妄想/先輩【ヤミプラス】
「牟田口」
もう下校をしようと思っていた。
履きかけの靴のつま先で床を蹴って足を押し込み、その声に反応するように振り返る。
牟田口というのは私の名字だ。
振り返ると、二年生の下駄箱には居ないはずの人間。三年生の先輩がそこに立っていた。先輩はいつも通り人当たりの良い笑みを浮かべている。
「今日ちゃんと傘を持ってきたか?」
「あ、持ってないです」
今日はあいにくの天気だった。私たちがグラウンドで体育の授業を受けている時に降り出した雨は、今も勢いを弱めることなく地面を叩いている。
昇降口に出て行く生徒たちの全員の手には傘が握られているが、私は持っていない。家はさほど遠くは無いので駆け抜けようと思っていた。
その旨を伝えようとすると、先輩は持っていた傘を私に差し出してくる。
「え?」
「貸してやるよ。明日は晴れの予報だし、問題ないだろ」
受け取るかどうか悩んでいると、先輩は私の手を掴んで無理矢理に傘を掴ませた。先輩は私の頭を撫でてくれる。
先輩はすごく優しい。ずっと前に突然話しかけられてから、先輩は何かと私によくしてくれている。先輩にお世話になるのはこれが初めてじゃないし、先輩から言いだしてくれるものの頼ってばかりなのは変わりない。
だから私はまだ戸惑っていた。
「先輩が濡れちゃうんじゃないですか?」
水色の折り畳みの傘を渡して来るということは、先輩は一本しか持っていないということになる。
まだ決断を渋っている私に対して先輩は笑顔を崩さない。先輩は基本的に笑っている。その優しい物腰からなかなか人気があるし、友達も多い。リーダーシップをとることもあるので、校内では結構有名な人間だった。
そんな人が私なんかを気にかける理由はいまいちわからない。
「心配してくれているの? 大丈夫大丈夫。俺にとっては牟田口が濡れるほうが心配だし」
先輩は私の肩に手を置いて目線を合わせて首を傾げてきた。そんな少しだけおちゃめな仕草も、人気の理由の一つなのだろう。
彼の言うことは一々嘘くさい。正直言うと、誰彼かまわずこんなことを言っているのであろう先輩が私は少し苦手でもあった。私を特別視しているわけでもないのにこんなことを言って見せるなんて。
でも優しくしてくれるのだからその行為をないがしろになんかできるはずも無く、私は頷いた。先輩はもう一度頭を撫でて、三年生のほうの下駄箱に消えて行った。
さっさと帰ってしまおう。雨が強くならないうちに。
「海田先輩はいますか?」
昨日の傘を片手に三年生の教室を訪れると、数人の生徒に囲まれて居た海田先輩が私の姿を見つけて慌ててやってきた。
直接返すのは少し気が引けた。あっちの事情もあるだろうし、彼女さんが嫉妬深い人だったら後輩にものを貸して居たことがばれたらまずいだろうし。
海田先輩に彼女がいるかどうかは知らないけれどきっといるだろう。今だってたくさんの生徒に囲まれて笑い合っていたのだから。
私を教室から遠ざけるようにして先輩はトイレの前まで連れてきた。
「ごめんなさい。いきなりは迷惑でしたよね」
私は先輩をしっかりと見上げている。それに対して先輩は周りを気にしているようで視線をさまよわせていた。
私が差し出した傘を見てようやく用事が分かったのか、先輩はそれを受け取ると少し身をかがめた。
「言ってくれたら迎えに行ったのに……」
眉を顰める彼。困った表情を見せるのは久しぶりかもしれない。やはり迷惑だったのか。早く話を切り上げたほうが良いかもしれない。
だが、これだけは言っておきたかった。
「あの、どう言えばよかったんですか?」
先輩の言葉が引っ掛かった。対抗するわけでは無いが、そういわれても困る。
いつどういうタイミングで、傘を返しに行きますって言えばよかったのか。昨日の時点で言えばよかったのか。
先輩は目を見開いてから、ほんのりと笑顔を浮かべた。まるで、当然のことを言うかのように。
「そんなのメールで言ってよ」
「私、海田先輩のアドレス知りませんけど……」
「え?」
先輩の顔が変わる。本当に、純粋に意味が分かっていないような表情だった。その表情にあっけを取られるけれど、構っている暇は無かった。
授業開始五分前にチャイムが鳴ったのだ。
私は先輩に謝って踵を返した。先輩にはあとでちゃんと謝らないと。あの人は少し苦手だけど、そんなに悪い人ではないし。
「牟田口。今帰るのか?」
そんなことがあった後、校内で先輩に会うことは無かった。だから完璧に謝るタイミングを失ったと思っていたのだが、帰り際に先輩が話しかけてきてくれたので助かった。三年生の教室へと足を運ぶことも考えたのだが、迷惑そうな表情をされたのを思い出してためらった。
