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スケバン!  作者: 万卜人
1/2

高倉家は破産、美和子は高倉家再興のため、番長島でおこなわれるトーナメントに出場を決意する。彼女をまもるため太郎も同道することになるのだが……。


 1

 

「卒業生代表! 只野太郎」

 よばれて只野太郎は立ち上がった。まっすぐ前に進むと、講堂の壇上にあがる。前を見ると、講堂にずらりとならんだ卒業生がきちんと膝をそろえ、勢ぞろいしている。

 その後ろには二年生、一年生がすわって、さらに父兄の席とつづく。太郎は口を開いた。

「今日、わたしたちは卒業の日をむかえました……」

 以下、父兄と教師たちへの感謝の言葉がつづくがこれは略するほうがいいだろう。たいていの卒業式で話されるのとおなじであるからだ。

 卒業式はとどこおりなく進んだ。

 ここ小姓村こしょうむらでは三月になるというのに、今日は豪雪で講堂の窓の外はまっしろな雪がつもっていた。この村は北の大地にあった。

 卒業式に出席した生徒たちの服装はいわゆる詰襟、セーラー服ではなく、男子はモーニングで女子はメイド服だ。

 扶桑国滝間郡赤岩県小姓村《ふそうこくたきまぐんあかいわけんこしょうむら》。縮尺のちいさい地図などでは記載されていないようなちいさな村である。しかしこの村にある学校である意味有名である。

 この学校はふつうの高校ではなく、執事学校である。つまり執事やメイドになるための学校なのだ。この学校を卒業した卒業生は、さまざまな屋敷へ伺候し、執事やメイドになるのだ。

 卒業の辞を読み上げる太郎の両手はまっしろな絹の手袋につつまれ、きちんとのりのきいたズボンはぴかぴかに磨き上げられた黒靴と調和している。いちぶの隙もない服装は、執事の条件である。

 やがてひとりひとりが卒業免状をうけとり、校長の訓示があって散会となった。

 太郎はやっと緊張から解放され、ほっと息をついた。吐く息がしろい。気温は零下で、講堂には暖房などいれられていない。むろん、教室にも最低限度の暖房しかいれられていない。執事は暑い、寒いなどという理由で休むことはできないからだ。

 講堂を出ようとする太郎の肩をぽん、とたたく手があった。

 ふりむくとメイド服を着たひとりの少女が満面の笑みをうかべて太郎の顔を見つめている。

 山田洋子である。

 彼女は太郎の同級生だった。

「おめでと! やっと卒業ね」

 うん、と太郎はうなずいた。洋子のまるい顔は興奮でピンク色に輝いていた。洋子の笑顔を太郎はまぶしく思った。

「あんた、これからどうすんの? 勤めるお屋敷はきまっているの?」

「ああ、きまってる。大京市の、高倉男爵のお屋敷にはいることになっている」

 まあ、と洋子の口がまるくなった。

「うらやましいわあ! あたし、まだきまっていないのよ。はやく、どこかのお屋敷から口がかからないかしら……」

「きみだったらすぐにきまるよ」

 太郎の言葉に洋子はにっこりとなった。

 天真爛漫な洋子の態度に、太郎のこころはちくりと痛んだ。

 じつは洋子の勤め先がきまらない理由を太郎は知っていたのである。

 洋子の父親が反対していたのである。

 洋子の父は、ここ小姓村でホテルを経営していた。洋子はそこのひとり娘である。父親の山田宗助は、娘に婿をとらせるつもりだった。だから執事学校を卒業したとしても、大京市の屋敷に勤めさせるつもりはなかったのである。卒業生が屋敷につとめるには親の同意が必要となる。父親は洋子に内緒で、学校から紹介された勤め口を片っ端から断っていた。

 なぜそんなことを知っていたかというと、じつは太郎の母親は山田宗助のホテルでメイドとして働いていた。母親は宗助に信頼されていて、洋子のことも聞かされていたからである。

 小姓村になぜ執事学校が開かれたかというと、もともと山田宗助がここにホテルをつくったことにあった。冬はここは豪雪地帯になるが、夏は絶好の避暑地となる。夏には大京市から避暑に企業の幹部や、爵位をもつ人々があつまり、やがてかれらのあいだでよい執事やメイドがほしいという要求がここに執事学校を開設するということになったのである。したがって卒業生の就職先も、山田ホテルを通じることになる。その洋子の父親が彼女をメイドとして就職させることに反対しているのだから、無理なことだ。

 太郎は講堂の外へ出た。

 いきなり舞い散る雪に太郎と洋子の全身はつつまれた。

 と、傘が差し出され、雪からふたりをまもってくれた。

 傘を差しのべたのは太郎の母だった。

「おめでとう」

 母は今日は着物を着ていた。

 太郎はうなずき、洋子と肩をならべて校庭へ出た。校庭にも雪がつもり、校舎のちかくに植えられた桜の木はまだ芽さえなく、さむざむとした姿をさらしている。まだこの地方では来月にならないと満開の桜というわけにはいかない。この桜が咲くころは太郎はすでに大京市の屋敷に勤めているだろうから、卒業あとの桜は見ることはできないわけだ。

 校庭には卒業生が三々五々、父兄と一緒に帰宅の途についていた。

 校門にでると一台の高級車が停まっていた。ボンネットはまるくふくらみ、煙突がつきだしている。煙突からはもくもくと大量の煙がふきだしていた。蒸気のちからで走る蒸気車である。この村、ただ一台の自家用車であった。

 がちゃり、と後部ドアが開き、なかからでっぷりと太った紳士が顔をのぞかせた。

「パパ!」

 歓声をあげ、洋子はおおきく開いた紳士の腕のなかに飛び込んだ。洋子の父親の宗助である。

「卒業おめでとう、洋子!」

 洋子はうなずき、宗助のとなりに腰をおろした。そして太郎と太郎の母をふりむき声をかけた。

「太郎、送っていくわ。ね、パパ。いいでしょう? こんな雪だもの。一緒に乗せていってよ」

 宗助氏はうん、とうなずき手招きをした。

「ふたりとも乗りなさい」

 礼を言って太郎と母親は高級車に乗り込んだ。後部座席はひろく、六人が向かい合わせに座れる。前部の運転席のあいだにはしきりガラスがあり、ふたりが乗り込むと宗助氏はマイクをつかって運転手にやってくれと命じた。運転手はうなずき、ハンドルをにぎり、車を発車させた。

 高級車はすべるように走り出す。タイヤにはチェーンがまかれ、がちゃがちゃと騒音をたてた。雪が正面から吹き降り、ワイパーがせわしくなく回転した。

「ねえパパ。太郎は大京市の高倉男爵のお屋敷に勤めることになったんだって。どうしてあたしには口がかからないの」

 洋子につめよられ、宗助氏は困った顔になった。彼女を勤めさせる気はないことをまだ言っていないからだ。太郎と母親はふたりの正面の席にきちんと膝をそろえ、静かにすわていた。

「ねえ、教えてよ。パパのところに大京市のいろんなお屋敷から紹介の手紙がくるんでしょう?」

 宗助氏は息をつめ、なにかを決意したようだった。

「お前には勤めさせる気はないよ」

 なんですって……!

 洋子は目を丸くした。

 宗助氏は言葉をかさねた。

「考えてみろ。おまえはわたしのホテルのたったひとりのあととりだ。そのお前がふらふら大京市へいったら、ホテルはいったいだれが継ぐんだ。おまえは婿をとって、わたしのホテルを継ぐんだ」

 洋子は真っ赤になった。ふたつの目に涙がたまる。

「ひどいわ……。それじゃパパがあたしのところへ来る紹介状を握りつぶしていたということじゃない。どうしてあたしを執事学校にいかせたのよ!」

「ホテルの経営に執事学校でならったことは役に立つと思ったからだ。なにしろ客商売だからな。大京市のお金持ちや爵位をもつ主人につかえるのと、ホテルのお客にじゅうぶんなおもてなしをするのは同じ事じゃないか」

 違うわ! と、洋子はさけんだ。

 両手で顔をおおうとひいーっ、と泣き始めた。宗助氏は憮然とした顔でいる。

 車は山田ホテルの玄関に近づいた。

 雪の中、ホテルの全景が見えてきた。古典様式の、ふとい列柱が前面に特徴的な建物であった。いまはシーズン・オフでホテルには客はほとんどいなかった。

 車が停車すると太郎と母親は宗助氏に礼をいって車から降りた。洋子はまだ泣いている。父親の宗助氏は腕をくみ、黙っていた。

 ふたりの住んでいるのはホテルに隣接している従業員宿舎だった。車がホテルについたころは雪もやんでいて、ふたりは雪がつもったホテルの前庭からまわって宿舎へ帰った。

 ふたりにあたえられているのは二間と台所、そしてちいさな浴室がそなえられている部屋である。部屋にはほとんど家具らしい家具はなく、太郎がつかっている勉強部屋には粗末なすわり机があるだけだった。机のうえには太郎が使っていた教科書がきちんと積み重ねられている。教科書のタイトルを見ると執事学校で教えられている教授内容が推測される。

 礼儀作法の本が置かれているのはもちろんなのだが、国語、歴史、数学、英語などふつうの教科の本もある。さらに格闘術の本があるのが目を引く。なぜなら執事の主人になる人間はたいてい社会的に重要な位置にいるものが多く、そういう人間は暴漢におそわれる可能性もあるからだ。したがって執事の教科課程には、主人を守るための格闘術も教えられる。主として合気道のようなものだが、主人を守ることに主眼がおかれているため特殊なものになっている。たとえば銃にねらわれたとき主人の盾となって犠牲になるというような心得も教えられる。

 太郎はここで母親と二人暮しである。

 父親はいない。

 太郎がものごころつくころはすでにふたりだけで、なんどか母親に父親について質問したのだが母は言葉をにごしていた。

 やがて太郎もそういうものだと思いはじめ、父親のことを母にたずねるのをやめていた。

 ふたりは四畳半にきちんと正座して相対した。母親はふところから一通の手紙をとりだした。

 まっしろな、刺繍のついた封筒である。封蝋があり、未開封であった。

「高倉男爵のお屋敷からとどいた手紙。まだ封はきっていないから、おまえお読み」

 うん、とうなずくと太郎は母親から手紙を受け取ると机の引き出しからペーパー・ナイフをとりだし封をきった。

 なかからは男爵邸からの紹介状があり、地図と汽車の切符が同封されていた。切符は一等席が予約されている。

 いよいよお勤めだ。

 太郎の胸にあらたな希望がふくらんだ。

「高倉様のお屋敷にはおまえの父親が勤めていたのよ」

 母親の言葉に太郎ははっ、となった。

 彼女の口から父親のことが出てくるのは今日がはじめてだ。

「父さんが?」

 母親はうなずいた。

「あたしも高倉様のお屋敷で勤めていたのよ。それで父さんとであって……」

 母親はきちんと膝においた手に目を落として話していた。

「お父さんは高倉様のお屋敷で筆頭執事まで昇進して、当時は最高の召し使いと言われたわ。だからおまえに高倉様から勤めるよう紹介状がきたのよ。おまえが高倉様に勤めることになったら、父さんのことを聞かれるかと思って話すことにしたのよ」

 太郎はゆっくりとうなずいた。

「わかった。ぼくも父さんに負けないようがんばるよ」

 母親の目はうるんでいた。今日、はじめて見せた彼女の表情であった。

 太郎はたずねた。

「それで父さんはいまどこにいるの?」

「おまえが生まれたころ死んだよ」

 母親はそう言うと顔をそむけた。太郎はなにかほかのことを聞きたいとおもったが、彼女はそれ以上言う気はなさそうだった。

「そう……」

 太郎はあきらめた。

 

 翌日、太郎は汽車の車中にあった。

 駅のホームは太郎と同じく、大京市やそのほかの都市のお屋敷に勤めることになった執事やメイドの卵が汽車に乗るため混雑していた。小姓村のこの駅が込み合うのは執事学校が卒業生をおくりだすこの時期である。ホームでは息子や娘をおくりだす両親と、いまから勤めに出る執事やメイド服の卒業生が最後のわかれをおしんでいる。

