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第107話 家族

 しばらくして、泣き疲れたのか、ノアの呼吸が少しずつ穏やかなものへと変わっていった。

 彼女は涙を袖でゴシゴシと拭うと、セイラの胸元からゆっくりと顔を上げた。


「……ありがとう」


 その声は、どこまでも小さく、掠れていた。

 けれど、初めて自らの意志で紡がれた言葉には、確かな温もりが宿っていた。


「ううん。君が笑ってくれて、お姉ちゃん嬉しいよ」


「お姉ちゃん……?」


「うん! だって君は、私と血が繋がってるでしょ? だから妹!」


「いもうと……」


 ノアは生まれて初めて耳にするその響きを、不思議そうに、けれど大切そうに口の中で繰り返した。

 そして、差し出されたセイラの手を、自分の小さな両手でぎゅっと握りしめる。


「じゃあ、これからは、その……お、お姉さまって呼んでもいい、の?」


「もちろん! お姉さまでも、お姉ちゃんでも、好きなように呼んで!」


「お姉さま、お姉さま……ふふふ」


 ノアの茜色の瞳に、初めて小さな、けれど確かな光が灯る。

 二人のやり取りを見守りながら、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 あんなに冷酷な生体兵器として現れたノアが、セイラと手を繋ぎ、幼い子供のような笑みを浮かべている。

 過酷な戦いではあったが、この笑顔を守れたのなら、ボロボロになった甲斐もあったというものだ。

 そんなことを考えて、少しだけ気を緩めた時だった。


「──じゃあ、あなたはお兄さま?」


「お、お兄さま?」


 思わず面食らって、俺は腕の中のノアをまじまじと見つめた。

 作業服の裾を小さな手でぎゅっと掴み、潤んだ茜色の瞳で縋るように俺を見上げている。


「なんか、安心するから……あなたも、助けてくれた人でしょ」


「……あ、ああ。まあ、そうだな」


 まさか人生で「お兄さま」などと呼ばれる日が来るとは夢にも思わなかった。

 戸惑いながらも、その小さく震える手を振り払うことなんてできるはずがない。俺は少しぎこちなく、けれど優しく、彼女の細い指先を包み込んだ。


「あはは! いいね、お兄ちゃん! 透はお兄ちゃんだよ!」


 セイラが嬉しそうに手を叩いてはしゃぐ。


「お前、お兄ちゃんって言うな。なんだか急に世帯じみてきたぞ……」


「いいじゃない、お兄ちゃん。これからはみんなで一緒にご飯食べるんだもん、家族だよ!」


「かぞく……」


 ノアは再び、その言葉を慈しむように呟いた。

 お父様から「組織の歯車」として、あるいは「オリジナルを回収するための道具」としてしか扱われてこなかった彼女にとって、「家族」という言葉は、何よりも甘美で、夢のような響きだったのだろう。

 俺はふと気になって、右目に意識を集中させ、彼女のステータスをもう一度『真贋鑑定』で覗いてみた。


 ====================

【対象】ノア

【状態】精神的安定(極めて良好)、『極度の空腹』

【備考】これまでの過酷な戦闘と魔物因子の暴走、さらにその急激な中和反応により、体内のエネルギーをほぼ完全に消費し尽くしている。速やかな栄養補給を推奨。

 ====================


(極度の空腹……って、そりゃそうだよな)


 あれだけの戦闘を繰り広げ、さらに細胞が自壊しかけるほどのエネルギー消費だ。おまけに、俺たちと出会う前、彼女がエデンの施設でまともな食事を与えられていたとも思えない。

 俺が鑑定のウィンドウを見ながら、どうしたものかと考えていた、まさにその瞬間だった。


 ――ぐぅぅぅぅぅ。


 静かな広間に、とても小さく、けれど確かな音が響いた。


「……あ」


「あはは! ノア、お腹鳴った! 可愛い!」


 ――ぐきゅぅぅぅぅぅ。


「……あ。私も鳴っちゃった」


 セイラがノアをからかった直後、彼女自身のお腹からも、盛大な音が鳴り響いた。

 これにはノアもパッと顔を上げ、小さくクスリと微笑む。


「……お姉さまも、お腹、鳴るんだ」


「うん、鳴るよ! いっぱい動いたし、お腹ぺこぺこだもん!」


「大したもんは出せないけど、飯にす──」


 そう言いかけた、まさにその時だった。


 バササササッ!


 と、広間の入り口を塞いでいた魔物の壁が、内側から激しく吹き飛ばされた。

 大理石の破片が猛烈に舞い散る中、現れたのは、息一つ乱していないシャルルと、漆黒のダガーを携えたシルヴィだった。


「おや、どうやらこちらは、ずいぶんとアットホームな雰囲気のようだね」


 シャルルが優雅に髪を掻き上げながら歩み寄ってくる。

 しかし、そのサファイアブルーの瞳は、いつもと違って全く笑っていなかった。

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