先輩はカバンを背負うようにしていて、ポケットに片手を突っ込み、空いた手で靴を掴んでいた。
私はいつも帰る時間が遅い。特に一緒に帰る友達もいないので、のんびりと行動をするからだ。
先輩も私のように準備が遅いのか、いつも私と同じ時間に下駄箱に姿を見せている。
「はい。先輩、」
「ん?」
先輩は私の横をすり抜けて、横で靴を履く。少し戸惑ったが、私も靴を履くことにした。なんだか一緒に帰るみたいだ。
先輩は全く気にしていないようだが、無意識に周りを見渡してしまう。もう生徒の姿は見当たらない。校舎の中で溜まっている生徒はいるだろうが、今ここに居る人間はいないだろう。
人気者の先輩と二人きりのところを見られるとよくないことが起こりそうで心なしか急いでいた。
「昼間はすみませんでした。話の途中だったのに……」
「うん。そうだね。俺を一人にするなんてありえないよ」
体が硬直した。
いつもの冗談だ。いつもの冗談。いつも通り、同級生に言うみたいに、私も味方につけようと言っているだけなんだ。そうに違いない。だってこの言葉で人々をひきつけて来たような男なんだこの人は。だからこれは冗談で、みんなに言っていること。だから何も怖くなんか、気味悪くなんかない。
だから大丈夫。
私が自分に言い聞かせている間に先輩は靴を履き終えて立ち上がっていた。
「帰ろうか」
「え、あ、はい……」
なんでだ。なんでこんなことになっているんだ。
先輩は私が終わるのを待ってから歩き出す。後姿を見ながら歩いていると妙な気分だった。
先輩が何を考えているのか、なんで私に付きまとうのかが分からないのだ。
「比奈香」
幼馴染の男子生徒が私の下の名前を呼んだのは、先輩と一緒に帰った次の日のことだった。
久しぶりに話しかけられて驚いたのと、いきなり話しかけられたことへの緊張で返事をすることができなかった。
私は視線だけでそれに答えると、彼が弁当をこちらに見せてきた。一緒に食べようということだろうか。
広げかけていた弁当をまとめて、幼馴染の後をついて行った。
「ごめんな、いきなり」
「ううん。別に大丈夫。どうかしたの?」
幼馴染が向かっているのは屋上の様で、ぐんぐんと階段を上って行く。幼馴染は後ろ髪を乱暴に掻きながらも、屋上への扉を開いた。
風が少し強いが、別に気にするほどでもない。
幼馴染はフェンスのそばに弁当を置き、座り込んだ。私も隣に腰を下ろす。
幼馴染は弁当を開く私の様子を眺めながら呟いた。
「お前、海田先輩のこと知ってる?」
「海田先輩?」
突然私と関わりを持つようになり、私と友好な関係を築きたいのか親切をしてはくれているが、私にとってはただの嘘つきにしか見えない、そんな男の名前。
私は思わず行動を止めていた。彼の名前がここで出て来るとは予想外だった。
風が強いこともあって屋上には誰もいない。静かな空気の中で私はただ首を傾げるだけだった。私が顔を上げると、結構近い位置に幼馴染の顔があった。
海田先輩のことを私に聞いて来るのはお門違いじゃないのだろうか。だって私に付きまとってくる海田先輩の意思を私は知らないのだし。お互いに知っていることは少ないし。海田先輩は私と関わりを持とうとするくせに、私がクラスに行ったら迷惑そうな顔をしたし。
「なんか、最近付き合い悪くなったって。それで……あー、お前が原因なんじゃないかって」
こんなこと言いたくはないけど。彼は最後にそう付け加えた。
確かにこんなことは言われたくなかった。海田先輩の付き合いが悪くなるなんて、そんなの関係ない。でも確かに彼がそんな風になったら心配するのが普通なんだな。だって彼はクラスの中心人物の様なのだから。
私が黙ったのを見て幼馴染は本当に申し訳なさそうな顔をしている。気まずくなった雰囲気に耐えられなくなったのか、幼馴染は立ち上がった。
「い、いや別に深く探るつもりはなかったんだ! ごめんな!」
思ってもいないことを口にして幼馴染はその場を足早に立ち去って行く。
私は移動する気にもなれなかった。何でこんな目に合わなくちゃ、なんで疑われなくちゃいけないのだろうか。
力なく箸を握りしめて弁当を突こうとした時、目の前に人が立っていることに気付いた。
「――――――え」
顔を上げる前に、立てた膝の間に赤い液体が垂れるのを見て箸を落としてしまった。
乾いた音がやけに耳に響く。
ハイソックスに守られていない膝小僧に生温かい液体が次々と落ちていく。
見たくない。そう思いながらも、顔を上げた。
海田先輩が立っていた。
いつもの笑顔は消えて、唇を噛み締めて立ちすくんで居る。右手にはカッターナイフが握られていて、左の掌を引き裂いていた。
驚きに声も出ない。誰もいない屋上が怖い。
海田先輩はしゃがんで、私に潤んだ瞳を向けた。