 列車の先頭の気動車からは、しろい蒸気ともくもくとした黒い煤煙がさかんに噴きあがっている。燃料の石炭の品質がわるいのか、かすかに硫黄くさい匂いが漂っていた。

 太郎はただひとり、汽車の一等席にすわっていた。母親はこなかった。ホテルの仕事があったからだ。

 洋子はこなかったな……、と太郎は思った。

 あのあと洋子は父親とどんな話をしたのだろう。聞くところによれば洋子の母親も父親とおなじ意見だそうだ。両親が反対しているからには、彼女が大京市のお屋敷に勤めることは不可能である。太郎は母親がホテルの従業員であった関係で幼なじみだった。学校でもっとも親しくしていたのは彼女であり、だから出発のとき見送りにくるのではないかと淡い期待もあったのだが、やはりくるはずもなかったのである。

 ぴりりりり……。

 駅員が笛をふき、ぴいーっ、と汽笛がさけぶ。

 ごっとん、と汽車が揺れ、走り出す。

 ゆっくりと駅のホームが窓の外、後ろにながれ、見送りの父兄が手を振っていた。

 やがてホームがとぎれ、小姓村の雪景色となった。

 この日、前日の雪はやんですっかりと晴れ上がり、真っ青な空に雪景色がしろく輝いていた。

 太郎は窓のガラスをふいた。車内は暑いくらいに暖房がきいていて、ガラスはふいてもふいてもすぐ曇った。

「ここ座ってもいい?」

 声をかけられ、太郎は硬直した。

 この声はまさか……。

 顔をあげると洋子の姿があった。

 両手におおきなバッグをかかえている。

 太郎が答える前に洋子はとなりに腰をおろしていた。

「どうしたんだい」

 ぼうぜんと太郎は口を開いた。洋子は悪戯っぽく舌をだした。

「黙って出てきちゃった。あたし、どうしてもメイドになりたいんだもの」

「黙って出てきたって……、それじゃきみのお父さんとお母さんは?」

「知らないわ! あたし、ホテルを継ぐ気はないもん」

 彼女はすまして答えた。

 ああそう……、と太郎は答えるしかなかった。洋子の頑固さは子供のころから知っていた。いったん言い出したら最後、洋子はじぶんの決心を翻したことはない。

 洋子は足もとにおいたバッグの口を開き、なかから蜜柑をとりだした。

「ね、食べる?」

 いいよ、と太郎は断った。ああそう、と洋子は蜜柑の皮をむきはじめ、房を口にほおりこんだ。もぐもぐと口を動かしながら太郎に話しかけた。

「ねえ、あんたの勤め先の高倉男爵さまにあたしのこと話してくんない? あたしもそこに勤めたいんだ!」

「そんなこと、できるわけないよ」

 ケチねえ……、と洋子は肩をすくめた。太郎は彼女のことが心配になった。

「いったい黙って出てきて、これからどうするつもりなんだい?」

「あんたが紹介してくれないなら、あたしはあたしでなんとかするわよ。大京市には職業安定所ってのがあるでしょ?」

「でも、きみは未成年だぞ」

「なんとかなるわよ」

 自信満々に洋子はこたえる。まるっきり、へこたれる様子はなかった。

 

 窓の外の景色が一面の雪景色から緑の芽吹く春の景色になった。汽車は一週間走り続けた。夜になると乗車係がまわって客席の椅子をベッドに仕立ててまわる。太郎と洋子は二段ベッドの上下で就寝した。朝昼晩と太郎と洋子は食堂車で食事をとった。途中、太郎の同級生は乗り換えのため汽車を降りていき、残ったのは太郎と洋子だけだった。なんどかトンネルをくぐると春らしく、点在する桜が満開の花吹雪を散らしている。やがて家々が密集しはじめ、都会の景色となった。

 旅の間、洋子は息も継がせず喋りまくった。都会についたらすぐ就職先をさがすこと、そしてメイドになったら最高のメイドになって見せることなど将来の希望を途切れなく話した。太郎はただ、聞いているだけだった。

 都会に出るのははじめてであるが、それでも洋子の話すことはあまりにも希望的観測がおおいことはわかった。もしも、という要素がおおすぎるのである。太郎はほんとうに彼女のことが心配になっていた。

 建物は二階建て、三階建てがおおくなり、やがて一面に十階以上のビルが立ち並ぶ景色となる。車内を車掌がまわり、あと数分で駅に到着することを連呼し始めた。乗客は思い思いに荷物を手に、ざわざわとしはじめた。

 ごとん、ごとん、と汽車の速度が遅くなり最終駅に到着した。

 さすがに都会の駅だなあ、と太郎は思った。

 見上げると鉄骨の天井がアーチになっていて、ホームにもいままで見たことがないほどの人々が行き交っている。太郎と洋子は肩をならべて駅のホームに降り立った。同級生のほとんどはその前の中継駅におりていて、ホームに下りた学校の卒業生はふたりだけだった。

 汽車はもくもくと煙をあげ、ホームの煙だしから煤煙が吸い込まれていく。天井には明り取りの窓があり、しろい陽光が何本もななめに差し込んでいた。

「なあ、やっぱりきみの両親には連絡したほうがいいよ。これからぼくは高倉男爵のところへ行くんだけど、一緒にこないか? 男爵に頼んで、きみの家に連絡してもらうから」

「いいわよ! あんたの世話にはならないわ!」

 憤然として洋子はこたえた。

 くるりと背を向けると両手にバッグをかかえ歩き出す。

 彼女の背に太郎はさけんだ。

「かならず連絡してくれよ!」

 洋子は振り向きもせず、さっさと人ごみに消えた。太郎はあきらめて肩をすくめた。

 駅を出ると太郎は立ちすくんだ。

 これが大京市か!

 目の届く限り背の高いビルが立ち並んでいる。ビルの間に見えるのはあれは高速道路だろう。あらゆるところに人が群れている。そして車の数!

 太郎はその車のおおくが内燃機関であることに注目した。小姓村でただ一台の車は山田宗助氏がもっていたあの高級車であるが、ここには道路という道路を車がうめつくしている。その多くがガソリンを燃やす、内燃機関であった。山田宗助氏所有のあの車は蒸気エンジンで動く。太郎の鼻はガソリンが燃えるにおいをかぎとっていた。これがガソリンのにおいか……。

 太郎はバス停に急いだ。

 地図にはバスに乗るよう指示があったのである。

 

 バスをおり、太郎は手に持った地図を確認した。

 高倉邸はたしか、このあたりのはずである。

 所番地をたしかめ、ゆっくりと歩く。

 駅前の騒々しさとくらべ、このあたりは静謐が支配している。かつてはこのあたりは旧幕府の旗本が住んでいた地域で、いまはお屋敷町になっていた。ひとつひとつの屋敷の敷地はひろく、閑散としていた。

 ようやく太郎は目的の屋敷を見つけた。

 巨大な石造りの門が太郎の行く手に立ちはだかっていた。鉄製の門扉は閉まっていた。

 手紙には門柱のボタンを押すよう指示されていた。

 それを探し当てると近づいた。

 指を押し当て、まつ。

 と、ボタンのうえの四角い窓が明るくなって、そこに人の顔がうかんだ。

 黒縁の眼鏡をかけた、長い顔の男である。男はじろりと太郎の顔を見つめた。

「だれかね?」

 太郎は息をすいこんだ。これがテレビジョンか……。話しには聞いていたが、目にしたのははじめてである。

「只野太郎ともうします。このお屋敷に執事見習いとしてまいりました」

 男はうなずいた。

「ああ、話は聞いている。はいりなさい、いま門を開ける」

 がちゃん、と音を立て鉄製の門扉が開いた。どこかでモーターのうなる音がする。

 太郎の目の前に高倉男爵の屋敷が姿をあらわした。

「さあ、ぐずぐずしないで中にはいりなさい」

 スクリーンの向こうで男が指示した。太郎はうなずいて屋敷に足を踏み入れた。

 ふたたびモーターの音がして門扉が閉じはじめた。門に押されるようにして、太郎は歩きはじめた。

 ざくざくざく、と足もとの砂利が音をたてる。屋敷への道にはこまかな砂利が敷き詰められている。はるかむこうに三階建ての建物が見えていた。やや黄色がかった石造りの建物である。太郎は歴史の授業で習ったフランスのベルサイユ宮殿を思い出した。道の両側には芝生と、きちんとかりこんだ木々が生えていた。

 建物の正門が開き、さきほどの眼鏡の男が待っていた。

 太郎が近づくと男はじろりと太郎の全身をながめた。男の背はゆうに二メートルはあり、その高みから見下ろしている。太郎は見上げる格好になった。

「わたしはこの屋敷の執事頭の木戸だ。今日からおまえの面倒を見るよう、だんな様に命じられている。ついてきなさい!」

 そう言うと、さっさと背をむけて歩き出した。太郎はあわてて男の背後について歩き出した。正門から屋敷の内部にはいり、応接間から廊下へ出る。廊下は広々としていて、窓からはななめに日差しが差し込んでいた。廊下の壁には無数の油絵がかけられ、天井からはシャンデリアが下がっている。

 かつかつかつ、と木戸と名乗った男は革靴の靴底をひびかせ早足で歩いていく。靴底には鋲がうっているらしい。やがてひとつのドアの前に立ち止まった。

 どっしりとした樫の木の一枚板でできたドアである。木戸はドアのノッカーをたたいた。

 おはいり、という声がして、木戸はかるく頭を下げると両手でドアを開いた。

 暖かな空気が室内から押し寄せた。窓側に暖炉がしつらえ、炎がゆらめいていた。

 そのちかくに巨大な事務机があり、ひとりの老人が鵞ペンをはしらせていた。老人は車椅子にすわっていた。

「ああ、ちょっと決済しなければならない書類があるから待っていてくれ」

 老人は片手で応接セットを指し示した。太郎は木戸を見上げると、木戸はかるくうなずいた。指し示された応接セットの椅子に太郎はそろりと腰をおろした。

 その老人はそうとうな年令らしく、頭のはんぶんはきれいに禿げ上がり、そのまわりをとりまいている髪の毛はすっかり白くなっていた。鼻のうえにはちょこんとまるい老眼鏡がのっていて、ペンをはしらせながらときどき老人は眼鏡の位置を直していた。

 さらさら、さらさら……

 ペンのはしる音が室内に響いている。

 数枚の書類に署名を書き終えた老人は、書類を箱におさめるとペンをおき、両手を組み合わせ顔をあげた。木戸が老人のうしろにまわり、車椅子を押して部屋の真ん中に移動させた。

「待たせてすまなかったね。きみが只野太郎くんか」

 さっと立ち上がった太郎は老人の前に進み出ると片膝をつき、頭をさげた。

「お目にかかれて光栄です。高倉男爵とお見かけします」

 うん、と男爵はうなずいた。

「きみのお父さんの只野五郎くんのことは覚えているよ。わたしがまだこんな車椅子のやっかいにならなくてもいいころ、仕えてくれたが、とても優秀な執事だった。きみもそうなるといいんだが」

「努力いたします」

「さてと、これから例の儀式をしなくてはならないんだが……。しかし儀式をするのはわたしではない」

 え? と、太郎は顔をあげた。

 太郎の顔を見て、老人はにっこりと笑い木戸を見た。木戸はうなずいた。

 つかつかと部屋の一方に歩いていくと、続き部屋へのドアを開いた。

「お嬢さま、お父さまがおよびです」

 はい、と返事がしてひとりの少女が室内にはいってきた。

 ぱっ、と室内に花がさいたようだった。

 上から下まで白づくめの衣装に身をつつんだ少女がはいってくる。髪の毛はながく背中まで達している。肌は磁器のような白さだった。

「娘の美和子だ。儀式は娘とやってもらいたい。美和子、こちらが只野太郎くんだ」

 美和子とよばれた娘はかるく頭を下げ、太郎を見つめた。

 卵形の顔にはっとするほどおおきな瞳の少女である。化粧はまったくしていないのに、唇は朱をさしたように赤い。

「美和子は今年十六才でね、きみとひとつ違いだ。おなじくらいの年頃だから、むしろ儀式は娘にさせたほうがいいと思ったんだ」

 太郎は娘の前に進み出るとふたたび片膝をついた姿勢になった。

「お嬢さま、只野太郎でございます。あなたのしもべとさせていただきたくお願い申し上げます」

 くすくすと娘は笑った。笑いながら片手をのばし、太郎の頭にちょこんと触れた。触れたとたん、すぐひっこめる。

 男爵はにっこりと笑いをうかべた。

「さあ、これで忠誠の誓いは終わった! 今日からきみはこの屋敷の召し使いだ」

 はっ、と太郎は頭をさげた。

「ありがとうございます! だんな様、お嬢さま、そして高倉家のお家族のみなさまのため忠誠をつくします」

 これで只野太郎は高倉家の召し使いとして認められたのである。

 忠誠の誓いは、あらたな召し使いが奉公にあがると同時に屋敷の主人とかわされる儀式である。これによっておたがい、主人とその召し使いとしての自覚を得るのである。

 太郎の執事としての人生がはじまったのだ。その日、太郎は母親に手紙を出した。

 

