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スケバン!  作者: 万卜人
2/2

トーナメントは波乱の結果になった。

いよいよ緒方勇作との対決がせまる。

この戦いに勝利するのはどちらか?

 

 5

 

 じゃらじゃらとテーブルにばらまかれたバッジの数に係員は目をまるくした。無数のバッジが朝の日差しにきらきらと輝いた。

「これはこれは、ずいぶん集めましたねえ!」

「百個はあるはずだ。数えてくれ」

 バッジを持ってきた勝田勝はふんぞりかえって命令した。両替所の係員はうなずくと、さっそく数をかぞえはじめた。

 まさるは両替所の内部を興味深げにのぞいた。このトーナメントに参加して五回目だが、このようなシステムになったのは今回がはじめてである。バッジを奪う、というアイディアは手っ取り早くていい。去年までは参加者全員の勝ち抜き戦だったから、じぶんの番がまわってくるまでずいぶん退屈な時間をすごさなければならなかった。

 両替所の入り口近くに名簿が貼られていたので勝は見上げた。

 名前のよこに数字がある。

「こいつはなんだ?」

 係員は眼鏡をずらして顔をあげた。

「ああ、そりゃバッジを獲得した連中の順位ですよ。両替にくると、その枚数が連絡されるんで、そのたびに更新されるんです」

「ふん、そうかい」

 勝は名前を読んだ。

 名簿の一番うえに高倉美和子の名前がある。獲得枚数は二百をこえる。

 勝の顔に血がのぼった。

 なんと二番目にあるのは勝の名前である。

「この女……」

 係員はにこにこと笑いかけた。

「ああ、高倉美和子のこってすね! いや、すごいもんです。初日からどんどん相手を倒して一番手を譲ったことはないです。二番目の勝田勝ってやつは去年までの最終決戦まで残ったつわものだそうですが、なんでも初日にその女に手もなくひねられたそうで、今年はこの女が緒方勇作さまと戦うことになりそうですな……」

 しゃべりながら係員は勝の顔にうかんだ怒りの表情に気づいた。さっと係員の顔色がかわった。

「あ、あんた、もしかして……」

「数え終わったのか?」

 勝は押し殺した声をあげた。係員はふるえる手で金と銀のバッジをさしだした。

「へ、へい! ちょうど百二十枚になっております」

 勝は金のバッジ一枚と銀のバッジ二枚を係員の手から奪い取るとものも言わずに交換所を飛び出した。

 朝のまぶしい日差しが目をうった。

「くそ!」

 叫ぶと次の獲物をもとめて島の廃墟をさがす。しかしトーナメントはすでに三日をすぎ、バッジをもたない参加者は島から退去させられ、残った参加者はすくなく、あたりに人影はなかった。

 二百枚だと!

 勝は歩き続けた。

 

 廃墟のなか、ひとりの少女が必死になって逃げている。着ているセーラー服は泥によごれ、スカートのすそはびりびりに破れ、そうとう戦ってきたらしいことを示していた。三日目にもなるのに、彼女の胸にひかっているバッジは銅の一枚きりだった。ほかにかくしているような様子はないから、もしかしたら決闘すらしていないのかもしれない。

 年令は若く、たぶん十四、五といったところだろう。そんな若さでトーナメントに参加するとは無茶である。

 髪の毛は短く、ショート・カットにしている。ほかの女性参加者がスケバンらしく念入りに化粧して、髪の毛もさまざまに結い上げているのに比べれば、まるで素人のようないでたちである。

 島のあちこちにある廃墟はほとんど天井がぬけおち、落下したコンクリートのかたまりが地上をおおい、歩きにくいことおびただしい。うっかり走るとたちまち足をとられひっくり返ってしまう。

 そらやった!

 少女は破片に足をとられ、ずっでんどうとばかりに転んでしまった。

 転んだとき足をひねったのか、しばらく動けないでいる。

「だいじょうぶかい? 走るとあぶねえよ」

 からん、と破片をふみしめ、数人の学生服の男が太陽を背に近づいてきた。少女ははっ、と振り返った。じりじりと手をついてあとずさる。

 男たちの顔にはいちように下卑た表情がうかんでいた。無抵抗の獲物を前にしたハンターの笑顔だ。

 少女の顔に恐怖がうかんだ。

「ねえきみ、ひとりきりでさびしくはないかい? トーナメントに残るにはおれたちみたいにチームを組むべきだ。おれたちひとりくらい女の子の仲間がほしいとおもってたところでね、よかったら一緒に来ないか?」

 男たちのなかでもっともうぬぼれの強そうなやせた男が話しかけてきた。にやにや笑いをうかべ、じりじりと近づいてくる。

「あっちにいきなさいよっ!」

 少女はさけぶとさっと右手をふった。

「!」

 やせた男はのけぞった。鼻のわきにかすかな切り傷がうかぶ。はっ、と男は手を顔にあてた。手のひらを確認するとわずかに血がにじんでいる。

「きさま……」

 少女は手にかみそりの刃を隠し持っていたのである。それを一瞬のうちに宙にとばしたのだ。

「刃物は違反だぞ!」

 男たちの間に緊張がはしった。

「このアマ、ふてえやつだ!」

 がらりと口調がやくざっぽくなった。本性がむきだしになったというわけだ。

「押さえろ!」

 男たちは少女に殺到した。あっというまに彼女の両手、両足が押さえつけられた。

 かちゃかちゃと男たちがズボンのベルトのバックルをゆるめる。みな興奮していた。

「や、やめてえ!」

 少女は悲鳴をあげた。やせた男はぎらぎらと欲望を両目にたぎらせ話しかけた。

「心配するな、痛いのは最初だけだ。あとは気持ちよくなる。おれたちがお前を守ってやるから、仲良くしようなあ……」

 ひひひひ……、と顔を近づけた。歯を磨いていないらしくむっとする口臭が少女を襲った。

 ひゅう、と小石が宙をとび、いまにもズボンをずりおろそうとした男の後頭部を襲った。がん、と後頭部を直撃され、男はうん、と白目をむいて気絶した。

「だれだ!」

 男たちはさっ、とあたりを見回した。

 ふたりの人影が太陽の光をバックにシルエットとなっていた。ひとりは男、もうひとりは女のようだ。

「あなたたち、ここは戦いの島のはず。そんな行為は許されていないのではなくて?」

 女のするどい叱責の声がとんだ。なんだあ、と男たちは立ち上がり身構えた。

「なに言ってやがる。おれたちはこの娘とチームを組もうって相談していたんだ。お前らの邪魔はさせねえ!」

 どうせあいてはふたりだけだ。こっちは十人、負けるわけない。そういう安堵感がかれらの行動を大胆にしていた。

 女が一歩前に出るのを、かたわらの男が制した。

「お嬢さま、このような連中の相手をなさることはありません。僕がかわりに相手しますので」

 美和子と太郎だった。

 男たちはせせら笑った。

「聞いたか! お嬢さまだってよ!」

 ひゃっひゃっひゃっ、とおたがいの肩をたたきながら笑いあった。

 すすす、と太郎は足音もなく近づいた。瓦礫を踏んでいるのに、まるで絨毯の上を歩いているように軽やかである。

 太郎の動きに男たちはぎくりとなった。

 かれらが構える間もなかった。

 太郎はかれらの間を一陣の風となってかけぬけた。くるくると太郎の両腕が旋回し、倒れていた少女のところに達したとき、すでに男たちは全員身動きもできなくなっていた。

 がく、とひとりが膝をおる。ばたばたと男たちはいっせいに倒れこんだ。みな苦痛にうめいていた。

 太郎は少女の腕をとり、立たせてやった。

「だいじょうぶかい?」

「あ、ありがとう……」

 少女はぼうぜんと倒れている男たちを見下ろした。たいした怪我もしていないはずなのに、みな立つこともできないようだ。

「なにをしたの?」

「たいしたことはしていない。苦痛をつかさどる神経を刺激しただけだ。半日はたてないだろう」

 太郎は倒れていた連中の胸からバッジを回収した。それを少女にさしだす。

「正式な戦いとはいえないから、これはもらえない。きみにあげるよ」

「いらないわ!」

 太郎の目が見開かれた。

「きみはトーナメントの参加者なんだろう?」

「あたし、トーナメントなんか知らない。ここにはお兄ちゃんを探しにきたの!」

「お兄さん?」

 こっくりと少女はうなずいた。

 美和子が近づき、話しかけた。

「どういうことなの?」

 少女はそこでなにかに気づいたようだった。さっと一歩あとずさると足を開き中腰になる。右手を前へつきだし、手のひらを上にむけた。

「失礼しました! あぶないところお助けくださいまして、挨拶遅れました! どうかお控えなせえ!」

 美和子がぼうぜんと立っているのを見て少女はもう一度声をかけた。

「どうぞお控えなせえ!」

 美和子は太郎と顔を見合わせ小声で話しかけた。

「あの……、どうしたんでしょう?」

 太郎も首をかしげた。

「さあ……、でも挨拶といっているからにはなにかの儀式かもしれません。お嬢さま、あの女の子のまねをなさってはどうでしょう?」

 美和子はうなずき、ぎこちなく少女のまねをして中腰になり手をつきだした。少女はそれを見て口をひらいた。

「さっそくのお控え、ありがとうござんす! あっし姓名をはっしますところ姓は勝田、名はあかねともうします。生まれは蘇州そしゅう、蘇州蘇州といいましても広うござんして、蘇州は交霊郡こうれいぐん、飯田県は勝田村のうまれ、松田川のほとりで産湯うぶゆをつかり、十五のとしまで育ちましてございます。この番長島へまいりましたのは行方不明の兄を探しにまいったというわけでして、この番長島には全国より腕自慢が集まるということで、あっしの兄もまたそのひとりでござんす。この勝田茜、西も東もわからない若輩者でございますがどちらさんもどうかおひきまわしくださいまして、ご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします!」

 そこまで一気に喋り終えると彼女はほっと息をつき、姿勢をもどした。美和子もとまどいつつも背をのばした。

「あのう……いまのは?」

 茜と名乗った少女はこたえた。

「仁義をきったんです。お姐さんに助けてもらったからには、仁義をきるのが筋ってもんですよ」

 彼女はにっ、と笑った。

 太郎は口を開いた。

「勝田茜っていうと、勝田勝という参加者とはなにか関係あるのかい?」

 茜と名乗った少女は手を打ちあわせ、ぴょんぴょんとはねた。

「ええ! それ、あたしのお兄ちゃんよ! やっぱりこの島にいるのね!」

「まあ……ね」

 太郎は口をにごした。まさか最初にやっつけた相手だとは言えない。

 美和子は茜に話しかけた。

「ところでこれからどうなさるの?」

 茜は元気にこたえた。

「お兄ちゃんをさがすわ!」

「そう、でもひとりではあぶないんじゃない? さっきみたいなこともあるし、よろしければあたしたちと一緒に行動しませんこと?」

 茜は美和子の提案に迷っているようだった。ちらりと倒れている男たちを見る。そして視線を美和子と太郎にうつした。そしてうなずいた。

「うん……そうしてもいいわ」

 美和子はにっこりと笑った。

「あたしたち、いいお友達になれそうね。どう? お友達になってくださる?」

「友達?」

 茜は不思議そうに問い返した。美和子は優雅にうなずいた。

「そうよ。お友達。わたしはある理由があってこの島でのトーナメントに勝ち抜く必要があるから、いずれあなたのお兄さまとはどこかで会うことになりそうよ。だから一緒に行動していれば……」

「いつか会えるわね!」

 茜はいきおいよくこたえた。

 と、ぐうーっ、という音がなった。はっ、と茜はじぶんの腹をおさえた。

 美和子はまるで気にしない様子で茜をさそった。

「それじゃ、朝食にしましょうか? あなた、ご飯は?」

 茜は真っ赤になってこたえた。

「ええ、ぺこぺこ!」

「それじゃ、行きましょう」

 三人はちかくの食堂目指して歩き出した。

 

 監視センターで勇作はモニターを鋭い目で見つめていた。

「いまの戦いを再生してくれ!」

 勇作の命令で、モニターに太郎と男たちの戦いが再現された。

「スローにしてくれ」

 こんどはスローで再生される。太郎の動きに勇作は眉をよせた。

「妙な動きだな……。たしかにやつの手が相手の体に触れているのはわかるのだが、それでどうやって敵を倒す……?」

 スローモーションで再生された太郎の動きは、かるく相手の体のあちこちをなでるような動きを見せていた。ただそれだけなのに、触れられた相手は電流にふれたように体を硬直させ、倒れこんでいく。

「あれは執事の習う護衛術です」

 勇作のうしろにひかえていた洋子が口を開いた。勇作は首をねじむけ、洋子を見た。

「ほう、きみは知っているのか? あの技のことを」

「はい。同級生ですから」

「そうだったな……。じゃ、教えてくれ。どうしてあんな動きで、敵を倒せる。なにか目には見えない武器かなにかを持っているのか?」

 洋子は首を振った。

「そんなものはありません。人間には無数の神経節があります。いわゆる壺のことです。それらの神経節を適切に刺激すれば、相手に苦痛をあたえることもできますし、反対に苦痛をいやすこともできます。あの技の高度な拾得者は、それをつかって人を殺すこともできるそうです」

「きみもそれを?」

「ええ、太郎ほどうまくはありませんが。かれは執事学校でもっとも優秀な生徒でした。太郎ならそれくらいできるかもしれません」

 ゆっくりと勇作はモニターに向き直りうなずいた。

「ふうん……。おもしろい……。いや、じつに楽しみだ。いつか只野太郎と戦ってみたいもんだ。あいつの技が僕にきくかどうか、試してみたい」

 勇作はモニターを見つめた。モニターではくりかえし、くりかえし太郎の戦いの様子が再生されていた。

 

「召し使い?」

 食卓についた茜は目を丸くした。美和子と一緒のテーブルで朝食をとって、美和子が太郎のことを説明したとき茜は心底驚いたような顔になった。信じられないというように首をふる。

「そんなものがまだいるなんて、信じられないわ! ねえ、本当なの、太郎さん。あんた召し使いなの?」

「はい、そうです」

 美和子のかたわらに腕にナプキンをかけ立っている太郎はにこやかにこたえた。美和子の給仕をしている太郎は非のうちどころのない執事振りを発揮していた。

 食堂は閑散としていた。

 トーナメントが進み、敗北者はどんどん帰されているからである。初日には込み合っていたテーブルも、今日は半分も埋まってはいない。

 紅茶のカップをおいて美和子は茜に尋ねた。

「それで、いままでどうしていたの?」

「あたし喧嘩には自信ないしさ、このバッジがないと島にいられないでしょ。だから昼間はずっとかくれていて、夜になって試合が休みになったら食堂にもどってお兄ちゃんをさがしてたんだ。でも島はひろいし、食堂は島のあちこちにあるからなかなか出会えなくて……」

 美和子はうなずいた。

「あなたのお兄さまは強いからきっと決勝戦まで残るわよ。だから最終日まで残れば、きっと出会えるんじゃない?」

「そうね、きっと会えるわ!」

 茜はにっこりと笑った。そして美和子の顔をまじまじと見る。美和子は小首をかしげた。

「どうなさったの?」

「美和子さん、あんたこのトーナメントに勝つつもりなんでしょ? なんでも優勝賞金を手に入れるつもりなんだって?」

「ええ、そうよ」

「それにしちゃ、あんまり気合がはいっていないみたいじゃない。そんなんじゃ、相手になめられちゃうよ!」

「なめられる?」

 美和子はぼんやりと問い返した。あきらかに茜の話を理解していない。

 茜は強くうなずいた。

「そうよ! この島には全国の番長、スケバンが集まっているんだから、美和子さんだってそんなお嬢さまっぽい格好じゃなめられちゃうよ! ほら、あそこのテーブル見て!」

 茜は顎をしゃくって食堂のすみのテーブルをしめした。美和子と太郎はその方向を見る。テーブルには数人の男女が食事をとっている。全員、敵意をこめた視線をかわしあいもくもくと食事をつめこんでいた。

「ほら……ああやってメンチをきってるだろ? ああやってなめられないようガンをとばしあってるんだ」

 茜の言うとおり、テーブルに座っているかれらはおたがいの力量をはかっているようだった。じろじろとなめるようにお互いの全身に視線をおくり一触即発の状態である。やがて食事がおわり、かれらはだまって食堂を出て行った。

 食堂から出るとするどいわめき声が聞こえてくる。

「てめえ! なめやがって」

「そっちこそなんでえ!」

「やるかっ?」

「あたりめえよ!」

 たちまち乱闘がはじまる。食堂は安全地帯で戦うことが禁じられているのでずっと我慢していたのだ。

 茜は美和子に顔を近づけた。

「ね、あたしが教えてやるから。そうすりゃあんたも一人前のスケバンになれるさ」

 

 翌日、三人は連れ立って島を歩いた。

 美和子は茜の忠告をうけがらりと格好を変えていた。髪の毛をアップにし袖を短く切り、スカートも太ももがあらわになるようミニに仕立てている。仕立ては太郎がやった。主人の服を仕立て直すということは執事として重要な技能であったからである。茜は化粧も変えるべきだと力説したが、それだけは美和子は拒否した。

「まあまあ格好だけはなんとかなったわね。でもまだ目つきがだめよ」

「そうなの?」

「もう……そのお嬢さまっぽい口調もなんとかならないのかなあ。まあ、黙ってりゃわからないか。とにかく目つきひとつで勝てる相手も勝てなくなるからね。まず最初にメンチをきるんだ。こうやって……」

 茜はやや猫背になり美和子の全身をじろじろと見る。

「こうやってあんた、あたしに勝てるの? って無言でメッセージをおくるの」

「こうかしら?」

 美和子は茜のまねをした。茜はふきだした。

「だめよ。こうやって顎をつきだすようにして、もっと怖い顔をするの! 違うって、それじゃ怖いどころかなめられるよ。もっと目に力をいれなきゃ!」

「よくそんなんでいままで島に残っていられたわね。つぎはガンをとばすよ!」

 ぐっ、と眉間にちからをこめ目つきをするどくさせる。

「これひとつで相手をびびらせることだってできるんだ。違うよ、そりゃ寄り目だって……!」

 美和子はため息をついた。

「難しいのね……」

 茜はぽん、と肩をたたいた。

「まあね……。練習すればなんとかなるわよ」

 美和子はうなずいた。

「あたし一生懸命練習するわ」

 茜はあーあ、と両手をあげた。

 最終日もちかくなるとあらかた敗者は島を去り、対決の場を見つけることが難しくなってくる。もともと廃墟だった島はひと気がなくなり、ただ風の音が聞こえるだけのさびしい場所に戻っていた。かつてにぎわった商店街も、窓ガラスはわれ、シャッターはへこみ、大売出しの張り紙がぺらぺらと風に吹かれている。

「ねえ、美和子さん。こっちにお兄ちゃんがいるって本当なの?」

 茜は美和子に話しかけた。茜の胸には銅のバッジがいちまいひかっているだけだが、美和子の胸には金色のバッジが三枚も光っている。つまり三百人ものライバルから勝ち上がってきたというわけだ。美和子はうなずいた。

「ええ、両替所の係員が勝さんがよく立ち寄るからと言っていたから、たぶんこのあたりでお兄さまは戦っておられるのでしょう」

 茜はくすりと笑うと、美和子の肩をどすんとたたいた。

「いやだあ、お兄さまだなんて! あんなやつにはもったいないわよ!」

 そう言うとけらけらと腹をかかえて笑う。肩をたたかれた美和子はぼうぜんとなっていた。いままでこんなに気安い接し方にふれたことがないのだ。しかし悪い気分ではなかったようで、身を折って笑い転げる茜をほほ笑んで見ているだけである。

 三人は島の南東部を目指していた。ここらあたりは昔は繁華街だったのか、シャッターをおろした商店街が立ち並んでいる。商店の窓という窓はことごとく窓ガラスがわれ、うつろな空間をぽかりとのぞかせている。

 あいかわらずひと気はない。もしかしたら隠れているのか?

