目を閉じるまで
男は、彼の背丈ほどもある草をかき分けて進んでいた。否、進んでいるのかどうかはわからない。ここは深い山奥で、背の高い木に阻まれて太陽すら見えない場所なのだ。男は自分がどこにいるのか、知ることはできない。前でも後ろでも、彼にとっては今いる場所から移動することが最も大切なことなのだった。
汗を拭いながら、男は歩みを進めた。履いているわらじは既にほつれている。貼りつく着物の襟を軽く動かして空気を取り入れる。最初こそ蛇や狸に気を取られもしたが、もはや気になることではなくなっていた。それどころか、男以外の生命を感じることがない。虫の一匹も見かけないのだ。彼にとってそれは関係のないことだったけれど、さすがに少し不気味さは感じていた。しかしやはり、彼は立ち止まらない。
「……はあ」
声に出して息を吐いてみたが、男の声は緑に吸い込まれてしまった。
そろそろ頃合いだろうかと足元ばかり見ていた男が顔を上げると、少し先の方がやけに明るいことに気付いた。足を速めて近付いていく。草や木が全然生えていない――そう気付いたとき、彼は森を抜けていた。
開けた草原ではない。もちろん人の住んでいそうな小屋があるわけでもない。そこはただの河原だった。切り立った山間から流れる川は結構な急流で、大きな岩にぶつかってはしぶきを上げている。河原といっても、森を抜けてすぐに砂利が広がっているだけだ。河原の面積は川幅よりも小さい。
男は河原へ歩み出ると、辺りを見回した。人や動物の形跡はない。川に近付いて覗いてみたが、魚もいない。植物以外の生命がまったく絶えてしまったような山だと男は思った。そこに紛れ込んだ自分という異分子。けれど彼は気にしなかった。なぜならこれから、その生命は他のものと同様に消えてなくなるからだ。
森を振り返ったとき、男は巨木を見つけた。二本の古木が途中から絡み合って太い幹を作っている。天に伸びる枝も細いものではなく、人一人の体重くらいなら余裕で支えられそうだった。ようやくここへ来た目的が達成できると思い、男は少しだけ表情を緩めた。台になりそうなものはない。枝の上に登って、そこから下りるしかないだろう。男はわらじを脱ぎ、太い幹にしがみついてでこぼこした部分に手と足をかけながら器用に登った。なんとか登った枝の上で息を整える。手の平の汗を着物で拭きながら、彼は懐から太い縄を取り出した。しっかりと枝に結びつけて、取れないことを確認する。そして大きめの輪を作り、そこに首を通す。地面に目を落とした。草が無造作に生えていて、地面からの正確な高さは分からない。けれど縄の長さを鑑みても、地面に男の足はつかないだろう。
「――これで、いいんだ」
男はぽつりと呟くと、意を決したように目を閉じて枝から飛び降りた。首の縄に引っ張られて、その身は遠くへ飛ぶことはない。重力に従った圧迫感が一度男の首を絞めつけたかと思うと、嵐のような強風が男を襲った。
突然の出来事に驚いた男は、思わず自分の首を絞めている縄をぎゅっと掴み、体を硬くした。ぶちりと何かの千切れる音がしたかと思うと、次の瞬間には風が止み、男の体は地面に叩きつけられていた。痛む体をさすりながら目を開けると、枝にしっかり巻きつけたはずの縄が無残にも引きちぎれていた。
「え? あれ?」
一番丈夫な縄を買って来たはずなのに。そもそも今の強風はなんだ。俺は本当に死んでいないのか。
男の頭の中を疑問がぐるぐると回る。思わず縄を握ったまま頭を抱えていると、背後から物音がして振り返る。この山奥に生き物がいるはずない。それは道中で確認したことだ。けれど男は振り返った。そして、驚きに言葉を無くした。
「悪いんだけど、ここで死なれたら俺が死ぬほど迷惑だからよそでやってくんねえかな。……あー、でも俺死なねえか」
燃えるように赤い髪を膝まで垂らした、大陸風の着物をまとった青年がそこに立っていた。否、声も容姿も中性的でどちらとは言い難い。ただ、彼が見る限りでは男に見えたというそれだけだ。驚いて言葉も出ない男は、口を開いたまま赤い髪の青年を指さす。青年は指をさされて不機嫌そうに眉を寄せた。そして男に一歩近づくと、腰をかがめて地面に座り込んでいる男を覗きこむように顔を近づけた。
