不思議な夜に
僕が望んだのではない。物事は起こり得るからこそ起きる。だからつまり、こうなってしまうのはほとんど必然のようなものなのだ。
僕は昔から写真に写るのが嫌いだった。そもそも僕のような人は凡そ自信を持ちにくく、自分の姿というより自分を見るのが嫌いなことが多い。自分でも分かっているんだ。こんなヤツ嫌いだってのは。見るのが嫌いなのは腹が立ってしまうから。でも僕の周りに僕を嫌いな人は居なかった。だからと言って好きな人も居なかった。『僕はそこに居なかった』。居ても居なくても変わらない空気よりも何もない。くだらない悩みだけどそれでも辛いことではあった。
産まれてきたのに産まれてないような感覚を産まれながらに持っていた。僕に親はいなかった。病院から帰る時、家族は交通事故で死んで、僕だけが生き残ったらしい。僕は物心を覚えたときには施設にいた。施設の中に友達と呼べる人は居たかもしれないけど、彼らには僕よりも親しそうな人が多くいたし、保護者のような大人の人たちも僕より彼らを好んでいるように見えた。でも僕は拒絶していわけではない。ただ本当に存在していなかったのだ。そこに。
夜風が涼しい。月明かりが優しく僕に影を作ったが、その影を飲むかのように雲が僕の上を通った。施設から抜け出すのは難しくなかった。存在の無さを初めてありがたく思った。
この公園に来るのはこれで5度目で、このブランコに座るのも2度目。他の3回は違う子が座ってたから。ブランコで揺れてる時、僕はとても幸せだった。心が軽くなって、もしかしたらあの月に触れるのかもしれない。空を超えて宇宙に行けるかもしれない。そう思わせてくれた。ギィという音、今この瞬間だけその音は僕だけのものだ。僕がこの世界に残す、記録。と、記憶。
すると僕は急に宙へ放り出された。そのまま地面に転んだ。理由は多分、ブランコが急に空中で動きを止めたから。ブランコはゆっくり漕いでいたので怪我は無かったけど痛かった。
「ごめんね。いじわるしたくなっちゃって」
痛がる僕の頭の上で声がした。男の人だった。怖くて頭を上げられなかった。なぜならいつから居たのか全く分からなかったから。公園には僕1人のハズだし、僕1人であることを確認してブランコに乗ってたし、それに僕は、誰にも見向きされないのに。
「怪我はしてないと思う。痛かったとは思うけど、体に跡は残ってないと思うよ。だって変でしょう。時間は止まってるのに君の体だけ細胞が傷ついちゃ」
僕は思わず顔を上げた。雲が晴れて月が見え、月明かりに照らされて綺麗な黄色の髪をした人がそこに居た。今晩わという風ににっこり笑って手を差し出してくれた。
「やぁ、初めまして。ニコラス」
「あ……初めまして…」
僕がそういうとまたにっこりと笑った。そこには善意も悪意も無いように見えて、ただその笑顔は彼を表していた。不思議と怪しいという考えは出てこなかった。「時間は止まってる」なんて事を言った人なのに、この人の側はとても安心できた。
「あの…」
「ん?」
「アナタは…どなたですか?」
「ん〜…。さて、ボクは誰だと思う?」
「知りませんよ。知ってたら訊きませんし…」
そうだねという風にまた笑う。今度はにっこりじゃなくて微かにお腹で笑っていた。
「信じるかは分からないけど、ボクは天使だ。ちょっと君に用があってね。君をお迎えにってわけじゃない。お話がしたかっただけだ。今日は月が綺麗だし、散歩するならこんな日が良いだろう?」
僕の明らかに険しい顔を無視して天使と名乗る男の人は僕の手を握って歩き出した。
人も車も何もない。真夜中でも声がするのを映画やアニメで観たことがあるのに、まるで別世界。本当に何も無い。月明かりと、僅かな街灯の明かりだけが道と僕たちを照らしている。
「あの、天使ってどういう…ニックネームとかそういう事ですか…?それとももしかして本当に天使なんですか?」
天使だというのは見た目からも信じれる話じゃないけど、ブランコが固まったり、急に僕の前に現れたり、この不思議な街の様子を見る限り、普通ではない事は分かる。
するとその人は頭を少しだけ上げて月を見ながらこう言った。
「そうだなぁ。ニックネームって、そういう事の方が良いのかなぁ」
「でもそれだと変なことばかり起きてて、本当に天使…かどうかは分からないけど、その、カミサマみたいな人なのかなって…」
「天使は信じないのに神様は信じるの?なんなのそこの信じる信じないの境界は」
「あっ」と声が漏れてその人も「お?」と言って2人で少し笑った。
「じゃあボクのことは天使さんって呼んでよ。誰も居ないから恥ずかしく無いよ」
結局天使でいくんだ、と僕は思った。でもそれより前に、分かったと返事をするより前に僕は天使さんに質問した。
「なんで誰も居ないって断言、できるんですか?」
知りたい?とちょっとだけ卑しい顔を僕に見せて、天使さんは教えてくれた。
「いや、居るのは居るんだけど、今ボクらは幽霊みたいなものだからね。つまり幽霊であるボクらが今歩いてるこの街に、ヒトは誰も居ないんだ。ブランコが固まって君が跳んだ時、時間が止まったっていうのは分かりやすく言っただけで、実際は現実にいる君を切り離して、ボクらが居るこの世界に連れてきただけ。元の世界だとボクの姿は君に見えないからね。言ったろ?ちょっと話がしたいって」
