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vol.3


 気が付けば、太陽は沈み、室内は薄闇に包まれていた。開け広げたバルコニーの窓からひんやりとした風が入ってくる。


「何とか首の皮一枚つながったかな」


 リィズはバルコニーに出ると、手すりにもたれかかった。



 ゴゴ。



 地響きのような鈍い音が聞こえた瞬間。


「っ!」


 リィズはもたれかかっていた手すりごと自分の体が引力によって転落していくのを感じ取った。


(嘘?)


 伸ばした手は空を掴み、急速に落下していく。


 空が遠くなっていく。このまま落ちていけば間違いなく自分は死ぬだろう。そう思った瞬間、リィズは声にならない悲鳴を上げていた。


 刹那、落下速度が止まる。


「コーネ?」


 リィズは自分の体が白い毛並みのコーネの背中に支えられていることを知った。


 コーネとは全長三メートルほどの羽根が生えた希少な獣であり、ディファラントにのみ生息するとされている。ディファラントに召喚される際に一度だけ乗ったことがあった。


「まったく、どうしてこんな女をアタシの背中に乗せなきゃいけないのよ」


 そして、他の獣に比べて卓逸しているのは、人語をしゃべることである。ちなみに、このコーネはメスらしい。


「何、この生意気なコーネは?」


「あんたなんかアブサルーク様の命令じゃなかったら助けなかったんだからね」


「アブサルーク? あなた、アブサルークのコーネなの?」


「ち、ちがうわよ! アタシは通りすがりの野生のコーネ。たまたまあんたが落ちていくのが見えたから助けてあげただけ。しつこいようだけど、たまたまだからね!」


 嘘であることが明白なくらいコーネは狼狽しまくっていた。コーネは元老院によって飼育が管理されているため、野生のコーネなどは存在しない。百歩譲って野生のコーネがいたとしても、厳重な警備網をかいくぐって城の敷地内に侵入することは不可能である。