 2

 

 執事の仕事は無限にあった。

 といっても太郎は見習いであるから執事というよりした働きにすぎない。最初は窓の開け閉めからはじまった。

 高倉家の屋敷は広大で、部屋数は百をこえる。その部屋の窓を朝起きるとひとつひとつまわって開け放つのが仕事である。なぜなら窓をしめきりにしておくと空気がこもり、家具や柱にわるい影響がでるからである。

 すべての窓を開け放ったころ昼過ぎになる。そしてつぎは窓を閉める作業になる。こんどは窓を閉め終わるころ日が暮れるのである。そんな作業を数日続けたあと、ようやく執事らしい仕事があたえられた。

 つぎにあたえられた仕事は手紙の運搬であった。高倉家には毎日大量の手紙が届けられる。たいていは高倉家の財産に関する報告書で、男爵は朝一番にそれらの手紙に目を通し、承認のサインをするのである。

 郵便局差し回しの車は毎朝、数個の袋いっぱいの手紙を届けにくる。それを受け取り、男爵へ運ぶのが太郎の仕事だった。男爵は承認を要する手紙を選ぶと、午前中いっぱいをつかってそれらにサインをする。あるとき男爵は太郎に話しかけた。

「まったく毎日、毎日サイン、サインだ。いいかげん、わしの署名など必要ないようにしてくれんかな」

 太郎が黙っていると男爵は続けた。

「ほんらいはわしの署名など必要ないんだよ。わしはほとんど引退している身だからね。これらの書類はわしが後見している会社の決裁書だ。そろそろこういう書類仕事から解放してくれないと困る……」

 ぶつぶつとつぶやきながら男爵はペンをはしらせた。どうやら男爵は書類にペンをはしらせるだけで、中身はほとんど読んではいないようだった。

 ひとしきり署名をおわると、その書類は太郎が木戸の元へもっていく。木戸はうけとり封筒に入れて返信にまわす。朝まわってくる郵便局の車が手紙のたばを届けるさいに受け取る手はずになっているのである。受け取った太郎がそれを持って木戸の事務室にもって部屋を出ようとすると、男爵は太郎をよびとめた。

「待った。明日、娘の美和子が入学式なのは知っているかね」

 は、と太郎は頭をさげた。彼女は明日、都内の師範女学校に入学する予定であることは木戸から聞かされていた。

「わしはこんな体だからね、入学式に出席はできない。かわりにきみについていってもらいたいんだよ」

 老人は車椅子の車輪をたたいた。

 太郎はぽかん、と口を開けた。

「ぼくが、ですか?」

「そうだ。これからはわしについてまわるより、美和子についてあれの世話をしてもらいたいんだ。なにしろこの屋敷には娘とおなじくらいの年令の友達はひとりもいない。メイドはいるにはいるが、みんな母親とおなじくらいの年頃ばかりだ。きみが娘についてくれれば安心だ」

 太郎はうなずいた。執事の誓いはその家の娘との恋愛感情を禁じている。いくら年令が近いといっても、太郎は召し使いの身分をこえることはない。それは執事学校の教えに反し、徹底的に教え込まれることだ。つまり美和子にとってはもっとも安心できる存在であるわけだ。

「わかりました」

 太郎は答えた。

 

 その日から太郎は美和子付きとして屋敷のほかの召し使いに申し送りをされた。もちろんこの屋敷には太郎や木戸以外に多数の召し使いがいる。太郎が最初にすることになった窓の開け閉めもそんな召し使いのひとりの仕事だった。太郎以外の召し使いは、召抱えられて十年、二十年とたつベテランばかりで、太郎のような年令の召し使いはひとりもいなかった。

 木戸とともに美和子のもとに連れて行かれると、彼女は手をたたいてよろこんだ。

「すてき! あたし、太郎さんとはいいお友達になれそうね。よろしくお願いね」

 はい、と太郎は頭をさげた。

 それから太郎は朝起きると美和子のもとへ参上し、彼女のあとをついてまわることになった。

 女学院への通学は、木戸が屋敷の車を運転して送り迎えをする。屋敷の車は蒸気車だった。たいてい、上流階級の車は蒸気車であるのがふつうである。内燃機関の車は、上流階級の家庭には普及していない。なぜなら内燃機関の車は騒音がひどく、またガソリンが燃えるにおいがきらわれるからだ。発進が容易という内燃機関の利点は、上流階級にはあまりアピールしない。蒸気機関の欠点は、ボイラーを温めておかないと機関を動かすことができないことだが、上流階級の人々の予定はふつう数週間、あるいは数ヶ月さきまでびっしりとうまっていることがふつうで、その予定にあわせて車を整備しておけるから静かな蒸気機関の車を利用することを好む。

 木戸の運転で、美和子と太郎は後部座席にならんですわる。運転中、美和子はさかんに太郎に話しかけるのだが、太郎は必要最低限のことしかこたえないようにしていた。

 あるとき美和子は太郎にこう話しかけた。

「まったく、あなたってあたしがなにを言っても”はい”か”いいえ”しか言わないのね」

 運転席の木戸は美和子の不満にこたえた。

「それが召し使いの心得です。分を越えた発言は、執事になる教育で厳しく制限されております」

 美和子はむっ、となった。

「でも、あたしは太郎さんを召し使いなんて思っていませんわ! お友達と思っているのよ」

 太郎はこたえた。

「お嬢さまのそのお気持ちだけで十分でございます。わたしはつねにお嬢さまとお家族の召し使いであることを忘れたことはございません」

「もう……」

 美和子はぷっ、とふくれそっぽをむいた。あとで木戸に太郎は美和子への答えをほめられた。

「あれでいい」

 木戸は肩をすくめた。

「召し使いはあまりでしゃばらないことがかんじんだ。お嬢さまはああいうご性格だから、われわれにも友達のように接してくださるが、おまえはつねにじぶんが召し使いであることを忘れてはならんぞ」

 はい、と太郎はこたえた。

 女学院へ美和子が登校すると太郎は学院の召し使い部屋へ通される。そこには美和子とおなじように召し使いを同道した同級生の執事や、メイドたちがひかえていた。そこで一番若いのはやはり太郎だった。ほかの召し使いはほとんど老人であった。かれらは太郎がやってくるといちように歓迎した。

「あんた、小姓村出身だってね?」

 召し使いのなかで最長老の老人が太郎に話しかけてきた。太郎はうなずいた。

「そうかい。小姓村の執事学校出身者は、この業界で多いんだよ」

「間宮さんは?」

 老人は間宮健一といい、執事になって五十年だという。間宮老人は首を振った。

「いいや、あたしは父親が執事だった関係で、親爺にしこまれたんだ。むかしはたいていそうだったね。只野太郎さんと言ったね。もしかして只野五郎とはなんか関係あるのかね?」

「ぼくの父親です」

 太郎のこたえに間宮老人は目をまるくした。そしてほかの召し使いたちも、ふたりの会話を黙って聞いているだけだったが耳をそばだてていた。

「間宮さんは父さんのことをなにか知っているんですか」

 老人はややあわてた様子だった。

「ん、いや……。知っているとも。うん、知ってるよ。なにしろ最高の召し使いだったからね」

 どういうことだろう? 太郎は思った。父親の話が出ると、みないちようにこういう反応が返ってくる。なにか太郎の父親で話したくないことがあるのだろうか?

 召し使い部屋には一台のテレビの受像機がおいてあった。太郎はそんなものを見たのははじめてだった。ためしにだれもいないとき、こっそりスイッチを入れてみたことがある。とたんに騒々しいバラエティ番組がはじまり、太郎はあわててスイッチを切った。こんなもの、だれが見るのだろうと思った。そういえば、美和子と登校するとき、車の窓から家々に無数のアンテナが林立しているのを見て不思議に思ったことがある。木戸に質問すると、あれはテレビのアンテナだと教えられた。木戸はさも不愉快そうに、あんなものを見るのは平民だけだとはきすてたものだ。

 そういうものかと思っていたが、それでも太郎はこっそりとだれもいないとき召し使い部屋でテレビを楽しんだ。

 授業が終わると放課後である。しかしまだ帰れない。美和子の課外活動があるからだ。美和子は女学院で合気道や弓道などの武道を習っていた。もちろん華道や茶道、書道なども習うので、彼女の自由時間というものはほとんどない。もっとも上流階級の子弟というものは例外なくそういうものを習っておかないと、社交界で恥をかくからである。

 夕暮れ近くなってようやく美和子の課外活動の時間がおわり、木戸が車を運転して女学院の門の前にやってくる。美和子と太郎は乗り込み、帰宅する。

 毎朝、太郎は美和子を起こしにかかる。寝室にはいり、美和子をおこし、洗面器にぬるま湯を用意する。美和子は洗顔し、歯を磨き朝食となる。太郎は屋敷の調理場から美和子の朝食をささげもって給仕をする。

 彼女の朝食がおわるころ郵便局の車がやってくる。太郎は郵便物をうけとり、昨日まで男爵が決済した書類を封筒にいれたものを局員にわたす。

 ある日のことだった。太郎はいつものように朝の郵便をうけとり、男爵にとどける決裁書の封筒をよりわけていた。決裁書の封筒には男爵家の家紋が印刷されているから見分けがつく。そのなかに見慣れない印刷の封筒があり、いつものように別にしようとしたところ、木戸が口をはさんだ。

「ああ、それもだんな様にお渡しして、署名をいただいてくれ」

「でも、これは決裁書の封筒ではないですよ」

「いいんだ! ともかくだんな様の署名をもらえばいいようになっている」

 木戸はむっとなって命令した。太郎は内心首をかしげつつもその封筒を男爵に届けた。

 男爵はいつもと違う封筒がまじっているのに気づき、太郎に質問した。

「これは?」

「木戸がだんな様に署名をいただくよう、命じられました」

 ああそうか、木戸がね……、と男爵はさらさらといつものようにペンをはしらせた。太郎はその書類を一緒にまとめ、木戸にわたした。

 太郎は木戸が書類の束をうけとるとかれの仕事部屋(木戸は執事頭という地位により屋敷で専用の部屋をあたえられていた)からさがるときふりむいた。木戸はあの書類をさっとふところにしのばせていた。

 そんな生活が一月も続いたころ、彼女に来客があった。

 その日は日曜だった。

 太郎は木戸に命じられ、庭の草むしりをやっていた。

 門の外に車が停まる音がして太郎は顔をあげた。

 まぶしいほどぴかぴかに磨き上げたてられたまっしろな塗装の車が停まっていた。金のラインが車体にはしり、ボンネットには銀製のマスコットが輝いている。運転手は女だった。後部座席には若い男とその召し使いらしい老人がならんでいた。老人はドアを開けると門の呼び出しボタンを押し、門番となにやら会話をかわした。やがて鉄製の門扉が開き、車は屋敷内にはいってきた。

 正面ドアの前に車は停車すると、あの若い男が外へ出てきた。ドアが開き、木戸をはじめ屋敷の召し使いが勢ぞろいをして若い男を出迎えた。男は太郎とおなじくらいの年頃だった。背は高く、頭ひとつくらいは太郎より高い。着ている服は詰襟で、色は目を奪うほどの真紅だった。詰襟の服はコートくらい長く、膝丈まであった。髪の毛は金髪に染め、それをリーゼントにしていた。男が屋敷にはいるとき、その背中が見えた。背中には金色の刺繍で”男”という文字が描かれている。

 太郎は目を見張っていた。

 若い男に注目していたわけではない。車を運転していた女の運転手を見ていたのである。

 運転していたのは山田洋子だった。

「ひさしぶり」

 太郎が駐車場に近づくと彼女は気づいて声をかけてきた。洋子は車体に羽箒をかけ、ほこりをはらっているところだった。

「ああ、ひさしぶりだね。運転手になったんだね」

 洋子はうなずいた。

「紹介所を見つけて、あのお屋敷にメイドとしてはいれたの。でもあまりメイドの仕事はないから、思い切って運転免許をとって、運転手の仕事をさせてもらっているのよ。どう、この服にあってる?」

 彼女は運転手の制服の胸をはった。太郎はうなずいた。

「ああ、にあってるよ。ところでご両親に知らせたのかい」

 洋子は口を真一文字にむすんだ。

「知らせてないわ。知ったら、お父さんきっとやってきて連れ戻そうとするにちがいないもの。ねえ、太郎。あんた、手紙なんか書いちゃいやよ。あたしまだまだ一人前のメイドになってないんだから。一人前のメイドになったら村に帰るから、それまで知らせないでね」