 と、太郎が足をとめた。

「ちょっとお待ちを……」

 さっと片手をあげ、美和子と茜をひきとめる。

「どうしたの、太郎さん」

「声が……」

 そういうと耳をすませた。美和子と茜も太郎の言葉に耳をそばだてた。

「あっ」

 茜がちいさくさけんだ。

「お兄ちゃんの声だ!」

 たたた……、と太郎が止めるまもなく駆け出す。

 太郎と美和子は顔を見合わせた。うん、とどちらかともなくうなずくと、茜のあとを追って走り出した。

 

「このやろうっ!」

 曲がり角のむこうから勝の怒声が聞こえてくる。ついでどすっ、ばきっというようなくぐもった音がする。がらがらがら……というような瓦礫が崩れる音がして、二、三人の学生服の男が曲がり角から姿をあらわした。かれらは顔や体のあちこちをおさえ、苦痛に顔をゆがめていた。

 その学生服を追って勝田勝の巨体があらわれた。かれの学生服にはあちこちかぎ裂きができ、ひどく汚れていた。顔には殴られた痕があり、片方の瞼がふくれあがって目をふさいでいた。しかしまるでそんな傷を気にすることもなく闘志にあふれた口元は楽しそうな笑みをうかべていた。

 獰猛な虎のように勝は相手に躍りかかると、拳骨を握り締めて殴りつけた。ひゃあ、と殴られた相手は悲鳴をあげ身を縮めている。勝はかれらの襟首をむんずとつかんで吊り上げ、その胸からバッジをむしりとった。

 かれらのバッジをすっかり奪うと、勝は満足そうにぱんぱんと手を打ち合わせた。奪われた連中はほうほうのていで逃げ出す。

 そのときかれは近づいてくる新手に気づいた。

 勝の目が驚愕にまるくなった。

「茜……」

 ぽかんと口が開いたままになる。

「お兄ちゃん……」

 勝の妹の茜が立っていた。

「お前、なんでこんなとこにきたんだ」

 勝はあきれたように大声をあげた。まったく意表をつかれたといったていだ。茜はつかえつかえ言葉をおしだした。

「だってお兄ちゃんたら、家を飛び出して連絡すらしてくれないんだもん! トーナメントのことを知って、きっとここにくると思って探したんだよう……」

 最後の「よう……」は泣き声になった。勝はこまったように頭の後ろをぼりぼりとかいている。

 と、勝は茜の背後から近づいてくるふたりの人影に気づいた。その正体を知り、かれの顔つきが険しくなった。

「お前ら……」

 さっと身構える。茜はあわてて勝の前にとびだすと両手をひろげた。

「待ってよ! 太郎さんと美和子さん。あたしのことを守ってくれて、それでお兄ちゃんを探す手伝いをしてくれたんだ。喧嘩なんかしちゃだめだよ!」

「馬鹿野郎……、おまえなに言ってんだ」

「こんにちわ、勝さん」

 美和子はまるで初日に戦ったことなど忘れたようににこやかに挨拶をした。勝は拍子が抜けて戸惑っている。美和子は勝にゆっくりと近づき、話しかけた。

「妹さんの茜さんの話を聞いて、ぜひあなたに会わせなくてはと思い、勝手ながら案内させていただきました」

 ちっ、と勝は舌打ちをした。まったく戦う拍子をはずされ苦りきっている。

「余計なことを……。おれはトーナメントにかけているんだ。家に帰る気はないからな! それよりあんた!」

 さっと美和子を指さす。

「なんですの?」

「いまここでおれと勝負しろ! はじめに会ったとき妙な手を使ったみたいだが、こんどはそうはいかねえ。いまあんたがつけているバッジ、ぜんぶもらいたい!」

「しかたありませんね……」

 ふっ、と美和子はため息をついた。

 勝はにったりと口元をひろげた。闘志が全身にみなぎり、両手を握り締める。

「おっと、その前におれと勝負しな!」

 だしぬけの大声に勝はぎくりとなってふりむいた。

 勝よりまだ頭ひとつ背の高い巨漢が立っていた。まるでゴリラが立ち上がったかのようなたくましい体つきである。男は勝と目があうと歯を見せて笑った。勝はその歯を見て目をほそめた。男の歯はすべて義歯で、しかも鋼鉄製であった。特別につくらせたのか、犬歯がまるで剣歯虎のように巨大である。

「おれは風祭淳平! 去年の最終決戦にのこったという勝田勝をさがしていた。どうやらめぐり合ったみたいだな」

「なにおう……」

 勝のこめかみに血管がうき、みるみる顔が紅潮する。

「どうだ、おれと勝負するか? それとも女と戦うほうがいいか?」

「おもしれえ……。どうやらおまえと勝負したほうがおもしろそうだ」

 にやっと笑うと美和子をむいた。

「そういうわけでちょっと待ってな。こいつをかたづけたら、相手してやるから」

「どうぞ」

 美和子はかるく頭をさげた。

 勝はくるりと淳平のほうに向き直った。ぼきぼきと両手の指をならす。

「行くぜ!」

 だっ、と地をけり淳平にむかう。淳平はぐわっと両腕をおおきくひろげ待ち受けた。

 がつーん!

 両者の額がぶちあたり、はっきりとおおきな音をたてた。まるで二台の戦車が真正面から衝突したかのようだった。

「!」

「……」

 くらくらっ、とふたりの巨漢はかるく脳震盪をおこしたのかたじたじとなる。が、すぐに正気に戻りこんどはがっしりと両手を組み合わせた。

 くくくく……、とふたりは全身にちからをこめて押し合った。勝と淳平はびくとも動かないでいるが、おそろしいほどのちからがこめられていることはあきらかだ。

 ぽたり、ぽたりとふたりの顔から大粒の汗がふきだし、地面にしみこんだ。

 淳平の顔に勝利の笑みがうかんだ。

 頭ひとつ分背が高い淳平は、じりじりと勝の体をおしこんでいく。勝の背骨がゆっくりと弓なりにそって淳平の巨体を押しのけようと必死になっている。

 ついに勝はがくりと膝をおった。

 が、つぎの瞬間、勝は淳平のふところにもぐりこみ、その胸倉をつかんだ。

「わ!」

 淳平の巨体が宙にうかんだ。

 どっすーん! と、地面に顔からつっこみはでな砂煙をあげる。勝のいちかばちかの巴投げである。

「くそおっ!」

 すぐに身を回転させ立ち上がった。が、その顔は砂にまみれ、口の中にこぶし大の石がはさまっている。淳平はがりがりっ、とその石を平然と鋼鉄製の入れ歯で噛み砕いてしまう。

 と、そこへ勝がとびこんでくる。腕をひき、淳平の顎をとらえようとこぶしをかためた。

 ぷーっ、と淳平は口の中の砕いた小石を吹き飛ばした。

「わっ!」

 勝は手をあげてさけたが、いくつかは目のなかにはいったようだ。目が見えないのか、手探りで淳平をさがしている。

 勝利の雄たけびをあげ、淳平は勝につかみかかった。巨大な手のひらがまともに勝の顎をとらえた。

 ばしーん! と、勝のほほがなり、かれはくるくると片足を軸にしてひっくりかえった。

 ぶるぶるっと頭をふって立ち上がる。が、そうとういまのダメージはきいているようで、足もとはふらふらとおぼつかない。

 淳平はさらに勝利を確実なものにしようとめったやたらと殴りかかった。こうなると勝はサンドバッグ状態で、反撃もかなわない。

 とうとうがっくりと膝をつき、倒れてしまう。

「お兄ちゃん!」

 茜は悲鳴をあげた。

 淳平はにやりとわらうと勝に近づいて膝をつきのぞきこんだ。胸にひかるバッジを見つけ手をのばした。

「これはいただくぜ」

 と、その伸ばした腕を勝がつかんだ。

「!」

 うっ、と淳平の身がかたまった。血だらけの顔で勝は淳平を見上げにやりと笑った。

「まだはやい!」

 ぶん、と伸ばした足が淳平の首にからみついた。ぐ、と淳平は息をつめ、ほほをふくらませた。あわててからみついた足をはずそうと手をかけたがもう遅かった。勝の両足はがっちりと淳平の首をしめあげていた。みるみる淳平の顔が真っ赤になった。勝は歯をくいしばり、さらにちからをこめた。

「……!」

 ついに淳平の顔は真っ赤から紫にかわってしまった。むきだした両目がくるりとひっくりかえり、白目になる。がくりと勝のふとももにかかっていた手がはずれ、ちからがぬけていく。

 気絶したのだ。

 ほっ、と勝は息をはくと身をはずした。虚脱したような表情でたったいままで死闘をくりひろげていた相手を見下ろす。

「勝った……」

 信じられない、というように首をふった。こめかみの傷口からどくどくと血が流れ、顔を真っ赤にそめて凄惨な状態になっている。さらに学生服もあちこちやぶれ、ズボンの膝におおきな穴があいていた。

 じろり、と勝は美和子を見た。

「これで、ようやくお前と戦える……」

 にやりと不敵な笑みをうかべると一歩、足を踏み出した。

 と、ふらりとかれの上体がかしいだ。

 う! と、勝はじぶんの体におきていることが信じられないというような表情になった。がくがくと膝が笑って、勝はどうとばかりに地面に倒れてしまった。

「お兄ちゃん!」

 悲鳴をあげて茜は駆け寄った。

「来るな!」

 勝はさけんだ。茜は立ちすくんだ。

「勝負するんだ……邪魔するな……」

 両腕にちからをこめ、立ち上がろうと必死になっているがうまくいかない。かれの両目はひたと美和子にそそがれ、闘志はすこしもおとろえていないようだが、いかんせん体の自由がきかないようだ。

「茜さん、お兄さまを介抱してあげなさい。いくら勝負したくとも、その状態では無理でしょう」

 美和子に言われ、茜は勢いよくうなずいた。勝の腕をとり、じぶんの肩にまわす。

「さあ、お兄ちゃん。どっかで休もうよ」

 彼女は大柄な勝の体をじぶんの肩でささえ、歩き出した。よろよろと歩きながら、勝はじろりと美和子を見た。

「くそ! 情けをかけるつもりか?」

 ゆっくりと美和子は首を振った。

「いいえ。ただそんな状態のあなたと戦ったとしてわたしの名誉にはなりませんから。あなたの傷がいえたらお相手いたしますわ」

 勝はけもののような唸り声をあげた。

「よし、その言葉おぼえておけ! かならずお前を倒す!」

 腕をあげ、ぶるぶるふるえる指先をつきつけ勝はさけんだ。美和子はにっこりとほほ笑んでうなずいた。

「楽しみにしています」

 けっ、と勝はそっぽをむき、茜の肩をかりて歩き出した。

 

 六日目の朝、美和子は窓をふるわせる轟音に目覚めさせられた。ベッドから起き上がると空を見上げる。

 ごおおん……ごおおん……。

 エンジンの音をとどろかせ、飛行船がゆったりとやってきた。ドアが開き、となりの部屋にひかえていた太郎がはいってきた。太郎は美和子に声をかけた。

「おはようございます」

 美和子はうなずくと飛行船のほうにふたたび顔をむけた。飛行船はゆっくりと船首をめぐらせるとその横腹をむけた。スクリーンが美和子の正面にくる。

 スクリーンに勇作の顔がうかんだ。かれはスクリーンのむこうからまっすぐ前を見つめている。まるで勇作と美和子は顔を見合わせているかのようだった。スピーカーから勇作の声がひびく。

「諸君、いよいよ明日は最終日だ。そろそろ参加者もしぼりこまれ、最後の決戦をむかえる。それで明日は島の中央にあるコロシアムに来てもらいたい。そのコロシアムが、最終決戦場というわけだ。諸君は今日は体を休め、明日の決戦にむけ準備をしてもらいたい。僕もそこで待っているとしよう。では、よい戦いを!」

 スクリーンの勇作はにやりと笑うと、飛行船はへさきを島の中央にむけ去っていった。

 ドアの開く音にふりむくと茜が立っていた。彼女は美和子のとなりに立つと飛行船をにらんだ。

「気障なやつ! だいっきらい!」

 茜が吐き捨てるようにさけんだ。美和子はにっこりと笑った。

「あなたは勇作さんが嫌いなの?」

「そうよ! あんな男、あたしのお兄ちゃんにやっつけられちまえばいいのよ!」

「お兄さま、あれからどうなさったの?」

「お兄ちゃん、傷をなおすためだってどっかの宿泊施設にこもってるわ。あたしがいちゃ勝負に集中できないっていうからもどってきたの……」

 そこまでしゃべって茜はふと美和子の顔をみつめた。

「ねえ、美和子さん。どうしてあいつを勇作さんってよぶの? なんだか知り合いのような言い方じゃない?」

「勇作さんはわたしの許婚なのよ」

 ええっ、と茜は大声をあげた。

「でもどうして、そんなことになってるのに、トーナメントなんかに?」

 美和子は勇作との会話を説明した。

 茜は憤然となった。

「馬鹿じゃないの! だいいち親の決めた相手と結婚するなんて古すぎるわよ! それにトーナメントに勝たないと結婚しないなんてあんたの考えがわからない。ねえ、肝心の美和子さんの気持ちはどうなのよ?」

「わたしの気持ち?」

 美和子は胸をつかれたような表情になった。

「そうよ、あんた勇作とたった二回、会ったきりなんでしょう? そんな相手、好きになれるの? いくら親のきめた許婚といっても、ひどすぎるわ!」

「そんなの考えたことなかった……」

 ぼんやりと美和子はつぶやいた。茜はうなずいた。

「そうでしょうとも。ねえ、あたしは美和子さんより年下だけど、結婚するなら好きな人とするべきだってことくらいわかるわ。親の決めた相手じゃなくてね! それにあんた!」

 茜はくるりと太郎にむきなおった。

「え? 僕?」

 いきなり話しかけられ、太郎は狼狽した顔になった。

「そうよ、召し使いかなんか知らないけどあんたもあんただわ。給料ももらわないで、ただ誓いをしたからってこの女についていくなんてさっぱりわからない! あんたは女の子を好きになったことないの?」

 たちまち太郎の顔は真っ赤に染まった。

「そ、そんなこと……考えたこともないよ!」

 いつもの冷静さがくずれ、しどろもどろになる。

 茜は両手をあげた。

「もう、あんたたちって……! 処置なしだわ!」

 

 飛行船は島の中央にあるコロシアムへ飛行した。ローマの闘技場をまねたこの建物は勇作が作らせたものである。総石造りの円形の競技場は、客席はなく、ただ楕円形の広場のまわりを古典様式の壁がとりまいているだけの施設である。

 しかし壁の一端に貴賓席がしつらえられており、その屋根は飛行船が着陸できるようになっている。飛行船のゴンドラから紐がたらされると係員がわらわらとあつまり、地上の繋留塔へとめ、飛行船は高度をさげた。

 タラップが横付けされ、ゴンドラのドアが開くと勇作が姿をあらわした。背後には木戸と洋子をしたがえている。

 今日のかれはいつもの伝説のガクランに肩から足もとまでとどく真っ黒なマントをはおっていた。飛行船のプロペラがたてる風にマントがおおきく波打っている。ポマードできっちりとまとめたリーゼントもその風ですこし乱れ、勇作はポケットから櫛をだしてちょっと髪の乱れを直した。

 勇作が地面に足をおろすと、飛行船からロープがはずれ、エンジンの轟音とともにさっていった。かわりに階段から無数の人間があらわれた。かれらはテレビ・カメラをかつぐカメラマンや、写真撮影のためのカメラマンをしたがえている。このトーナメントを取材しに来た報道陣である。