「おい、聞いてんのか」
男はぎこちなく首を縦に振った。青年は「そう」と呟くと背筋をしゃんと伸ばした。先ほどの強風にも負けなかった枝に巻き付けられた縄を、背伸びして取り去る。めいっぱい腕を伸ばしてはいるけれど、相当背が高くなくては届かない位置だ。男は異様な姿の青年に対して恐怖を抱き始めていた。縄を見つめながら、青年が男の姿を見てため息を吐く。
「はあ……あんた、ここへ死にに来たのか。たまにいるんだよなあ、わざわざこんな山奥まで来て死のうって奴がさ。俺にしてみればいい迷惑なんだけど」
「……あなた、この辺に住んでるんですか?」
「一応な。言っとくけど、俺以外には蟻一匹住んじゃいないぜ」
「じゃああなたはどうして……」
やけに饒舌な青年に、男は勇気を出して話しかけた。青年の方は男がちゃんと口を利けるとわかって嬉しそうに答える。その青年の言葉に、男は首を傾げた。生き物がいないことは、彼自身予想がついている。けれどこれだけ緑豊かな森に虫の一匹もいないというのはおかしな話だし、何よりなぜそんな生命のない場所であるにも関わらず、青年は住んでいるのか。男の疑問に、青年は苦笑を浮かべた。
「ちょいと俺は人間じゃないもんでね。俺が暮らすのに他の生き物は邪魔なんだ」
「はあ?」
「あんたたち人間にわかりやすく言うなら――俺は化け物、ってやつだ」
「化け物……?」
「ああ、安心してくれ。俺は別に人間を取って食ったりしねえし、何か食うんだったらこの森にも生き物がいるはずだからな。霞でも食ってりゃ死にはしねえ」
しゃがみこんで男の肩を叩きながら笑う青年に、彼はどう反応したものか困っていた。青年の言う通り、彼は首を吊るためにこの山を訪れた。いい感じに人気のない場所を見つけたと思ったら風が吹いて縄が千切れるし、変な青年に絡まれるし理解が追いついていないのだ。
「俺がいる限り、ここじゃ死ねないぜ。どんだけ丈夫な縄を持ってこようが、どんだけよく切れる刀を持ってこようが。おら、わかったらとっとと出ていきな」
男の腕を掴んで一緒に立ち上がる。男はつられて立ち上がるが、青年に離された腕は力なくだらりと垂れた。まるで自分から動こうとしない男を見て、青年は腕を組みながらまたため息を吐いた。
「あんたが自分で動かねえなら、ちと面倒だが俺が帰してやる。ちょっと目つぶってな」
「嫌だ」
「はあ? 嫌だっつったか、今」
「俺はここで死ぬと決めたんだ……化け物だか妖怪だか知らないけど、放っといてください」
「迷惑だから放っとけねえよ」
「あなたに迷惑かけるのが心苦しくないわけじゃあないですけど、妖怪なら人間の死体くらいなんとかできるでしょう……あの川、飛び込んだら死ねますかねえ」
「待て待て、落ち着け! な? ほら、わかった、じゃあとりあえず俺に話してみろ! あんたなんで死にたいんだ?」
「……聞いてもどうしようもないでしょう」
「いや、人間は話せば楽になることがあると聞いたぜ」
「……あなた、本当に人間じゃないみたいですね。変な人だ」
千切れた縄を捨てて河原の方へ顔を向けた男の視界を遮るように青年が飛び出す。両肩をしっかりと掴んで男の体を反転させ、河原に背を向けて肩を組む。必死に説得しようとする青年を見て、男は深いため息を吐いた。
青年が何者であるか、この際どうでもよかった。話して楽になれる程度の悩みなら、男だってここまで追い詰められはしなかった。けれど話しても話さなくてもどうせ死ぬのだと思うと、彼は青年に話してもいいかという気持ちになった。男の心境の変化を敏感に察した青年はさらに森の奥へと男を誘導していく。男は半ば引きずられるように歩いた。
「自分で死ぬことさえできないなんて……はあ……俺の人生ほんとについてなかったな……」
「まだ終わってねえだろ。よくわかんねえけど、あんた若いんだろ? 諦めんのは早いんじゃないか?」
そう言いながら、青年は大きな木のそばに男を座らせた。少しだけ開けたそこは空が見える。男の落ち込んだ気持ちとは裏腹に、すっきりと冴えわたっている。それがますます彼を憂鬱にさせているのだが、青年はそれに気付かず「空も青いぜ」などと言って慰めていた。