「まあそういうことにしておいてあげるわ。じゃあ野生のコーネちゃん、ご主人様の所へ私を連れて行ってくれるかしら?」


 リィズはコーネの首を背後から羽交い絞めする。


「ちょ、ちょっと放しなさいよ!」


 コーネはジタバタと暴れて抵抗するが、鉱山で鍛えた腕っ節は伊達ではない。リィズは徐々に力を込めてコーネの首を絞めつけていく。


「く、苦しい……。何なの、このバカ力は」


「アブサルークの所へ連れて行ってくれる気になったかしら?」


「わ、わかったわよ!」


「最初から素直にそう言えばいいのよ」


 コーネが耐えきれずに根を上げると、リィズはコーネの首を解放し満面の笑みを浮かべた。







 コーネが降り立ったのは、高い塀に囲まれた小さな庭園だった。手入れの行き届いたキレイな庭に、リィズは思わず固唾を呑む。


「何しにきた?」


 ガゼボの中にいたアブサルークは不機嫌そうな表情でリィズを一瞥する。


「私を助けてくれたコーネの主にお礼を言いに来ただけよ」


「ならば、他をあたれ」


「おかしいなぁ。私はコーネにご主人の所に連れて行けって言ったんだけど」


 アブサルークとリィズの視線を一身に受けて、コーネは長い尻尾を丸めた。


「それにしても、こんな場所があったなんて気が付かなかった」


「人々の目に触れぬよう、ずいぶん前に閉鎖してしまったからな」


「こんなにキレイな花がいっぱい咲いているのに?」


「それはアブサルーク様が手入れをされているからに決まっているじゃない」


「ダイナ!」


 アブサルークに一喝され、ダイナと呼ばれたコーネは体を小さく丸めて押し黙る。


「このやかましい女をさっさと連れて帰れ」


「いやよ。私はお礼を言うまでは絶対帰らないから」


「好きにしろ」


 頑として引き下がらないリィズに、アブサルークは背を向ける。


「へえ、ここからだと北の塔がよく見えるのね」


 リィズは塀の狭間を覗き込むと、部屋のバルコニーを見上げた。あのまま落下していれば間違いなく命を落としていただろう。そう考えただけで背筋に冷たいものが走った。


「ありがとう、アブサルーク」


「…………」


 しかし、アブサルークからの返事はない。


 しばらくの重い沈黙の後、口火を切ったのは意外にもアブサルークの方だった。


「笑いたければ笑え」


「笑わないわよ。ちょっと意外だったけど、安心した。花を愛でることができる人だってわかったから」


「お前、よくそういう恥ずかしいことが平気で言えるな」


「別に恥ずかしいことなんて何も言ってないわよ」


 バツが悪そうなアブサルークに対して、リィズは胸を張って断言する。


「思っていることが素直に言える奴なんてエテミド以外にはいないと思っていたがな」


「お兄さん思いのいい弟じゃないの。王妃は誰かさんに似ているけど」


 リィズが小声で呟く。


「悪いが、俺はあの女とは血の繋がりはない」


「え?」


「この際だから、言っておく。あの女は自分と血の繋がりがあるエテミドに王位を継がせたいと思っている。だから、俺の花嫁となるお前の存在が邪魔なのだ」


 リィズが小首を傾げるのを見て、アブサルークは眉間にしわを寄せるとため息をもらした。


「キャサレーヌは俺を産んだ母親ではないということだ。わかったか?」


「あー、そういうこと」


 そこでやっとすべてを理解したリィズが両手を合わせて叩いた。


 キャサレーヌがアブサルークに嫌悪感を抱いていた理由。それは自分とは血が繋がらないアブサルークが王位を継承することが気に入らなかったのだろう。そして、アブサルークが十八歳の誕生日までにリィズと結婚しなければ王位継承権は失われ、弟のエテミドが十八歳までに誰かと結婚してしまえば次期国王になれるというわけだ。


「だから、アブサルークの花嫁になる私をいびって追い返そうとしているわけ?」


「そういうことだ。だが、正直俺は結婚する気もなかったし、王位を継ぐ気もなかった」


「なら、最初からみんなにそう言えばいいじゃない?」


 リィズの助言にアブサルークは苦笑する。


「父上には昔からずっと言ってきた。しかし、父上は俺にしか王位は継がせないと元老院の奴らに公言してしまった」


「それでいるかどうかもわからない赤い髪と瞳の女としか結婚しないとか言ったわけ?」


「幼い頃に父上から他国に伝わるという赤い髪と瞳を持つ女騎士の伝説を聞いたことがあった。その女騎士は未曽有の危機から国を救って英雄になったという」


「私とは逆ね」


 自分はいつも人からも国からも疎まれてきた。リィズは寂しい表情を浮かべる。


「俺はその女騎士にあこがれた。だが、この国にはそんな女はいないと思っていた」


「私がアブサルークの計算を狂わせたってこと?」


「そうだな。お前と出会った瞬間に俺の計算はすべて狂った」


 アブサルークはリィズの赤い髪にそっと触れた。


 いつもとは違うアブサルークの穏やかな表情に、リィズは戸惑った。


「お前の髪も瞳も燃え盛る炎のようだ。きっと女騎士もお前のような女性だったのだろうな」


「みんなはそんな風には言ってくれなかった。不吉を招く血の色だって」


「俺の髪の色、どう思う?」


「どう、って?」


 リィズは返答に躊躇しているのを見て、アブサルークは王位継承の条件を彼女が知っていることを悟った。


「知っていたのか?」


「だけど、私は好き!」


「!」


 意表を突かれたアブサルークは、頬を紅潮させた。それを見たリィズは咄嗟に口から出た言葉の重大さに気付く。


「あ、そ、その、髪の色ことだからね。まあこんな私に言われても嬉しくないかもしれないけど」


「いや、そんなことはない」


「…………」


 リィズはアブサルークの顔を凝視した。


「あなた、本当にアブサルーク?」


「どういう意味だ?」


「だって、別人みたいに素直なんだもの」


 いつもならこんなことを言えば、冷めた態度で一喝されてしまうところだ。しかし、今のアブサルークは寂しげな表情を浮かべる孤独な少年ようだった。


(こっちが本当のアブサルークなのかもしれない)


 リィズはエテミドの言葉を思い出した。



 ――あなたになら兄上も本当の気持ちを打ち明けてくれるかもしれませんね。



「この庭のせいかもな」


「この庭?」


 リィズは庭内を見回した。


 中央にある乾いた噴水を囲むように色鮮やかな花が咲き誇っている。毎日丹念に世話をしなければこんな立派な大輪は咲かないだろう。


「ここは俺を産んだ母上が大好きな場所だったらしい」


「ごめん、私……」


「気にすることはない。俺には母上の記憶はないからな」


 夜のひんやりとした風が二人の頬を撫でていく。花たちも風の音と共にざわめきだす。


「俺の髪の色が黒だったばかりに、元老院から国王の子であるはずがないと詰問され、身の潔白を晴らすために自ら命を絶ったそうだ」


 前王妃サマーラは王族筋の娘で、オーラジン王国一の美貌の持ち主で見事な黄金色の髪をしていたという。当然、ブレスフォード王も金髪である。そんな二人の間から黒髪の赤ん坊が産まれるなどあってはならないことだった。


