第1話 魔女を殺す炎
雨の降る夜だった。
石畳を叩く雨音が、街中に響いている。
軒先に吊るされた灯火は風に揺れ、濡れた路地にぼんやりとした橙色の光を落としていた。人の気配はない。夜更けだからではない。この街に住む者たちは皆、扉を固く閉ざし、窓に布をかけ、息を殺していた。
魔女が出る。
その噂が広がってから、まだ七日しか経っていない。
けれど七日あれば、人の暮らしが壊れるには十分だった。
市場は閉じ、鐘楼は沈黙し、教会の扉には魔除けの札が幾重にも貼られている。だが、その札に意味がないことを、この街の者たちはすでに知っていた。
魔女は、祈りでは止まらない。
神の名でも、剣でも、正義でも。
止められない。
だから人々は、ある男を待っていた。
魔女を殺す男を。
路地の奥。
血の匂いがした。
雨に薄められてなお、鉄臭さは消えない。石畳の隙間を赤黒い水が流れ、排水溝へ吸い込まれていく。
その血の先に、一人の少女が立っていた。
年は十六ほどに見える。白い髪、薄紫の瞳。濡れた外套をまとい、片手には小さな人形を抱いている。
人形ではない。
人だったものだ。
糸のように細くなった腕。布のように折れ曲がった首。表情だけが恐怖の形に固まっている。
少女はそれを抱きしめ、雨空を見上げていた。
「……どうして」
震える声だった。
「どうして、みんな逃げるの」
彼女の足元には、いくつもの人形が転がっていた。
兵士だったもの。
商人だったもの。
母親だったもの。
子供だったもの。
すべて等しく、彼女の呪いによって歪められていた。
その光景を前にしても、黒い外套の青年は表情を変えなかった。
年は十八ほど。
背は高く、雨に濡れた黒髪が頬に張りついている。鋭い赤色の瞳だけが、夜の中で静かに燃えていた。
腰には剣。
だが、彼は抜かない。
青年――グレイ・フォン・アレイスターは、血の上を踏み越え、ゆっくりと少女に近づいた。
「お前が、この街の魔女か」
少女は振り向いた。
その瞬間、路地の空気が軋んだ。
見えない糸が張り巡らされる。雨粒が宙で不自然に跳ね、いくつかは細かく裂けた。
糸の呪い。
触れたものを縫い、縛り、歪め、人形に変える魔女の力。
グレイは一目で理解した。
普通の魔法ではない。
呪いだ。
魔女が持つ、たった一つの理不尽。
「あなたも、私を殺しに来たの?」
少女は言った。
声は幼い。怯えているようにも、怒っているようにも聞こえた。
「みんなそう。私を見たら叫ぶ。石を投げる。火をつける。だから、私は……」
「だから殺したのか」
「違う!」
少女が叫ぶ。
雨が弾けた。
「私は、止めたかっただけ! 来ないでって言ったのに、みんな来るから! 触らないでって言ったのに、触るから! だから、勝手に……勝手にこうなったの!」
グレイは黙っていた。
少女の言葉が嘘ではないことは分かった。
魔女は、最初から怪物として生まれるわけではない。
ある日、刻印が現れる。
昨日まで人間だった誰かが、今日から魔女と呼ばれる。
本人の意思とは関係なく。
望んでもいない呪いを与えられ、周囲から恐れられ、追われ、やがて本当に恐れられるだけの存在になっていく。
グレイはそれを知っていた。
嫌というほど知っていた。
脳裏に、赤い髪がよぎる。
雨ではなく、暖炉の火に照らされて揺れる赤髪。
金色の瞳。
穏やかな声。
『あなたは、魔女を憎まないで』
胸の奥が痛んだ。
グレイは目を細める。
「……名前は」
「え?」
「お前の名前だ」
少女は戸惑ったように瞬きをした。
殺しに来た相手から名前を問われると思っていなかったのだろう。
「……ミラ」
「そうか」
グレイは小さく息を吐いた。
「ミラ。お前は、まだ戻りたいか」
その問いに、少女の顔が歪んだ。
「戻れるの?」
「分からない」
「嘘つき」
「嘘はついていない」
「じゃあ、どうして聞くの?」
グレイは答えなかった。
答えられなかった。
戻れるなら戻してやりたい。
救えるなら救ってやりたい。
けれど、彼にはその術がない。
かつて彼は、元素を扱う魔法を学んでいた。
火を灯し、水を浄化し、風を操り、土を整える。人を殺すためではない。家族の日常を少しだけ便利にするための、優しい魔法だった。
理論は分かる。
構造も読める。
魔力の流れも見える。
だが今のグレイには、もう使えない。
彼の魔法体系は、魔女の呪いによって書き換えられてしまった。