 勇作のまわりに数人の記者が集まってつぎつぎにマイクを突き出してきた。

「緒方さん、今年のトーナメントはどう評価しますか?」

 記者の質問に勇作はちょっと考え、にっこりと笑顔を見せた。ここぞとばかりに無数のカメラのフラッシュがたかれ、シャッター音が響いた。

「大成功、といっていいでしょう。今回の参加者はみな水準が高く、いい試合を見せてくれました」

「去年は緒方さんが挑戦者をしりぞけたのですが、今年も勝つ自信は?」

「当然です。勝つ自信はありますが、そろそろ僕を負かして、賞金を手にする挑戦者があらわれてくれないかと思っています」

 どっとばかりに報道陣がわいた。

 きつい化粧をした女性のリポーターがマイクをつきつけ口を開いた。

「ことしの挑戦者のなかの女性で、高倉美和子という参加者がいますが彼女をどう評価しますか?」

「彼女はもっともおおくの対戦者をしりぞけています。おそらく最終決戦にのこる可能性がもっともたかい挑戦者でしょう。対決を楽しみにしていますよ」

 さっきの女性リポーターはうなずき言葉をついだ。

「なんでも彼女はあなたの許婚だそうですね? それが戦いに影響するのでは?」

 彼女の言葉にほかの報道陣は顔を見合わせ仰天したような表情になった。あきらかにいまの情報ははじめて聞いたという顔つきである。

 勇作は首を振った。

「まったく影響しません! 彼女は立派な武道家ですし、僕もまた神聖な勝負に私情をまじえることはしたくありませんから。それではこれで失礼します。明日のための支度がありますから……」

 くるりと背をむけ、マントをひるがし去ろうとする勇作に記者たちがおいすがった。

「あっ、まってくださいよ! いまの話は本当なんですか?」

「彼女を愛しているのですか?」

「おふたりの関係をもうすこし詳しく!」

 勇作はまったくとりあわずさっさと下り階段へ急いだ。わらわらととりまこうとする記者たちを木戸と洋子が盾になってふせぐ。勇作はあっというまに記者たちの視界から消え、あとにはぼうぜんと取り残された報道陣がさっきの女記者にだしぬかれたことをじわじわとかみ締めていた。

 ひとりの記者がじろりと女リポーターをにらんだ。

「おい! あんた、いまの話は本当なのか? どっからあんな話を聞きつけた?」

 つめよられ、女性リポーターはうろたえた。

「本当よ! あんたたち、緒方財閥から提供されたビデオを見ていなかったの? あのなかに高倉美和子と勝田茜というふたりのやりとりがあったのよ。まあ、放映されていなかったから、ちゃんと提供されたビデオを見ていなければ知らなくても無理はないけどもね!」

 彼女の言葉にほかの記者たちはくやしそうに頭をかきむしった。あきらかに素材をちゃんと取材していなかったかれらのミスだった。

「こりゃもうすこし緒方勇作のことを調べないとだめだな……」

 ひとりがつぶやいた。それは記者全員の思いでもあった。かれらの胸にあらたな闘志がわいた。みな、緒方勇作と高倉美和子というふたりの情報を集めようという意欲がわきあがっていた。

 

 6

 

 ぞろぞろと無数の参加者が島の中央にあるコロシアムへと集まってくる。

 みなこの一週間、戦いに勝ち残り、身につけているものはぼろぼろにやぶれ、あちこちすり傷や打ち身だらけだったが元気いっぱいだった。島のあちこちに点在する宿泊施設で出される食事は栄養の吸収がよく、また提供される医薬品も傷をなおすことに役立っていた。そもそも異常な体力の持ち主でなくては勝ち残ることすら難しい。ふつうの人間なら癒えるのに数週間もかかる傷も、かれらはあっというまに傷口がふさがり翌日には平気な顔で戦うことができる。そんな男女が勝ち残っているのだ。島に残っている参加者の人数はすでに三分の一に減っていた。

 島のほとんどの建物が風雨にさらされ、崩壊寸前にあるのにたいし、コロシアムはまぶしいほどに外壁はかがやき、新築であることを主張していた。

 コロシアムをめざす参加者たちはおたがい値踏みしあいながら歩いていた。これからの戦いで強敵となる相手を探しているのだ。

 そのなかに勝田勝の姿があった。

 歴戦の証拠のガクランは泥に汚れ、あらゆるところにかぎ裂きがのこり、その顔には無数のあらたな傷跡があった。しかし淳平との死闘も、わずか一日の休息ですっかり元通りになっていた。かれは一日中、体力を回復させるためじっと動かずにすごしていた。それは獣の回復の方法に似ていた。

 勝の歩く姿はまるで巨大な猫を思わせた。二メートル近い巨体なのに、まるで足音というものをたてない。前に踏み出す一歩からつぎの一歩までなめらかな歩行である。ゆったりとした歩幅なのに、どういうものか人の倍は早く歩く。この数日間の戦いの経験が、かれに練達の勇士のような風貌をあたえていた。周りの試合の参加者たちは、勝が近づくと気配を感じて無意識にか遠ざかってしまう。それはまるで船のへさきが波をかきわけるようなものだった。

 コロシアムの入り口にたどりつくと勝はぐいと首をねじむけて壁面を見上げた。

 唇がゆがみ、歯がむきだしになった。それはまるでこれからの戦いに緊張しているかのように見えたが、これは勝の笑顔なのだった。

「やってやるぜ……!」

 つぶやくと勝は足を踏みだし、コロシアムのなかへはいっていった。

 

 勝のはいっていった入り口の反対側に美和子と太郎、そして茜の姿があった。

「茜さん、どうしても中に入るつもりなの?」

 美和子は隣でコロシアムの入り口を見上げている茜を見て話しかけた。茜はつよくうなずいた。

「ええ、お兄ちゃんがこの中にいるんだもの。なんとしても、お兄ちゃんを家に帰したいんだ!」

 茜に太郎が話しかけた。

「それじゃ、僕のちかくにいなさい。僕ができるかぎりきみを守ってあげるから」

 茜はきっと太郎をにらんだ。

「あたしにかまわないで! じぶんの身くらい、じぶんで守れます!」

 そうですか、と太郎はひきさがった。もちろん彼女に言われただけでかまわないでおこうと思ったわけではない。いよいよとなったら助けにはいるつもりだった。

 美和子はすっ、と足を踏み出した。コロシアムの入り口に進んでいく。太郎、茜がそれにつづく。

 三人の姿はコロシアムにすいこまれていった。

 

 百名あまりの参加者がコロシアムに勢ぞろいしていた。

 ひゅう……、と一陣の風がまったいらなコロシアムのなかを吹き渡った。コロシアムに無数にあけられている窓から、風が吹き込んでくるのだ。このコロシアムが立っているのは島の中央で、もっとも標高が高く、風の通り道になっているため四六時中、風がやむことはない。コロシアムの地面には砂がしきつめられ、それらの砂が風にまきあがっている。なぜ砂がまかれているかというと、戦いによる血が足をすべらせるのを防ぐためである。コロシアムの会場の壁ちかくには、このトーナメントを運営するための係員が背をぴんとのばし、無表情に立ち並んでいた。かれらはここでの戦いで戦闘意欲をうしなった脱落者を運び出すためにひかえているのだ。コロシアムの壁の上にはこの戦いの模様を中継するため何台ものテレビカメラがさまざまな角度でレンズをむけていた。この戦いは全国の視聴者たちの関心のまとになっていた。

 参加者たちは戦いの時を待っていた。

 かれらの視線はコロシアムの北端にしつらえている貴賓席に集中している。

 と、その貴賓席に動きがあった。

 緒方勇作がマントをひるがえし、姿をあらわしたのだ。背後に木戸と洋子をしたがえているのはあいかわらずである。

 勇作は腰に両手をあて、息をすいこんだ。

「諸君!」

 かれの声はコロシアムにろうろうと響き渡った。マイクもなしで、勇作の肉声は会場のすみずみまで聞こえている。コロシアムを設計した技術者は音響効果を計算しつくし、この貴賓席からの位置からなら、コロシアム中に声がとどくよう設計したのだ。

「今日が最終日だ! 今日の戦いで、最終勝者がきまる! さあ、この伝説のガクランを僕から奪い取ってみせてくれ!」

 勇作はマントをばさりとひるがえし、その下に着込んでいる真っ赤なガクランを見せ付けた。マントをはずし、洋子に渡す。そしてくるりと背をむけた。

 きらりと金の刺繍でぬいつけられた「男」の文字が陽光に反射した。

「この”男”の字をぬいつけたガクランを着たものは伝説の番長とよばれるだろう。もしそれが女なら、伝説のスケバンとよばれることになる。さあ、伝説を受け継ぐものはだれだ?」

 うおおお、と勇作の挑発に参加者たちは喚声をあげた。勇作はそんな参加者たちの反応に満足そうな笑みをうかべた。

 さっ、と勇作の右腕が天をさした。

「はじめ!」

 とたんにコロシアム中に緊張がみちた。

 最初に動いたのは勝だった。

 雄たけびを上げ、勝は手近にいた参加者に戦いをいどんでいった。勝のこぶしがまっすぐ最初の獲物にむかって突進する。最初のねらいはひょろりと背が高い、うすい灰色のガクランを身につけた男だった。

 が、さすがにここまで残っていた参加者である。ぶうんと音をたててふりまわされた勝の拳をさっとさけると身構え、あたまをひくくするとまるで地面にとびこむように身をおどらせた。勝の足をねらったのだ。それと見た勝ははっとばかりに宙に飛び上がった。

 と、勝の背後からもうひとりの敵が回し蹴りをとばしてきた。宙に浮いた勝の足をねらい、体勢をくずそうというのだ。第二の相手は背中までたらした長髪の太った男で、空手着を身につけていた。肥満体にかかわらず、かれの身ごなしは敏捷だった。くるくると足を旋回させ、勝の膝をねらってくる。

 空中で勝の足と空手着の男の足ががつがつと音をたてて数度にわたって噛みあった。

 だっ、とふたりは地面に降り立ち、にらみあった。すすす、と最初の相手が空手着の男のとなりに位置取りをして身構えた。

「ふたりがかりかい?」

 勝は声をはりあげた。

 細いのと太ったののふたりは顔を見合わせた。無言でふたりで協力しようという相談がまとまったようだった。かるくうなずくと勝にむけて突進する。細いほうは上半身をおりまげ、勝の下半身をねらい、太ったほうはとん、と地面をけり空中にとびあがり、とび蹴りをくらわしてくる。

 勝は両腕を交差させ、とび蹴りをブロックした。がつん、と音がして太ったほうは勝のブロックにはねとばされ、くるくると空中で回転すると猫のように着地した。

 勝は腕をそのままふりおろし、下半身をねらって飛び込んできた細いほうの後頭部にたたきこんだ。

 ぐえ、というような声をあげ、細いほうの男はべしゃりと地面に四肢をなげだして倒れてしまった。そのままひくひくと両手両足を痙攣させている。気絶したらしい。

 太った空手着の男は足から着地するとそのまま勝をめがけて次の攻撃を開始した。

 が、一歩すすんだとき驚愕の表情がその顔にうかんだ。

 がく、と膝がおれつんのめる。

 勝がかれのとび蹴りをブロックしたときおそろしいほどのちからがその膝にくわわったのだろう。だしぬけの苦痛が膝から脳天につきささる。たちまちその顔が真っ赤になり、たらたらと脂汗がうかんだ。

「くそ!」

 真っ赤だった顔がさっと青くなった。どすどすと地面をふみしめ、勝が近づいてきたのだ。勝は拳をかたく握り締めていた。その目的はあきらかだ。

 太った男の顔に恐怖がうかんだ。

 弱々しく両手をあげ勝の攻撃を防御しようとこころみる。

 ぐわしゃ! と、勝の岩のかたまりのような拳がその両手もろとも炸裂した。ぶわーっ、と太った男の鼻から鼻血がふきだした。かれの両目はくるりと裏返り白目をむいた。どたんとあおむけに倒れこむとがくりと首をねじまげた。ぽかんと開いた口から折れた歯がぽろぽろと地面にこぼれ落ちる。

 勝はふっ、と額にうかんだ汗をふくと一息ついた。

「畜生、あの女どこにいやがる……」

 もちろん、美和子のことだ。

 その美和子はコロシアムの反対側にいた。

 美和子を中心に、太郎、茜がその両側にいた。どの顔ぶれもこの参加者のなかで勝ち抜けるようには見えず、したがって当面の勝利をえるためまわりの参加者たちの標的となっていた。

 つぎつぎと無数の参加者たちが闘志をむきだしに襲いかかる。

 そのなかを美和子と太郎はごくふつうの足取りで淡々と歩いている。ときどき襲いかかる挑戦者たちにむけかすかに腕をのばす。その指先が襲いかかるものたちのどこかに触れるか触れないかという瞬間、相手はまるでじぶんから飛び上がるかのように跳ね飛ばされていった。

 ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という形容があるが、美和子と太郎のコンビにはあてはまらない。まるで平和に散歩しているだけで、まわりの参加者が勝手に跳ね飛ばされているように見える。それらは跳ね飛ばされたあと、どこをどうされたのか地面で悶絶して立ち上がることすらできずにいた。

 ふたりの後を歩く茜はあっけにとられていた。

「ねえ、どういうことなの?」

 茜は太郎に話しかけた。

「何がです?」

「なにが……って、あんたたち何もしていないみたいに見えるんだけど。どうしてあいつらつぎつぎ倒れてしまうの?」

「まあ、ちょっとしたコツみたいなものです。ほら!」

 そう言うと太郎は襲いかかったひとりの学生服の男の腕をねじりあげた。男は苦痛に声もでないようだった。その背中のまんなかを太郎はついてみせた。

 ぎゃっ、と男は悲鳴をあげるとぴん、と背中をつっぱらかせ、そのままどすんと棒のようになって倒れた。

「適切な神経の集まったところを刺激すれば、人間は簡単に気絶します。もちろんあやまった攻撃は危険で、命すらうばう可能性がありますからこの秘法は教えられませんが」

 茜はぶるっ、と首をふった。

「知りたくもないわ……」

 そのうち三人のまわりに人がいなくなってしまった。ようやく美和子と太郎というふたりの本当の強さが認識されたらしい。まわりをとりまく男女は輪を描いて敵意をもった視線をそそぐだけで、だれひとり襲いかかろうとはしない。

 じろじろとおたがい、だれが三人にむかっていくかけん制しあっている。

「どうした! 戦うものはいないのか?」

 それを見ていた勇作が貴賓席から声をはりあげた。勇作の声はコロシアム全体にひびきわたり、臆していることがあらわになった。まわりをとりまいた男女はその声にふるいたった。

 わあ、と喚声をあげ三人にむかっていっせいに駆け出した。おおくは素手だったが、なかには武器を手にしているものもいる。

 密集した攻撃陣のなかに太郎と美和子は飛び込んだ。とたんにその中心から噴水のように無数の男女が四方八方に飛び散る。ぐえ、ぎゃっ、というような押し殺した悲鳴があがり、つぎつぎと地面に倒れ気絶していった。それら倒れた連中はコロシアムの壁ちかくにひかえていた係員の手によってつぎつぎと担架に乗せられ、会場のそとへ運ばれていった。たちまちコロシアムのなかはまばらになっていった。

 日差しがかたむいたころ、ようやくかたはついた。

 太郎、美和子、茜の三人はコロシアムの中心にいた。コロシアムには夕日がななめにさしこみ、あたりをオレンジ色にそめていた。

 勝田勝もまた勝ち残っていた。

 勝はふうふうはあはあと荒い息をつき、くたびれきっていたが目はらんらんと輝き、闘志はうしなってはいなかった。

 それにたいし、太郎と美和子は汗ひとつかいてはいない。茜はもともと戦闘に参加しておらず、じっと兄の姿を見つめていた。

「見事な戦いだった!」

 勇作が声をはりあげた。勝ち残った四人はいっせいに貴賓席の勇作を見上げた。

「この四人で最終決戦をしてもらいたい。戦いに勝ち残ったものが僕との戦いの挑戦権をえることになる」

 勇作が身振りをするとコロシアムの中心あたりにかすかな土煙がおきた。ごとん、と音がして中心がもりあがった。ごとごとと機械が動くような音とともに円形の台座が姿をあらわした。ごと、ごと、ごと、と円形の台座のまわりが階段を形作った。

「そこが戦いの舞台だ。一対一でそこにあがり、戦ってくれ。最後までその舞台に残っていたほうが勝者とする」

 勇作の言葉に台座に駆け上ったのは勝だった。

 じろりと美和子を見ると腕を上げ、指さす。

「おまえ! こんどこそおれと勝負しろ!」

 美和子はうなずき、台座に近づいた。

 そのとき勇作が声をかけてきた。

「そのまえに只野五郎、そして勝田勝の妹、茜のふたりはこれからどうするんだ? 見たところ、いままで勝負に加わってもいないし、バッジも奪ってはいないようだが」

 太郎は勇作を見上げた。

「僕は召し使いにすぎません。ここにはお嬢さまのお世話にきているので、勝負はするつもりはないんです」

 茜もさけんだ。

「あたしだってお兄ちゃんを家に帰すためにきたから、勝負なんかしたくないわ!」

 勝は茜にむかってほえた。

「茜! おれは家に帰るつもりはないからな! まだまだおれは勝負をする相手をさがして生きるつもりだ。おまえ、いいかげん帰れ!」

 茜はぷっ、とふくれた。

「なに言ってんのよ、お兄ちゃん! いいかげん、頭を冷やしたらどうなの? それじゃ、いつになったら帰るのかわかんないでしょ」

「おれの勝手だ」

「ああそう。それじゃこうしましょう。ここで美和子さんに勝てたらお兄ちゃん、好きに生きればいいわ。でも、もし美和子さんに負けたなら、家に帰るって約束して!」

 勝はぱくぱくと口をあけたり、しめたりした。

「な、なに言ってんだ! なんで、おれがそんな約束しなけりゃならねえんだ?」

「自信がないの?」

「馬鹿いうな!」

「じゃ、約束したっていいじゃない?」

 ぐ、と勝はつまった。

「よ……よし。約束する。この女に負けたら家に帰る! それでいいんだな?」

 うん、と茜はうなずき美和子を見上げた。

「こういうことになったから、美和子さん。がんばってね!」

 美和子はくすりと笑った。彼女にとっても茜の天真爛漫な様子はこのましいものだったのだろう。彼女は勝のほうを見やり、声をかけた。

「勝さん、妹さんに心配かけてはいけませんね。茜さんのためにも、あたしがんばりますのでよろしくお願いいたします」

 そう言うと軽く頭をさげる。勝はすっかり調子をはずされ、憮然としていた。

「まったく……、わけわかんねえよ!」

 ぶつぶつつぶやくと身構えた。

「こい!」

 美和子はそんな勝に対し、まったく構えを見せない。ただ、すっと姿勢よく背をのばし立っているだけだった。勝はそれでも用心深く、じりじりと距離をつめていった。

 美和子に対し、勝は身長で頭ふたつ分、体重で三倍はありそうだ。ほっそりとした彼女がまんがいちにも勝に勝てる見込みなどなさそうに見える。が、勝は油断をしていない。最初の出会い以来、彼女の強さは身にしみていたからだ。