「里子に出されるはずだった俺は母上のおかげで王子として城に残ることができたが、城の者たちは俺を『汚れた王子』と陰口し、罵ってきた。父上はそれを負い目に思っている。だから、元老院の反対を押し切ってでも俺に王位を継承させたいのだろう。それは俺にとっては重荷でしかなかった。だから、俺は父上に王位継承を諦めさせるためにずいぶんと非道なこともしてきた。お前にも……」


「もういい。もう何も言わなくていいから」


 リィズの眼前にいる今のアブサルークこそが彼の本来の姿なのだろう。冷酷な言動もそんな弱い自分を隠すために虚勢を張っていただけなのかもしれない。そう思うと、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のような心を持ったアブサルークを、リィズは抱きしめずにはいられなかった。


「じゃあ、今度は私の話聞いてくれる?」


「お前の?」


「だって、不公平でしょう? 私ばかりがアブサルークのことを知ってしまったら」


 リィズはアブサルークから離れると、柔和な笑みを浮かべた。







「私たちの結婚は止めにしましょう」


「は?」


 自分の生い立ちをすべて話した後のリィズの突拍子もない発言に、アブサルークは唖然とした。


「だから、私はアブサルークとは結婚しないと言っているの」


「なぜ急にそんなことを言い出す?」


「アブサルークは私と結婚しなければ国王にならなくてすむわけでしょう? だったら、こうするのが一番じゃないの」


「しかし、お前は自分の故郷を探したいのだろう?」


「そうだけど、私はアブサルークの人生を踏み台にして自分だけが幸せになろうとは思わない。旅費ならまた鉱山に戻って稼げばいいことだわ。あそこは賃金だけは良かったしね」


「バカなことを言うな。あそこの生活がどんなに過酷かは俺だって知っている」


「大丈夫だって。こう見えても私体力だけは自信があるんだから」


 リィズは両腕を掲げると力こぶを作って見せる。


「それに、アブサルークだって私がいない方がせいせいするでしょう?」


「もう手遅れだ」


「え?」


 アブサルークはリィズの腕を引き寄せ、力強く抱きしめた。


「お前という温もりを知ってしまった以上、手放す気にはなれない」


「アブサルーク……」


「言っただろう。お前は俺の計算をすべて狂わせた、と」


 アブサルークは今までにない鼓動の高鳴りを感じていた。初めて人を愛おしいと思った。そして、アブサルークの胸に顔を埋めたリィズもまた彼の心臓が激しく脈打つ音を聞きながら、自分の心臓も同様であることに気付く。


(私、アブサルークのこと好きになってる?)

 リィズはゆっくりと顔を上げ、アブサルークを見つめる。吐息がかかるほどの距離に顔が近付いていく。


 二人の唇が触れる瞬間。


「リィズ様!」


 甘い時間の終わりを告げる声が響いた。


 アブサルークとリィズはまるで反発しあう磁石のように弾けて離れる。


「ガスニアさん?」


 薄闇の中から、ガスニアが姿を現す。


 只ならぬ気配を感じてリィズの部屋に入ったガスニアは、彼女がコーネに助けられてこの庭園に降りていくのを見て駆けつけてきたのだった。


 しかし、アブサルークがいるのを知り、慌てて片膝をつき頭を下げる。


「失礼致しました。アブサルーク様がご一緒とは存じませんでしたので」


「かまわん。それよりなぜガスニアがリィズを?」


 アブサルークはいつもの冷たい双眸でガスニアを見下していた。


「キャサレーヌ様より本日付を以ってリィズ様の側近を命じられました」


「親衛隊隊長のお前にか?」


「はい」


「よほど俺の花嫁が大事と見えるな」


 アブサルークは王室がある南の塔の方角を見上げると、忌々しげに吐き捨てた。


「なら、さっさと部屋へ連れて戻れ」


 アブサルークはリィズの体を引き寄せると、


「これからは俺以外の者に気を許すな。古いとはいえ、バルコニーの手すりが壊れたというのは腑に落ちんからな」


 小声で囁き、ガスニアに預ける。


「俺の大切な花嫁だ。しっかりと部屋に送り届けろ」


「かしこまりました。その前にリィズ様、これを」


 ガスニアが差し出したのは、金色のウィッグだった。転落の際にはずれてしまったのを拾ってくれていただろう。


「ありがとうございます」


 リィズはウィッグをつけると後ろ髪を引かれる思いで、ガスニアと共に庭園を後にした。


「とんだ、恋の落とし穴だな。愛した女のためにまさかこの俺が王位を継承する気になるとはな」


 アブサルークは両腕に残ったリィズの温もりを感じながら自嘲した。








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