残された力は一つだけ。
魔女を焼き殺す炎。
復讐のためだけに存在する、救いようのない呪い。
「来ないで」
ミラが後ずさった。
「来ないでよ……!」
無数の糸がグレイへ襲いかかる。
鋼より細く、刃より鋭い呪いの糸。
グレイは一歩踏み出した。
糸が外套を裂く。
頬に赤い線が走る。
左腕に絡みついた糸が肉へ食い込む。
それでも彼は止まらない。
「なんで……!」
ミラの瞳に恐怖が浮かぶ。
「なんで止まらないの!?」
「慣れている」
短く答え、グレイは右手を上げた。
その瞬間、彼の髪が変わった。
雨に濡れた黒髪が、根元から赤く染まっていく。血のような赤。その中に、灰を刷いたような鈍い銀色のメッシュが走る。
空気が熱を帯びた。
けれど、雨は蒸発しない。
石畳も焦げない。
糸も燃えない。
ただ、ミラだけが震えた。
本能で理解したのだ。
その炎は、魔女だけを焼く。
「いや……」
ミラは首を振った。
「いや、いや、いや……! 私はまだ、生きたい……!」
その言葉で、グレイの足が止まりかけた。
生きたい。
たったそれだけの願い。
それは罪なのか。
魔女として生まれてしまった者が、生きたいと願うことは、それほど許されないことなのか。
赤い髪の女性なら、きっと抱きしめただろう。
金色の瞳で微笑みながら、こう言ったはずだ。
『大丈夫。あなたは、ここにいていいのです』
けれど、別の声が脳裏を刺した。
冷たく、澄んだ声。
『一人を救った結果、百人が死ぬのなら。その一人を殺すことは、悪ではありません』
グレイは奥歯を噛みしめた。
ベアトリス。
リリベル。
二人の魔女が、いつも彼の中で囁いている。
愛せと。
殺せと。
救えと。
切り捨てろと。
そのどちらも、間違っているとは思えなかった。
だから彼は、苦しい。
「……ミラ」
グレイは炎を宿した手を向けた。
「すまない」
「謝らないでよ……」
少女は泣いていた。
「謝るくらいなら、助けてよ……」
グレイは目を伏せた。
「ああ」
炎が灯る。
「俺も、そう思う」
次の瞬間、赤い炎が夜を裂いた。
それは街を焼かなかった。
雨も、石も、木の扉も、吊るされた灯火も、何一つ焦がさなかった。
ただ魔女だけを包み込んだ。
ミラの悲鳴が響く。
人間の悲鳴だった。
怪物の断末魔ではない。
生きたいと願った少女の声だった。
グレイは最後まで目を逸らさなかった。
逸らす資格がないと思った。
やがて炎が消えた時、そこには小さな灰だけが残っていた。
雨がそれを静かに濡らしていく。
路地に張り巡らされていた呪いの糸はほどけ、人形に変えられていた者たちも、元には戻らなかった。
死者は死者のまま。
魔女もまた、死者になっただけだった。
しばらくして、家々の扉が少しずつ開いた。
隙間から人々が顔を出す。
誰かが叫んだ。
「やった……!」
別の誰かが続ける。
「魔女が死んだぞ!」
「助かった!」
「魔女殺しだ!」
歓声が上がった。
窓が開き、人々が路地に出てくる。泣きながら抱き合う者。神に祈る者。グレイへ頭を下げる者。
誰も、灰を見なかった。
そこに少女がいたことを、誰も思い出そうとしなかった。
「ありがとうございます!」
中年の男がグレイの手を取った。
「あんたのおかげで街は救われた! 本当に、本当にありがとう!」
グレイはその手を見下ろした。
温かい手だった。
生きている人間の手。
守られた側の手。
それを振り払うことはできなかった。
「礼はいらない」
「そんなわけにはいきません! あなたは英雄だ!」
英雄。
その言葉に、グレイの表情がわずかに歪んだ。
英雄なら、なぜこんなにも胸が苦しい。
正しいことをしたのなら、なぜあの少女の声が耳から離れない。
人を救ったのなら、なぜ自分の手はこんなにも汚れて見える。
「……宿を貸してくれ」
グレイは言った。
「それと、布と小さな箱を」
男は不思議そうにした。
「箱、ですか?」
「あの灰を入れる」
周囲の空気が止まった。
誰かが小さく呟いた。
「魔女の灰を?」
グレイはその声の方を見なかった。
「彼女にも、名前があった」
それ以上、誰も何も言わなかった。
翌朝。
雨は止んでいた。
街の外れに、小さな墓が一つ作られた。
墓石はない。
ただ、平たい石を置き、その前に白い花を一本供えただけの粗末な墓だった。
グレイはその前に膝をつき、灰の入った小箱を土に埋めた。
ミラ。