 そろそろと間合いをつめると、勝は腕を前にのばした。

 さっ、と勝が動いた。

 敏捷な獣のような動きで勝は美和子の肩をつかもうとする。美和子はさっ、と頭をさげ勝の手首をつかもうと腕をあげた。が、勝もそれはこころえていて、美和子の手をさけすばやくひっこめた。

 しばらくおたがいの攻防があって、ついに勝のグローブのような手が美和子の肩をがっちりとつかんだ。勝はこのちいさな勝利ににやりと笑みをうかべた。美和子は身をねじり、手をのばして勝の手首をつかもうとしたが、勝はそれは心得ていて美和子のほっそりとした身体を乱暴にふりまわして対抗した。

 勝は自由な片手をふりかぶり、美和子の顔をねらった。

 それが待ち望んだ美和子のチャンスだった。

 美和子の白魚のような指先が勝の手の甲につきささったように見えた。

 勝は絶叫した。

 手の甲には痛点が集まっている。そこを美和子の指がぎりぎりとつきさしたのだ。あまりの苦痛に勝は彼女の身体をつかんでいた手をはなし、うずくまった。

「畜生……!」

 真っ赤な顔で美和子をふりあおぐと、勝は彼女の足めがけて体当たりをこころみた。これはうまくいった。体重百キロ以上の勝の巨体が美和子の足にあたると、彼女は身をかわすまもなく仰向けにたおれこんだ。すかさず勝は美和子に馬乗りになり、首をしめにかかる。

 と、美和子は足をはねあげ、抜き手を勝の鳩尾にたたきこんだ。

 最初の戦いのとき、勝は彼女の抜き手に鳩尾を突き刺され、気絶している。が、こんどは勝は平気な顔であった。美和子の表情にはじめて狼狽の色がうかんだ。

「見ろ!」

 勝は学生服のボタンをはずし、上着を開いた。その前面に木の板がはめこまれている。ちょっとしたプロテクターである。

 勝は勝利を確信した。

 しかし美和子は上手だった。勝の上着の前がはだけたのにつけこみ、今度は抜き手をかれの喉仏につきさした。

 ぐえっ! と、勝はせきこみぐらりと上体をおった。さっ、と美和子は勝の巨体からぬけだし、距離をとる。

 げほごほと勝はせきこみ、うずくまった。ひぃーひぃーというような甲高い笛のような音がその喉からもれる。くくくくく……、とうらみがましい目で美和子を見上げ、じりじりと膝立ちになって近づこうとする。たちまちその顔に大量の脂汗が浮かぶ。

 美和子は声をかけた。

「あなた、呼吸ができなくなっています。吸うことはできますが、息をはくことができないのでしょう? そのままでは肺が破裂してしまいますよ。いま、降参なされば、あたしがもとにもどしてさしあげます。降参なさい!」

 勝の目に涙が浮かんだ。悔し涙であろう。それでもいやいやをするように首をふり、降参しようとはしない。ぐっ、と美和子を睨んだ視線はそのままに、じり、じり、と近づいていく。ひっしになって腕をのばし、戦う姿勢を放棄しようとはしない。

 と、ついに勝の意識が飛んでがくりとかれはうつぶせになった。ひくひくと全身が痙攣している。

 美和子は勝を背後から抱き起こし、活を入れた。

 くふっ、というような息が勝の口から漏れ、ふうーっとおおきく息をはく。たちまちふいごのような呼吸音が勝の口から聞こえてきた。

 美和子は茜を振り返った。

「茜さん、お兄さんを介抱なさってください。しばらくすれば意識をとりもどします」

 数回呼吸をくりかえすと勝の両目がぱっちりと開いた。ぐるぐるとあたりを見回し、じぶんのおかれている状況を確認する。敗北感にかれの口元がぐっ、と引き締められた。

 茜が台座にあがると勝はするどくさけんだ。

「来るな! 寄るんじゃねえ!」

「でも……」

 勝は立ち上がった。じろりと美和子を見る。ふっ、と息をはくと肩をすくめた。

「負けたよ。あんた、強いな」

 苦い笑いがうかんだ。肩を落としたかれの後ろ姿はなんだかさびしそうだった。茜の前を無言で通り過ぎ、出口へむかう。

「お兄ちゃん……」

「わかってる。家に帰るさ。修行のやりなおしだ」

 振り向かずそれだけぽつりと言うと、彼は出口へ歩いていった。出口の向こうには水平線が見え、そこに夕日が沈んでいる。勝はその夕日のなかへ去っていった。

 茜は美和子に向かいぺこりと頭をさげた。そして兄を追って駆けていく。

 残されたのは太郎と美和子のふたりだった。

「さてと……」

 勇作は貴賓席からふたりを見下ろした。

「これで僕ときみの最終決戦ということになったね。楽しみだ。見事僕を倒し、賞金を手にできるよう、がんばってもらいたい」

「ちょっと待ってください!」

 叫んだのは太郎だった。

 え? と、美和子と勇作は太郎を見た。

 意外な出来事にふたりの目は見開かれた。

 いままでまったく存在感を消していた太郎がいまになって何を言い出そうとするのか?

 太郎は貴賓席の勇作を見上げた。

「あなたにひとつ質問があります!」

「なんだい?」

 勇作は面白がるような表情になった。

「この書面に見覚えがありませんか?」

 太郎は上着から一枚の書類をとりだした。

 コロシアムの無数のテレビカメラがいっせいに太郎が手にしている書類をクローズ・アップにする。書類はかすかな風にふかれ、ひらひらと動いていた。

 貴賓席のテレビでその書類を見た勇作の顔色が変わった。

「それは……」

「そうです。これは高倉男爵のもとに届けられた承認を求める書面です。僕は万が一のことを考え、コピーをとっておいたんです。この書類は全国執事協会に届けられ、弁護士の精査をうけています。内容は、男爵の全財産を第三者の管理下におくというもので、その第三者は緒方財閥につながっていることが調査の結果判明しています」

 太郎の爆弾発言に美和子はあおざめた。

「太郎さん、それ本当のことなの?」

「はい。本当のことです。男爵の屋敷、財物は競売ですべて緒方財閥のものになりましたが、それ以前に勇作さんのものとなっていました。これはあきらかな法令違反です。あまりよい言い方ではありませんが、いわゆる篭脱け詐欺と呼ばれる手口です」

 美和子は勇作を見上げた。彼女の顔にめずらしく怒りの表情がうかぶ。

 その勇作は貴賓席で両手をぐっ、とにぎりしめ立ちすくんでいた。

「貴様……」

 怒りがその端正なマスクを醜くゆがめていた。

 くるりと身をひるがえすと背後にひかえている木戸をにらんだ。

「木戸! どういうことだっ?」

 木戸はぱくぱくと言葉もなく口を開いたり閉じたりしていた。あまりの展開に思考が停止しているかのようだった。

 と、壁に設置されている電話のベルが鳴り響いた。

 ぎろりと勇作は電話機をにらむ。ぐい、と顎をしゃくって木戸に出るよう指示する。木戸は勇作の追及からのがれることができ、あきらかにほっとした様子で受話器をとった。

 耳にあてがうと顔色がかわった。

 勇作を見る。

「あのう……あなたにです」

 おそるおそる受話器をさしだす。

 無言で勇作は木戸から受話器をひったくるようにして受け取ると耳に押し付けた。

「こちら全国執事協会の田村ともうします」

 声は中年の女だった。勇作は眉をひそめた。

「なんだ。いま忙しいんだ!」

 うなるように答えると、田村は冷静につづけた。

「いま只野太郎があなたの不正について申し立てた件で、こちらからもお知らせしなければと思いましてご連絡さしあげることになりました。当方は全国すべての執事、召し使いの利益を守る組織です。その利益とは召し使いが使える主人の利益もふくまれます。只野太郎はかれが仕える主人である高倉男爵が、あなたの詐欺行為についていちじるしい不利益をこうむったむね報告してきました。わがほうでそれについて調査した結果、それが事実である可能性が高いと判断いたしまして、法律的解決をとる用意があります」

「なんだと! そんなことできるものか! 証拠があるのか? あの書類がおれがつくらせたという証拠などない! あの只野太郎というやつが、でっちあげたのかもしれないじゃないか?」

 勇作がかみつくように怒鳴ると、電話の向こうの声は静かにつづけた。

「証拠などいくらでもありますよ。高倉男爵の財産、屋敷、有価証券すべては直接あなたの支配下にありませんが、あなたがおつくりになったトンネル会社についての定款や振込先、あらゆる事実があなたが高倉家の財産を奪ったことをしめしています。裁判になれば、これらはすべて提出されるでしょう。そうなればあなたは終わりです。そうなりたいですか? その前に、高倉家の財産をすべて美和子譲にお返しなさい。そうすれば、当方はなにも追及しようとは思いません。傷の浅いうちに、もとにもどすのです。裁判になれば、あなたのイメージは地に落ちます。そうなれば、緒方財閥といえど、とりかえしのつかないダメージをおうでしょうね」

「黙れ!」

 ひと声さけぶと勇作はたたきつけるように受話器をもとにもどした。

 くるりとコロシアムを見下ろす位置にもどるとらんらんとひかる目で太郎をにらんだ。そして木戸に命令する。

「中継は中止だ! クルーはすべて引き上げさせろ」

 勇作の命令をうけ、木戸はマイクをつかって会場を映し出しているテレビカメラのすべてに命令を伝達した。カメラマンたちのそばに警備員が近づき、ケーブルの接続をつぎつぎと切断した。突然中継を中断されたカメラマンは驚き、抗議の声をあげたが警備員たちはかまわずカメラマンたちを引きずるようにして引き上げさせた。

 それを確認した勇作は素早く身をひるがえし、屋上へとつづく階段に歩き出した。

「社長っ!」

 木戸が慌ててその後を追った。洋子はどうしようかとためらっていたが、結局そのあとにつづいた。

 貴賓席を見上げていた太郎と美和子は勇作の姿が消えたことに眉をひそめた。

 あいつ、どうするつもりだ?

 と、貴賓席の屋上からばたばたという音が聞こえてきた。

 ひゅーん……というローターが回る音がして、二軸ローターのジャイロコプターが姿をあらわした。ジャイロコプターには勇作と木戸、洋子が乗り込んでいる。

「あっ!」

 太郎は一歩前にでて空にうかぶジャイロコプターを見上げた。

「逃げ出した!」

「どうするつもりなんでしょう?」

 美和子がつぶやき太郎はさけんだ。

「証拠を隠滅するつもりですっ! あいつが男爵の財産をまきあげた証拠を消し去るつもりなんだ! お嬢さま、追いましょう!」

 うん、とうなずき美和子はコロシアムの出口を振り返った。

 と、彼女の瞳がおおきく見開かれた。

 出口にはコロシアムの警備員がずらりとならび、立ちふさがっている。

 ひとりがずい、と前にでると口を開いた。

「ここから出て行かせるわけにはいかない。勇作さまのご命令だ」

 警備員はそう言うと腰の麻酔銃をかまえた。

 太郎と美和子が身動きするまもなく、警備員は引き金をひいた。銃口から麻酔弾がひゅっと音をたてて飛び、ふたりに命中した。ぱあん、と麻酔弾は身体にあたると四散し、白い粉が飛び散った。思わず吸い込んだふたりはたちまち意識をうしなった。

 ばたりと倒れこんだふたりに警備員は近づいた。

 

「お兄ちゃん!」

 茜に声をかけられ勝は立ち止まった。

「なんだ? 言われたとおり、家に帰るといったろう?」

「違うったら! そんなことじゃないのよっ!」

 妹の様子に勝は眉をひそめた。

 茜はコロシアムのそばにぴたりを身をよせ、中を覗き込んでいる。そして必死に勝を手招きしていた。

「なんだってんだ?」

 勝は茜のそばに近づいた。茜は首をねじむけ、コロシアムの中を見つめている。勝が近づくと、彼女は肩をつかんで自分の見ているものを指し示した。

「なんだ?」

 勝は目をほそめた。

 夕焼けの中、コロシアムのまんなかで太郎と美和子が倒れふしている。そのまわりに警備員がとりまき、担架を運んできた。そしてふたりを担架に乗せると、どこかへ運んでいった。

「あたし見たのよ。コロシアムのほうからなにか話し声が聞こえたんでのぞいたら、あの勇作ってのがジャイロコプターに乗ってどこかへ言っちゃったと思ったら、警備員が麻酔銃でふたりを撃ったの」

「なんだって?」

 勝は驚いた。

「それじゃ最終決戦は?」

「そんなのなかったみたいよ」

「妙だな……」

 ひとつうなずくと勝の顔にじわりと笑みがうかんだ。戦いの予兆に晴れ晴れとした感じだった。

「面白え……おれはここに残るぜ」」

 茜を見やると彼女もうなずいた。

 コロシアムを見るとふたりを運んだ担架は貴賓席の下にある出入り口へむかっていた。そのまわりを取り囲むようにして警備員たちがぞろぞろとついていく。最後のひとりが入り口に姿を消す前に勝と茜はコロシアムのなかへ足を踏み入れた。

 コロシアムはしんと静まり返っていた。

 あれほどいたカメラの砲列もいつのまにかなくなっている。

 勝と茜は貴賓席の下のドアに近づいた。勝はドアに耳を当てた。

 かつかつかつ……と、数人の足音が遠ざかっていく。

 うん、とうなずき勝はドアのノブをためした。

 鍵がかかっている。

 けっ、と勝は肩をすくめぐっと全身にちからをこめた。学生服のうえから勝の筋肉がはっきり目にわかるほどに盛り上がった。

 むむむむ──、と勝は額に血管を浮き上がらせている。めりめりめり……いやな音をたて、ドアの枠が歪んでいく。ぼろぼろと壁の漆喰がはがれおち、ばきばきとドアの蝶番がねじきれていく。

 ごとん、とようやくドアが勝の攻撃に耐え切れず枠からはずれ落ちた。

 外れたドアをそばに立てかけ、勝は中をのぞきこんだ。

「お兄ちゃん、あいかわらず馬鹿力ねえ。そのちからを、なにか有意義なことにつかえばいいのに」

 勝の背中に茜が話しかけた。勝はむっとなってこたえた。

「なにが馬鹿力だよ。さあ、いくぞ。用心しろよ」

「わかってるって……」

 ふたりは足音をしのばせ、内部に踏み込んだ。

 

「どういうことだ! 説明してくれ!」

 そのころむりやり桟橋につれてこられた記者たちは警備員たちにかみついた。警備員たちは無表情に対応した。

「説明する義務はない。とにかく中継は終わりだ! すぐ船に乗って、本土に帰ってもらいたい」

「取材テープを返してくれ。没収は納得できんぞ!」

 そうだそうだと記者たちのあいだから声が上がった。コロシアムでのテレビカメラのテープはすべて警備員たちによって取り上げられたままだったのだ。

 そのなかから警備隊長が鋭い目で記者たちを眺め渡した。

「はっきり言っておく。この番長島は緒方財閥の私有財産なのだ。したがって治外法権の権利を主張できる。この島でおきたすべての出来事を記録したものを公表するもしないも、すべてわれわれの自由だ。もし勝手にあなたがたが取材の結果を公表したならば、緒方財閥は全力をあげて法的手段にうったえることをお忘れなく」

「そうか、そっちがそう出るならおれたちにも考えがあるぞ。報道の自由というのはあんたらが考えるような軽いものじゃないんだ! おれたちはすべての能力をつかって、緒方勇作のことを嗅ぎまわってやる。それでいいんだな!」

 隊長はうすく笑った。

「お好きなように。しかしあんたらが言う報道の自由なんて、そうたいしたもんじゃないよ。なにしろ緒方財閥はあんたらの報道機関のほとんどの有力株主だ。いわばあんたらの雇い主でもある。それでもあんたらが緒方さまのことをほじくりかえそうとするなら、身の破滅というものをその本来の意味で知ることになるだろうよ」

 記者たちの顔色は蒼白になった。冗談ごとでなく、緒方勇作にはそれだけのことをやってのける財力がある。しかしそれでも記者たちの胸に闘志が燃え上がった。緒方勇作にはなにか隠さなければならない重要なことがあるのだ。

 記者たちは押し黙り、警備隊員の誘導に従って桟橋に横付けされている客船へぞろぞろと移動した。やがて全員が乗り込むと、船は汽笛をならし、ゆっくりと島を離れた。

 記者たちは船の舷側にあつまり、離れていく番長島をながめた。

 島は水平線に没しかけた夕日の最後の残照をうけ、燃えるようにそまっていた。しろい石灰岩の岸壁は夕焼けにそまり、真っ赤になっている。

「おい。大京市に帰ったらどうするよ」

 ひとりの年配の汽車が部下らしい若い記者に話しかけた。若い記者は年配の記者を見上げ、にやりと笑った。

「きまってるでしょう。辞表を書いておきますよ。これからひどくあぶない橋をわたることになりそうだ」

 年配の記者はうなずいた。かれもおなじ思いだったのだ。

 島は見る見る遠ざかり、やがて水平線のかなたに消えていった。

 