膝を抱えて座り込む男と肩を組んであれこれと話しかける青年だが、男はまるで反応しない。青年の言葉に反応しない男だが、無理に青年を振り払って去ろうともしないので、青年はどう扱ったものか困惑していた。
「おーい」
青年は男の肩をがくがくと揺らしながら声をかける。もちろん、男からの返事はない。
「なあってば」
鼻先がくっつきそうなほど近くで声をかけても、男は視線をそらすだけで何も言わない。
「……ったく、聞けよ!」
「うわっ!」
眉を寄せた青年が大きな声を出すと、先程男を襲ったような強い風が再び吹いた。思わず声を上げて風に転ばされた男は、茫然とした様子で青年を見つめた。すでに風は止んでいる。けれどどうやらあの風は、この異様な青年から発せられたものであるようだ。真っ赤な髪が少しだけ揺れている。
「な、何ですかあんた……! 今、風……!?」
「俺だよ、さっきも今も、風を起こしたのは。んなことより口が利けるんだからちゃんと返事しろっての!」
「それは、どうもすいません……」
「で、あんたは何で死のうと思ったんだ? つーかあんたって呼びにくいんだよな……ほら、名前あんだろ。何て名前?」
「これから死ぬ人間に名前なんて必要ないでしょう」
「いや死ぬなよ。つーかあんたが死ぬまでに話す俺が必要としてんの」
「じゃああなたが適当に決めてください」
その場でまた膝を抱え出した男の言葉に、青年は大きなため息を吐く。しかし本当に名乗ろうとしない男の様子を見てしばらく考え込むと、思いついたように手を叩いた。
「そんじゃ、賀茂彦な」
「うわ、ださい」
「文句あんなら名乗れや!」
「いやいいです、孫彦でも何でもいいです」
「賀茂彦だよ」
「桃彦?」
「賀茂彦! 聞く気ねえな!? あんた死にたいって嘘だろ!」
「ほんとですよ、死ぬほど死にたいです」
「もう滅茶苦茶じゃねえか……」
男の隣で頭を抱えながらしゃがみこんだ青年を見て、男は弱々しい笑みを浮かべた。そしてようやく顔を上げると、口を開いた。
「あとで時間返せなんて言わないでくださいよ。聞くだけつまらない話ですけど」
「賀茂彦……!」
「賀茂彦じゃありません」
「お前が適当に決めろっつったんだろうが」
青年の言葉を無視して、賀茂彦は淡々と話しはじめた。
「俺の家はね、農家だったんです。昔からずっと同じところで稲を育て、野菜を作ってきた。両親も毎日朝から晩まで汗水たらして働いてましたよ。もちろん俺も、子供の時からずっと手伝ってました」
賀茂彦は話しながら両手を広げた。その手は大きくて、肉刺だらけの無骨な手だった。よく日に焼けた肌も、彼が外で働く人間だったことを表している。
「だけどね、うまくいかなくなっちゃったんですよ。田舎の方だったから自分のとこの作物とよその作物と物々交換で暮らしているようなところだったんですけど、開国と文明開化の波からは逃れられなかった。土地は取り上げられるしお金を使えと言われるし、若者たちは故郷を捨てて都会へ流れて帰ってこない。今じゃどこにでもあるようなすっかり寂れた田舎になっちまったんです」
大きなため息を吐くと、賀茂彦は抱えた膝に頭を埋めた。声がくぐもったけれど、青年はちらりと賀茂彦の方を見ただけで相槌の一つもうたない。賀茂彦は気にしていないのか、少しだけ顔を上げて話の続きを始めた。
「かくいう俺もね、都会に憧れて出て行ったんです。いつか帰ってくるから、なんて心にもないことを言って、年老いた両親を田舎に置き去りにして。……もちろん、世間はそんなに甘くない。急激に発展する社会で仕事は多くあったけれど、どれもこれも、俺は門前払い。大人しく田舎に帰れって言うみたいにね。それでも必死に仕事を探したんです。何でもやりますからって。けど結局仕事は見つからず、俺は田舎に帰る決心をしました。ちゃんと両親の後を継いで畑をやれば、裕福ではなくとも食っていけますから。それに幼馴染が親の世話をするために残っていたから、あいつと所帯を持とうとも思って。久しぶりの田舎は良かったですよ。やっぱり俺にはせかせかした都会よりも、のんびりした田舎の方が性に合ってると感じました。だけど故郷へ帰った俺を待っていたのは、いつものように汗を流している両親でも、笑顔を絶やさない幼馴染でもなかった。俺を待っていたのは――うちのそばに増えた二つの墓と、誰もいないあいつの家でした」