「わかった。ところできみのご主人はなんてひと?」

「知らないの? いやーだ! 肝心なことであんた、なにも知らないのね。あのかたは緒方勇作さまといって、ここの一人娘の美和子さまの許婚よ!」

 どきん。

 太郎の心臓がはねあがった。

「なんだ、こんなところにいたのか」

 背後から木戸の声がして、太郎はふりむいた。木戸は不機嫌そうな顔つきで立っている。

「お嬢さまがおよびだ。すぐこい」

 はい、と太郎はこたえ洋子にちらりと目をやると駆け出した。

「あまりほかのお屋敷の召し使いと仲良くなるのは考え物だぞ」

 さきにたった木戸はあたりにだれもいないのを確かめ怖い顔でそう言った。

「わかってます。彼女はぼくと同郷なんです」

「なんだ、そうか……。まあいい。お嬢さまがお前を紹介したいと言ってな。それで呼びにきたんだ。お客は緒方勇作さまとおっしゃって……」

「許婚なんでしょう?」

「なんだ、知っていたのか。まあ、そうだ。緒方財閥のあととりだよ。さあ、こちらだ」

 来客用の部屋に美和子と父親の高倉男爵、そして緒方勇作とその執事がひかえていた。木戸にともなわれ入室した太郎を、勇作が正面から見つめてきた。

 勇作はにっこりと笑いかけた。

「やあ、ぼくは緒方勇作。美和子さんの許婚だ。きみが彼女の身の回りの世話をしていると聞いて、一度お目にかかりたいと思ったので呼んでもらったんだ」

 そう言うと勇作は右手をさしだした。太郎は進み出て握手をかわした。

「只野太郎といいます。お目にかかれ、うれしく思います」

 勇作はじっと太郎を見つめた。

「ふむ。もしぼくが美和子さんと結婚することになったら、きみはぼくの召し使いになるわけかな?」

「ぼくは美和子さまの身の回りをおおせつかっておりますから、美和子さまがひきつづき仕事をおあたえくだされば、とうぜん勇作さまのお世話もいたします」

「なるほどね。執事らしいこたえだ。今日は一度、美和子さんの顔を見たいと思って押しかけてきたんだ。なにしろ許婚といっても、一度も会ったことないからな。でも来てよかったよ。こんな美しい女性が許婚とは思ってもみなかったからね」

 最後の言葉は美和子に向けられた。勇作の賛辞に美和子は顔をあからめた。

 車椅子の高倉男爵は声をあげて笑った。

「わしも勇作さんのうわさは聞いているが、なるほど聞きしに勝る伊達男だ。これからもうちの娘をよろしくたのむ」

 男爵は上機嫌だった。

 今日は顔合わせだけのようで、勇作は太郎の給仕で紅茶をいっぱいすすっただけで帰っていった。

 勇作が帰り、美和子と太郎はふたりだけになった。

 美和子は窓のそばにたち、庭を見下ろしていた。太郎は彼女の背後から声をかけた。

「お嬢さま、なにかご用は?」

「いいえ、ないわ……」

 頭をさげ、退室しようとするとふいに美和子はふりむいた。

「待って! ねえ、太郎さん。許婚の話し、はじめて聞いたのよね」

 はい、と太郎はこたえた。美和子は唇をふるわせていた。

「お嬢さま?」

「本当はあたし、許婚なんていやなの。子供のころから結婚相手が決められているなんて……どうしたらいいのかしら」

 太郎は黙っていた。召し使いがなにか言うべき場面ではない。

 美和子はふたたび窓に顔を向け、そっとカーテンに手をかけた。

「下がっていいわよ」

 太郎は頭をさげ退出した。

 

 翌日、郵便局員が自転車にのって高倉家の正門にやってきた。対応したのは太郎だった。

「郵便です」

 正門のインタフォンで局員が話しかけるのを、太郎は屋敷内の応答装置でうけた。太郎は内心首をかしげた。いつもは朝一番に郵便局さしまわしの車で届けにくるはずなのだが、今日はどういう風のふきまわしだろう。

 ともかく受け取りに太郎は出て行った。

 門の扉のすきまから差し出される手紙を、太郎は受け取りあて先を確認する。あて先は男爵になっていた。

「ごくろうさま」

 一応礼をいい、太郎は手紙を手に男爵の部屋へ急いだ。

 部屋には男爵が美和子とともに昼餉をとっていた。今日は女学院は休日だった。

「だんな様、郵便がまいりました」

 ああそうかと男爵は太郎から手紙を受け取った。封を切り、手紙に目を通した。

 目を走らせた男爵の顔色がかわった。最初真っ赤になり、そしてあおざめた。ぐしゃりと男爵は手の中の手紙を握り締めた。

 男爵の様子に美和子はかけよった。

「お父さま、どうなさったの?」

 男爵は美和子を見上げた。車椅子の手すりをしっかりと握り締めたその手はわなわなとふるえている。

「お、おしまいだ……。我が家は破産した!」

 ぐっ、と息をのむとがくりと首がうしろに折れ曲がり目がくるりと白目になる。

「お父さまっ!」

 美和子は悲鳴をあげた。

 つかつかと太郎は男爵に近寄ると、心臓に耳をあて鼓動を聞き取った。男爵の心臓の鼓動はあきらかな不整脈を呈している。その鼓動が止まった! 心臓麻痺だ! 唇を見ると紫色になっていた。チアノーゼである。

 太郎は男爵の上着のボタンをはずし、胸をあらわにした。両手をくみあわせ、いきおいよく心臓のあたりに打ち下ろす。

 どん!

 男爵の体がはねた。

 太郎は男爵の体を床に横たえ、心臓マッサージをはじめた。一、二、三! もう一度一、二、三! リズミカルに手を動かし、その合間にマウス・ツー・マウスで人工呼吸をほどこす。

 はっ、と男爵が呼吸をとりもどした。

「お嬢さま、お医者をおよびください」

 太郎の命令に美和子ははっとなり、電話に駆け寄った。震える手で電話のハンドルをまわし、交換手をよびだした。

 太郎は蘇生措置をつづけていた。

 

「太郎くんの緊急措置がよかった。あのままだと、男爵は死んでいたでしょう」

 かけつけた医師は男爵の胸に聴診器をあて、つぶやいた。医師は若く、まだ四十にもなっていないようだった。もっともかれは親の代から高倉家のかかりつけで、美和子とも顔見知りだった。美和子は医師につめよった。

「お父さまの病状はどうなのです?」

 医師は首を振った。メタルフレームの眼鏡をはずすと神経質にレンズを磨く。

「よくないです。お年ですし、よほど心臓に負担をかけるようなことがあったようですな。たぶん、今夜が峠でしょう」

 美和子の目に涙がたまり、ほろり、と一粒こぼれた。一粒こぼれたことでぼろぼろとあとからあとから涙が零れ落ちる。唇をかみしめ、美和子は立ちつくした。

 男爵の寝室には太郎をはじめ、木戸やそのほかの召し使いがつめかけていた。みな心配そうな顔で男爵の寝顔を見つめている。

 太郎はそっと男爵が最後に手にとった手紙を取り出した。あのとき男爵の手を離れた手紙が床に落ち、それを拾っていたのだ。

「なんだそれは」

 木戸は見咎め、太郎の手から奪い取った。文面に目をはしらせた木戸は太郎をにらんだ。

「読んだのか?」

「はい。いけないこととは知っていたのですが」

 うむ、と木戸は顎をひいた。

「なんということだ。男爵の事業がすべて抵当になっていたとは。これでは男爵にはなにも残らない」

 木戸の言葉遣いが微妙に変化していた。

 手紙の文面は男爵が資金をだしていた事業の一つが破産し、その連帯責任でほかの事業も連座破産になり、結局男爵のすべての財産が没収されたことをしめしていた。

 破産。

 衝撃は男爵の弱っていた心臓を直撃したのだろう。

 医師が治療をつづけるため、寝室につめかけていた召し使いたちを追い出しにかかった。ぞろぞろと召し使いたちは廊下に出てあちこちにかたまり不安げに顔を見合わせた。

 木戸は手をぱんぱんと打ち合わせた。

「さあさあさあ、ここにいてもわれわれにできることは何もない。みんな自室に戻り、おとなしくしているんだ」

「あのう……」

 庭番の老人が木戸の顔を見上げた。となりにはつれあいの老婆が夫の上着の裾をつかんでいた。

「なんだ?」

 木戸は老人を見下ろした。老人はおそるおそる尋ねた。

「いったいわしらはどうなるんでしょう。なんでもだんな様は破産なさったと聞きましたが、本当でしょうか」

 空気が張り詰めた。みな、木戸の口元を見つめている。木戸は息をすいこみ、うなずいた。

「本当だ。だんな様は破産なされた」

 やっぱり、と召し使いたちはうなずきあった。

「それではこのお屋敷は?」

「没収となるな。家具も同様だ。男爵には何も残らないだろう」

「わしらはどうなるんで?」

 木戸はにやりと笑いかけた。

「心配しなくてもいい。あとのことはわたしが手配する。みな、この屋敷に何年も奉公してきた仲間じゃないか。男爵のあと、この屋敷を受け継ぐ次の主人に仕えることができるよう、わたしが保証する」

 召し使いたちの動揺が一気に鎮まった。みな嬉しげに木戸に頭を下げ、これからよろしくと口々に言い合った。

「だから心配しないで、いつもどおり仕事を続けてくれ。いいな」

 はい、と召し使いたちはいっせいに声をそろえ自室へ引き上げていった。太郎は残り、木戸を見上げていた。木戸は太郎に気づくと眉をあげた。

「なんだ。まだ用があるのか?」

 いいえ、と太郎は首を振ると自室へひきあげた。

 引き上げながら太郎は思った。

 木戸の態度はおかしい。なんだか事前にこのことを知っていたとしか思えない。しかもこの屋敷を没収することになる相手を知っているような口ぶりだった。

 

 3

 

 男爵の命は夜明け前に絶えた。

 医師は懸命に手当てをしたのだが、どうやら男爵に生きる意欲というものがすっかり枯れ果ててしまったようだった。寝室から美和子の号泣が聞こえ、太郎は走り出した。寝室にたどり着くと、医師が聴診器をまとめ、診療カバンを看護婦から受け取って出てくるところだった。

「だんな様は?」

 ああ、と医師はつぶやいた。

「なくなられた。午前二時三十分だった」

 そうですか、と太郎は医師をねぎらい、寝室に入った。美和子は男爵のベッドに身をなげかけ、身も世もあらずという風に泣き崩れている。

 太郎は立ちつくした。

 やがて美和子は顔をあげた。そこに太郎がひかえているのに気づくと、ようやく自分をとりもどしたのか涙を拭いて立ち上がる。

「太郎さん、ありがとう。あのときあなたが心臓マッサージをしてくれなければ、お父さまはあのままお医者さまにかかることもなく死んでいたわ」

「いいえ。あの処置は学校で習ったことを実行したにすぎません。だんな様のことは残念でした。わずか数ヶ月だけのおつきあいでしたが、男爵さまはすばらしいおかたでした」

 そうね、と美和子は鼻をすすらせた。太郎は胸ポケットからハンカチをとりだし、彼女に手渡した。手にハンカチを押し込まれ、ようやく彼女はそれに気づいた。ありがとうとつぶやき、美和子は鼻をかんだ。そこではじめてじぶんが太郎のハンカチで鼻をかんだことに気づいたようだった。うっすらと笑い、あやまった。

「ごめんなさい。あなたのハンカチで鼻をかんだりして」

 いいえ、と太郎は首を振り言葉をかけた。

「お嬢さま、元気を出してください。お父様はお嬢さまのお幸せを願っておいでです。いつまでもお泣きになっていると、だんな様がお嘆きになりますよ」

 美和子はうなずいた。

 

 高倉男爵の葬儀は簡素だった。男爵の血縁者はあまり存命しておらず、集まった人々も男爵の破産を知っており、そのことに触れられはしないかとびくびくしていて盛り上がらなかった。