そう刻むものは何もない。
だからせめて、彼だけは覚えていることにした。
「……すまない」
何度目か分からない言葉を口にする。
謝罪で死者が戻らないことは知っている。
許しを求める資格がないことも知っている。
それでも、言わずにはいられなかった。
背後から足音が近づいた。
街の少女だった。十歳ほどだろうか。両手で花を抱えている。
彼女は怯えた様子でグレイを見上げた。
「あの……」
「どうした」
「お母さんが、これを渡してきなさいって」
少女は花束を差し出した。
「魔女をやっつけてくれて、ありがとうって」
グレイはしばらく花を見つめた。
受け取るべきか迷った。
だが、少女の手が震えているのを見て、彼は静かに受け取った。
「ありがとう」
少女はほっとしたように笑った。
「お兄さんは、怖くないんだね」
「怖くない?」
「うん。魔女を殺せる人なのに」
グレイは答えに詰まった。
怖くないわけがない。
一番怖いのは、自分自身だ。
魔女を焼く時、炎はあまりにも自然に彼の中から溢れる。
まるで、それこそが本来の姿だと言わんばかりに。
人を助けるために学んだ魔法は失われた。
今の彼に残っているのは、魔女を殺すための呪いだけ。
そんな自分を、人間と呼べるのか。
それとも、魔女よりも魔女らしい化物なのか。
少女は首をかしげる。
「お兄さん?」
グレイは花束を墓の前に置いた。
「俺は、怖いものだ」
「え?」
「だから、近づきすぎるな」
少女は意味が分からないという顔をした。
それでいい、とグレイは思った。
子供が理解する必要のないことだ。
理解しないで済むなら、その方がいい。
街を出る頃には、空は晴れていた。
門の前には何人もの住人が集まり、グレイを見送っていた。感謝の言葉。祈りの言葉。英雄を称える声。
グレイは振り返らなかった。
街道を一人歩く。
風が吹く。
濡れた外套が重い。
乾き始めた髪は、すでに黒へ戻っていた。灰色のメッシュも消えている。
けれど、内側に残った炎だけは消えない。
どれだけ歩いても。
どれだけ魔女を殺しても。
あの日から、ずっと燃え続けている。
ふと、道の先に森が見えた。
その緑を見た瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。
森。
小さな家。
暖炉の火。
薬草の匂い。
赤い髪の魔女が、優しく笑っている。
『おかえりなさい、グレイ』
記憶の中の声に、グレイは足を止めた。
喉の奥が詰まる。
けれど、その温かな幻影はすぐに別の記憶に塗り潰される。
冷たい瞳。
静かな声。
未来を告げる魔女。
『その子はいずれ、世界を焼きます』
グレイは拳を握った。
ベアトリスは、彼を愛した。
リリベルは、彼を殺そうとした。
どちらも魔女だった。
どちらも、彼の運命を変えた。
愛されたから、彼は生きている。
殺されかけたから、彼は復讐を誓った。
そして今、彼は魔女を殺している。
ベアトリスが望まなかったことを。
リリベルが正しいと信じたことを。
「……俺は」
誰に問うでもなく、グレイは呟いた。
「何になっているんだ」
答えはない。
ただ風が吹き、草が揺れるだけだった。
その時、街道の向こうから馬車が一台走ってきた。
御者の男はグレイに気づくと、慌てて手綱を引いた。
「あんた、旅人か!」
「そうだ」
「なら聞いたか? 北の村でまた魔女が出た!」
グレイの赤い瞳が、静かに男を捉える。
男は怯えながらも続けた。
「花が、人を喰うんだとよ。村の半分が森に呑まれたって話だ。領主が討伐隊を出したが、誰も戻ってこねえ」
花。
森。
魔女。
グレイは目を伏せた。
胸の奥で、また炎が揺れる。
行けば、また誰かを殺すことになる。
行かなければ、誰かが死ぬ。
どちらを選んでも、手は汚れる。
ならばせめて、自分の意思で選ぶしかない。
「その村の名は」
御者は答えた。
「エルデ村だ。ここから北へ二日」
「分かった」
グレイは歩き出した。
御者が背後から声をかける。
「おい、あんた何者だ?」
グレイは振り返らずに答えた。
「魔女殺しだ」
その名を口にするたび、心が少しずつ削れていく。
それでも彼は歩く。
愛を教えた魔女の記憶と。
復讐を刻んだ魔女の影を。
胸の中に抱えたまま。
グレイ・フォン・アレイスター。
魔女を憎みきれない、魔女殺し。
彼の旅は、まだ終わらない。




