こぼす
三題噺もどき―にひゃくろくじゅうきゅう。
ひゅぅと、耳元を風が通り過ぎた
―音で、目が覚めた。
「……」
視界はまだ暗いままだ。
瞼を上げる気力がない。
「……」
うるさいだけではない、心地のいい風の音。
柔く耳を撫でては通りすぎ、むき出しの肌をくすぐっていく。
不思議と不快感はなく、ただ心地よさだけが残る。
「……」
ここ最近、暑い日が続いていたから、涼しいこの風は、どこまでも気持ちのいいモノを与えてくれる。
夏場でもこれぐらい冷たい風が吹いていれば、もっと快適に過ごせそうなのに…。
とは言え、夏は日差しが痛いから、外に出てしまえば、どうあれ快適とは程遠いものになってしまうなぁ。
「……」
まぁでも。
基本的に屋内で仕事をしている自分には、日差しというのはあまり関係ないには、ない。
営業なんてとても向いていないから、ひたすらにパソコンとにらめっこしている。
こっちの方が向いていたのかというと、実のところそうでもないので、毎日四苦八苦である。
「……」
面倒な先輩と、後輩に挟まれて仕事をしていれば、仕方ないと言ってほしいものだが。
ノーと言える立場でもなし、そんな勇気があるわけでもなし。
毎日毎日、上に怯え、下に時間を奪われ。
気づけば自分のあれこれは後回し。
最終的には残業当たり前の毎日。
分かっていない上には、仕事の効率が悪いと言われ。
使えない下は、そそくさと帰っていく。
「……」
使えないとか言っちゃいけないな。
これでは、尊敬すべき上の阿呆と同じになってしまう。
できるはずの下は、頼りないやつから時間を奪って、自分の方ができると自己愛を満たしてあげているのだろう、きっと。―何を言っているんだか。
「……」
あぁ、しかし。
ホントにここの風は気持ちがよくていい。
風に混じって肌を撫でてくるこれは、背の小さな草花だろうか。
未だに瞼は上がらないし、体はピクリともしないから、確認のしようがないが。
なぜだかものすごく疲れているのだ。
「……」
んーきっとここは、近所の原っぱだろう。
そう言えば、実家の近くに、こんな所があったはずだ。
その原っぱの近くには、少し大きめの川が流れていて、遊歩道のようなものもあった。
橙の時間になれば、犬の散歩をしている家族や兄弟、2人で歩いているご老人なんかもいた。
「……」
よくよく耳を澄ませてみれば、風の音に混じって、水の流れる音も聞こえてくる。
あぁ、やっぱりあそこかぁ。
懐かしいなぁ。
「……」
幼い頃。
たまに、自分の中でいろんなものが、ぐちゃぐちゃになることがあって。
その度に、ここにきて、こんな風に寝転がっていたことがある。
ホントのところは泣きたかったのだけれど、外に出てしまうとそういうわけにもいかなくて。
ただこうして、寝転がって、目を閉じて。
風の音と、水の音と、時折聞こえる人の声に耳を澄ませてみたりして。
そうしているうちに、不思議と落ち着いていったのだ。
「……」
いつの間にか、そんなことをする余裕も、時間も無くなっていたけれど。
たまには抗しなければ、私は私が分からなくなる。
そのくせに。
結構長い時間、自分を殺していたようだ。
「……」
大人になって、社会に出て、心機一転上京して。
ビル群に囲まれながら、出勤して。
人間に囲まれながら、仕事をして。
自分を殺しながら、息をして。
「……」
限界なんて、とうの昔に超えていたのに。
それにすら、目を向けずに、ひたすらに。
「……」
「……」
なぜか突然、瞼が上がる。
耳に集中していた意識は。
瞬間。
視界に意識を向ける。
「……ぁ…」
どこまでも広がる空。
所々、薄い雲がかかっている。
「……」
広く、広く、どこまでも。
終わることなく、広がり続ける。
空。
視界いっぱいに広がる。
空。
「……」
目の奥がジワリと熱を帯びだした。
鼻の奥がじくりと痛み出した。
心臓の鼓動が早くなりだした。
「……」
はぁ…かなり溜まっていたようだ。
全く気付かなかったとは。
…よく体調を崩していた、上司や後輩に「ご自愛ください」とは言っていたが。
何ともまぁ、自分ができていなきゃ世話ないなぁ。
「……」
歪む視界の中でも。
空は綺麗で、美しかった。
いつ以来だろう。
こんなに素直に、綺麗だと、思えたのは。
「……」
「……」
「……」
あぁ、もう少し。
このまま。
こぼれるままに――
―――」
目が覚める。
視界には、見慣れた天井が広がる。
「……」
なぜか酷く疲れている。
何かが頬を伝ったが、きっと気のせいだろう。
今日も仕事に行かなくては。
お題:ビル群・空・綺麗