 葬儀が終わり、太郎は屋敷の後片付けをしていた。木戸は書類の整理があると言って屋敷を留守にしていた。

 車の接近してくる音がして太郎は顔をあげると、緒方勇作のしろい自家用車が敷地内にはいってくるところだった。太郎は美和子の部屋へ急いだ。

 ドアをノックして入ると、美和子がベッドの端に腰をおろし、ぼんやりとしていた。

「緒方勇作さまがいらっしゃいました」

 太郎が声をかけると美和子は「え?」と顔をあげた。目の焦点があっていない。太郎の言葉を理解していないのかもしれない。太郎はさっきの言葉をくりかえした。

「そう……お通しして」

 太郎は正面ドアに走った。ドアを開けるのと、勇作がやってくるのが同時だった。勇作のうしろに洋子が続いていた。今日の彼女は緒方家のメイドの服に身をつつんでいた。正式にメイドになれたんだな、と太郎は思った。洋子は太郎と目が合うと一瞬、口の端で笑いかけた。

「やあ、きみか」

「ようこそいらっしゃいました」

 うん、とうなずくと勇作は両手をうしろ手に組んで屋敷内に入ってきた。

「美和子さんにお目にかかりたい」

「お部屋でお待ちになっております」

「案内してくれ!」

 はい、と太郎は頭をさげ、先にたった。

 美和子の部屋にはいると彼女はさきほどまでのぼんやりとした態度をかなぐりすて、いつもの毅然とした姿勢になっていた。ふたりは応接セットの椅子にすわり、向かい合わせの姿勢をとった。

「お父さまのことは残念だった。こころからお悔やみを言わせてください」

 勇作がそう話しかけると、美和子はかるくうなずいた。

「ありがとうございます。でも、今日は弔辞を言いにきただけではないでしょう?」

 太郎はお茶の用意をしつつ、室内にはりつめた空気に神経をとがらせた。美和子の様子はどこかおかしい。

 勇作はふっ、と笑った。

「まあね。今日から僕がこの屋敷のあたらしい主人というわけだ。それでこれからのことを相談したいと思ってね」

 美和子ははっ、と息をのんだ。

「あなたが……」

「そうだ。僕が何をいうと思ったんだい? この屋敷のすべての権利は、僕が買い取った。なにしろこれだけのお屋敷だ。政府の競売にかけるにはしのびなくてね。ああ、そうだ。召し使いのことは心配しなくてもいい。僕が責任をもって、いままでの仕事を続けられるよう手配する。もちろん、きみもこの屋敷でいままでとおなじに生活していい」

 美和子はどぎまぎとしていた。

「わたし、わたしは……」

 勇作はかるくうなずいた。

「ああ、そうか。きみと僕との結婚のことか。たとえきみのお父さんが破産なさったとしても、僕はきみとの結婚を破談にするつもりはないよ。いずれ適当なとき……そうだな。きみが女学院を卒業したころ、結婚式をあげようじゃないか。卒業までの学費はすべて僕が負担しよう」

 美和子は息をすった。

「お断りしますわ!」

「なんだって?」

「わたし、あなたと結婚するつもりはございません!」

 勇作は太郎が運んできたティー・カップにちらりと目をやりおもむろに手を伸ばした。香料いれから一粒、ハーブの粒をとると紅茶にいれ、ゆっくりとかきまぜる。ひとくちすすり、唇をしめらせると口を開いた。

「なぜだい」

「それではわたし、あなたと対等のおつきあいはできませんもの。あなたのお金でこの屋敷に住み、あなたのお金で学業を進める。あげくのはてはあなたのもとへ嫁入りをはたす……。それではわたしはあなたの持ち物のひとつではありませんか!」

 にやりと勇作は笑った。いままでかれが見せたことのない酷薄な表情だった。

「おもしろい……。きみがそのように考えるとは、ますますきみと結婚したくなってきた。それでこそ、僕にふさわしい花嫁といえる! いいだろう。それなら僕からきみにひとつ条件をだそう」

 勇作は椅子から立ち上がった。

 胸のボタンをはずし、そこからしろい封筒を取り出した。

 太郎ははっ、となった。あの封筒は、あのとき男爵に渡したあの封筒と同じものだ。

 勇作は封筒を美和子に渡した。

「開けてみたまえ」

 美和子は封を切り、なかから一枚の紙を取り出し開いた。目を走らせ、奇妙な表情をうかべた。

「なんですの? これは」

「僕の所有する島のひとつに番長島というところがある。僕は年に一度、そこでトーナメントを開催している。国内で最強の番長をきめる大会だ」

「番長?」

「喧嘩に強いものの称号だよ。女ならスケバンと称される。その島に招待された全国の腕自慢の男女が、ここで一週間、勝負を決するのだ。そして最後に勝ち残った人間が、僕への挑戦権を獲得できる。僕との試合に勝てば、百万両の賞金を手にすることができる。もっともいままでその賞金を手にできた挑戦者はあらわれていないがね。どうだい、きみもこの大会に出て、僕と勝負をしてみないか。僕に勝てば、百万両を進呈しよう。それだけあれば、きみはこの屋敷を買い戻し、お父さんの事業を継ぐこともできるだろう。聞くところによると、きみは幼少から上流階級のたしなみとしてさまざまな武芸を身につけ、すでに師範代の腕前を持っているそうだな。大会に出るには充分な資格だ」

 百万両。まるごと一企業を買収できるだけの金額である。たしかにそれだけの金があれば高倉家の再興にはじゅうぶんだ。美和子は尋ねた。

「なぜそんなことを?」

 勇作はくるりと美和子に背をむけた。背中に刺繍されている”男”の文字が、窓からの日差しに照らされきらきらと輝いた。

「これは伝説のガクランだ! 初代の番長は全国の番長の頂点に立ち、このガクランを作らせた。以来、最強の番長の称号を継ぐものは、このガクランに身をつつみ最強であることを証明している。僕がこのガクランを手にしてから五年になるが、いまだに僕からこのガクランを奪い取ったものはいない。この五年、僕は待ち続けた。僕からガクランを奪い取る人間を待ってね……。だからきみに挑戦してもらいたいんだ。最強の番長と、最強のスケバンの組み合わせの夫婦なんて、最高じゃないか」

 勇作は美和子に顔を近づけた。ほほが紅潮し、目はきらきらと輝いている。

 ごくり、と美和子はつばをのんだ。

 かすかにうなずく。

「いいですわ! わたし、その大会に出場します」

「よく言った! それでは番長島で会おう!」

「わかりました。太郎さん。勇作さまを玄関までお送りなさい」

 はっ、と太郎はうなずきドアを開けた。勇作はにやりと太郎に笑いかけた。

「きみも番長島にくるのかい?」

 太郎はうなずいた。

「はい。わたしはお嬢さまの召し使いですから、お身の回りのお世話をさせていただくのは当然です」

 ふん、と勇作は鼻で笑うと大股に歩き出した。メイド服の洋子がそれに続く。

 玄関に来たところで木戸のひょろりとした姿が目に入った。

「お帰りですか」

 木戸の言葉に勇作はうなずいた。

「ああ。すぐ帰る。番長島のトーナメントの準備にかからなくてはならないからな」

「わかりました。お手伝いいたしましょう」

 ふたりの会話に太郎は立ちつくした。太郎の様子に勇作はふりむいた。

「ああ、紹介しよう。こんど、僕の事業部の筆頭重役に就任した木戸だ。おたがい、知り合いだったよな」

「木戸さん!」

 木戸は肩をすくめた。

「そういうことだ。高倉男爵はあんなことになったし、わたしも身の振り方を考えなくてはならないからね」

「あの封筒……。まさか木戸さんが?」

 木戸はけわしい表情になった。

「なんのことだ? まさかわたしが男爵に罠をしかけたとでも言うつもりじゃないだろうな。男爵はどんな書類でも、目を通さず署名なさるかただった。こんなことになったのも、身から出たさびといっていいよ。わたしだって執事の仕事が一生の仕事とは思っていない。能力に応じた仕事を得ることを、お前に非難されることはない!」

 くるりと背を向けると木戸は勇作が外に出たあと勢いよくドアを閉めた。

 玄関のドアが大きな音を立て閉まった。

 太郎は唇をかみしめた。

 

 執事学校での授業を太郎は思い出していた。

 教師が生徒の前で講義を続けている。

 どういう話の運びでそのようなことになったのか思い出せないが、あるとき召し使いに一番必要な資質はなんだという質問を教師は生徒に尋ねてきた。

 あるものは礼儀作法だといい、あるものは優雅な身ごなしだと答えた。すべての答えに教師は首をふった。

「いいや。召し使いに一番必要なのは忠誠心だ! かつての侍が主君に対したような忠誠心が求められるすべてだ。かつての武士は主君が命じれば死も覚悟した。その主君がどのような暗君でも、武士はよろこんで死地におもむいたのだ。諸君はこれからさまざまな上流階級の家庭に召し使いとして赴くだろう。そのさきの主人がどのような人間であっても、いったん主従の関係をむすんだら、主人が死ぬまできみらは召し使いだ。そのことを肝にめいじておくように……」

 そうだ。ぼくは召し使いなのだ。男爵が死んだとしても、只野太郎が忠誠の誓いをしたのは美和子である。いったん召し使いの誓いをしたなら、彼女のために一生をささげるのが使命である。

 

 翌朝、太郎は屋敷を出た。

 ある場所へ行くためである。

 高倉家に執事として勤めて、太郎は外出したのは美和子の通学以外まるでなかったから、自主的な外出はこれが初めてだった。太郎には目指す場所があった。

 大京市は大都会である。行けども行けども巨大な建物がつらなり、目に入る場所はすべてコンクリートと敷石でしきつめられ、自然の場所というのは公園くらいしかない。

 それでも太郎はこころおぼえの道をてくてくと歩き、事前に調べておいた交通手段をもって目的の建物をさぐりあてた。

 建物の正面にたち、かかっている看板を見上げる。

「全国執事協会」とあった。

 玄関には木枠にガラスがはまったスイング・ドアがあった。そのドアをくぐりぬけ、太郎は建物の内部へと足を踏み入れる。

 はいったすぐにクロークがあり、蝶ネクタイをしめた黒服の男がいた。男は太郎をみとめ、職業的な笑みをうかべた。

「なにか御用でしょうか?」

 太郎は名刺をとりだした。こういうときのため、用意しておいたものである。黒服の男は太郎の名刺をうけとり眉をあげた。

「あなたが高倉家の執事頭? お若いですな」

 太郎はうなずいた。それまで執事頭の木戸が緒方勇作のもとへ就職したので、高倉家の筆頭執事は自動的に太郎となるのだ。

「それで、どういうご用件でしょう?」

「高倉家の執事頭として協会に救済をお願いにあがったのです」

 男の眉はいっそう持ち上げられた。執事として表情を変えない訓練をうけているにもかかわらず、太郎の言葉に驚いたのだろう。

「うけたまわりましょう。少々お待ちを……。いま、担当のものをうかがわせます」

 そういうと男は手元に目をやり、内線電話をつかんだ。受話器をとり、小声でだれかとやりとりをする。

「はあ……、協会に救済をと……、はい。規約ではそうなります。しかし……わかりました……それでは」

 がちゃりと受話器をおくと太郎に向き直る。

「それでは理事のかたがお待ちになっております。ここから廊下をまっすぐすすみ、エレベーターで三階におりて307という部屋にいらしてください。担当がお話しをうけたまわりますので」

 太郎は礼を言うとクロークを横切り、エレベーターへ向かった。扉をあけると、真っ赤なお仕着せを着た少年が待っていた。

「三階へ」

 太郎が言うと少年はうなずき、扉を手で閉め、エレベーターのハンドルをぐるぐると回した。ごとごとと音をたて、エレベーターは上昇していった。がちゃんと音を立て、エレベーターはやがて停止した。三階へついたのだ。

 がらがらとシャッターが開き、太郎は三階の廊下へ吐き出された。

 ひとつひとつドアの番号を確認し、太郎は「307」のドアの前に立った。ドアの横にベルのボタンがある。太郎はそれを押した。

「どうぞ」

 おくから声がして、太郎はドアを開けた。

 部屋は窓がなく、天井から照明が内部を照らしている。装飾というものはなにもなく、そっけない部屋にはどっしりとした机と、そのむこうに座る五十代の女性がいた。彼女はやせており、半分が白髪の髪の毛を頭のてっぺんでひっつめている。遠近両用の眼鏡をかけ、レンズのむこうから鋭い視線が太郎を目踏みしていた。

「なるほど、あなたが高倉家の筆頭執事というわけね。只野太郎さん、とおっしゃったかしら?」

「はい、そうです」

「おすわりなさい」

 女性は机のちかくにあるパイプ椅子をしめした。太郎は腰を下ろした。女は机のうえに肘をつき、両手を顔の前で組み合わせた。どうやらそれがなにか考え事をするときの癖のようだった。

