月は潤んだ眼で姉を見た。
奈桜は青い肌をしており、こめかみから顎にかけて、緑色の静脈が稲妻のように浮いていた。髪の毛はやたらと脂っぽくギトギトしており、頭皮にイトミミズの群れがのたくっているのが見えた。
生ける屍は、からくり人形のように首を曲げ、沙月を見つめた。
その拍子に右の眼窩から、ピンポン玉のような眼球が納豆みたいに糸を引いて垂れさがった。
空洞にはぎっしりと、ウジムシが詰まっていた。
首筋の皮下にもウジの群れが、表皮を浮きあがらせながら動きまわっていた。そのさまは、池の中で泳ぐオタマジャクシのようだった。
抱きしめようかと思ったが、さすがに思いとどまった。
「やり直すって……。いまさらどうやって?」
奈桜は肘を軸に、ワイパーのように手のひらを動かして文字を消した。ボードは得体の知れない粘液でぐしゃぐしゃだ。
かまわず、ペン先を走らせた。
――ユウハンを イッショにタベたこと ナかった。せっかくだから イッショに タべよう。
「あなたのお茶碗、もう割っちゃったから、ここにいるべきじゃないの! だからお姉ちゃん、もう帰らないと!」
ふたたび奈桜はボードを乱暴に消し、筆談した。
――おバカさんね サツキ。ナンデ ワタシの おチャワンにコだわるノ?
こんな禍々しいやりとりが、いつまで続くのだろうか?
夜を徹した、終わりの見えないコミュニケーションになりそうで、沙月は目眩を憶えたそのときだった。
壁時計は23時をまわっているのに、またしてもインターホンが鳴り響いたのだ。
家族は同時に顔をあげ、身を強ばらせた。
今度は誰が訪ねてきたというのか?
両親は沙月に、目配せで訴えかけている。
代わりに出てくれ、というわけだ。
沙月は席を立ち、玄関に向かった。
背後で、奈桜までが椅子を引き、席を離れる気配がした。
◆◆◆◆◆
くり返し、インターフォンが鳴った。
沙月は恐る恐るドアノブに手をかけ、そっと開けた。
もうなにが現れても驚きはするまい。
玄関ポーチのライトに照らされたのは、身体もごつく、厳めしい顔つきの男だった。
短く剃られた白い顎ひげは、岩に張り付く苔のようだ。ジャケットを羽織り、スラックスをつけている。
ふてぶてしく、歯を見せていた。
どこかで見たことのある人相だと思った。
遠い記憶をまさぐるまでもない。すぐに思い当たった。
奈桜の葬儀の日、あの野辺送りで寝棺を担いだあと、墓穴にライフルを撃ち込んだ猟師だ。たしか工藤と呼ばれていた――。
「充子さんから、聞きつけてな。お嬢ちゃんが悪い夢に魘されてるって。はるばるTから来てやったんや。こんな夜更けに押しかけるのもなんやけど」と、工藤は酒焼けしたしゃがれ声で言った。飲み屋で一杯引っかけたらしく、アルコール臭が漂っていた。「最初から、思うところがあってな。東京育ちの若い娘さんが、土葬なぞ望み、ましてや不慮の事故死なんやろ? どうも嫌な予感がしてな。素直に眠ってくれへんのとちゃうかと、ずっと引っかかってたんや」
「なにが言いたいんですか。単刀直入にお願いします」
沙月は硬い口調で言った。
「来てるんやろ? 姉貴がよ。どういう交通手段を使こて、ここまで来たんか知らんけどな。どや、おれが退治したろ」と、工藤は眼を細めて、沙月の背後をにらんだ。玄関ポーチに、コーヒー色した水たまりがある。水たまりは帯となって玄関に入り、廊下の向こうまで続いているのを、工藤は見逃さなかった。「もっとも、町中にライフル持ち込むほど、おれもおめでたい田舎者やないで」
「だったら、なにする気?」
「おれは猟の専門家や。10代のころからこの年まで、これで食うてきた。くくり罠もお手の物やし、ナイフ捌きもまんざらやない」
と言って、上着の内側からワイヤーの束を取り出した。
ワイヤーを交差させて輪っかを作り、それを絞ってみせた。
腰のベルトには、ごつい鞘を装備していた。ナイフにちがいない。
「おばあちゃんの依頼で、お姉ちゃんを殺しにきたっていうの?」
「お嬢ちゃん。どんな事情であれ、死人を匿うべきとちゃう」
しばらく押し問答したが、しまいに工藤は力づくで沙月を押しのけ、土足で玄関をあがっていた。
沙月の制止に耳を貸さず、濡れた床を追う。
足音を忍ばせてリビングを目指した。
