静止
十月のある朝、駅から会社まで歩いていく途中で、金木犀の匂いがした。
毎年、同じだ。その匂いはいつも何の前触れもなく、差出人の書いていない手紙のように、やってくる。昨日まではたしかになかったが、気がついたときには、街じゅうがその匂いに包まれている。
僕は横断歩道の手前で立ちどまり、どこに木があるのか探してみたが、見つからなかった。金木犀というのはたいていそうだ。匂いばかりが先に届いて、木そのものはどこにも見あたらない。
信号が青に変わった。僕は歩きだし、それから三十年あまり前のことを考えた。
*
高校三年、最後の文化祭で、僕らのクラスは縁日をやることになった。各クラスの割り当ての抽選で、中庭のすみの一角が回ってきたのだ。秋の屋外なら縁日をやれば雰囲気が出る、と誰かが言った。言いだしたのが誰だったのかは覚えていないが、たぶん誰でもなくて、ホームルームの終わりごろに、あしたの天気予報みたいに何となく決まってしまったんだと思う。
射的、ヨーヨー釣り、輪投げ、それに独楽回し。学級委員長がどこかの玩具屋から、ひもを巻いて投げる木の独楽を六つ買ってきた。ところが、それを回せる人間は、どうやらクラスに一人もいないようだった。少なくとも、その日の昼休みまでは。
早瀬さんは、窓ぎわのいちばんうしろの席で、たいてい文庫本を読んでいる女の子だった。成績は良くも悪くもなく、声は小さく、誰とも特別に親しくはない、目立たない同級生。昼休みに僕らが独楽を床に投げつけ、そのたびに独楽が見当ちがいの方向へ転がっていくのを、彼女は本から目を上げてしばらく眺めていた。それから立ちあがり、足もとに転がってきたひとつを拾った。
彼女はひもを軸に巻きつけた。きつく、すきまなく、何かの儀式のように。それから右手を小さく振った。独楽は床に落ちた瞬間から、まっすぐに立って回っていた。
やがて、独楽は止まって見えた。
見えた、というよりも本当に止まっているみたいだった。ふらつきもせず、音もたてず、床の上の一点にじっと立っている。誰かが息をのむ音が聞こえた。
「眠ったの」と早瀬さんは言った。
「眠った?」と僕は訊いた。
「眠り独楽っていうの。軸がまっすぐになって、いちばん速く回っているときに、いちばん止まって見えるの」彼女は独楽を見下ろしたまま言った。「可笑しいでしょう」
十秒か十五秒たったころ、独楽は少しずつ揺れはじめ、大きな円を描いて、やがて横に倒れた。教室じゅうから拍手が起きたが、早瀬さんは、自分に不釣り合いな注目をどう扱えばいいのかわからない、という顔をしていた。
そういうわけで、文化祭の二日間、独楽の係は早瀬さんと僕になった。彼女が回す係で、僕がそれ以外のすべての係だった。僕が選ばれたのは、その昼休みのあいだに、転がっていった独楽をいちばんたくさん拾い集めていたからだ。その時はどうして僕が、と疑問に思ったが、人生における役割というのは、いつもそんなふうにして決まるものだと社会人になってから知った。
独楽の台は、中庭のいちばん奥の、コンクリートの敷かれたあたりに置かれた。土の上では独楽が回らない。僕と早瀬さんの待機用として置かれた長机の横には大きな金木犀の木があって、ちょうど花の盛りだった。
*
独楽の台には、ほとんど客が来なかった。人が集まるのは射的とヨーヨー釣りのほうで、射的の景品は一日目の昼までにあらかたなくなった。最後まで残ったのは、なぜか酢昆布だけだった。ときどき誰かの父親や小さな弟が迷いこんできて、早瀬さんが独楽を回してみせると、感心して帰っていった。自分でやってみようとする人は、ほとんどいなかった。
客がいないあいだ、僕らはパイプ椅子に並んですわり、金木犀の下でいろいろな話をした。いろいろと言っても、たいした話ではない。好きな作家のこと、苦手な数学の教師のこと、駅前のパン屋のカレーパンのこと。
