お師匠さんと弟子くん
「みていろ」
だだっ広い原っぱ。
お師匠さんと弟子くんの二人だけ。
遠くの方には雲に引っかかるほど高い山々。
お師匠さんは、両手をぐっと前に突き出した。
指先はボールを掴むようにわきわきと。
しばらく指をわきわきした後、
「どりゃー!」
気合を放つ。
「おお」
弟子くんは驚いた。
のけぞって、そのまま尻もちをつくくらい。
なんと、山がひとつ、ごごごと浮かび始めた。
「すごいですよ、師匠」
「まて、今は話しかけるな」
お師匠さんは苦悶の表情を浮かべている。
弟子くんは、まるで腹をくだした時のようだ、と思ったが、さすがにわきまえていた。
「めっちゃぶさいくな顔してますよ」
「な、なにぃ!?」
お師匠さんの表情に怒気が混ざり、いっそう豊かな味わいになる。
それでも、山を安定させたままなのはさすがだ。
「冗談ですよ」
「……ぜったい嘘だ」
そしてついに、山はぷかりと浮かび、結構な高さに到達して止まった。
まるでファンタジーのように、中腹が雲に覆われている。
浮き輪みたいな感じ?
あるいはドーナツに挟まったハムスター?
「どうだ、すごいだろう」
「ええ、感服しました」
お師匠さんが、むほほ、とおおよそ女子らしからぬ笑い方をする。
山が安定したからか、苦悶の表情は薄れている。
「では、ワタシのすごさが分ったところで、今度は山を下ろすぞ」
再び苦悶。
さっきよりも辛そうだ。
「師匠?」
「人間、階段を昇るよりも降りるときのほうが大変だと言うだろう」
「なるほど、今は大変なんですね」
「この顔を見れば分かるだりょっ」
りょ。
「りょ……それはいったい?」
「噛んだだけだ」
「なるほど……ところで師匠」
「今は忙しい……重要なことだろうな」
弟子くんは、こほんと咳払い。
何故かお師匠さんから半歩身を引いて姿勢を正した。
「まどろこっしいまねをするにゃ!」
「にゃ?」
「……噛んだの」
「なるほど……奥が深い。それでですね。ボク、最近テレパシーを覚えまして」
「なに! あの古の秘術を!? ワタシでも習得できてな……!」
「え? 師匠も未習得……」
「あわわ……そんなことはないぞ、完全に覚え切ってる。マスターしてるぞよ」
「ぞよ、いただきました。さすがです。いえ、微塵も疑ってませんよ。常日頃自分の事を千年に一人の逸材! 何でも出来ちゃう魔法界の新星! ついでに美少女! なんて威張り散らしている師匠に限って、まさかテレパシーを覚えていないなんて」
「……そうね」
「このボクでも覚えられたテレパシーを、まさか師匠が……まさかのまさかですよ。いえ、まさかのまさかのまさ」
「いま、忙しいんだけど!?」
山はゆっくりと降りていく。
もうじき地面に着地しそうだ。
「それで、今も絶賛テレパシーを使ってるんですが。山の中から声が聞こえてくるんです。それも大勢の」
「なに? どんな声だ?」
「うわー山がー死ぬーこの世の終わりだー、という」
「まずい」
「まずいですか」
「山にいる人のこと考えてなかった」
「あー……まあ、ゆっくり下ろせば大丈夫では?」
「うん……すんごく大変だけど、がんばる」
お師匠さんの顔はものすんごいことになった。
額からは汗がだらだら、口元も半開きで、ちょっと人様には見せられない。
弟子くんは弟子の情けでお師匠さんから背を向け、その顔を見ないようにした。
「師匠、顔がゲロまずです。自主規制してください」
「配慮ゼロなんだけど!?」
「ああでも、ゴブリンに比べればマシ……マシ?」
「追い打ちやめーい!」
それでも山は待ってくれない。
ここで力を緩めたら山の人々の命が……!
だからお師匠さんは懸命にがんばり続けた。
全身の力を振り絞り、ゆっくりと山を降ろし続ける。
だから、弟子くんは思ったのだ。
ああ、これはいたずらしたいな、と。
「師匠」
「ぐぬぬ」
「冷蔵庫に入れていたドーナツですが」
「王様からもらった……あのドーナツ……」
「ボク、食べちゃいました」
「ぐぬぬ!?」
「とっても美味しそうだったので。うん、実際食べたら想像よりも美味しかったな。師匠にも食べてほしかったなあ」
「ワ、タ、シ、の……」
「それと師匠」
「ぐぬぬ」
「師匠が大事にしていたくまの人形、壊したのはボクです」
「な、ん、だ、と……」
「掃除をしている最中に箒の柄がガツンと。それで首がポロリと」
「く、くまー……」
ひとしきり暴露したあと、弟子くんはずいっとお師匠さんの背後に接近した。
「お、まえ……な、なにを?」
「失礼します」
こちょこちょこちょー!