「だいぶ下がったみたい……」

 心細そうに茜が勝に話しかけた。

 ふたりは太郎と美和子が運び込まれた貴賓席の地下につづく階段を降りていった。階段は幾重にもつづき、おそらく地下数階分はさがっているはずだった。しかし途中廊下やドアはなく、道筋はまっすぐだったので迷う心配はなさそうだった。

「黙ってろよ。あいつらまだ近くにいるんだぜ」

 勝は声をひそめた。その通りで、かれの耳に警備員たちの足音がかつーん、かつーんと遠く響いているのが聞こえている。ふたりの足もとはやわらかなスニーカーなので注意深く歩けば足音を聞きつけられる心配はなかった。

 と、遠くからがちゃんというドアを開け閉めする音が聞こえてきた。

 勝は足をとめた。

 茜は声をかけた。

「どうしたの?」

「もどってくるみたいだ」

 勝は身をひくくして耳をすませた。ばたばたと数人分の足音が近づいてくる。

「どうするのよ! 隠れるところなんてないわよ」

「なあに、かえって好都合だ」

 勝は笑った。

「待ってろ」

 そう言うと勝はだしぬけに走り出した。

 とりのこされ、茜は立ちすくんだ。

 勝の足音が遠ざかる。

 と、数人分のあわてたような足音がばたばたと交錯した。

 ぐふっ、わっ! というような押し殺した声がして、どたりとなにかが地面にぶちあたる音がした。

 そして静かになった。

 茜は胸をどきどきさせて待った。

 いまにも目の前に麻酔銃をかかえた警備員があらわれるのではないかという恐怖がじわりと全身をつかむ。

「もういいぞ!」

 勝の大声に茜はほっとなった。

 あわてて駆け寄ると、階段が下り終えたところで短い通路になっていて、そこにさっきの警備員たちがのびていた。そのまんなかに勝が立っている。勝は倒れている警備員のひとりに近寄り、膝をついてなにかを捜していた。やがて目当てのものを見つけたのか、ひとりうなずくと立ち上がった。その手に鍵束がにぎられ、ちゃらちゃらと触れ合ってかすかに音をたてた。

「太郎と美和子のふたりはここに運ばれた。どうやら牢屋みたいだな」

「牢屋ですって……。そんなものがどうしてあるのよ」

「まあ、ほんらいは倉庫かなんだろうが、ひとを閉じ込めるには絶好の場所だ。こんなところに部屋があるなんて、ふつう思わないものな」

「どこにいるの、ふたりは」

「こっちだ」

 勝は茜をてまねきして通路のつきあたりのドアに近づいた。ドアは鋼鉄製で、両開きになっている。勝は鍵穴に鍵束の鍵をつきさした。何本かためして、ようやく合う鍵を見つけがちゃがちゃと音を立て鍵をはずす。

 ぐっ、とちからをこめ、勝はドアを開いた。

 勝の背後から茜はなかをのぞきこんだ。勝の言うとおり、内部にはいくつものコンテナや梱包された荷物が満載になっていた。やはりこの部屋は倉庫として使っていたのだろう。そのあいだに太郎と美和子が横たわっているのが見えた。

「美和子さん!」

 茜は悲鳴のような声をあげ駆け寄った。ふたりは床の上にマットをしかれたうえに横たわって、目を閉じやすらかに眠っている。茜は美和子の肩をつかみ、ゆすった。がくがくと美和子の首がゆすられ、長い髪の毛が波打った。しかしぐっすりと眠ったままでいっこうに起きる気配はない。

「麻酔薬で眠らされているみたいだな。薬がきいているあいだは起きないだろう」

 勝の言葉に茜は泣きそうな顔になった。

「そんなあ……、どうするのこれから」

 勝はこまったような顔になった。

「さあてね……」

「もうお兄ちゃんったら、頼りにならないんだから!」

「おいおい」

 やりこめられ、勝は渋面をつくった。

「そこにいるのはだれだ」

 だしぬけに声がして勝はきっとその方向をにらんだ。

「そういうおめえはだれだっ!」

 わあん、と勝の大声に倉庫の中に反響がひびいた。

 ぺたぺたという足音が近づいてくる。どうやらあいては裸足らしい。

 倉庫のなかを照らす電球のあかりにひとりの人物が姿を現した。

 茜はその人物を一目見て思わず身をのけぞらした。

 まるで襤褸のかたまりだった。身につけている服は長年の酷使にたえかね、もとの色がわからなくなっている。髪の毛はぼうぼうにのび、顔の半分は髭でうまっている。ぷうん、とその人物からたえがたい悪臭がただよってきた。

 勝は緊張をといた。どうもその相手からは敵意というものを感じない。

「わたしはこの倉庫に食料をさがしにきたんだ。あんたらはどうやら島でおこなわれているトーナメントの参加者らしいな。結果はどうなったね。ずっとラジオで実況を聞いていたんだが、とつぜん放送が中断してしまったが……。なにかあったのか?」

 ふたりはぼうぜんとなった。

 

「なるほど、そういうわけだったのか……」

 男は倉庫の中をあさって食料をせしめ、そのあいだ勝と茜から説明を聞いてうなずいた。

「どうも緒方勇作はまずいことになっているようだな」

「なあ、あんた。いったいだれなんだ」

 勝はじりじりして男に話しかけた。

「わたしかね。わたしはただの世捨て人さ。わけあってこの島のはずれで暮らしている。この倉庫にわたしの暮らしている洞窟がつながっているので、ちょいちょいここで食料をもらって生活しているのさ」

「なんでそんなことして捕まらない。あんたのやってることは、泥棒だぜ。この島には緒方勇作の雇った警備員がうようよいやがる。そんな生活をしていりゃ、すぐ捕まるだろうに」

 ふっ、と男は笑った。

「勇作はなにも言わんよ。あいつはわたしがここで生活していることを黙認している」

「黙認しているだって?」

「そうさ。そうだな、こうなったらわたしもここで隠遁しているわけにはいかなくなったみたいだ。とにかくきみらを本土に帰す算段をつけないと」

「あんた、いったい何者だ」

 勝の語気がするどくなった。だんだん腹が立ってきたのである。

「わたしの正体をあかすのは太郎が目を覚ますまでまっててくれないか。これには太郎もかかわってくるのでね」

「なんだって……」

 勝はぼうぜんとつぶやいた。ますますわけがわからなくなってくる。

 男はぼりぼりと体中をかいた。痒いらしい。

「それじゃちょっと待っててもらおうか。ともかく話をするにはこの格好ではまずい。まあ心配するな。この子が目覚める前には戻ってくるから」

 にやりと笑うと男はくるりと身を翻し、もと来た道を戻っていった。勝と茜は男の去っていった方向をのぞきこんだ。うずたかく積みあがった荷物のすきまに道ができている。そちらの方向は自然の岩石になっていて、洞窟とつながっているようだった。

 勝と茜は男の帰りをまった。

 どのくらい時間がたったのだろうか。待つ身にはそれは数時間にも感じたが、実際は三十分もかからないくらいだろう。やがて洞窟のほうから足音が近づいた。こんどは裸足ではなく、革靴のたてる足音だった。

「だれだあんた?」

 ふたたび電燈の明かりの下にあらわれた男を見て勝は叫んだ。

 男の様子は一変していた。

 ぼさぼさの髪の毛はきれいに櫛があてられ、後頭部でまとめられている。顔の髭はすっかり剃られ、男の素顔があらわになっていた。なにより身につけているものがすっかり様変わりしていた。あの襤褸はぴしりとのりの利いたシャツと、しわひとつないタキシード、きっちりと折り目のついたズボンになっていた。風呂にもはいったらしく、さわやかな石鹸の香りがただよっていた。

 男は肩をすくめた。

「いやなに、こんなこともあろうかと身につけるものはつねに用意しておいただけだ。最高の召し使いというのはつねに身の回りに気をつけていないとならないからね」

「召し使い? というと、あんたは……」

 そのとき横たわっていた太郎が身動きをした。

 ぴくぴくと瞼がうごき、やがてぱっちりと目を覚ました。

 その気配に気づき、勝は太郎の顔を見た。

「どうやら目覚めたようだな」

 男はしずかに宣言した。

 太郎はまっすぐ男の顔を見上げている。

「あなたは……」

 太郎は話しかけた。男はうなずいた。

「そうだ。わたしはお前の父だ。只野太郎の父親、只野五郎さ」

 

 太郎と美和子、そして勝と茜は只野五郎のあとをついて洞窟の道を歩いていた。

 道々、五郎は四人に物語った。

「わたしは以前、高倉男爵のもとに仕えていたころ、メイドのひとりとひそかに愛し合うようになっていた。そのころ小姓村の妻から子供がうまれたという便りがあって苦しんだが、結局はわたしはその女をとった。妻も子供いるというのに馬鹿なことをしたものだ。当時、女には一人息子がいたが、なにしろ物心つかない年頃だ。わたしを父とおもって育った。それが勇作だ」

 その言葉に太郎と美和子は衝撃をうけたようだったが、なにも反応しなかった。が、茜は大声をあげた。

「ちょっと待って! そ、それじゃ緒方勇作というのは?」

 五郎はうなずいた。

「緒方というのはメイドの苗字だ。わたしはその名前をつかうことにした。高倉家のときとおなじように、わたしは彼女のために働き、さまざまな手段をつかって財産をふやした。やがて緒方家は有数の財閥に育っていった。しかしわたしが馬車馬のように働いているとき、勇作の母親はひそかに病にかかっていた。わたしはそれに気づかなかった。彼女は病死し、わたしはすべてに絶望して世捨て人の生活にはいった。そのころ勇作はわたしの事業のやりかたをまなび、すべてを引き継いだ。やつはわたしが世間にあらわとなることを嫌った。それでこの島に暮らすようにさそった。わたしはどこで暮らしても変わりなかったから、そのさそいに応じ、ここで暮らした。それでも世間とのつながりは断ち切れなかったんだなあ。ラジオを手に入れ、この島で開催されるトーナメントのことはずっと聞いていたよ。しかしまさか太郎が美和子嬢と一緒にこの島にやってくることまでは予想しなかったがね」

 茜は首をふった。

「それじゃ勇作が美和子さんの許婚というのは?」

 五郎は否定した。

「わたしはそれについてなにも知らない。おそらく木戸がなにか男爵にふきこんだのだろう。しかしどうして勇作は美和子さんとの結婚にこだわるんだろうな。もしかしたら……」

「もしかしたら、なによ?」

「いや……。憶測だけだ。しかし許婚うんぬんはまるっきりでたらめだよ」

 美和子はなにも言わなかった。いったいその胸に去来しているのはなんだったろうか?

 やがて一行は五郎の住んでいた洞窟にたどりついた。洞窟の出口には夜空が広がり、星が瞬いている。ざあああ……、という波の音が聞こえてくる。

「本土とこの島をつなぐ客船は夕方出港したばかりだ。明日になればつぎの便がくるが、警備員が見張っているから密航するのはむずかしいだろうな。しかし太郎と美和子さんはなんとしても本土に帰って、勇作と対決する必要がある。こっちにきたまえ」

 五郎は四人を案内して岩場につれていった。

 岩場には階段がきざまれ岸壁につづいていた。ほそいその階段を全員たどりながら岸壁のうえへ移動していく。夜空には満月がかかり、じゅうぶんに明るかった。

「ここは……」

 太郎はぼうぜんとつぶやいた。

 そこには思いもかけないものがあった。

 飛行機だった。

 岸壁の頂上は飛行場になっていて、一台の飛行機が翼をやすめていた。

「これが役に立つ日がくるとは思わなかったが、用意しておいてよかったよ」

「どうしてこんなものが?」

 勝の問いに五郎は説明した。

「もともと勇作がこの島で映画をとる計画があってね、そのとき飛行場を整備して飛行機を運んだのだが、その計画が変わってあのトーナメントになったから必要なくなった。それで勇作はすっかりここのことを忘れてしまった。だがわたしはひそかにここに通じる道をつくり、ときどき飛行機の整備をつづけていたんだ。これをつかって本土へわたろう」

「おれはいやだ!」

 勝は悲鳴をあげた。見ると顔色がすっかり変わっている。月の光だけでなく、その表情には恐怖がうかび蒼白になっていた。

「お兄ちゃん……」

 茜はあきれた。

「怖いの?」

 勝はぶるっ、と顔をふった。

「ち、違う! だいたいこんな飛行機に乗って無事でいられるわけがないだろう? その五郎さんはいったいなんだい? 執事だろう?」

「そうとも、わたしは執事だ。だが執事だって車は運転するし、資格があれば飛行機だって操縦するよ。わたしは飛行資格をもっている。それにいつも整備はかかしたことがない」

 五郎は胸をはった。

 茜は勝の前にすすみでた。

「お兄ちゃん、この飛行機に乗らないと帰れないのよ!」

 勝の顔にだらだらと冷や汗がうかぶ。いやいやをするようにちいさく首をふった。

「だ、だめだ。おれ、乗りたくねえ!」

 すっかり硬直している勝の背後に太郎が音もなくしのびよった。すっ、と片腕をのばし、勝の後頭部と肩のあたりに指をつきさした。

 びくん、と勝がとびあがり、そのままどたりと地面にくずれおちた。

「ちょっと意識をなくしてもらいました。さあ、勝くんをこれに乗せましょう」

 茜はあっけにとられていた。

 太郎と五郎は勝の巨体をかつぎあげ、飛行機の座席におしこんだ。座席の安全ベルトをかけると、五郎は操縦席に移動した。美和子、茜のふたりも飛行機に乗り込む。

「さあ、出発だ」

 五郎は手早く計器を点検し、いくつかのスイッチをいれた。

 ぶるぶるぶる……、と飛行機のエンジンがかかってプロペラがまわりだす。ぐおーん……、と飛行機がゆっくりと飛行場を動き出すとにわかに茜の胸に恐怖がこみあげた。

 となりにすわった太郎に話しかける。

「ね、ほんとうに大丈夫なの?」

 さあ、と太郎は首をふった。

「そうだといいんですが。ぼくも飛行機に乗るのははじめてなので」

 茜はまっさおになった。

 飛行機はがたがたとゆれた。飛行場といっても地面をたいらにならしただけで、舗装もされていないむきだしの地面である。あちこちでこぼこがあり、草もはえている。茜は目を閉じ、座席にしがみついた。

 それが最高潮にたっしたとき、ふいにゆれがとまった。

 彼女は目をあけ、窓に顔をおしつけた。

 月の光に照らされ海面がしたに見えている。

 飛んでいるのだ。

 いま、飛行機は飛び立ったのである。

 安堵に茜はほーっ、とため息をついた。

 と、ひゅーっ、というような息をすいこむ気配に背後をふりかえると、勝が意識をとりもどしたところだった。

「ここは……」

 勝はつぶやき、窓のそとをむき、目をまるくした。ぐっ、と無意識に座席の肘掛をつかむ。見る見る顔色が蒼白になり、ぐっと歯をかみ締めた。

「い、いやだあ! おろしてくれ!」

 じたばたとわめく。立ち上がろうとするがベルトがかけられて身動きがとれない。どうやらじぶんの身体にベルトがかけられていることにも気づいていないようだ。

「しばらくの辛抱だ。夜明け前には大京市につくよ」

 操縦席から五郎が声をかけてきた。

 

 7

 

「くそ、どういうことだ。まるで見当違いだ!」

 椅子の肘掛をばしりとたたき、緒方勇作ははきすてた。

 緒方財閥の本拠である屋敷の最上階にあるオフィスである。窓の外には大京市の全容がひろがっている。夜明けの最初のひかりが窓から差込み、しろく部屋の中を照らしていた。部屋はどちらかというと簡素なつくりで、実用一点張りの事務机とインタホンの通話装置。それにさまざまなファイルがおさまる書棚くらいで装飾のたぐいはほとんどなかった。

 屋敷はまるで城のようだった。どっしりとした石組みの建物の四隅に尖塔がつきだし、切妻屋根には出窓がならんでいる。敷地はひろびろとして、森がひろがってちょっとした公園ほどの規模がある。もともとは公爵の屋敷だったのを、その持ち主が没落して緒方勇作が買い取り、さまざまな改築をくわえ、いまにいたっている。勇作のオフィスもまたその一室をリフォームして使っているが、さすがに暖炉などは撤去するわけにはいかず、実用的なつくりのなかでそれだけが異彩をはなっていた。

 勇作は椅子から立ち上がり、部屋のなかを歩き回った。

 と、ドアが開き木戸が姿を現した。

「あのう……、正門に記者たちがきていますが」

「なにい!」

 勇作は木戸をにらんだ。木戸は首をすくめた。

「勇作さまのお話をうかがいたいと言っています」

 けっ、とさけぶと勇作は窓に身をよせた。眉をひそめ、正門のほうをにらむ。

 広大な前庭のむこうに正門が見えているが、朝霧にけむってよく見えない。勇作は身を翻すとデスクの表面にならんでいるボタンのひとつをえらび指をおしつけた。

 勇作の操作におうじ、部屋の天井の一部がひらき、なかからテレビモニターがするすると降りてきた。つぎに勇作がボタンを押すとモニターがあかるくなり、そこに正門にしかけられているカメラからの映像がおくられてくる。正門には十数人の男女がたむろしていた。記者たちはレコーダーやカメラを用意して屋敷を仰ぎ見ていた。