「独楽を回せる女の子に、これまで会ったことがある?」と、早瀬さんが訊いた。
「いや、君がはじめてだと思う」
「覚えておいたほうがいいよ。たぶん、この先も、私しかいないから」
僕はよく意味がわからないまま、それを覚えておくことにした。今思うと、実際、彼女の言ったとおりだった。
独楽は祖父に習ったのだと彼女は言った。祖父は、回すものなら何でもうまかったのだそうだ。独楽も、ヨーヨーも、それから話も。
「話?」
「ひとつの話を、いつまでもぐるぐる回しておけるの。終わりそうで全然終わらないの」
「それは、少し困るね」
「すごく困った」と彼女は言って、少しだけ笑った。
風が吹くと、金木犀の小さな花が、机の上にぱらぱらと落ちてきた。早瀬さんはそれを一つずつ指でつまんで、手のひらに並べた。
「この木、実がならないの。知ってた?」
「知らなかった」
「おじいちゃんが言ってた。日本の金木犀は、ぜんぶ雄の木なんだって。昔、中国から雄の木だけが持ちこまれたから。だから種ができない。挿し木でしか増えないの。誰かが枝を切って、どこか別の場所に植える。そうやって、ずっと続いてきたの」
「それは、さびしい話なのかな」
彼女は手のひらの花を見ながら、しばらく考えていた。
「人によるんじゃないかな。どこに行っても、同じ匂いがするっていうことだから」
そのとき、射的の係をしていた男子が二人、景品の酢昆布をかじりながら独楽の台にやってきた。
「おまえら、二日間ずっとここで二人きりだよな」と一人が言った。「もしかして、付き合ってるのか」
もう一人がにやにや笑った。早瀬さんは手のひらの花に目を落としたまま、何も言わなかった。
「違う、なんでもないよ」と僕は言った。
自分でも驚くくらい、すばやい答えだった。二人は興味を失うと退屈そうに肩をすくめて、射的のほうへ戻っていった。早瀬さんは手のひらの花を、机の上にそっと戻した。一つずつ、並べたときと同じ順番で。
*
二日目の夕方、体育館のほうから後夜祭の音楽が聞こえはじめたころ、僕らは長机をたたんだ。早瀬さんは六つの独楽のうち、いちばん傷だらけになったひとつを僕に差しだした。昼休みに、僕がいちばん多く床に投げつけた独楽だった。
「これ、あげる。委員長には言っておくから」
「僕は回せないよ」
「だから練習して」と彼女は言った。「回せるようになったら、見せて」
僕は独楽を受けとった。眺めると、ひもが軸に巻きつけたままになっていた。きつく、すきまなく。
それから、特に何かが起きたわけではなかった。なんでもない、と言ったのは僕のほうだった。だから僕は、そのあともなんでもないふりを続けるしかなくなった。廊下で会えば軽くうなずきあい、ときどき本の貸し借りをした。それだけの、なんでもない関係が続いた。
年が明け、大学の合格発表があった日の夕方、僕は駅前の公衆電話から、早瀬さんの家に電話をかけた。そのころはまだ、誰かと話がしたければ、その人の家に電話をかけるしかなかった。連絡網の紙に書いてあった早瀬さんの番号を、まるで何か悪いことをしているみたいに、こっそりと生徒手帳に書き写して、ポケットに忍ばせていた。僕は電話機の上に十円玉を何枚か積み、一度周りを見渡してから生徒手帳を取り出すと、その番号をひとつずつ押した。
呼び出し音が四回鳴る。男の人の声が聞こえた。
「はい、早瀬です」
低い、落ちついた不愛想な声だった。僕は何も言えなかった。何を言うつもりだったのか、自分でもよくわからなかった。合格したことを伝えたかったのか、それとも、あの中庭で言いそこねたことを言いたかったのか。
「もしもし」と彼女の父親は言った。
僕は黙って受話器を置いた。電話機は十円玉を一枚だけのみこんで、なんでもなかったような顔をしていた。
卒業すると、早瀬さんは札幌の大学に進み、僕は東京の大学に進んだ。
大学一年の年の暮れ、実家に帰省すると、彼女から葉書が届いていた。