「わたしは協会の理事の一人で田村美香ともうします。まあ、わたしの名前なんかどうでもいいことですけど、あなたが奉公なさっている高倉家のことについてはよく知っていますよ。なにしろ全国の執事をたばねるわが協会では、爵位をもつ名家の動向についてはつねに情報を仕入れるようにしていますからね。それで、あなたはわが協会に救済処置をもとめにいらしたというわけですね? 高倉家は破産したということですね。それならべつの華族か、資産家のところへ再就職したいなら……」

「違います!」

 話をさえぎられ、彼女は目をぱちくりさせた。

「僕は高倉家の跡取りである美和子さまのもとで”忠誠の誓い”をした身です。ですから当然、ほかの家へ再就職する気はありません。僕が協会にもとめたいのは、高倉家についての救済処置です」

 話をさえぎられた田村女史はそれでもなんとか立ち直ることに成功した。

「”忠誠の誓い”……。それは執事として勤めるときにおこなう儀式のことですね? それをかわしたからほかの家に召し使いとして勤める気はないと__そう考えていいのかしら?」

「そうです」

 彼女は頭をふった。

「でも、それは儀式ですよ。たしかにそれは執事として忠誠を誓うことになりますけど、いまどきそんな儀式にしばられる召し使いはいません。あなたは小姓村の執事学校を卒業なさった優秀な執事ですから、再就職しようと思えば、すぐにでも……」

「いいえ。僕は最高の召し使いをめざしています。主人に対する忠誠心でも、僕は最高をめざします。再就職の話はこれまでにしてください」

 田村女史は肩をすくめた。

「わかりました。お話を続けてください。なんでも高倉家への救済を願いにきたとおっしゃるのね?」

 太郎はうなずいた。

「そうです。協会の規約によれば、執事がつとめる主家に危機が生じた場合、その回避のために協会が救済をもとめられるとあります。執事協会規約第十二条六項……執事は主家のためのあらゆる危機を回避する努力をせねばならない。そのため協会は当該執事に協力をする義務をおう……と」

 女史はしぶしぶうなずいた。

「たしかに規約にそうさだめられております。しかしそれには制限があります。あなたの高倉家の破産はすでにきまったことです。その負債を協会が肩代わりするなど、許されていません!」

「いいえ、そんなことを求めてはいません。僕がもとめているのはべつのことです」

 そう言うと太郎は上着のボタンをはずし、ふところから一枚の書類をとりだした。

 書類を受け取った田村女史はその内容に目をはしらせ、驚愕の表情になった。

「これは……この書類はどうやって?」

「これをつかいました」

 太郎はそう言うとポケットから小さな箱をとりだした。箱にはレンズがついていた。太郎の取り出した箱は小型のカメラだった。

「これで書類を撮影して、引き伸ばしたものです。もしものときを考え、複写を用意しました。これを協会で預かってもらいたいんです」

 田村女史は用心深そうな顔つきになった。

「それで、どうなさるおつもりなんですの。これをあなたはなににお使いになるおつもりなの?」

「高倉家の再興です。ぼくはこれから高倉家の跡取り、美和子お嬢さまとある場所へおもむきます。僕の考えが正しければ、いずれ決定的な瞬間にこの書類の内容が意味をもってきます。そのとき、協会は僕の指示にしたがい、行動してもらいたいのです。そうなれば、高倉家は元の通りになれるでしょう」

 女史の口元に面白がるような笑みがじわりとうかんだ。

「なるほど……面白い話ね。どうすればいいのかしら」

「それは……」

 太郎は女史の顔を見つめ、ある計画を話し始めた。女史は太郎の話をじっくりと聞いた。やがて太郎の話がおわると、ひとつうなずいた。

「わかりました。それなら協会もあなたに協力をしましょう。なによりも、あなたの主家にたいする忠誠心が気に入りました。召し使いとはそうならなければなりません」

 女史は手をさしだし、太郎は握手をかわし、部屋を出て協会をあとにした。

 

 その夜、太郎は母親に手紙を書いた。高倉男爵が破産してそのショックで死亡したこと、美和子が男爵家の再興のため、番長島トーナメントに参加することなどを報告するためである。洋子のことはとうとう最後まで報告するのはひかえた。洋子は洋子でじぶんの人生がある。太郎の口出すことではないように思えたからだ。

 やがて母親から返事が届いた。

 母親はその手紙で太郎は忠誠の誓いをしたのだから、なにがあっても美和子のもとで働くことを指示していた。太郎は母親の手紙を読んでひとりうなずいた。やっぱり彼女は骨の髄からの召し使いである。太郎と母親の思いはおなじだった。

 

 4

 

 船は混みあっていた。客船であったが、定員の倍は乗り込んでいるようだった。

「お嬢さま、お飲み物です」

 トレイにジュースを載せ、太郎は美和子に差し出した。

 礼を言って美和子はトレイからジュースのはいったグラスを受け取った。グラスにうかぶ氷がちりんと鳴った。

「どこからこんなもの、もってきたのです? ほかの人は見たところ飲み食いはしていないようですが」

「キッチンで、そこのコックと話をしまして、おたがい小姓村の卒業生であることがわかって意気投合しました。それでコックからお嬢さまにプレゼントというわけです」

 美和子はため息をついた。

「あなたがた執事学校の出身者はかたいきずなで結ばれているのですね」

 今日の美和子はセーラー服に、長い髪の毛を後頭部で三つ編みにまとめた活動的な格好をしていた。ほかの乗客も男は学生服、女はセーラー服かブレザーという格好だった。知らない人が見れば、修学旅行の途中かと思うだろう。しかし乗客のあいだにあるのは敵意だけだった。おたがいの力量をはかるような鋭い眼差しが飛び交っている。武器を手にしているものもいる。竹刀や木刀、あるいはメリケン・サックをこぶしにはめているもの、自転車のチェーンを腕にまきつけているものもいる。銃器や弓矢などの飛び道具は禁止されていたが、打撃を目的とした武器はみとめられていた。客船に乗せられてすでに数日が経過していた。大京市はすでに遠くはなれ、水平線をさえぎるものはなにもなかった。

 客船の乗客のほとんどは学生の格好だったが、このなかに本来の学生はほとんどいないようだった。その学生服も、参加者のほとんどが奇妙な改造をくわえている。襟をやたら幅広くしたり、ボタンの数をふやしたり、あるいは丈をうんと長くしたり、または極端に短い丈にしたりとさまざまである。たいていの者はじゃらじゃらと安っぽい装飾品を学生服のあちこちに鎖でたらしていたり、女学生は腿をむきだしにするようなミニ・スカートにしていたりしていた。そんななかでノーマルな美和子と太郎の格好は逆に目立っていた。

 空は青く晴れ上がり、潮風が心地よい。

 かもめが二羽、三羽と近づき、船のマストに休憩のため羽根をやすめた。

 そのとき乗客のだれかが声をあげた。

「島だ!」

 おお……、と船内にざわめきがはしり、みな舷側に駆け寄った。

 太郎は目をほそめた。

 水平線のかなたに島影が見える。

 しろい石灰岩の岸壁に、ところどころ緑がへばりついていた。コンクリートやレンガ造りの建物が岸壁ぎりぎりに立ち並んでいる。遠めにもそれらの建物が無人となって長いことが見てとれた。それらの建物は雨風にさらされ、まるで白骨をおもわせた。

「軍艦島です」

 太郎はつぶやいた。

 たしかにその島影は軍艦を思わせるシルエットをもっていた。ぐっと立ち上がった岸壁は軍艦の船体、そして島の頂上ちかくまで立ち並んだ廃墟は軍艦の構築物に見える。むかしはこの島は軍艦島と称せられていたが、勇作が所有してからは番長島と名称を変えられていた。

 もともとこの島は炭鉱でさかえたのだが、長年の採掘ですっかり掘りつくしてしまい、それまで炭鉱で職を得ていた人々は島を見捨てた。あとに残されたのは廃墟だった。

 ぼおおおっ、と船の汽笛が接近を知らせている。岸壁の船着場には出迎えの係員がわらわらと集まってきた。

 ラダーがおろされ、乗客がぞろぞろと降りていった。

 係員は上陸した船客ひとりひとりにバッジを手渡し、胸にとめるよう指導した。バッジは銅製で、表面には緒方家の家紋が浮き彫りになっている。太郎と美和子もそれを受け取り、胸にとめた。

 ぐおおおおんん……

 腹に響くようなエンジン音が頭上からふってくる。日が翳り、みな上を見上げた。

 見上げたかれらの口がぽかんと開いた。

 日差しをさえぎり、巨大なものが浮かんでいる。

 飛行船だった。

 いわゆるツェッペリン・タイプの飛行船で、六個のエンジンを吊り下げプロペラが回転していた。飛行船の横腹には巨大なスクリーンがあった。

 そのスクリーンが明るくなり、ひとりの人物の顔が映し出された。

 緒方勇作であった。

「やあ、わが番長島にようこそ。今日から一週間、最強の番長、スケバンをきめるトーナメントをはじめる。みな、バッジを受け取ったはずだな? そのバッジはこの島での身分証となるものだから、大事に持っているように。この島での生活のための飲み食いは島のあちこちにある食堂でやれる。そのバッジを提示すれば、どこの食堂でも無料で食事が用意される。宿泊もおなじだ」

 勇作の言葉にみな、じぶんのバッジをたしかめた。

「ここで勝負をきめるのはいつはじめてもいい。一対一でもいいし、複数で一人を襲ってもかまわない。ルール無用の戦いだ! そして勝利者は敗者のバッジを奪うことができる。そのバッジをもっとも多く奪ったものがこの島での勝利者だ。どうだ、簡単なルールだろう?」

 全員がすばやくおたがいを見合った。

「しかしあまりにも多くのバッジを持つことは大変だ。それで島のあちこちに交換所を用意した。銅のバッジ十枚で銀のバッジ。銀のバッジ十枚で金のバッジと交換できる。つまり金のバッジひとつを持つものは、百人の敵を倒したということになる。ただし金のバッジや銀のバッジを銅のバッジに交換することはできない。苦労して金のバッジを手にしても、勝負に負ければ没収だ。バッジを取られたものは取り返すか、あるいは島から出て行ってもらう。三日目以後、バッジを持っていない参加者は島を出て行ってもらう。一週間後、もっともバッジを所有していたものが僕と勝負ができる。そして勝利したならこの伝説のガクランと、賞金百万両を進呈しよう。諸君、いい勝負を!」

 スクリーンのなかの勇作はにやりと笑うとくるりと背中をカメラに向けた。「男」の金の刺繍がまぶしくきらめいた。飛行船は船首を島の中央に向けた。プロペラが回転し、飛行船は遠ざった。

「おもしれえ……。まったくおもしれえぜ!」

 ひとりの巨漢がにやにやと笑いをうかべつつ、まわりの参加者たちをじろりと見やった。裾がぼろぼろになった学生服に、手垢にまみれた古そうな学生帽をかぶっている。顔には無数の傷跡がのこり、そうとうな歴戦の勇士のようだ。

 男はとなりにいた学生服の参加者をにらんだ。ぐっ、と手をのばし、その肩をつかむ。つかまれた男は驚いて目を白黒させた。

「おい! 勝負だ!」

 いきなり宣言すると巨漢はこぶしをふりあげ、となりの男の顎にたたきこんだ。

「ぐえっ!」

 男は巨漢のこぶしに叩き潰され、宙に吹っ飛んだ。あまりの早業に防御する間もなかったらしく、あんぐりと開けた口から鮮血がしたたっている。

 巨漢はのしのしと近づくと、男の胸にひかっているバッジをむしりとった。

 自分の胸にバッジをとめるとふん、と鼻をならし、倒れている男をにらんだ。

「なんでえ、手ごたえがないのもはなはだしいぜ。もうちょっと歯ごたえがあるやつはいねえのか?」

 うわあああっ、と喚声を上げひとりの男が木刀をふりかぶった。巨漢はその木刀をむんずと片手でつかみ、ふりまわした。

「うわぁ!」

 木刀を持った相手は、巨漢の片腕だけでかるく振り飛ばされ、地面にたたきつけられた。巨漢は木刀を両手につかむと、いきなり膝でふたつに割った。

「こんなもの!」

 からん、と割れた木刀を投げ捨てると巨漢はだっ、とひととびで相手のところまで近づき、その胸倉をつかんだ。

 がん、と巨漢がそのまま頭突きをくれると相手はそれだけで気を失ってしまう。バッジを奪い、また自分の胸にとめた。

 巨漢はじぶんを見つめている視線を感じ、ふりむいた。

「女か」

 そこに立っていたのは美和子と太郎だった。太郎は美和子の背後にひかえている。

「おれは女は相手にしねえ。いまはな。あとであんたが勝ち進んだら、決勝で会おうや」

「いまここで勝負をしてもいいのですよ」

 巨漢の口がぽかんと開いた。

「なんだって?」

 美和子はさっと構えた。巨漢はじろりとその構えを見て目を細めた。

「ふうん、ただの女じゃなさそうだな。あんたの名前を聞かせてもらえないか」

「わたしの名前より、まずあなたから名乗りなさい」

「そうかい、それじゃ名乗らせてもらおう。おれは勝田勝かつたまさる。前回では最終決戦まで勝ち残ったんだ。もっとも勇作には負けたが、今回こそ勝ってやる! あんたは?」