「!?」
ものすごい勢いで、腋をくすぐった。
くすぐり検定というものがあるならば、一発合格間違いなし、免許皆伝の勢いだ。
だが、お師匠さんにもプライドがある。
苦悶と怒りと羞恥とくすぐったさと。
ミキサーに打ち込まれた果物の如く、なかなかにフルーティな味わいの表情になっていたが、笑うのをこらえることに成功した。
(どうだ……ワタシの集中力!)
「うわー、汗で手がべったべただ」
「やめろー!」
なんだかんだありながら、弟子くんの妨害に耐え、お師匠さんは山を無事着地させた。
「ど、どうだ……」
「さすがです師匠。よっ、力持ち!」
「力じゃなくて魔法だよ! まったく太鼓持ちめ……ぐっ?」
「師匠?」
お師匠さんが、ぱたりと倒れる。
無理もない、あれだけの質量を支え続けたのだ。
常人なら、とっくに力尽きているところを、お師匠さんは持ち前の力と責任感で、山の人々を救ったのだった。
倒れたお師匠さんを抱きかかえ、弟子くんは後悔した。
「ああ……テレパシーができるなんて嘘をつかなければ良かった」
弟子くんはちらりと山を見て、次にお師匠さんの顔を見た。
「寝ている……ふふ、からかいがいのある人だなぁ。さてっと」
弟子くんがお師匠さんをお姫様抱っこで持ち上げる。
目指すはお師匠さんの屋敷だった。
・・・★・・・★・・・★
「ふがっ」
鼻を鳴らしながら、お師匠さんが目を覚ます。
ここは自分の屋敷の自分の部屋だ。
窓の外は暗かった。
壁にかけられたランプが室内をオレンジ色に染めている。
「あいつめ……」
お師匠さんは赤面する。
いつの間にか部屋着に着替えさせられている。
あいつにはデリカシーというものはないのか。
あるいは、もうちょっと恥じらいとか?
うら若き乙女の身ぐるみを剥いで何もしないなどと……。
扉がノックされる。
お師匠さんは飛び上がり、布団の中に潜り込む。
「まだ寝てるのかな……まあいいか、開けよう」
(開けるのかよっ!)
お師匠さんは布団の中で悶えたが、容赦なく無慈悲に扉は開け放たれた。
途端、ぷうんといい匂いが室内に充満した。
トマトスープと、焼けたパンの匂い。
「ぐぅ〜」
お師匠さんの腹の音が鳴った。
「なんだ、起きてるんじゃないですか」
しぶしぶ、布団の中から顔を出す。
「美味しそう」
「そうですか? いつも通りですよ」
いつも美味しいんだよ。
思わずそう言いそうになって、お師匠さんは慌てて声を引っ込めた。
「何を変な顔をしてるんですか」
「うるさい。ドーナツのカタキめ」
「過ぎたことをグチグチと……」
「まだ過ぎたてほやほやだろうがっ!」
「もう夜なので、ほやほやというには……」
「それに、ワタシのくまちゃん!」
「さあさ、スープを飲んでください」
不満に思いつつも、胃袋の欲求には逆らえない。
お師匠さんは弟子くんの作ったトマトスープをずぞぞと飲み始めた。
やっぱり美味しい。
玉ねぎはくったり煮込まれているし、じゃがいもも一口サイズで食べやすい。
お師匠さんのために作られていることが分かる料理だった。
「なあ」
「なんです?」
「テレパシーが使えるっての、嘘だろ」
「え、いや、そんなことは」
「じゃあ、今ワタシが考えてることを当ててみろ」
「う、うーん……そうだ、怒ってる?」
「そうだ、ってなんだ」
「お気になさらず」
「怒ってるってのは当たってる。けど、テレパシーは使えないみたいだな」
「すみません。嘘をつきました。師匠があんまり面白い顔をして」
「それは忘れろっ」
ふん、そうさテレパシーが使えるなんて嘘に決まっているのだ。
もし使えるなら、この気持ちに気がついてくれるのに。
そうしたら、ワタシだって、もっと優しくしてあげるのに。
あーあ。
こうしてお師匠さんと弟子くんの二人の時間は、いつもどおり、ゆっくりと過ぎていった。
(おわり)