5.不完全な呪術
一同はひと塊になり、山道を進んだ。
いくつかの蛇行した小カーブをすぎた先に、現場に出くわした。
惨状を眼にするなり、神応寺家は驚きの声をあげた。
右側の岩山が崩れ、斜めに赤茶けた土砂が堆積している。おまけに大きな楕円形の岩石が道をふさぎ、道まで陥没させていた。
左下は段差になっており、眼下には杉林が広がっている。
おりられないこともないが、足もとは藪が茂っており、マムシが棲息していないとも限らない。藪漕ぎをするのをためらわせる薄暗さがあった。
「な? こっちを行くのは危ないやろ」
「さっき、猟銃を発砲したおじさんは、どうやって帰ったんだろ? このメンバーには見当たらないでしょ」と、沙月は人垣を見まわしながら言った。「先に一人で帰っていったとき、たしか、こっちの道を通ってったよ。私、見たもん」
「工藤は猟師や。山ん中なんて、へっちゃらだろ。こっちがあかんのなら、林の中を突っ切って、もと来た道へ合流したのかもしれん」
別の担ぎ手の痩せた老人が言った。
「なら、おれたちに教えてくれてもよかったのに。おかげで無駄足を踏まされた」
「奴は、しょせん武蔵の人間とちゃうからの。いけずしたんかもしれん」
林を突っ切っろうにも、やはり鬱蒼たる下生えが邪魔して、山歩きを慣れていない者は苦労しそうだった。悪くすれば、せっかくの喪服に引っかき傷をつけかねない。
ここは素直に道を引き返すべきだった。墓地へ来るときに通った山道から帰るのが賢明のように思えた。
「困ったね、さっき来た道を戻れっちゅうの? 野辺送りは、行きと帰りを別々にせなあかんのに」と、充子はうしろをふり返って不安げな声を洩らした。「かと言うて、他に回り道はないやろし」
「迷信だって、お袋。引き返すしかないだろ」
と、兼光。
「男の人たちで、なんとか土砂をどけられんかね? ちょうど、シャベルやらジョレンも持ってることだし」
「冗談よしてくれ。こんなでっかい岩だ。重機がいる。国土交通省の管轄だ」
「お義母さん」綾女は夫の横で、諭すような口調で言った。「このあと、和尚さんの都合もあると思いますし、無理強いはできませんよ」
「なら、しゃあないね」充子は兼光たちに背中を押されて、渋々従った。「なんかようないことでも、起きんかったらええけど――」
◆◆◆◆◆
思えば、それらの呪術の法則を破ってしまったがために、結界に綻びが生じたのかもしれない。
あの日、野辺送りを終え、多摩市の自宅に帰ってきたというのに、沙月は悪い夢ばかり見るようになった。
夢の中はいつも共同墓地から、もと来た道を引き返している場面だった。
うねうねと続く、武蔵地区までの平坦な山道。
両側は杉の木立に挟まれ、昼なお薄暗い。
林の中を見透かそうとすれば、墨をこぼしたかのような闇で塗りつぶされている。
あのときは神応寺家と会葬者一同で武蔵まで歩いて帰ったというのに、夢ではいつも沙月はひとり、道を歩いていた。
車の轍に足を取られながら、ひたすらテクテク進んでいる。
いつまで経っても、集落は見えてこない。
早くしないと日が暮れるのではないか。
そんな焦りに衝き動かされ、ひたすら山道を歩き続ける。
蝉しぐれが頭上から降ってくる。そのさなかを必死になって脚を交互に動かしている。
行けども行けども、いくつものカーブを曲がっても、ゴールは見えてこない。
ふいに沙月は、背後に気配を感じた。
――『沙月、しっかり前向いて歩かな。この野辺送りの最中かて、うしろをふり返ったらあかんって、仕来りがあるほどやで』
――『死者の魂は、列のあとをついてきてるらしいから、戻ってくるチャンスを狙うてるのかもよ』
充子の声が耳もとで再現される。
ふり返らずにはいられない。
やたらと背中が粟立ち、誰かの視線を感じた。
沙月は恐る恐るうしろを向き、今まで歩いてきた道の向こうを見た。
眼を瞠り、息を飲んだ。