「わたしは高倉美和子ともうします。さあ、勝負なさるの?」

「やってやろうじゃないか……。どうやらあんたはただのスケバンじゃなさそうだ」

 勝田勝はさっきとはまるで違い、用心深く美和子に近づいた。ひくくかまえ、じりじりと近づいていく。かれの本能的な勝負勘が、美和子の戦闘能力の高さを感じとっているようだった。

「!」

 だしぬけに勝は飛び出した。その巨体からは信じられないほどの素早い動きである。

 さっと片腕をのばし美和子の腕をつかみにかかる。と、それはフェイントで、美和子がさけるところを足をのばして転ばそうという策略であった。

 が、勝の全身は硬直した。

 美和子がほそい腕をのばし、勝の伸ばした手首をつかんでいる。

 ただそれだけなのだが、勝はまるっきり動けないでいた。どこをどうつかんでいるのか、美和子のほそい白魚のような指が勝の手首をつかんでいるだけなのに、かれはびくとも動けないでいた。

「く!」

 勝の顔に脂汗がうかんだ。

「動かないで。無理に動こうとすると骨折するかもしれませんよ。太郎さん、このかたからバッジをいただきなさい」

「失礼いたします」

 太郎は身動きできないでいる勝の胸にとまっているバッジをひとつひとつはがしていった。すべてはがすと、そっと後ろにさがる。

「お嬢さま、いただきました」

「そう、ご苦労さま」

 ふっ、と美和子は手を離した。それまで全力で美和子の捕縛からのがれようとしていた勝はたたらをふんで二、三歩前に出る。

 はっ、とじぶんの胸を見る。

 バッジはひとつ残らず奪われた。

「くそお!」

 勝の顔が真っ赤に染まった。

「うわあああ!」

 顔中を口にして勝は絶叫して飛びかかる。美和子はさっとふりむくと勝の突撃をかわした。かわす直前、美和子はまるでダンスを踊っているような優雅な動きで勝の腕をつかんだ。さっとばかりに彼女の腕が一閃すると、勝は肩を中心に円を描いて回転した。

 どっ、とばかりに勝は地面に倒れこんだ。

 ぐう、と勝はうなり歯を食いしばった。背中を地面に散らばっているコンクリートの破片に打ちつけたらしい。それでも立ち上がると両腕をのばしてつかみかかったのはあっぱれだった。美和子はさっとその両腕をかいくぐり、抜き手を勝の鳩尾にたたきこんだ。

 美和子の抜き手は手首まで勝の鳩尾にうまっていた。勝の顔色が真っ赤から、真っ青に変わった。

「ぐふう……ぐふう……!」

 しゅーっ、というような息をはいて勝はがくりと膝をおった。

 どた、とあおむけに倒れこむ。

 かれの両目がくるりと白目を見せた。

 そのまま気絶していた。

 

「おもしろい! 美和子のやつなかなかやるな!」

 勇作は上機嫌だった。

 かれの目の前に無数のスクリーンが島のあちこちの映像を映し出している。かれは島全体に多数のテレビ・カメラをしかけていた。

 目的は参加者による不正の監視であったが、もうひとつの目的は現在の状況を同時中継で全国放送で上映するためである。そのひとつのカメラが、さきほどの勝と美和子の勝負をとらえていた。

 ここは島の中央部にある司令部である。勇作はこの司令部で島の現在の状況をとらえ、見守っているのだった。

 勇作の背後に洋子がひかえていた。彼女はお気に入りのメイド服を身につけ、勇作の命令を待っている。

 しかし勇作は仕えがえのない主人だった。かれはじぶんのことはじぶんでやるという主義の持ち主で、およそ召し使いというものを必要としない性格だった。それらの仕事をやろうと出て行くと、いつも丁重に断られるのだった。せいぜい部下の連絡の取次ぎくらいしかやることはない。それでも洋子は退屈そうな顔ひとつ見せず、しずかに控えていた。

 監視センターのドアが開き、木戸の背の高い姿があらわれた。いまは木戸は眼鏡を金縁に変え、身につける服装はりゅうとしたスーツになっている。首のまえに派手なスカーフをたらし、絹の腹帯をまきつけ、金鎖の懐中時計を身につけていた。両手の長い指には色とりどりの宝石が輝いている。洋子は高倉家で働いていたころの木戸とはなんという違いだろうと思っていた。

「視聴率の結果がでました。五十パーセントを超えています」

 木戸の報告に勇作は不機嫌になった。

「それだけか! 七十パーセントはいくと思ったが……。大京市のテレビ局はなにか言ってきてるか?」

「はっ、高倉美和子の映像をもっと流したいと……。視聴者からの要望が多かったようです」

 勇作はにやりと笑った。

「やっぱりな……。よし、各テレビ・カメラを美和子に注目させろ! オペレーターの数をふやせ。それから勝田勝にも注目させておけ! いずれあのふたりは対決するはずだからな」

 はっ、と木戸はそのながい上体をおりまげてセンターを出て行った。勇作は洋子を振り向いた。

「きみの同級生、たしか只野太郎といったな。知り合いなんだろう?」

「はい、そうです」

「聞くところによると、執事学校では主人をまもるための特別な格闘術を教えているようじゃないか。あれでは太郎の出る幕はなさそうだ」

 洋子は首をふった。

「そうでしょうか。わたしは太郎が活躍する場面はあると思います」

 洋子の言葉に勇作は肩をすくめた。

 ふたたび無数のスクリーンに向き直り、じっと見つめる。

 この映像は同時中継で大京市のテレビ局に送られている。そして映像は全国の家庭に配信され、数千万の視聴者が熱心に観戦しているはずだった。この番組にはさまざまな大企業が協賛し、宣伝費をかけている。この瞬間にも、勇作のもとにはばくだいな広告費が払われるのだった。

 賞金の百万などやすいものだ。

 

 ぽかりと勝の意識がうかびあがる。ぱちぱちと勝は目をしばたかせた。青空をバックに、数人の男女がのぞきこんでいた。

 むくり、と勝は上半身をおこした。

 わっ、とばかりにまわりに取り巻いていた数人が逃げ散った。

「くそお……」

 顔を真っ赤に染め、勝はくやしさにうなった。あんな屈辱ははじめてだ。女に、あんな負け方をしたのははじめてである。

 勝は自分の胸を見下ろした。とっくにバッジはとられてなくなっている。

 立ち上がるとまわりにこちらをおそるおそる見ている数人に気づいた。それらの胸にひかるバッジに目がとまる。

 勝はいきなり走り出した。

 わあ、と恐怖の声をあげ、男女が逃げていく。そのひとりの襟首をつかみ、片手で宙につりあげた。

「よこせ!」

 もう一方の手でその胸のバッジをむしりとると、ぶん、と放り投げた。

「ぐえ!」

 地面に転がって、バッジをとられた男は腰のあたりをコンクリートの破片にうちつけたのだろう、妙な声をあげのたうちまわった。

「くそお……」

 勝は怒りに顔を真っ赤にさせ、両手の握りこぶしをわなわなと震わせ立ちつくした。

「あいつら……絶対倒してやる!」

 そう宣言すると、つぎの獲物をねらって歩き出した。

 

「十、十一、十二、十三、十四……。全部で十四枚になります」

 岸壁のちかく、島を見下ろす高台で太郎と美和子は体を休めていた。太郎は美和子が勝ち取ったバッジの数をかぞえていた。あたりを夕暮れがオレンジ色に染めている。水平線のかなた、太陽がその姿を没しかけていた。

 じゃらじゃらとバッジをまとめると、袋につめ美和子に手渡した。

「あとで交換所で両替いたしましょう」

 そうね、と美和子はうなずいた。なんだか沈んでいるようだ。

「どういたしましたか? ご気分がお悪いのですか」

 いいえ、と美和子は首を振った。

「それだけの相手を倒したことがじぶんでも信じられないのです。わたしが学園で学んでいたころは、このような勝負をするために格闘術を学んでいたわけではありませんでした。わたしを教えた先生が、いまのわたしを見たならなんとおっしゃるでしょう。こんなことをするために技を教えたのではないと叱られるでしょうね」

 これには太郎もなんともこたえようがない。黙っていると、美和子は太郎に話しかけた。

「ねえ、太郎さん。どうしてわたしにこんなにつくしてくださるの? 知っての通り、高倉家は破産して一文無しになってしまったわ。あなたにお支払いする給料もないのよ。もういいから、あなたは次の就職先をさがすべきだわ」

 太郎は首をふった。

「そういうわけにはいきません。わたしが召し使いとして忠誠の誓いをしたのはお嬢さまです。執事学校の教えで、いったん主人として仕えたなら、あいてがいついかなる状況でも、仕えるのが召し使いとしての本文です。お嬢さまが一文無しでも、世界一のお金持ちでもおなじことです」

 太郎を見つめる美和子の両目に涙がたまってきた。唇が震え、やっと声を押し出した。

「ありがとう……。正直、あなたがついていてくれて嬉しい……」

 ほろほろと彼女は涙をこぼした。

 太郎は彼女の前に膝まづいた。

「お嬢さま、お願いがあります」

 はっ、と美和子は顔をあげた。

「ここであらためて美和子さまに忠誠の儀式をやっていただけないでしょうか? 前のときは男爵さまに命ぜられてお嬢さまは誓いをなされました。このたび、お嬢さまの意思によりあらためて忠誠の誓いをたてたいと思います」

 太郎を見つめる美和子の両目がおおきく見開かれた。

 うん、と彼女はおおきくうなずいた。

 すっ、としろい腕を伸ばし、手のひらを太郎の頭にのせる。

「わたくし、高倉美和子は只野太郎を生涯の執事として任命する。いついかなるときも、わたくし高倉美和子は只野太郎をかけがいのない召し使いとして従えるであろう」

 太郎はこたえた。

「わたくし、只野太郎は高倉美和子さまにお仕えします。いついかなるときも変わらぬ忠誠心をもってつくすことを誓います」

 夕日が完全に水平線の向こうに没し、最後の残照があたりを染め上げている。

 

「視聴率がはねあがりました。七十パーセントに達する勢いです」

 監視センターで木戸は勇作に報告した。勇作は椅子に腰掛け、うなずいた。モニターには太郎と美和子の誓いの姿が映し出されている。

「いい場面だ……。洋子、おまえはどう思う?」

 木戸の隣で控えていた洋子はだしぬけの質問にとまどった。

「どう思うと言われても……。でも、執事学校を卒業した太郎ならあたりまえのことだと思います」

「そうだろうな……。しかし執事学校の卒業者があれほどの忠誠心をしめすとは意外だった」

 勇作は木戸をながめた。木戸は真っ赤な顔になった。

「わたしは小姓村の執事学校のことは知りません。主人を選ぶのはあくまで召し使いの特権です。主人に能力がなければ、見限るのもあたりまえのことです」

「まあいいさ。ところで全国からどんな反響が出ている?」

「はあ、妙なことに全国の執事学校に入学希望者が殺到しているようです。通年の倍ほどの入学希望者が出ているようです」

 はははは……、と勇作は顔をあおむけて笑った。

「こいつは傑作だ! まったく只野太郎には楽しませてもらえるよ

 ぱん、と腰かけの肘あてをたたくと立ち上がった。

「そろそろ今日の放映はおしまいだ。あとを頼む!」

 そう言うと返事も待たず歩き出した。

 

 ふいいぃぃぃんん……

 殷々と島の全体にわたってサイレンが響き渡った。島での決闘の終了をつげる合図である。これ以後、勝負をしてもそれはカウントされない。それまで向かい合っていた男女は、その音色で構えをとき、ほっと息をついた。