「おいはらえ。あいつらにさく時間はない」

 はあ、と木戸はうなずいたが賛成できかねるというように立ち止まっていた。

 勇作はぐいと顎をあげると木戸に質問した。

「どうした? なにか意見があるなら言え!」

 意を決したように木戸は口を開いた。

「はあ、やはり記者会見はすべきだと思いますが。このままではあることないこと書き立てられますよ。それは損だと思いますが」

 みるみる勇作の顔がけわしくなった。

「損だと? お前にそんなこといわれるすじあいはない! いいから追い払え!」

 まだ木戸は動かなかった。

「なんだ? まだなにか言いたいことがあるのか?」

「ええ。島から只野太郎と高倉美和子が逃げ出しました」

 勇作の目がまるくなった。

「どういうことだ? あいつらは警備員たちに拘束させておいたはずだぞ。なんでそんなことができる?」

「報告によれば勝田勝と茜という兄妹が逃亡を手助けしたということです」

「あいつらがどうしてそんなことできる? 船はどうした? 密航を見逃したのか?」

「いいえ。船に乗り込んではいません」

「それじゃどうして脱出できた? あの島から出る手段は船しかないはずだ」

「それが信じがたい話ですが、島から一台の飛行機が出発したという報告があります。どうやらかれらはその飛行機に乗っていたようです」

「飛行機だって……」

 勇作はぼそりとつぶやいた。あまりに信じがたい話にがっくりと肩がおちていた。

「そんなことがあるわけない……」

 ぼんやりと窓の外を見る。

 と、かれの目があるものをとらえた。

 朝日がのぼる空のむこうになにかが動いている。

 それは見る見るおおきくなり、ある形をとりはじめた。

 背後に太陽の光をうけ、銀色の翼がきらめいている。

 ぐおおおん──という轟音が窓ガラスを振動させていた。勇作はおもわずガラス戸を押し開き、身を乗り出した。

 飛行機だ。

 一台の飛行機が勇作の屋敷めざし、まっしぐらに近づいてくる。

 ぼうぜんと勇作は近づいてくる飛行機を見つめていた。

 飛行機は屋敷にぎりぎりに近づき、急角度で上昇した。

 ばたばたと飛行機が巻き起こした風で窓のカーテンがひるがえり、デスクのうえの書類がまきちらされた。飛行機はいったん上昇して上空で円を描いた。

 と、飛行機のエンジンの音が変わった。

 ぷるん、ぱすん、というような頼りない音になり、プロペラの回転がとまった。

 そのまますーっ、と高度を落としおおきく旋回して屋敷の敷地に近づいていく。

 飛行機は屋敷の敷地にひろがる森につっこんだ。

 ばきばきと枝が折れる音がして、ぎゃあぎゃあとさわがしい声をたて数十羽のカラスが驚き騒いで飛び上がった。

「なんなんだ、あれは?」

 勇作はつぶやいた。木戸のほうをふりむき、命令した。

「すぐだれかやれ! いや……こういうときのためにあいつらがいる……。そうだ、武装召し使いをだすんだ」

 はっ、と木戸は上体をおりまげ、部屋から出て行った。

 

「まったく、どうなってんの!」

「すまん。燃料切れだ」

 茜はぷりぷりして五郎を問い詰めた。五郎は操縦席から這い出すと、客室のドアを開けようと格闘していた。

 窓の外には樹木が密生していた。飛行機は森の真上に墜落したのである。が、樹木が飛行機の衝撃をうけとめ、全員怪我はなかった。

 がちゃりとロックがはずれ、ドアが開いた。

「わ!」

 五郎はあわててドアの枠にしがみついた。見ると地面がはるか下に見えている。飛行機は森の樹冠ちかくにとまっているのだ。

 うう、といううめき声が聞こえた。

 勝が目をさましたのだ。

 あれから勝はふたたび機内で気絶していた。そのほうがほかのみんなにとって救いだった。なにしろ飛行中、ひどく騒いでいたのである。

「なんだ、どうなってる?」

 勝はぼんやりとつぶやいた。

 ドアにしがみついている五郎を見る。

 勝の顔に血がのぼった。

「あんた、おれを無理やりこんなもののに乗せやがって……」

「お兄ちゃん、そんなこと言ってるひまないって!」

 勝は茜をふりかえった。

「なんだと?」

「窓の外を見てよ!」

 いわれて窓に顔をおしつける。わ! と口が開いた。

「な、なんだ! どうなってんだ!」

「ここは緒方勇作の屋敷の庭だよ」

 勝のとなりにすわる太郎がつぶやいた。勝はぐっ、と太郎をにらんだ。

「なんだと……。ここがそうか」

 と、かれの視線が屋敷の建物にとまった。

「なんでえ、ずいぶんごてごてしてやがら」

 勝の言うとおりだった。勇作が改築した屋敷は悪趣味といえるほど装飾過多で、無数の尖塔と出窓、それに外壁をかざるさまざまな彫刻が複雑な形状を見せている。さらに屋敷まわりには増築をかさねた無数の建物が様式の統一もなく、まるで蛸が手足をひろげたようにとりまいていた。それらの建物はいくつもの廊下がつなぎ、迷路のようになっていた。

「ありゃ、あいつらなんだ?」

 勝の言葉に太郎と茜が窓のそとをのぞきこんだ。屋敷の方向から数人の人影がわらわらと集まってくる。

「緒方家の武装召し使いたちだ。気をつけろ、やつら軍隊なみの装備をもってるぞ」

 ドアからしたを見ていた五郎がさけんだ。

 飛行機がひっかかっている樹木の根元に集合しているのはプロテクターとヘルメットで身を固めている武装召し使いたちだった。身につけているプロテクターはタキシードに似せてデザインされている。ヘルメットも山高帽のようなデザインである。武装召し使いたちは樹上を見上げ、ひとりが銃をかまえた。ばすっ、という音とともにフックのついたロープが打ち上げられた。フックは枝にからまりロープがぴんと張った。ロープには足がかりがあり、縄梯子となっている。召し使いたちは縄梯子をつかみ、つぎつぎと登りはじめた。よく訓練されているらしく、その動きにはむだがない。

「どうする、おい?」

「出迎えがきたんだ。挨拶するしかないだろう」

 五郎はにやりと笑うとひょい、と足を宙にふみだした。あっ、と一同は目を丸くした。五郎は空中にスワン・ダイブをして頭から落下した。と思うと、かれは枝のひとつを両手でつかみくるりと回転してつぎの枝へ飛んだ。

「すげえ……」

 勝はつぶやいた。

「それじゃ僕も行かなければ」

 太郎はつぶやくとドアへ近寄った。

「おい! 待てよ!」

 勝はあわててさけぶが、太郎はさっと空中へ飛び出し、枝をつかんだ。そのままするすると幹にとりつき、おりていく。

「ちくしょう、あいつら格好付けやがって」

 勝はくやしそうにつぶやいた。いつのまにか高所恐怖もわすれているようだ。

 そのときぎぎぎ……という異音がひびいた。勝はきょときょととあたりを見回し叫んだ。

「なんだ、いまの音?」

「枝がおれる音よ」

 茜がこたえた。

 その通りだった。飛行機をうけとめていた枝がついにへし折れつつあるのだ。がたり、と飛行機がかたむく。

 美和子がするどくさけんだ。

「はやく! 外へ出ないとあたしたち……!」

 茜と勝はうなづきドアにとりついた。目の前につきだしている枝へ飛び移る。三人が飛行機から脱出したところでついに枝がばきばきという音をたて折れた。飛行機は枝と葉をまきちらし、派手な音をたてて落下していった。がっしゃん、と音がして地上に飛行機は上下さかさまになって落ちていった。

「あぶなかった……」

 茜がほっとため息をついた。

「安心してはだめよ。敵はまだいるんだから」

 美和子の言葉に茜は下をみた。その通りで、ふとい幹をのぼる数人の武装召し使いたちがつぎつぎとせまってくる。

「お前たち、家宅侵入で訴えてやる。おとなしく命令にしたがえ!」

 召し使いのひとりが銃をかまえた。番長島で警備員がつかっていた麻酔銃である。命をうばうことはないが、こんなところで意識をうしなったら落下して死亡する可能性はある。銃口をむけられ勝たちはその場でかたまってしまった。

 と、ざざざざ! というような葉ずれの音がして、銃をかまえた男はさっと上を見上げた。が、間に合わなかった。枝のなかからあらわれたのは只野五郎だった。かれは男の背後に落下すると、ぐっとその首に腕をまわした。

 それを見ていたもうひとりが銃をふりまわしたが今度は太郎が枝をかきわけ飛び出した。太郎は枝に降り立つと男がもつ銃を蹴り上げた。がちゃんと銃は宙に飛び、男はうなり声をあげて太郎に襲いかかった。太郎はすい、と身をかわすと背負い投げをかけた。男はわあ、とさけんで空中に投げ出された。どさり、という音がしたから聞こえてきた。太郎はしまった、というように地上を見つめた。投げ飛ばされた召し使いは苦痛に身をそらしていたが、生きてはいた。たぶん身をかためていたプロテクターがまもっていたのだろう。太郎はほっ、と息をはいた。殺人者にはなりたくない。

 いっぽう、五郎もまた最初に声をかけてきた男をかたづけていた。ぐっ、と首に回した腕にちからをこめ、召し使いは意識をうしなって崩れ落ちた。落下しようとするその身体をささえ、五郎は銃を奪った。

「さがれ!」

 その銃でしたから登ってくる召し使いたちにねらいをつける。召し使いたちは上からねらわれ動きが止まった。その両手は縄梯子を握っているのでふさがっている。五郎は銃をぴたりとかまえたままだ。召し使いたちはしぶしぶ縄梯子を降りていった。

 太郎たちは五郎にまもられ縄梯子をつたって地上へ降りた。そばに地面にたたきつけられた飛行機の残骸があった。

 武装召し使いたちは五郎の麻酔銃のまえにたちすくんでいた。五郎は引き金をひいた。ばすっ、ばすっという音が連続してしろい麻酔薬がかれらの身にふりかかった。召し使いたちはつぎつぎと膝をおって倒れていく。

「こんなところで手間取るわけにはいかないからね、悪いがかれらには眠ってもらう。さあ、屋敷に乗り込もう」

 太郎と美和子はうなずいた。命をとるわけではないということがかろうじてかれらの行動を正当付けていた。五郎はその場に銃をほおりだすと走り出した。

 勝はばしっ、と手のひらをうちあわせた。すっかり元気になっている。地面に立っていることと、これから行動する目当てがあるということがそうさせている。

「おもしれえ! おれもいっしょにいくぜ」

 太郎はうなずいた。味方はおおいほどいい。

 

「やくたたずめ……!」

 窓から身を乗り出していた勇作は歯を食いしばった。木戸にふりむき命令する。

「木戸! おまえ相手をしろ」

 木戸はうなずき身を翻して部屋から出て行った。

 ひとりになった勇作はするどい視線で床にちらばった書類をながめた。膝をつき、その書類の束をかきあつめる。くしゃくしゃにしたそれを両手一杯にかかえると、暖炉を見た。書類をそのなかにおしこみ、デスクのうえのライターで火をつけた。めらめらとオレンジ色のほのおが書類をなめ、たちまち燃え上がった。

 そこへ洋子が朝食の盆をささげ入ってきた。

「あの……、お食事は?」

 勇作はするどい目つきで洋子をにらんだ。洋子はその視線の恐ろしさに立ちすくんだ。

「いらん! どっかへうっちゃっておけ!」

「は……はい……」

 洋子の目は暖炉のなかで燃えている書類のたばにさまよった。勇作は声をはりあげた。

「あっちへいってろ! しばらくおれが呼ぶまでどっかにいっててくれ!」

 洋子の顔が一瞬、怒りにそまったがすぐ平静を装いうなずいた。

「わかりました……」

 一礼して退出する。

 暖炉では書類の束が燃え上がり、ちりちりと黒い灰になっていった。それを確認した勇作はほっとため息をつき、額の汗をぬぐった。

「これでいい」

 ひとりうなずきどっかりとデスクの椅子に腰掛け、両手を組み合わせた。

 そして待った。

 

 玄関のドアが開き、そこからあらわれた人物を見て太郎は立ち止まった。

「木戸さん……」

 木戸は太郎を見るとものもいわずにおそいかかった。

 びゅっ、と音を立てかれの拳が空を切る。

 太郎ははっ、と飛び下がった。眉がけわしくなった。一瞬で木戸の実力を悟ったのだ。木戸はにやりと笑いかけた。

「おまえは小姓村の執事学校で格闘術をならったそうだな。おれも執事のたしなみとして少々こころえている。さあこい!」

「おまえのあいてはおれだ!」

 木戸はあらたな声にぎょっとなった。

 見ると五郎が木戸にむかい、かまえていた。

 五郎は太郎たちにさけんだ。

「おまえたち、こんなところで手間取っていないでさっさとさきにいけ! ここはおれにまかせておけ」

 ふうん、と木戸はあごをあげた。

「なるほど、まあいい。おれはお前らのだれでもいいんだ。さあ、やるぜ!」

 木戸はその長身を躍らせた。長い手足が旋回して五郎へ襲いかかる。五郎は手をあげ、その攻撃をうけとめた。ばしっ、というするどい音がしてふたりはがっしりと組み合った。五郎は太郎を見て「行け」というように顎をしゃくった。太郎はうなずいた。

 太郎たちが屋敷の中に姿を消すと五郎はぐっとちからをこめ木戸の身体をはねとばした。木戸はさっと離れると身体をゆらゆらとゆらして五郎を待ち受けた。五郎は木戸の動きに眉をひそめた。

「酔拳か?」

 五郎がたずねた。木戸はにやりと笑ってうなずいた。

 ぐらり、と木戸の上体がゆれた。とっ、と足もとがふらつき五郎のほうへたおれかかる。と見せかけ、両手を地面につくととん、とそのまま一回転して両足をそろえつきかかる。五郎は両手をあげそれをうけとめた。が、木戸の攻撃はそれでおわったわけではなかった。地面についた腕を左右にひろげ、五郎の足元をすくった。

 わ! と、五郎は倒れかかった。あやうくとんぼをきり、一回転して着地する。木戸の動きはまったく予想がつかなかった。

 けけけけけ……、と木戸は奇妙な笑い声をあげ五郎に襲いかかった。ふらふらとその足取りはさだまらず、手足はとんでもない角度でまがった。が、その動きはすべて五郎にむかっており、一撃必殺の威力を持っていた。もし木戸の動きにまどわされ、油断すればひどい打撃をこうむるだろう。

 酔っ払い拳法とはよく言った。

 五郎は思い切って木戸のふところへ飛び込んだ。

 たちまちふたりの間で手と手、足と足がいそがしく交錯した。おたがい必殺の打撃をあたえようとぎりぎりの攻防をしている。一瞬の間にふたりの全身に打ち身やあざがうきで、額から滝のような汗がふきだした。

 実力は伯仲していたが、手足が長い分どうやら木戸のほうに有利だった。それにかれの奇妙な動きは、五郎の目をまどわせた。ついに木戸の拳が五郎をとらえた。

 ど! と、五郎は宙を飛び、地面に横たわった。急所をやられたのだろうか、全身が麻痺している。

 木戸は勝利を確信した。

 とどめをさすため、のしのしと大股に倒れている五郎に近づいていく。地面で五郎はなんとかおきあがろうともがいていた。その背後に膝まづくと、木戸は五郎の首を腕にまきつけもう一方の腕でかかえこんだ。そのままねじきり、頚骨を折ろうという算段だ。

 ぐぎぎぎぎ……! おそろしいほどのちからに五郎の全身の関節が悲鳴をあげた。

 遠ざかる意識のなか五郎は数人の足音を耳にした。

 ばすっ、という噴射音。

 と、かれの鼻に奇妙な刺激臭がした。たちまち五郎は意識をうしなった。

 

「だいじょうぶですか?」

 声をかけられ、五郎は意識をとりもどした。

 まだ生きている。それが信じられなかった。かたわらに木戸がその長い身体を横たえ、倒れている。木戸はやすらかな寝息をたてていた。五郎の顔をのぞきこんでいるのは若い女だ。太郎とおなじくらいの年頃だろうか。まるい輪郭の顔立ちに、血色のよいほほが健康的なピンクにかがやいている。身につけているのは緒方家のメイド服である。

「きみは……」

「あたし山田洋子といいます。太郎とは小姓村でおさななじみでした。失礼とは思ったんですが、これをつかって木戸さんを……」

 そう言うと彼女は武装召し使いがつかっていた麻酔銃をかかげた。

「かれだけを狙ったんですけど、すこしあなたにかかってしまったみたいです。ごめんなさい。でもわずかしか吸い込んでいないから、すぐ目が覚めてよかったわ」

 五郎は身をおこした。まだすこしくらくらするが、二度、三度と息をおおきく吸い込むとたちまち頭がはっきりしてきた。

「ありがとう、たすかったよ。しかしこんなことして勇作に怒られるんじゃないのか?」

 それを聞いた洋子は怒りに顔を赤くさせた。

「あんなやつ! もうご主人さまだなんて思いません! 太郎をあんな目にあわせるなんて、ひどすぎるわ!」

 五郎の顔がほころんだ。

「ありがとう。太郎に代わって礼を言うよ」

「あの、あなたはどなたです?」

「わたしは只野五郎。太郎の父親だ」

 洋子の目が驚きに見開かれた。

「えっ! じゃあ島の洞窟で暮らしていたという……」

「そうだ。思い切って隠遁生活をやめて太郎を手助けすることにしたんだ。しかしどうしてそんなこときみが知っているんだ?」

 洋子は肩をすくめた。

「だって、勇作のメイドになったといってもまるで仕事がないんですもの。一日中ひまで、それでしょうがなくて書類の整理とかしていて、そのとき過去の帳簿を見ていたら決裁の名前が緒方五郎となっているのが不思議で、いったいだれのことだろうと調べたんです。それが太郎さんのお父さんのことだと知ってびっくりしましたわ」