見てしまった。眼と眼が合ってしまった。
針葉樹の林の中を伸びるまっすぐ伸びる道。
そこに黒いシルエットが立っていた。
彼女だと思った。髪が長く、スカートを履いた人物だからだ。
微動だにせず、こちらを見つめ返してくる。
チェック柄のスカートの裾だけが、そよ風に揺れていた。
野辺送りでは、参加したなかでは沙月は最年少であり、他に近い年ごろの女の子はいなかった。
だとすれば――だとすれば、あのスカートを履いた少女は何者なのか。
思わず、かけ出していた。
脇目もふらず逃げた。
これが夢だと自覚しているのかどうかさえ、わからない。蝉しぐれは生々しく、いくつもの斜めにかかる、幻想的な木洩れ日もやけにリアルに感じる。
夢特有のもどかしさで、いくら走っても、泥田の中を藻掻くようだ。
いくら全力疾走しているつもりでも、いっかな速度は出ない。
小さいカーブを曲がったとき、反射的にまたふり向いた。
カーブの陰に身を隠すようにして、髪の長い少女はこちらを窺っていた。
距離を引き離したと思いきや、まるっきり差は広がらない。
沙月が立ち止まると、相手も止まった。だるまさんが転んだ、みたいだ、と、ぼんやり思った。
これ見よがしにしゃがみ、カーブのところで隠れているつもりなのだろう。
さすがの沙月も怯え、うめき、許しを乞うように悲鳴をあげた。
「許して、お姉ちゃん! こっちに来ないでったら!」
野辺送りの際の、死者を封じ込める呪術は不完全だったのだ。だからこうして墓場から帰ってこようとしているのだ。
カーブを曲がってふり向くと、今度はうずくまる恰好で、こちらを見返してくる。
針葉樹の木陰が途切れたせいで、奈桜の姿が映し出された。
奈桜は、在りし日の姿で戻ってこようとしていた。
私立高校の紺のブレザーを着て、インナーの白のシャツには赤いネクタイが締めてあった。下はチェック柄の膝までのスカート姿。黒いハイソックスをつけ、革靴を履いていた。
棺におさめる直前、せめてこれが今生の別れと思い、沙月がワックスをかけてその靴を磨いたのだから、見まちがえるはずもない。
まさに、寝棺の中のいで立ちのまま、奈桜は甦ってきたのだ。
息を切らせて走ったのに、姉との差は広がらない。
むしろ、さっきより縮まった気がする。
というのも、やけに姉の制服姿の汚れ具合が眼についたからだ。
深さ2メートルもの地下から這い出てきたのだ。制服は土にまみれ、片膝はすりむき、無残な傷口が見えた。
柳の葉のような形の穴がパックリ開き、赤い表皮が露出している。しかしながら心臓が止まっているのだから、出血はしていない。
俯いた顔に長い髪がかかっていた。どんな表情かまでは読み取ることができない。
ただ、ひどく顔色が悪いのはわかった。
奈桜はホームセンターで除草剤を買い、その原液を飲んで中毒死したのだ。
沙月はふり返り、つぶさに姉の顔を観察した。
そんな余裕などなかったが、確認せずにはいられなかった。
納棺師に化粧を施してもらったにもかかわらず、すっかりメイクは取れ、死亡したときの顔色に戻っていた。
中毒死特有の青ざめた顔色で、口唇はまるで木炭にでも口づけしたかのように黒ずんでいる。
沙月にさし延べた両手は、爪まで暗青色を呈していた。その爪さえも、何枚か剥がれていた。棺桶を破り、土を掻き出して復活した代償だろう。
典型的なチアノーゼの症状であった。それのみならず、口と言わず、眼や耳、鼻の、穴という穴から血が流れ出していた。死んでいるはずだから、そんなにダラダラ流れるわけがないのに、顔だけは――。
自室で悶死していたあの日の姿のまま、まるで妹を責めるかのように追いかけてくる。
なぜ私のSOSを汲んでくれなかったのか、と言わんばかりに、両手をさし出してすぐ背後まで迫る。
沙月は声にならない声を絞り出して、クロールするかのように腕をかきながら逃げた。
「お姉ちゃん、助けてあげられなくて、ごめんったら!」