「こっちには金木犀がほとんどないの。寒すぎて育たないんだって。十月なのに、街が何の匂いもしない。独楽は回せるようになった?」
葉書のすみに、小さな字で一行だけ書きそえてあった。
「三月に、何も言わない電話が一度あったって、父が言ってた」
僕は返事の葉書に、独楽はまだ回せない、と書いた。それから当たり障りのない近況を書き、電話のことは書かなかった。
僕らはそれから何度か手紙をやりとりした。それが途絶えたのは、たぶん大学二年の冬ごろだったと思う。どちらかがやめようと決めたわけではない。ただ、回っていた独楽が少しずつ揺れはじめて、気がついたときには倒れている。それと同じことだった。
インターネットというものが世の中に行きわたってしばらくしたころ、僕は一度だけ、彼女の名前を検索してみたことがある。同じ名前の歯科医と、同じ名前の陶芸家と、同じ名前の誰かが書いている猫の日記が出てきた。どれも彼女ではなかった。あるいは、どれかが彼女だったのかもしれない。そもそも彼女がいまも早瀬という名字だという保証は、どこにもなかった。僕はそれきり、二度と調べなかった。
去年の春、高校の同窓会の案内状が届いた。僕はめずらしく、出席のほうに丸をつけた。
ホテルの宴会場で、僕は何人かの同級生に早瀬さんのことを訊いてみた。誰も知らなかった。彼女の名前を聞いて、少し考えてから、ああ、独楽の、と言った人が一人いただけだった。案内状は実家あてに送ったけれど、宛先不明で戻ってきた、と幹事は言った。母校の学務に問い合わせても、当時の電話番号が今は不通になっているらしかった。
家に帰ってから、僕は古い葉書に書いてあった、彼女の札幌の下宿あてに手紙を出した。何を書いたのかはよく覚えていないが、同窓会のことを書いたような気がする。二週間後、その手紙は「あて所に尋ねあたりません」という判を押されて戻ってきた。
*
そんな昔のことを思い出した日の夜、部屋に帰ると、僕は机の引き出しの奥から独楽を取りだした。何度もの引っ越しのあいだ、僕はなぜかそれを一度も捨てなかった。そして一度も、まともに回せるようにはならなかった。
窓を少し開けると、どこからか金木犀の匂いが流れこんできた。やはり木はどこにも見えなかった。
僕は軸にひもを巻きつけた。きつく、すきまなく。それから台所の床に向かって投げた。独楽は床にあたって跳ね、テーブルの下に転がっていった。もう一度巻いて、投げた。今度は少しだけ回って、すぐに倒れた。
あの頃から変わらず、いまだに回せない自分が可笑しくなり、次で終わりにしようと心に決め、投げた。
三度目にして、独楽が立った。
ふらつきながら回り、それから少しずつ軸がまっすぐになっていった。ほんの一瞬、独楽は止まって見えた。眠りかけたように見えたが、それは一秒にも満たなかった。独楽はすぐに揺れはじめ、大きな円を描いて、冷蔵庫の前で横に倒れた。
回せるようになったら、見せて。
僕の中の早瀬さんは、いまも金木犀の下のパイプ椅子にすわっている。十七歳のまま、手のひらに小さな花を並べて。そこでは何も変わらない。彼女はそこで、じっと止まっている。
でも、本当はそうではないのだろう。彼女はいまも、僕の知らないどこかで暮らしている。もしかしたら、金木犀の匂いのしない街で。僕にはもう、それを確かめるすべがない。
いちばん速く回っているときに、いちばん止まって見えるの、と彼女は言った。
僕は床にすわりこんだまま、倒れた独楽をしばらく眺めていた。金木犀の匂いは、あと何日かすれば消えてしまうだろう。そして来年の十月になれば、また前触れもなくやってくる。どこに行っても同じ匂いが、僕の事情とはお構いなしに、勝手に訪れて去っていく。それがさびしい話なのかどうか、僕にはいまでもよくわからない。
僕は独楽を拾い、もう一度ひもを巻いた。きつく、すきまなく。彼女の姿を、一日でも長く、覚えていられるように。