「ま、待て! あのサイレンを聞いたろう? 勝負はおわりだ!」

 島の一角で、勝に追いつめられていた学生服の男は手をあげた。こぶしを固めていた勝は男の抗議の声も耳にはいらず、無言でなぐりかかった。

 ぼくっ、という低い音が鳴り、男は白目をむいて気絶した。勝は男のバッジをむしりとろうと身をかがめた。

「勝田勝! やめなさい! 勝負の時間は終わっている」

 だしぬけにスピーカーから呼びかけられ、勝はその場で目をきょときょととさせていた。あきらかに制止の声を理解していない。

 ざっ、と物陰から数人の制服を身につけた兵士が銃を構えて勝に狙いをつけた。

「これは麻酔銃だ。もしバッジをとるなら、おまえに麻酔をうたなければならなくなる。サイレンがなったら勝負は終了だ! バッジはそのままにしておけ!」

 けっ、と勝はつばをはくと横をむいた。まったく手ごたえのないことおびただしい。

「そうかよ……。つまんねえの」

 肩をゆすり、立ち去った。それを確認して兵士たちは構えていた銃をおろした。

 かれらは緒方家の私兵である。このトーナメントのため、監視の任務をあたえられているのだ。

 島のあちこちからぞろぞろと男女が姿をあらわし、点在する食堂へ急いだ。

 食堂では食事の用意ができていた。

 バイキング方式で、好きなものを好きなだけ採れるようになっている。この食堂だけが島での明かりである。今日一日、死に物狂いで勝負を続けていた男女は、誘蛾灯にひきよせられる虫のように集まってくる。

 食堂に今日一日、戦ってきた男女が集合すると、それまでの敵意はすっかり消滅していた。戦いあったもの同士の連帯感のようなものが醸成されていた。

 といっても、それはバッジを勝ち取ったものだけで、バッジを奪われたものは明日以後、どうやって暮らそうと絶望的な表情になっている。なにしろバッジを持っていないものは、食事すらできないばかりか、三日目以後島を追い出されるのである。かれらは簡単にバッジを奪えそうな相手を明日のために物色していた。

「聞いたか、去年の最終予選に勝ち残った勝田勝が、女にひねられたそうだぜ」

「ああ。朝一番の勝負で、やつは気絶したそうだ」

「本当か、おい?」

 くくくくく……、と忍び笑いがおきた。勝の敗北の噂は島じゅうに駆け巡っていた。

「おれがどうしたって?」

 ひくい押し殺した声に噂をしていた男たちは凍りついた。ふりかえると、とうの勝田勝が席についている。

「い、いや……ただの噂だよ」

「つまらねえ噂だ」

「そ、そうだな。うん、つまんない噂だよ」

 はははは……、とちからなく笑うと、かれらはそろりと立ち上がり二階へあがっていった。食堂の二階は宿泊施設になっている。

 テーブルにやまと食料を積み上げ、勝は無言で食事をつづけていた。その両目は怒りのため充血している。あまりの視線のものすごさに、部屋に同席している男女は落ち着きをうしなっていた。まるで勝の両目から目に見えないレーザー・ビームが出ているようであった。

 がぶり、と勝は巨大な肉塊にかぶりつく。碁石のような歯が肉塊から肉を噛みとり、咀嚼する。ピッチャーに注いだ一リットルのオレンジ・ジュースを一気に飲み干し、皿いっぱいの飯をかきこんだ。食堂には酒類は提供されてはいない。勝が運んできたのはゆうに十人分はありそうな食事の量であった。かれの巨体をささえるには、ふつうの人の食事量では足りないらしい。

 野獣のような勝の食事風景に、その場の男女はいたたまれなくなり、ひとり、ふたりと食堂から出て行った。

 手負いの獣はおそろしい。

 みな、一様に思っていた。

 

 時計の針が九時をまわると、島の施設の明かりが落とされる。

 ふつうの都会生活なら宵の口であるが、なにしろ今日一杯、死に物狂いで戦ってきた参加者はみな目をあけていられない。すでに半数はベッドに倒れこむように眠り、あとの半数も明日のために休んでおこうと宿泊施設で眠れぬ夜を迎えている。

 食堂で太郎はアイロンをかけていた。

 美和子はすでに部屋着に着替え休んでいる。太郎は明日のために彼女の制服にアイロンをかけていたのである。主人の身の回りの世話が執事の本分である。丁寧にアイロンを滑らせ、今日のしわをのばす。

 物音に太郎は動きをとめた。

 食堂にはだれもいないはずだ。

 振り返ると、ドアのちかくに人影があった。

「だれ?」

「あたし」

 人影は食堂のあかりに身をさらした。太郎は目をまるくした。

 洋子だった。

 緒方家のメイドの服を身につけ、太郎の顔を見つめていた。

「やあ」

 太郎はまたアイロンをかける作業を続けた。洋子はゆっくりと太郎に近づいた。

「あなたの忠誠の誓い、見たわ」

 太郎は目を丸くした。

 洋子はふふっ、と悪戯っぽく笑った。

「知らなかったの? この島のあちこちにはテレビ・カメラがしかけられているのよ。だから、だれがどこでどんなことを言ったか、やったか、ぜんぶお見通しなの。それに全国ネットで流されているから、あなたたちの活躍も全部知られているわ」

「そうかい」

 太郎はアイロンがけの作業を続けている。

「ねえ、本気であのお嬢さまの世話を続ける気なの」

「なぜだい」

「だって、高倉家は破産したんでしょ。一文無しなのよ。そんなところに忠義だてするなんて、信じられないわ」

「学校で習ったんだ」

「そりゃ理想の召し使いとしての心構えとしてはそうよ。でも、本当のところそんなことだれも守っちゃいないわ。あの木戸だってそうじゃない? なのに、なぜあんただけ馬鹿正直に守る必要があるのよ?」

「僕はその理想の召し使いを目指している。父さんは最高の召し使いだったそうだ。その息子の僕も、最高の召し使いになるのが、使命だと思ってる」

「へええ、理想の召し使いねえ……」

 洋子は馬鹿にしたような口調になった。太郎は眉をひそめた。

「なんだい、その言い方は?」

「あたし、緒方さまのメイドになってちょっと調べたのよ。あんたの父さんのことは召し使い仲間ではちょっとした有名人なのよね……。あんた、知りたい?」

 太郎はアイロンをおいた。

「なにか知っているのか」

「この島の、北の端に洞窟があるわ。興味があるなら、尋ねてみたら?」

 にやっ、と笑うと洋子はバイバイと手をふって出て行った。

 

 夜空には満天の星空で、月は満月で足もとはあかるい。それでもごつごつとした岩があちこちにつきだし、太郎は懐中電灯を手に、島の北端をめざしていた。

 左手に岸壁がそそりたち、右側は浜辺でよせてはかえす波がざあああ、ざあああ、と白い波頭を打ち寄せている。

 太郎は洞窟をさがしていた。

 洋子の口ぶりが気になっていた。

 いったい彼女はなにを知ったのか?

 島の北端は岸壁がするどくすぼまり、波が長い年月石灰岩をえぐりとっている。

 あれかな?

 太郎は電燈の光をふった。

 黄色いあかりに洞窟が口を開けていた。

 近づき、内部を照らしてみた。

 意外と深い。奥は真っ暗だ。

 太郎はそろり、と用心しながら進んだ。なかには誰かが生活をしているのか、粗末な食器や火をおこしたあとがある。天井を照らすとほそい電線が通っている。電気は通じているらしい。懐中電燈のあかりに、ラジオが見えた。どうやら完全な世捨て人というわけではなく、最低限の世間の情報には接していられる生活はできるようだ。

「だれだ!」

 するどい誰何の声がした。太郎はさっと電燈の明かりをそちらへふった。

「わ!」

 ちいさく悲鳴をあげ、ひとりの人物がまぶしさに手で顔をおおった。

 謝罪して太郎は光を足もとにおろした。

「だれだい、あんた?」

 その人物は目をしばたかせながら話しかけてきた。

 太郎の鼻にぷん、と相手の体臭がにおってきた。どうやら数ヶ月は風呂にはいっていないようだ。髪の毛はのばしほうだいになって、背中までのびている。顔はごわごわの髭でおおわれ、表情がよめない。着ているものもぼろぼろで、もとはどんな服だったのか判別もできなかった。年令は五十にちかい。

「僕は只野太郎といいます。父親の只野五郎のことを知りたくなってやって来ました。あなたはなにかご存知ですか?」

 太郎が名乗ると相手は黙り込んだ。じっと目を見開き、太郎をにらむ。

「帰ってくれ! あんたなんかに用はないよ」

「なにかご存知なのですか?」

 太郎が一歩近づくと、男はあとずさった。

「帰れ! おまえなんか知らない!」

「しかし……」

「知らんといったら、知らん!」

 そう言うとぷい、と横をむき顔をそむけた。ごろんと横になると背中をむけ、全身で拒絶をしめしている。

 太郎はあぐらをかき、男の背中に話しかけた。

「僕はちいさいころから父親を知りません。母は僕が生まれたころ、父は死んだと言うだけです。高倉さまのお屋敷に奉公してからも仲間の召し使いに聞いたのですが、だれも父のことを話してはくれませんでした。お願いです。あなたがなにか知っているなら教えてください」

「なにが知りたいんだ」

 ぼそり、と男は背中をむけたまま答えた。太郎は勢いづいて質問した。

「僕の父さんは最高の召し使いだったとだれも言います。どういう風だったんです?」

「最高の召し使いね……。たしかにそうだよ」

 太郎は待った。

 男は語りだした。

「やつはあんたの高倉男爵の屋敷に奉公した。男爵の財産がいまのようにふえたのも、五郎の手腕さ。やつはさまざまな企業の有力者とコネをつくって、男爵の財産を運用して優良企業に育て上げた」

 太郎は口をはさんだ。

「ですがいまは男爵は破産しました。いまの男爵家には財産は残っていません」

 男はふりむいた。驚きの表情になっていた。

「本当か? なぜそんなことに?」

 太郎は木戸の行ったことを説明した。男はにやりと笑った。

「あいつか! あいつならやりそうなことだ。あいつには忠誠心など、かけらもないからな。男爵は人間的には理想的だったが、経営者の才覚はなかった。たぶん、木戸のやつは全経営権の譲渡を画策したんだろう。男爵はまんまとそれに乗せられたってわけだ」

「ええ、そのショックで男爵は心臓麻痺でなくなられました」

「死んだ……。ふむ、残念なことだ」

「父が高倉家の財産をふやしたことはわかりました。それでどうなったんです。なぜ当時の仲間は父のことを話すのをしぶるんです」

「あいつは召し使いの本分を踏み外したんだよ。召し使いがやってはいけないことをやらかしたんだ!」

「それはなんです?」

「かけおちしたのさ。妻も子供いるというのに、男爵の召し使いの女とかけおちしたんだ。当時、召し使い仲間ではたいへんなスキャンダルだ」

「なんですって?」

 くくく……、と男は乾いた笑い声をあげた。

「男爵はかけらほども疑っちゃいなかったが、ほんとうのことだ。たぶん、高倉男爵はいつのまにか只野五郎が消えたのを不思議に思っていたろうね。なんであんな忠実な召し使いがじぶんのまえから消えたのだろうと……。当時、只野五郎とかけおちした女には子供がいた。只野五郎は妻の名前をつかって世間から身を隠した」

「それでふたりは?」

「さあ、知らんな。幸せになったか、それとも世間をおそれて不幸せになったか。知りたくもないことだ」

「あなたはなぜこんなところで生活しているのです?」

「おれのことはどうでもいい。もう帰れ。聞きたいことは全部話した」

 太郎は黙った。

 やがて口を開いた。

「あなたはもしかしたら僕の父さんなんじゃないですか?」

「なんだと!」

 男はじろりと太郎をにらんだ。太郎は男の髭にかくれた顔にじぶんの顔の輪郭を見出したような気になった。

「僕はここに高倉家のお嬢さま、美和子さまときています。この島でおこなわれているトーナメントに勝ち抜けば、賞金がもらえるからです。その賞金を手にすることができれば、高倉家の窮状を救えるかもしれません。かつて高倉家の財産をふやした只野五郎のように、僕は一文無しになった高倉家をふたたび男爵の爵位にふさわしい家に育ててみようと思います。それが僕の召し使いとしての使命ですから」

 太郎は立ち上がった。

「それではさようなら。あなたがもしも僕のお父さんなら、いつか小姓村にもどってください。母はひとりで待っています」

 そのまま背を向け歩き出した。

 洞窟を出る直前、奥から押し殺したすすり泣きの声が聞こえてきた。


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