沙月もあとを追った。ここに来て、奈桜をどうしたいのか、自分でも判断をつきかねていた。
工藤は懐からワイヤーの束を出し、輪を作って両端を握った。
リビングに飛び込んだ。
沙月もリビングに足を踏み入れる。
キッチンテーブルには、両親と奈桜が席についていた。
奈桜は――なんと、どんぶりでご飯を食べていた。
母は滅多に作らないが、親子丼やかつ丼を作ったときのための器だった。奈桜本人が食器棚から取り出したらしい。
夕飯はめずらしく、五目ご飯だったのだ。
たっぷり山盛りにした色付きのご飯を、奈桜は勢いよくかき込んでいる。
せっかく奈桜の茶碗は割ったはずなのに、居付く気まんまんだった。
工藤と沙月は顔を見合わせた。
了
※参考文献
『禁忌習俗事典 タブーの民俗学手帳』柳田国男 河出文庫
『土葬の村』高橋繁行 講談社現代新書
★★★スペシャル・ボーナストラック★★★
墓穴掘りくらいなら、作者だってやったことはある。
土中から見つかる骨の欠片というのは、体験した者でないとなんとも言えない気持ちになるぞ。
その際の特殊な作法もバッチリ記録している。
ここからは、墓掘りを教えてくれた伯父から聞かされた、とっておきの怖い話をひとつ披露しよう――。
伯父がまだ若いころである。
地元で、不幸にも若い女性が亡くなった。座棺におさめ、彼女の家系の墓地に土葬にして埋めたのだった。
墓穴を掘ったのは親族かなにかで、その時点で伯父はノータッチだった。
3カ月経ったある日、坊さんが血相を変えて、先の亡くなった女性の親元に飛び込んできた。
坊さんは息を切らせて、大変なことをまくし立てたのである。
「えらいことになった……。実は、この前亡くなった女性のご遺体だが、まったく別の墓地に埋葬してしまっていたんだ」
最近、その墓地の家の者が死去し、明後日に埋葬することが決まった。そのときになって、ヒューマンエラーに気づいたという。間違われた家の人も、なぜ気づかなかったのか不思議だが……。田舎だと同じ苗字だけど、さほど血のつながりのない家もあるから、そんなミスだったのかもしれない。
こうしてはおれん!と、地元の人たちの間で騒然となった。
大至急、前回のご遺体を掘り返し、埋葬し直さないといけない。
急きょ、墓掘り人となってくれる男を4人募った。――そのメンバーに、若き日の伯父が名乗りをあげたわけである。
今回ばかりはこの墓掘りは、夜半に行うべきだということになった。
埋め間違ったご遺体は、なにせ3カ月も経過しているのだ。とても棺桶の中は見られた状態ではあるまい。
事前に、墓掘り人たちには清酒がふるまわれた。穢れを落とすとか、そんなレベルではない。ベロンベロンになるまで酔わされたという。素面ではできないだろうという配慮からだった。
酒の好きな伯父も、たっぷり飲まされ、ふらつきながら墓地に足を運んだ。
そして、いよいよ土饅頭を掘り返すことになった。
男たちは時間をかけて土を掘り、大変な思いをしてどうにか座棺を回収した。
掘り起こしてすぐ、故人の正しい墓地に埋め直せば解決するだろうと思いがちだが、再度、坊さんにお経を拝んでもらう必要があった(というか、坊さんもこの場に同行すべきだった)。
だから遠方の、小高い丘の上にある寺まで棺桶を担いでいかなければならなかった。恐るべき重労働を課すことになるだろう。
その前にである……。
伯父を含めた墓掘り人4人は、酒の勢いも手伝って、棺桶の中をのぞいてみたい誘惑にかられた。
悪趣味であり、不謹慎な好奇心であろう。
よせばいいのに、なんと彼らは蓋を開け、中身を見てしまったというのだ。
伯父はこう述懐している。
「中はえらいことになってた……。とても口では言えんよ。とにかく酷かった。それに臭いが凄くてな。おれたちは酔っ払っていたが、たちまち酔いは飛んだ。座棺の中は、赤い肉片やら、白い脂の溶けたのやら、それに大量の腐った菊の花が浮き、とんでもないヘドロ状態だ。色とりどりのスープになっていた。あの夜の出来事、おれは死ぬまで忘れられんよ」
気を取り直し、伯父たちは棺桶を天秤棒にくくり、寺まで担いで運んだ。
桶の中では、液体が内壁にぶつかる『チャッポンチャッポン』という嫌な音が、ひっきりなしに聞こえたという。
寺に続く石段を登るころには、桶の下から粘り気のある汁がこぼれたそうだ。