天使さんはそう言った。頭の中を覗いてるみたいに、君の分からないところは一応説明してみたけどという風に話した。ただ話されたおかげでもう何が分からないのかも分からなくなってしまった。僕が困って俯くとフフッと天使さんは笑った。
気付けば結構歩いていてボクらは都会にやってきた。でもやっぱり人は居なくて静かだった。光だけが眩しくて見えるのは、多分そう言うものには生も死も無いからだろうか。
「これからどうするんですか?」
と聞くと、僕の顔を見ながら楽しそうにこう言った。
「せっかくボクと居るんだし、ちょっと特別な事をしてみようか」
天使さんは僕から目線を外して、隣の大きな建物を見上げた。
「行くよ」
と天使さんは僕を抱えるとそのままフワッと軽く浮かんで、僕が「うわっ!」と驚いた声を上げると同時に凄いスピードで上昇していった。
「どうだニコラス!凄いだろ!」
天使さんの声が空気に流されて溶けて、僕の頭は今のこの特別な時間に吸い込まれていった。そして建物の高さをゆうに超えて、天使さんは屋上の端へゆっくりと着地した。そして天使さんは誇らしげな顔をして僕と目を合わせた。
「どう?ニコラス。楽しかったでしょ」
「ええ、まぁ…」
それは良かったと、天使さんは言いながら僕を降ろした。事実、とても楽しかった。きっとこれは誰も経験できないような凄いことだ。何の道具も使わずにそのまま空を飛んでしまった。思いの外天使さんも楽しそうだった。
「ありがとうございます。天使さん」
「お礼なんて、大丈夫だよ。ニコラス」
「ところで、お話しっていうのは何ですか」
心が落ち着いた折、僕は天使さんに訊いた。夜景を眺める天使さんは目をゆっくり瞑って、僕にこう言った。
「ニコラス、君は、死にたいかい?」
その問いに、僕は別段驚きもしなかった。何となくそんな事だろうというのは分かっていた。という事を天使さんもどうやら分かっているようだった。
「君はボクと一緒にいる時間、ボクを怪しんだりこの世界に疑問を感じてはいたけど、不安は無かったように見えた。一言だって元に戻してなんて言葉は言わなかった。あわよくば、このままが良いって、ニコラス。君は思ってたんじゃ無いのかな」
風に揺れる髪と共に天使さんは僕の方を見た。夜の光に照らされ、足を抱えながら座る僕を、彼は見た。少しだけ同情しているかのように、青い目が僕を覗いた。
「うん…」
「……まぁ、訊かなくても知ってはいたんだけど。ボク天使だし」
そして僕の横に座ってこう言った。
「ただ、君の口から聞きたかった。答えを」
続けてこう言った。
「君は、生きてみたいと思う?」
「どういう…事ですか」
「……君は誰にも見られてないと言っていた。誰も僕のことを知らないって。だけど、そもそも誰も人のことなんて知らないんだ。地球の反対側の人のことを君は知らないし、その人も知らない。存在しようとしなかろうとそこに意味はない。2人が話をするまで、2人は1人のままなんだよ。でも君はその孤独を人より強く受け止めてしまったんだよ。本来、誰しもが貰う筈の、誰にでもある筈の愛がどこにもなかったから、言いようのない寂しさだけがあったんだよね。ニコラス」
ーーーー僕でさえ、ずっと分からなかった事を、天使さんは言ってくれた。僕は、僕は誰かに話したかったわけでも話し方がわからなかったわけでも無い。話したところで、心が何も満たされなかった。満たされないから意味がないと感じた。結局、僕は人を拒絶していたのかもしれない。人を見ていなかったのは、僕なのかもしれない。
「…ニコラス」
僕の涙を拭って彼は言った。
「愛というのは少しずつ増えていくものなんだ。器を添えて、1滴1滴貯めていって、それが心を埋めていく。人を幸せにしていく。だから、ボクの器を君にあげる。あの時君を1人にしてしまったから、代わりにボクの愛を受け取って欲しい」
「あの時………?」
という間に、天使さんは僕のことを抱きしめた。
「ニコラス、君には生きてほしいんだ。そのためにやってきた。ボクは、君のことを誰よりも心配していた。あぁ、ニコラス。ごめんよ…ごめんよ…」
なぜかボクは涙が止まらなかった。知らない筈なのに、知らない声の筈なのに。どこまでも心に寄り添ってくれるこの声がボクの涙を止めなかった。
静かな世界でボクらはわんわん泣いた。枯れるまで泣いた。ひたすらに愛が尊かった。初めて受け止めた愛が苦しいほどに愛おしかった。
そして天使さんはボクの目を見てこう言った。
「そろそろね、ボクはいかなくちゃいけないけど、安心してねニコラス。君をずっと見守っている。だから、大丈夫だから」
ぼやける視界のままボクはうんと頷いた。すると天使さんはまた、ボクに会った時みたいににっこり笑って消えてった。
「おはよう。マリアさん」
施設に帰ってきたボクは、多分、初めて名指しで挨拶した。挨拶するのも初めて……かもしれない。
「あっ……ニコラス!心配したのよどこに行っていたの」
「どこでも無いよ。ただ、少し遠くだけど」
マリアさんはうん?と困った顔をしたけど、でも安心したような声でボクに言った。
「なんだかちょっと変な感じねニコラス。前と随分違って、でも不思議ね、とても可愛いらしいわ」
そう言って、ボクの頭を撫でた。アナタは髪が綺麗ねと言いながら。
あの夜は、ボクが望んだから起こったわけじゃない。あれは天使さんの奇跡だった。ボクを助けるためのボクだけに向けた愛の奇跡。忘れない、絶対に忘れない特別な夜の奇跡。
その日に撮られた写真には、笑顔のボクが写っていた。
10月8日
簡単に添削しました