賀茂彦は言葉を切ると、黙り込んだ。賀茂彦が黙ると、辺りは静寂に包まれる。青年が口を開くことはないし、その青年曰く他の生物がいないというこの森では風が木を揺らす以外の物音は立たない。賀茂彦にはいっそその静けさこそ煩わしく思えて、顔を上げた。けれど何をどう言葉にしたものか悩み、結局また顔を膝に埋めた。
「たった一年です。たった一年で、俺は全てを失ってしまった。都会への夢も、両親も、幼馴染も。都会へ出ても俺にできることはないとわかっていたし、かといって両親が手入れしなくなった土地は荒れ放題で俺一人じゃどうしようもないし……しばらくはね、それでも頑張ったんですよ。雑草を抜いて水を引いて、土を耕して種をまいて。だけど駄目だった。土の栄養がなくなったのか、芽も出なくって。一年くらいそうしてたんですけど、なんだか急に何もかもがどうでもよく思えてきて……もう、疲れたんですよ。俺、これ以上生きてる意味あるのかなって思って――ここに来たんです」
馬鹿みたいでしょう、と賀茂彦は自虐的に笑った。青年はやはり何も言わない。賀茂彦はちらりと青年に目をやると、すぐ自分の膝に戻してため息を吐いた。
「よっこらしょ、と」
「おい、どこ行くんだ」
突然立ち上がった賀茂彦を見上げながら、ようやく青年が口を開く。着物の尻を叩きながら賀茂彦が青年を見下ろす。
「どこって、死ねそうな場所を探しに」
「この森でか!?」
「そのためにここに来たって言ってるじゃないですか」
「待て、早まるな賀茂彦」
「賀茂彦じゃないです」
「お前が適当につけろって――このやりとり何回目だと思ってんだ!」
背を向けて立ち去ろうとする賀茂彦の肩を青年が掴み、留める。背の高い青年は屈むようにして賀茂彦の顔を覗きこみ、必死の説得を続けた。
「街に出るだけがすべてじゃないし、田舎で畑を耕すだけもすべてじゃない。田舎の過疎が進んでるっていうんなら、どっかで跡継ぎを探している家に入ればいいし、港の方なんかどうだ? 外国の船が行き来してるって話じゃねえか。仕事あると思うぜ」
「……あなた、この山に住んでるんですよね」
「ああ」
「長いんですか」
「そうさな……もうかれこれ一千年くらいか。いや、もっとか?」
「なんで引きこもりが諸外国のこと知ってるんです」
「風に聞いた」
「それを言うなら、風の噂に、でしょう。他に誰もいないのに……」
「だから、風に聞いたんだよ」
足を止め、訝しげに青年に問う賀茂彦はその返答に眉を寄せた。偶然生き物のいないこの山に住んでいるだけの人間なのだろうと思っていたから、ようやく綻びを見つけたと思ったのに、どうも話がかみ合わないのだ。
青年が浅く息を吐くと、急に強い風が吹き付けてきた。賀茂彦は足踏みをし、両手で顔を覆った。その隙間から青年を見ると、青年は強烈な風に吹きつけられているにも関わらず、そよ風も吹いていないかのように動かず立っていた。
「直々に人間界へ降りてもいいんだが、そうすると与える影響がでかすぎてな。かと言って何にも知らんままじゃつまらないし、お前みたいな人間が紛れ込んできたときに困る。便利なもんだぜ、風は」
ぴたりと風が止むと、青年はそう言った。賀茂彦はとても信じられず、無言のまま青年をじっと見つめた。青年は賀茂彦が黙っている理由を考えもせず、これ幸いと説得を再開する。
「つーわけだから、お前がこれ以上死のうとしても俺が阻止するし、どうせ俺が何も知らないんだろうと突き放すんであればそれはお門違いだと言っておくぜ」
「……あんたは」
「ん?」
「あんたは、一体何なんですか」
疑念と、恐怖と、好奇心と、いろんな感情をないまぜにした目で賀茂彦は青年を見た。
青年は天を仰ぐとすん、と息を吸った。ゆっくりと賀茂彦に向けられた青年の顔。その瞳は、血のように赤い。