 五郎は苦笑いをした。

「まったくつけはいつもまわってくるもんだ。さて、こうなったら太郎をたすけて勇作と対決しなければならないな……。ん? あれは!」

 かれの視線は屋敷の最上階の屋根の煙突からたちのぼる煙にすいよせられた。

「あれは勇作が暖炉で書類をもやした煙です。なにか大量の書類を燃やしていました」

 五郎は立ち上がった。

「くそ! 証拠隠滅だ! 勇作のやつ……」

 洋子はきりっと五郎を見上げた。

「大丈夫よ! 証拠はあの書類だけではないわ!」

「どういうことだ?」

「あの屋敷の中に、勇作が高倉男爵の財産を不正に横領した証拠があるのよ。べつのかたちでね」

 五郎は洋子の肩をつかんだ。

「それを教えてくれ! こんなことは許しちゃいかん」

 彼女はうなずいた。

「行きましょう。勇作が気づく前に」

 うん、とふたりはうなずきあい、屋敷へ向かって走り出した。

 

 8

 

「広いぜ。広すぎらあ!」

 勝は茜とともに屋敷のうちをさまよいつぶやいた。

 まったく屋敷は広大だった。

 屋敷にはいってすぐ、その規模のあまりのおおきさに、手分けして勇作の行方をさがそうということになり、勝は太郎と美和子とわかれたのだ。が、その決断を後悔していた。行けども行けども部屋は続き、部屋と部屋をつなぐ廊下は果てしもなかった。

 屋敷は行き当たりばったりに増築、改築を繰り返した結果、廊下は奇妙な角度におれまがり、妙なところに階段があったり、行き止まりがあったりして、たちまちふたりは迷ってしまった。

「ねえ、お兄ちゃん。さっき通ったところじゃない?」

 勝の背後から茜がうんざりした声をあげた。勝はうなった。たしかにいま通っている部屋は前に見たような気がする。

「なんでひと気がねえんだ? さっきの武装召し使い以外、だれとも出会ってねえ」

「いいじゃない。喧嘩しなくてすむもの」

「そうはいかねえよ。だれかいたら、ひっつかまえて勇作のいそうなところを吐かせてやるつもりだからな!」

 屋敷のなかをさまよう勝の目があるものにとまった。

「見ろ、エレベーターだぜ」

「ほんと……」

 ふたりはエレベーターのドアに近づいた。

「さすがこれだけのでかい屋敷ともなると、エレベーターでも使わないとやってられねえんだなあ……」

 勝はすなおに感心している。茜はかれの袖をひっぱった。

「ねえ、もしかしたら勇作のやつ最上階にいるんじゃない? だったらこのエレベーターをつかえば……」

「そうか、近道だな!」

 エレベーターのボタンをおすとすぐ扉が開いた。操作するハンドルをつかむと、勝はそれをいっぱいにまわし、最上階へあわせた。

 がくん、と箱はうごきだし、目盛りの針が上昇する階数を表示している。

 あっというまに最上階にたっし、ふたりはエレベーターからおりた。おりたすぐが短い通路になっていて、そのさきが階段になっていて朝の光がさしこんでいた。ふたりはその階段をのぼっていった。

「わ!」

 勝はたたらをふんだ。

 ひゅう……、と一陣の風がかれの頭髪をさかだてさせた。

 屋上だった。最上階は屋上になっていたのだ。

「しまった、引き返すぞ!」

 つぶやくと階段をおり、通路を走ってエレベーターのドアの開閉ボタンを押す。

 が、ドアは開かなかった。

「動かねえ……。ほかに階段はないのか?」

 すばやくあたりを見回すが、したに通じる階段はなかった。

「畜生……、しめだされちまった」

「僕に会いたいのか?」

 だしぬけに勇作の声が聞こえ、勝は飛び上がった。

「ど、どこだ!」

「お兄ちゃん、あそこ!」

 茜が指差す方向を見ると、天井からちいさなテレビモニターがさがっていて、そこには勇作が映し出されていた。モニターの上にはテレビカメラがあり、ふたりをとらえていた。モニターの画面から勇作が笑いかけた。

「わざわざようこそ。きみの活躍は楽しませてもらっているよ」

「野郎……出てきておれと戦いやがれ!」

「そうしてもいいよ。きみが僕のところへくる気があるなら」

「なんだとう……えらそうに!」

「僕のオフィスは妹さんの推測どおり、最上階の棟にある。きみが乗ったのは別棟のエレベーターだ。屋上から僕のオフィスに通じる通路があるから、そこを通ってくるがいい」

「ちょっとまて、なんで茜の喋ったことをお前が知っているんだ?」

「この屋敷のすべての部屋、すべての通路にカメラとマイクがしかけてあるんだ。番町島であったのとおなじシステムでね。きみらが飛行機で墜落してからずっと観察させてもらっているよ」

「のぞき屋め! まってろ! たたきのめしてやる!」

 勝が吼えると勇作はうなずいた。

「待ってるよ。屋上の通路だよ」

 モニターが暗くなった。

 勝はぱしりと手を打ち合わせた。

「やっとやつと戦える。去年の借りを返してやる!」

 闘志を満面にみなぎらせ、勝は屋上へ駆け上った。

 通路をさがす。

 あった。

 その通路を見た勝の顔が蒼白になった。

 通路は空中をわたされた一本の橋だった。

 が、その橋には手すりがなかった。わずか数十センチの幅の板がべつの棟につながっていただけだった。

「う、う、う、う!」

 勝はたじたじとなっていた。

 恐怖に足がすくんだ。もしこれが地上にあって、ただの地面にひかれた線だったらだれでも楽々と歩けるだろう。しかし空中にあるのだ。ましてや勝は強度の高所恐怖症である。そばに近寄るだけでも背筋に冷たいものがはしる。

 勝は通路のさきをにらんだ。

 青空に切妻屋根がうかんでいる。通路のさきにドアがあり、おそらくそれは勇作のオフィスにつながっているのだろう。ふつふつと勝の額に冷や汗が浮かぶ。

 ぐっ、とつばを飲み込み、一歩をふみだす。

「お兄ちゃん……」

 茜が背後で息を呑んだ。

「お前はそこで待っていろ……」

 勝はそろりと歩き出した。

 

 いっぽう、太郎と美和子も屋敷のなかをさまよっていた。

 ふたりもまた勝とおなじようにこの屋敷の広大さを身をもって思い知っていた。さまよったあげく踏み込んだのは屋内にしつらえられた中庭だった。

 数階分のふきぬけ天井はガラス張りで、どういう仕組みをつかっているのか外光がガラス越しに中庭をあかるく照らしていた。中庭にはさまざまな観葉植物が植えられ、あおあおとした芝生には色とりどりの花々が咲き誇っている。

「いったい勇作さんはどこにいるのかしら……」

 美和子はため息をついた。屋敷の広大さにあきれはてている。

 太郎はだまってなにかに耳をすませていた。

「太郎さん、どうしたの?」

「足音がします」

「え?」

 美和子はぎくりとなった。あらたな敵か?

 太郎はじっと動きをとめ、待ち受けた。

「お父さんと洋子のふたりです。あの足音には聞き覚えがあります」

「聞き覚えって……」

「リズムでわかります。ひとの足音には固有のリズムがありますから。それを覚えておけば、個人をあるていど特定できます」

「あなたって……」

「執事学校で訓練をうけました」

 美和子はあきれた。執事の訓練でそんな忍者じみたことを教えるとは驚きだった。

「洋子さんって、だれのこと?」

 ああ、と太郎は笑った。

「うっかりしていました。山田洋子といいまして、ぼくの小姓村でのおさななじみです」

「そうなの……」

 ふたりが話しているうち足音が近づいてきた。

 太郎の言うとおり、只野五郎と洋子のふたりが肩をならべてやってくる。

「やあ、こんなところにいたのか。捜したぞ」

 五郎が声をかけてきた。

「木戸を倒したのですね。お父さん」

 太郎に言われ、五郎は苦笑いをうかべて首をふった。

「いいや、この洋子さんにたすけられた。彼女は勇作の不法行為の証拠をつかんでいるというんだ。それを手に入れるため、一緒に来てもらっている」

 太郎は洋子を見つめた。洋子は肩をすくめた。

「あたしも決心したの。やっぱりあたしには召し使いはむかないみたい」

 そう言うとにやりと笑った。

「かたをつけたら小姓村に帰るわ!」

 五郎は太郎をふりかえった。

「それでわたしと洋子さんは証拠を手に入れにいく。太郎と美和子さんは勇作と会う必要がある。洋子さんが勇作の居所を知っているそうだ」

 太郎は洋子をむいた。

「教えてくれ。こんなひろい屋敷、だれかの案内がなければまよってしまうよ」

 うん、とうなずいた洋子は両手をあげすばやい動きをした。それは奇妙な動きで、腕や指先をさまざまな角度で動かし、ひらめかせる。その動きを目で追った太郎はうなずいた。

「なるほど、わかったよ」

「なにがわかったの?」

「勇作の居場所です。そこへたっするための道筋を教えてくれたんです」

「たったあれだけで?」

「執事特有のボディ・ランゲージの一種です。道筋を覚えることは執事の技能の重要な部分ですから、いちいち言葉で教えあっていては時間がかかるのでああいった動きでシンボルにして短縮しているんです」

「そうなの」

 美和子はうなずいた。もう、いちいち驚いてばかりはいられなかった。

「よし、それじゃここでお別れだ。気をつけろよ」

 太郎はうなずき、美和子をうながし歩き出した。五郎と洋子もすばやく別の道をとり立ち去った。

 

「わ!」

 ひゅう、と勝は息をはきだした。

 突風がふき、あやうく足をとられるところだった。

 橋をわたるだけなのに、半分までたっするだけでかなりてまどっている。一歩、一歩が恐怖の連続だった。見まい、見まいと思っているのについ視線が足もとに落ちる。そのたびに目もくらむ高さに勝の足はすくんだ。

 勝は天をあおいだ。

「まずい……」

 つぶやいた。

 さっきまでのぬけるような青空はいつのまにかどんよりと曇ってきている。

 空気にじっとりと湿り気がまじっている。

 勝の肘がしくしくと痛んだ。数年前の喧嘩の古傷で、雨がちかいとこうして痛む。

 なまあたたかい風が勝の髪の毛をなぶっている。

 ぽつり、と額に最初の雨粒がふれた。

 ぽつ、ぽつ、ぽつと降りはじめた。本格的な雨である。

 勝はぐっ、と行く手を睨んだ。橋の終端は切妻屋根に接し、屋根の一部がななめに切り込まれそこにドアがある。

 一歩、一歩と近づいていく。

 と、ドアががちゃりと開き、勝はぎくりと歩みをとどめた。

 勇作だった。風がリーゼントの髪の毛をみだし、膝までとどく長いガクランの裾をはためかせている。赤いガクランの裏地の黒がはたはたとひらめいた。

「やあ、きみが高所恐怖症だとは知らなかった。すまなかったな」

「ぬかせ! 勝負しろ!」

 勇作はうなずいた。

「もちろんだとも。まずここまできみがこなければ話しにならない。さっさとその橋をわたってくれないか」

「畜生……」

 怒りに勝の目がくらんだ。恐怖を一瞬にしてわすれさり、だだだだと足音をとどろかせて駆け出した。たちまち橋をわたりきり、踊り場でまっている勇作へおそいかかる。

 ざああああっ、と雨の勢いがました。屋根にあたる雨粒がしろくしぶきをたてた。

「うおおおおっ!」

 勝の渾身のちからをこめた拳がふりまわされた。勇作はそれをさけもせず、片手をむぞうさにあげてブロックした。

 ばしーん、とものすごい音がして勝は歯を食いしばった。まるで壁をなぐりつけているようだった。勇作はにやりと笑うとぐいと勝の拳をにぎった手をひいた。わっ、と勝はひかれてあやうく転ぶところだったが、なんとかふんばりこんどは勇作の顔めがけて頭突きをする。

 がつん、とこんどは手ごたえがあった。

 勇作の額からひとすじあかい血がながれた。たちまち雨粒があらう。が、勝のほうもダメージをうけた。くらくらと一瞬めのまえが暗くなる。頭突きには自信があったが、勇作の頭の固さも相当なものだ。勝はめくらめっぽうに腕をふりまわした。まさかあたるとは思ってはいなかったが、なんとそれが勇作の顎をとらえていた。

 どう、と勇作が踊り場の床にたおれた。

 すぐさま上体をおこし、指を唇にもっていく。口の中が切れ、手のひらに血がにじんだ。

「貴様……!」

 端正なマスクがゆがみ怒りに眉間にしわがよった。

 へへへへ、と勝は勝利に笑みをうかべた。

 すばやく立ち上がった勇作は前傾姿勢になって突進した。頭から勝のふところに飛び込みそのまま押していく。どす、と勝の背中が屋根瓦にあたった。うぐ、と勝は胸の空気をはきだした。かれは両腕をのばし勇作のわきの下に手をいれ持ち上げた。

「ぬおおおっ!」

 さけぶと勇作の身体を突き飛ばす。が、勇作は突き飛ばされる直前両足を交叉させて勝の足もとにからめていた。

「うあっ!」

 どう、と勝はころばされ地面に横になった。すぐさま勇作が馬乗りになって勝の首をしめあげてくる。勝は必死になってそれからのがれようと自由な足をじたばたさせてぐいぐいと身体を動かした。たちまち踊り場の端にたっし、勝の首が空間につきだされた。首をよこにして勝はぎょろぎょろと目を動かせた。

「!」

 目もくらむほどの高さに乗り出している。地面ははるかかなただ。つぎつぎと落ちていく雨粒がたちまちちいさくなって見えなくなっていく。恐怖が勝の動きをとめていた。勇作は馬乗りになって殺意をこめた笑みをうかべている。

「死ねえ!」

 勝の太い首に勇作の両手がくいこみしめあげた。どくん、どくんと血流が聞こえ、ごうごうという轟音になった。勝の顔が真っ赤に染まった。眼球がふくれあがり舌がつきだされた。しだいに目の前がくらくなる。勝は死を覚悟した。

 と、胸の重みがすっと軽くなった。首にまきつかれていた勇作の両手がなくなっている。

 どうしたんだ、と勝は顔をあげた。

 なんと勇作が踊り場のかたすみにうずくまり、こめかみのあたりを押さえていた。

 その反対側に太郎と美和子がいた。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 はっ、と顔をあげると茜が心配そうにのぞきこんでいた。

「お前……」

「ごめんね、心配できちゃった」

 えへ、と茜は笑顔をうかべた。勝は空中にわたされた一本橋を見やった。

「あれ、わたってきたのか?」

 うん、と茜はうなずいた。勝はなさけなくなった。じぶんがあれほど恐怖した一本橋を妹はかるがるとわたってきている。

 勇作がゆっくりとたちあがった。じろりと太郎を見つめ、ぺっと口の中の血を吐き出した。

「早かったな。よくここまでこれたとほめておこう」

「勇作さん、もうおしまいだ。あんたのやったことはすべてあかるみになっている。美和子さまにすべての財産を返還するんだ」

 勇作は美和子を見た。美和子はその表情を見てはっ、となった。勇作の表情は奇妙にうつろなものだった。

「僕は財産なんかに興味はないよ。美和子さんがのぞむならすべての財産は返還してあげよう。それよりひとつ彼女に聞きたいことがある。美和子さん、あなたは高倉家を再興させるため、あの番長島でのトーナメントに参加した。きみはつぎつぎと敵をうちやぶり勝ち残った。そのときなにか感じたのじゃないか?」

 美和子は唇をふるわせた。勇作の言葉は彼女になにかを訴えていた。

「わたしは喧嘩のためにそれまで修行してきたわけではなかったわ。ましてや高倉家のためとはいえ、トーナメントなんていやだった。でも……つぎつぎ勝負をくりかえしているうち正直それが楽しくなってきたのもたしかよ」

 勇作ははればれとした表情になった。

「そうか、それならいいんだ。ぼくの格好を見たまえ。伝説のガクラン、最強の番長。そんな称号をきみはどう思うだろう。きみは生まれながらのお嬢さまだ。ほんらいなら僕とはまるで接点がない。それを埋めるため僕はきみの財産のすべてをうばった。お父さんが倒れたのは計算外だったが、今ならきみは僕のことを理解できるんじゃないのか?」

「そんなことのために……」

「そうさ! 僕は不器用だ。只野五郎の築き上げた財産を受け継ぎ、緒方財閥を運営しているが結局のところ生まれはただの貧乏人だ。贅沢は身につかず、愛情のしめしかたも知らない。こんなことをするしか、きみにじぶんのことを知らせることはできないんだ。なあ、あらためてきみに求婚する。ぼくの妻になってくれ!」

 美和子はおおきく息をすった。

 そしてゆっくりと首をふった。

「ありがとう、勇作さん。でもその申し出はお断りします。わたしはまだじぶんの将来についてなにも考えることができないの」

 くくくく……と勇作は唇をかんだ。怒りがこみあげてくる。

「そうか、わかったよ! それならきみに財産は返さない! びた一文たりとも渡すものか! 僕がそうだったように、貧乏というものを精一杯あじわうがいい! その前にそこの召し使いをたたきのめしてやる。召し使い風情で僕にこんな恥辱をあじあわせたお前だけは許すことができない!」

 勇作は太郎を指さした。太郎はゆっくりと勇作の前に進み出た。

 ざああっ、と大粒の雨がよこなぐりにたたきつけてくる。ばたばたと勇作のガクランの裾がはためきめくれあがった。

 活っ……。

 青白い稲光があたりを染め上げた。一瞬の間があってばりばりという雷鳴が響き、空気がオゾンくさい、つんとした金臭さがたちこめた。

 ぴしーん、と屋根の避雷針に落雷する。

 勇作はそのなかで口を開き太郎に突進した。

 わめき声も雷鳴のなかではかきけされる。勇作の攻撃を太郎は腕をあげてブロックする。勇作は足をあげ、蹴りをいれた。二度、三度! ふたりの攻防はすさまじく、まためまぐるしかった。

「すげえ……」

 勝がぽかんと口を開いた。あまりのはやさにふたりの手足の動きはかすんで見えた。

 ついに太郎のキックが勇作の胸に炸裂した。勇作はその攻撃をそらすため上体をそらしとんぼをきった。

 がちゃん! 勇作はあやうく屋根にのがれた。四つん這いになり屋根をのぼっていく。太郎はとん、と飛び上がり屋根瓦に足をのせた。勇作はそんな太郎を見ると手足をいそがしく動かしするすると屋根の頂上へ登っていく。

 どぼどぼと滝のように雨がながれおち、屋根をぬらしている。まるで氷のようにすべりやすい屋根瓦に太郎はあやうくバランスをとって立っていた。

 はははは……! 四つん這いのまま勇作は哄笑した。

「馬鹿め! 屋根におびきだされたな! お前のわざも、こんな足場がわるいところでは使うことはできないだろう?」

 太郎は足もとに目をやった。たしかに勇作の指摘はあたっている。太郎はいつもの革靴で、靴底には鋲をうっている。こんな靴ではすぐすべってしまう。勇作はスニーカーだ。靴底はゴム引きでまだましだった。

 位置は勇作のほうが上にいた。その有利な位置から勇作は太郎に襲いかかった。

 ふんばることもできず、太郎は胸倉をつかまれたまま仰向けにたおれかかった。がちゃがちゃと音をたて屋根瓦をすべっていく。

 勇作は太郎の胸倉をつかんだままひきよせ、がんと屋根瓦にたたきつける。がちゃんと音をたて屋根瓦がわれる。さらにたたきつける。もう一度!