「……浮気?」
「へ?」
弱弱しく呟かれたセリフ。先輩の瞳から目が離せない。彼の大きな体が私を追い詰めるようにしてある。彼の左手が、私の輪郭をなぞる。
暖かい。温かくて、冷たい。
いやだと思う。動けない。逃げたいと思う。動けない。
何をやっているんだこの人は。
先輩の右手には刃物が握られている。下手に刺激はできない。
「俺以外の人間と二人きりになるって何? なぁ……」
「ちょっと……海田先輩……な、なに言って……」
声が震える。
弁当が滑り落ちてひっくり返る。もったいないとか考えられない。今はただ先輩が怖くて仕方がない。
先輩はついに涙を流した。先輩の手の熱がどんどん冷えていく感覚がして怖い。目を瞑ることもできない。乾いていく眼球から血がでそうだ。
何を言っているんだこの人は。何を、言いたいんだ。
「ごめ、俺、ほんと……嫉妬深いから……で、でも俺以外と会うとか……無理で、ごめん」
「……あの、先輩……?」
先輩の瞳からどんどんと涙が溢れて、唇から嗚咽が漏れる。チャイムがどこか遠くでひびいている。そんな音すらどうでも良い。今目の前で起こっている光景が信じられなくて、拳を握りしめることしかできない。
なんで、こんなことに。
先輩を落ち着かせなくちゃ。先輩の意思をくみ取らないと。何が言いたいのかわからない。
「先輩っ! しっかりしてください! 何が言いたいのかわからないです!」
「……は……?」
ぐ、と左手に力が入る。と同時に、彼は右手のカッターを私の頬に押し付けた。さらに顔が近くなり、乱れた吐息がすぐそばで聞こえる。
涙が止まった。
瞳がわずかに痙攣していることが恐ろしい。
「あのさ、お前自分がやったことわかってないの?」
冷たくなった声音と、押し付けられる刃の冷たさが連動して私の体を締め付ける。
固まる私に先輩は笑いかけてくれない。冷めた瞳はまた一粒溜まった涙を吐き出した。徐々に乾いていく血液が張り付いて気持ちが悪い。
付き合い悪くなった海田先輩。
なんだよそれ。私には関係ない。あっちが勝手に付きまとってくるだけで、私は何も知らないんだよ。
あっちが、勝手に。
あっちが。
「お前、本当に分かってないよな。俺がこれだけお前のこと心配しているのに。俺がどれだけお前のことが好きか、知らないだろ?」
先輩の右手が離れる。そしてそのまま彼は自分の首筋にカッターを押し付けたのだ。
自分の瞳に涙が滲んでいることに気付く。
目の周りが熱を持って、痒い。眼球を取り出して洗いたい。見たくない。
彼は私と額を合わせた。彼の瞳が近くなる。
怖い。怖くてたまらない。好きだなんて。なんだよそれ。知らない。知らない。
どれだけ好きかなんてそんなの、知りたくもない。
「俺、お前を取り戻すためなら何でもなんでもする。お前だって俺が傷つくのは嫌だろ……?」
確かめるように呟かれた言葉に背筋が凍った。彼はためらうことも無く自分の首筋に刃を食い込ませる。
何を言っているのかますますわからなくなってきた。
本当に。
反応をしない私を愛おしそうに撫でる掌は位置をずらしていき、唇を撫でた。反射的に唇を閉ざして拒絶をする。
「俺のこと、みろよ」
彼の指が唇の中に侵入してくる。
いまいち状況が分かっていない。
どうしてこんなことを彼は言っているのか。
私に親切にしてくれていたのは、好きだから?ほかの男と会って怒ったのは嫉妬から?
いやいや。
じゃあ、なんで。
なんで、こいつはこんなに私のことを全部わかっているみたいに。
今までずっと愛し合ってきた恋人に話しかけるように。
「俺はお前の恋人なんだから。なぁ?」
違う。違う。違う。何言っているんだコイツ。有り得ない。何でこんなことに。何で。違う。違う。そんな憶えない。この人はいきなり私に付きまとい始めただけだ。
右の瞳から涙がこぼれた。それを彼は舌で拭う。その感触が不快だった。
胸を押して反抗しようとした。でも彼は動じない。動じてくれない。
喉から声が出てこない。
でも絞り出さないと。
「ち、違う」
「違くない」
「ちが、う」
「違くない」
「ち、が」
「違くない」
どんどん視線が下がって行く。ついには彼の足元にまで視線がいっていた。
何で優しくしてくれたんですか。好きだから。
彼はきっと言ってのける。そんな有り得ないことをきっと言ってのける。こっちに身に覚えのないことを言ってのける。
何故なら彼は、私の彼氏だから。彼の中では、私の彼氏なのだから。
「比奈香。お前は俺の彼女なんだよ。だから、俺を愛して。俺を裏切らないで」
合わせあう額が熱を引き合い、そして溶ける。
ぐずぐずになって、何も考えられなくなった。
違う。何も考えたくなくなった。ただ、それだけだった。