「俺は燭南院。燭陰っつう大陸の化け物だが、いろいろとわけあってここにいる。得意なことは……そうだな、風を吹かせたり昼と夜を生み出したりすることだ」
呆然と燭南院の顔を見つめていた賀茂彦は、唐突に笑い出した。
「は……はは……自分で化け物と名乗るなんて、本当に……あなたは可笑しい人だ! いや、人じゃあないのか。つまり中国の妖怪ってことですよね。はは、そりゃあ俺が死のうとしても死ねないわけだ! あははは!」
「……おーい、賀茂彦。大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。……これ、今まさに死のうとしている俺が見ている幻とかじゃあないですよね?」
「当たり前だっての。お前はいい加減現実逃避を止めろ!」
「現実から逃避してなきゃ誰がこんな山奥に来るか!」
「あっ、とうとう本音が出たなこいつ!」
燭南院の言葉にもどこ吹く風とばかりの賀茂彦は、もはやはじめ纏っていたような陰鬱とした雰囲気を持っていない。燭南院はそれに気付きつつ、何も触れない。
「それにしてもあなた、変な名前なんですね。燭南院、でしたっけ? 通りで名付けも下手なわけだ。納得しましたよ」
「おい待てこの野郎」
「しかも昼と夜を生み出すって、どこの神様ですか。意味が分からないったらありゃしない」
「賀茂彦、お前信じてないな?」
「普通は信じないでしょう」
「お前、普通だったのか」
「うるせえですよ大陸妖怪」
「お前やっぱり死にたいって嘘だろ!」
燭南院がいちいち賀茂彦の言葉に噛みつくと、賀茂彦は呆れたようにそれを受け流した。確かに人ならざる力を持っているようだが、言葉遣いや賀茂彦に対する反応などは完全に人間の青年となんら変わりないものだ。言葉を交わすうち、賀茂彦は燭南院に親しみを覚え始めていた。
しかし賀茂彦の心情を知らない燭南院は、ようやく自分ばかり叫んでいることに気付いて深呼吸で息を整えた。
「燭陰が目を開ければ昼となり、閉じれば夜になると言い伝えられてる。息を吸えば夏になり、息を吐けば冬になるとも。要はそれだけ強大な力を持ってるっていうことなんだが、実際俺は夜の間しか目を閉じないようにしてる。人間みたいに瞬きをしないんだ」
「瞬きをしないって? 御冗談を」
「本当だって」
「じゃあ証拠を見せてくださいよ。目を閉じたら、夜になるんでしょう?」
「なるけど、まだ夜には早い」
「ほらできない」
「できるっつってんだろ。今は駄目だ」
「できないときの常套句ですよ、それ」
「喧嘩売ってんのか」
「まさか」
真顔の賀茂彦をじっと見つめて、燭南院は頭をかいた。
賀茂彦には、今がいつ頃であるか分からない。空が白み始めた朝早くに山へ入り、それから何も考えず黙々と歩を進めてきたからだ。しかしずっと山にいた燭南院にはだいたいの時刻がわかっている。太陽の位置から考えても、まだ夕刻の少し前といった頃だ。暗くなるにはいくら何でも早すぎる。風を吹かせただけではなかなか信じてくれない賀茂彦に面倒くささを感じながらも、燭南院は何とか彼を説得して人里へ返したいと思っていた。
「あと一刻もすればできるけど……俺としてはさっさとお前に信じてもらって、さっさと帰ってもらいたい」
「信じても帰るとは言ってませんよ」
「帰るんだよ。俺が帰すんだから」
むっとしながら返す賀茂彦に、更にむっとしながら燭南院が返す。議論は何度やっても堂々巡りになるようだから、賀茂彦が逃げ出さないうちに無理矢理でも送り返すのがいいだろう。そう思って、燭南院は軽く息を吸った。それを見た賀茂彦が「あっ!」と呟くと素早く袂で燭南院の口を覆った。
「てめ、何しやがる!」
「無理矢理帰そうとしたでしょう! そんなことされちゃあ余計帰らないですからね!」
もごもごと抵抗する燭南院だが、賀茂彦の方も必死だ。結局先に降参したのは燭南院の方で、どかっと地面に腰を下ろした。ついでとばかりに賀茂彦の着物の裾を掴んで彼も無理矢理座らせた。賀茂彦は不服そうな顔をしたけれど、抵抗はしなかった。
「あんたはどうやったら死ぬのを止めようと思うわけ?」