「この……召し使い……おれをだれだと思ってる……伝説の番長だぞ!」

 馬乗りの姿勢でなぐりかかる。たちまち太郎の顔が紫色にはれあがった。太郎は身をよじり、両足をはねあげ勇作の背中を蹴った。

「うあ!」

 のけぞり、勇作はごろごろと屋根瓦をころがった。あやういところで屋根瓦につめをたて、ころげ落ちる寸前でとまる。その勇作めがけ、太郎はとびかかった。おたがいの身体をつかみあい、ふたりはごろごろと屋根の斜面を転がり落ちていく。

「あぶないっ!」

 美和子は悲鳴をあげた。

 がちゃがちゃと派手な音をたて、太郎の身体は屋根からすべり落ちた。そのまま空中に飛び出す。が、その寸前太郎は雨樋に手をかけた。ぶらん、と片手でぶら下がる。

 ばきいっ、と雨樋がはずれる。いくら太郎が体重が軽いとはいえ、雨樋は本来そんな荷重に耐えるように造られていない。たちまちとめていたリベットがはじけ飛び、太郎はぶらぶらと左右にゆれている。

 太郎は必死に雨樋をたぐりよせ、屋根瓦に手をかけた。

 勇作はにやりと勝利の笑みをうかべると太郎の手を踏みつけようと足をあげた。

「やめてーっ!」

 美和子はさけび屋根に駈けあがるとそのまま全速力で走った。はっ、と勇作が顔を上げる。美和子はだっ、と飛び上がり両足をそろえキックした。

「ぐあっ!」

 美和子の全力の蹴りで勇作は弾き飛ばされた。屋根瓦をはねとばし、ずるずると滑っていく。

「わああっ!」

 今度は勇作が屋根からすべり落ちた。ひっしになって屋根に指先をかけぶらさがる。両足がぶらぶらとゆれ、勇作はおもわず見下ろした。はじめてその表情に恐怖がうかんだ。

 太郎はなんとか屋根に這い上がった。美和子を見上げる。

「お嬢さま……」

「よかった。さあ……」

 美和子は手をさしのべた。太郎はその手にすがり、立ち上がった。勇作を見る。

「くくく!」

 勇作は脂汗を流し屋根にかじりついている。が、その手はつるつるとすべり、いまにも落ちそうだ。目を見開き、足元を見た。魂をすいこまれそうな高さに、勇作の口から悲鳴が漏れた。

「た……たすけてくれえ!」

 どかどかと屋根瓦をふみしめ、勝が近づいてきた。

「へへへへ……ざまあねえな。あんなにいばっても、命は惜しいってか!」

 にやにや笑いながら見下ろした。勇作は恐怖の表情で勝を見上げた。

「たすけて……たすけて!」

「ほう、さっきはおまえこうしようとしたな」

 勝はひょい、と片足をあげた。勇作はこおりついた。

「これからどうするつもりだったんだ?」

 ぐい、と勇作の手を踏みつけようとする。

「やめてください!」

 太郎が声をかけ、勝は動きをとめた。

「お前、どうする気だ? こいつ、お前を落とそうとしたんだぞ」

「それでもだめです」

 太郎は身をかがめ、手をのばした。勇作の目に感謝の色がうかんだ。がっしりとふたりの手が握り合い、太郎は勇作を救い上げようと全身にちからをこめた。

「う、う、う、う!」

 が、勇作の身体を持ち上げるにはちからがたりない。

 と、太郎の腰を勝がつかんだ。そのままぐいぐいと引っ張りあげる。

「しょうがねえなあ。お前、ひとがよすぎらあ」

 勇作は屋根に引っ張りあげられぜいぜいとあえいでいた。顔色はまっしろである。ぶるぶると手の震えがとまらない。

 勝は勇作の襟首をつかんだ。

「おい、まだやるか?」

 勇作はぶるっと首をふった。すっかり戦意を喪失していた。

 勝は勇作の襟首をつかんだまま引っ立てた。

「さあ、これからお前の悪事をあらいざらい白状するんだ。もうおしめえだ!」

 

 雨は小降りになっていた。

 激しかったが、通り雨らしかった。

 暖炉で薪がぱちぱちとはぜていた。

 勇作のオフィスである。

 勇作はデスクのむこうにすわりこみ、ぐったりとなっていた。全身はぐっしょりと濡れ、ぽたぽたとあしもとに水たまりができている。髪の毛はすっかりみだれ顔にかかっていた。その勇作を太郎、美和子、勝、茜の四人がとりかこんでいた。

「さあ、どうするつもりなんだ。高倉家の財産をすべて返却し、すべてを白状するんだろ?」

 勝が大声をあげた。勇作はうつろな目で顔をあげた。

「なんでそんなこと僕がしなきゃならないんだ……」

 ぽつりとつぶやき、にたりと笑みをうかべる。勝はかっとなった。

「なんだと! お前は負けたんだ! 太郎と美和子に負けたんだ!」

「喧嘩に負けただけだ。ただのなぐりあいに負けて、どうして財産を返却しなければならないんだ?」

 言われて勝はぐっ、とつまった。首をふりつぶやく。

「きたねえ……なんてきたねえやつだ!」

 こうなったら……、と拳をにぎりしめる。

 と、そのときドアを開け部屋にはいってきたのは五郎と洋子だった。

「勝くん、その必要はないよ。証拠はすべて握っている」

 五郎の声に勝はぎくりとなった。

「あんた……」

 勇作は顔をあげた。まじまじと五郎を見つめる。五郎はうなずいた。

「ひさしぶりだな。いったいお前はなにをしようというんだ?」

「なにをって?」

 勇作の顔が妙にあどけないものになっていた。五郎はかれの父代わりになってくれた育ての親である。つい、そのときの癖がでてしまうのだろう。

「美和子さんのことさ。たぶん木戸に命じて高倉男爵に許婚だと吹き込んだんだろう。どうして美和子さんなんだ? 彼女に執着する理由はなんだ?」

 ふっ、と勇作は笑った。

「おぼえてないだろうな。知っての通り、僕は高倉家に奉公していたメイドの息子だ。幼いころ、高倉家で育っている。だから美和子さんともちいさいころ顔をあわせているんだ。そのころから好きだった……。まあ、幼稚園にもあがらないころの話だったから好きといっても今とは違っていたけどね」

 美和子は目を見開いた。

「ある日、木戸が高倉家に雇われてきた。僕と美和子さんはいつものように庭で遊んでいた。そのとき木戸に言われたんだ。お前は召し使いの子供だ。美和子さんとは身分が違う。そのことを忘れるなとね……。僕はわけがわからなかった。それ以来ずっとそのことを考えていた。身分が違うなら、おなじ身分になってやろうと! そして緒方財閥を手に入れた。五郎のおかげだ。美和子さんと結婚すれば僕は男爵位をつぐことができる。緒方家には男子のあとつぎがいなかったからね」

「それは間違いだわ」

 美和子が口を開いた。

 え? と勇作が顔をあげた。

「男爵という爵位は一代かぎりです。お父さまは国への貢献で爵位をいただいたけど、あくまで一代限りの爵位に違いはありません。爵位をうけつぐことができるのは、子爵以上の爵位ですよ。あなたがわたしと結婚しても、爵位はつげないのよ!」

「そうか……。知らなかった」

 勇作の肩ががっくりと落ちた。

「まったく……馬鹿な話だ。これを見たまえ」

 五郎はポケットからいくつかのカセットをとりだした。それを見た勇作の顔色が変わった。

「それは!」

「そうだ。これはこの屋敷にしかけられている監視カメラの映像を保存したテープだ。お前は屋敷じゅうにカメラをしかけ、映像と音声を保管しているな。なかにおさめられているのはお前の取引相手で、おそらくあとの証拠のため隠し撮りをしておいたんだろう。洋子さんがその保存場所に案内してくれたよ」

 勇作は立ち上がった。がたん、と椅子がひっくりかえった。

「きさま! おれの召し使いになったはずだぞ!」

「もうやめたわ。あんたに仕えるなんて、もうこりごりよ」

 洋子は肩をすくめた。勇作の唇がぶるぶると震えている。五郎は手を伸ばし、デスクのボタンを押した。かたり、と天井の蓋が開きテレビが出現した。画面が明るくなり、午後のニュースの映像があらわれた。

「正門に集まっていた記者にこのテープの写しをわたしておいた。ほら、見てごらん」

 アナウンサーが口を開いた。

「ただいまより通常の番組を変更し、緒方財閥の不正行為の証拠をごらんにいれます。なお、この映像は警察庁、検察庁へ提出をすませております」

 画面が切り替わり、隠しカメラの映像になった。カメラは固定で、勇作のオフィスにさまざまな人物が出入りをした。テロップでその人物の名前と、身分が表示される。ほとんどが政財界の大物で、なかには外国の要人もふくまれていた。

「なんとまあ……。わたしは緒方家の財産をふやそうといろいろ努力をしたが、こんな裏取引はやったことがない。そんなことに手をそめればかならず自分に跳ね返ってくるからね」

 勇作はぼうぜんとなっていた。

 そして木戸が勇作に命令をうけている場面になった。まだ高倉家に仕えていたころのもので、木戸はふるくさいタキシードを身につけていた。会話は、木戸に勇作が高倉家の財産を横領するための方策をさずけているところだった。その内容は、あきらかに不正なものだった。

「これで証拠は万全だ。お前がやった不正行為は全国に知れ渡った。お前に緒方財閥をわたすのではなかった……」

 五郎はつぶやいた。

「さあ、行こう。ここにはもう用はない」

 五郎は全員をうながし、部屋を出て行った。

 部屋を出る直前、美和子は勇作をふりかえった。

 勇作はがっくりと肩をおとし、デスクにつっぷしていた。

 

 9

 

 ぱしゃぱしゃと無数のフラッシュがたかれ、記者会見用の金屏風がまぶしく輝いている。

 そこにはあでやかに着飾った美和子の姿があった。

 美和子の両側には高倉家の役員が勢ぞろいし、全員緊張した表情でフラッシュのまぶしさに耐えている。

 記者代表の男が口を開いた。

「ただいまより高倉家のあらたな事業の発表会をおこないます。高倉美和子さんはお父さまの死去にともない、高倉家をつがれました。ご存知のように高倉家は一時破産の憂き目にあいましたが、それも法律上の手続きで間違いがただされ、美和子さんは高倉コンツェルンの代表取締役として役員の満場一致による選出をうけております。まずは代表取締役就任、おめでとうございます」

 美和子はうなずきにっこりと白い歯を見せてほほえんだ。ばしゃばしゃとフラッシュが激しくまたたいた。今日の美和子は唇にルージュをひき、かすかにまぶたにシャドウをいれている。ただそれだけの化粧なのに、まるで人が違って見えた。ほんのりはいたほほの紅が、彼女の白い肌をひきたてていた。

「ありがとうございます。今日はわたしが役員会に提出し、承認をうけたあらたな事業の説明をおこないたいと思います。その事業の名称は……」

 美和子はさっ、と腕をあげた。

 ばさりと天井にまかれていた垂れ幕が会場に垂れ下がった。

 垂れ幕には墨痕あざやかにこう書かれていた。

「番長島トーナメント」

 おお……、と記者たちの間から喚声がおきた。

「番長島でのトーナメントは昨年、緒方財閥によって成功をおさめました。しかしトーナメントの最終日、支障があって最後まで放映されていなかったことにより視聴者のみなさまに不満があったことはたしかです。それで高倉コンツェルンはこのトーナメントをひきつぎ、ふたたび開催しようと決定しました。条件はおなじです。このトーナメントに参加して勝ち抜いたかたには優勝賞金、百万両が渡されます」

 ぱちぱちぱちと盛大な拍手がまきおこった。会場にいるすべての招待客全員が興奮している。

「やったあ!」

 会場に勝の叫び声がひびいた。

 勝、太郎、茜の三人は会場のすみで美和子の発表を見守っていた。

「美和子のやつびっくりさせることがあるからって言ってたけど、このことか!」

「お兄ちゃん、美和子さんでしょ」

 茜は勝の裾をひっぱった。

「いいじゃねえか。とにかくあのトーナメントがまたやれるんだぜ。これで家に帰るのはおくれるな」

「もう……。父ちゃんも母ちゃんも心配しているよ」

「お前がうまく言ってくれよ。おれはまだ帰らないってな」

「知らない!」

 へへっ、と勝は太郎を見た。あいかわらず太郎は静かに美和子の姿を見つめている。

「おい」

「なんですか」

「お前、トーナメントに出るのかよ?」

「え?」

 なぜ、というような表情になる。

「だってよ、お前だってなかなかやるじゃねえか。おれ、お前と手合わせしたいんだ。出ろよ、トーナメントに!」

 太郎は首をふった。

「僕は召し使いですから。美和子さまの世話がさきです」

「ちぇ! つまんねえやつ」

 会場のざわめきが一段落すると美和子は立ち上がった。なんだろうと会場の全員の視線が彼女に集まる。全員の注目があつまったところで美和子は口を開いた。

「みなさん、このトーナメントに出場なさるかたはみな腕自慢のかたばかりです。わたしも前回のトーナメントに出場して、勝負をきめる戦いのすばらしさを知りました。だからこのトーナメントでわたしにふさわしい夫をさがしたいと思っています」

 ぐっ、と美和子は衣装をひっぱった。

 ばさり、と彼女の衣装がはずれ、そのしたからセーラー服があらわれた。

「わたしはこのトーナメントでもっとも強い男のかたと結婚します! 最終決戦でわたしと戦い、勝ったかたを未来の夫とします!」

 会場がどよめいた。

「なんだと……」

 勝はぽかんと口をあけた。太郎を見る。太郎はめずらしく興奮していた。

「おい、いまの聞いていたか?」

 いいえ、と太郎は首をふった。

「おもしれえ……おもしれえ……。考えてみりゃ、あんな美人を嫁さんにできるなんて男冥利につきるってもんだ! よし、きめたぜ! おれ、ぜったい優勝してやる!」

「いいえ、あなたには美和子さんはわたしません」

 えっ、と勝は太郎を見た。

 太郎はまっすぐ勝を見つめた。

「美和子さんの夫は僕です! 僕もトーナメントに出場します!」

 にやり、と勝は笑った。うん、とおおきくうなずく。

「そうでなきゃな! へへっ、おめえと戦うのが楽しみだ!」

 

「聞いたか、妙な具合になったな」

 番長島の洞窟である。

 ラジオから聞こえる美和子の発表を聞いて、只野五郎は眉をあげた。

 あれから五郎はふたたび番長島に帰ってこの洞窟に住み着いていた。もともと財産とか世間に執着はない。すべてがおわり、ふたたび住み慣れたこの洞窟で隠者の生活に戻っている。

 そのそばに勇作がいた。

 かれの不正行為があばかれ、あらゆる特権を剥奪されすべてを失って、いまは五郎と一緒に暮らしている。几帳面になでつけていた髪の毛はいまはぼさぼさにのばしほうだいになり、まっかなガクランはいまはあちこちつぎあてだらけである。いまは洞窟でなにかを鍋で煮ている。ぐつぐつと煮あがったそれを木のスプーンでかきまわし、ときどき味見をしている。

「おれ、トーナメントに出るよ」

 ぼそりと勇作がつぶやいた。

 え? と五郎は勇作を見た。

 勇作はうつむいたままなにかを決意しているようだった。

「聞いただろ、このトーナメントに優勝すれば美和子と結婚できるんだ。おもしろいじゃないか!」

 ふうん、と五郎はうなずいた。

 勇作が逃げるようにこの洞窟にやってきて、いっしょに住まわせてくれと頭をさげてきたときはこいつはもうおわりだな、と思っていたがいまの勇作はかつてのぎらぎらした欲望がふたたびふきだしているようだ。

「いいだろう。やってごらん」

 五郎がそう言うと勇作は顔をあげた。

「頼みがあるんだ」

「なんだ?」

「あんたの息子、太郎の執事の格闘術、教えてくれないか。あんたも知っているんだろう? あの格闘術にはけっきょく勝てなかった。おれはあれを身につけたい!」

 五郎はにやりと笑った。

「そうか……。よし教えてやろう。しかし修行はつらいぞ」

「そんなの覚悟している!」

 ふたりは立ち上がった。

 五郎は勇作の前にたち、みがまえた。

「かかってこい!」

 勇作はわめき声をあげ、五郎にむかって突進していった。

 

 了

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