「馬鹿馬鹿しくて、死のうと思ってたことなんて忘れてましたよ」
「お、じゃあ帰ってくれるか?」
「帰る場所なんか、どこにもないですよ。帰りたくってもね」
「……賀茂彦」
「賀茂彦じゃないです」
話している内にまた膝を抱えた賀茂彦は、燭南院の方を見ない。
「……やれやれ。いいですよ、大人しくここ以外の場所で死にますから。どっかいい死に場所まで飛ばしてくれると助かるんですけど」
「生きようとは、思わないのか」
「……思えないですよ。生きているだけでも惨めなんだ。これ以上の恥を晒すより、さっさと死んで輪廻でも巡るべきなんです。別に神仏なんて信じちゃいないですけどね」
立ち上がって燭南院を見下ろす賀茂彦は、また当初の雰囲気を纏い、諦観の目をしていた。燭南院はしばらく黙ってその目を見つめていたが、やがて自身も立ち上がると賀茂彦と向き合った。
「賀茂彦、お前はやっぱりまだ死なすのは惜しい。あと一年、生きてみろ。それでも死にたきゃ好きにするがいいさ。ただしこの一年は、絶対に俺がお前を死なせない。どこに行こうがお前が死のうとしたら阻止してやる。――生きろよ」
「ちょっと、」
燭南院の言葉に不満そうな声を上げた賀茂彦を包んだのは今までの比にならない強風と、星明り瞬く闇だった。
「あんた、本当に……!」
じりじりと風に押されて後ずさる賀茂彦が燭南院の方を見ると、彼はすっかり両の瞼を閉じていた。突然訪れた夜の闇に目が慣れず、燭南院の表情まで見ることはできない。けれど賀茂彦は何となく、今頃彼が勝ち誇ったような笑みを浮かべているであろうことが想像できた。
その瞬間、賀茂彦の足が地面から離れ、風に乗って一気に飛ばされていった。賀茂彦の姿がすっかり見えなくなった頃、ようやく燭南院が目を開ける。瞼が持ち上がっていくにつれて夜が明けていく。もはや闇夜の帳も星々の光も見えなかった。
男が一人、臥せっていた。戸を閉め切った薄暗い長屋の中で、男の咳だけが響く。家族のいない彼は今まさに臨終の時を迎えようとしていた。
男は一生を振り返ってついていない人生だったと思った。文明開化の荒波にもまれ、両親と幼馴染を失い、何度も死を考えた。しかしある時訪れた転機により、彼はしがない物書きとなった。稼ぎは裕福に暮らせるほどではなかったが、一人で細々と食べていくには十分なほどだった。物書きをしている時も、何度か死を考えた。しかしそのたびに、彼の中にある記憶がそれを思い留まらせた。
男は枕元にあった一冊の本を手に取る。さほど厚くないその本は表紙が日に焼けてしまっていて、題名が読み取れない。何度も読み返された形跡のあるそれは、男の処女作だった。この物語によって彼は物書きとして生きていく道を選ぶことになったのだ。今となってはそれが幸いだったのか不幸だったのか、男にはわからなかった。けれど物語の中に閉じ込めた赤い髪の青年を思い出すと、男はどんなに辛い時も少しだけ救われるような気持ちになれた。
取り落とした本が音を立てる。男は小さく痙攣している自分の手を見た。体に力が入らないことを悟った男は静かに目を細めた。視界がぼんやりと霞んできた。苦しくはない。痛みもない。ただ漠然とした死という概念が迫ってきているのを、彼は感じていた。体中の力が抜けていく。男の呼吸は深く、ゆっくりと静かなものになっていく。
その時、やわらかい風が吹いた。
長屋の戸はすべて閉めているとはいえ、隙間だらけで風が入ってくるのはしょっちゅうだ。けれどそれはいつもの風とは異なり、緑の香りを連れた風だった。男はゆっくりと目を閉じた。
その日、小さな長屋の一室で一人の物書きが死んだ。食うのがやっとという売れない物書きだった彼の著作で唯一売れたと言えるのは処女作だけだった。手記風に綴られた奇怪な物語は『目を閉じるまで』と名付けられていた。男が死んでいるのを最初に見つけた長屋の住人は、彼の眠ったように穏やかな死に顔を見ながら、この男は目を閉じる時まで確かに生きていたのだろうと思った。
例によって(?)フォロワーさんを妖怪化したものです。
燭陰って、最強の妖怪なんじゃと思います。
(20151003推敲)