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我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


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第六章 観察対象の偏り

 異変は、小さなことから始まった。

 朝の回廊で、エイルは足を止めた。

 前方で、魔族の侍女が誰かを支えている。

「大丈夫ですか」

 駆け寄ると、支えられていたのは人間だった。

 六人いる元勇者の一人、若い頃は槍使いだったという男だ。顔色が悪く、呼吸も浅い。

「少し、立ちくらみを......」

「医務室へ」

 短い命令と同時に、空気が揺れた。

 ヴェルタだった。

 いつの間に来たのか分からない。

 魔王は男を一瞥すると、すぐに侍女へ指示を飛ばす。

「薬は第三棚。安静が必要だ」

「承知しました」

 侍女が男を連れて行くのを見届けてから、ヴェルタは視線をエイルに移した。

「お前は」

「俺は平気です」

 条件反射のように答えてから、エイルは少し眉をひそめた。

「......今の、俺に聞く必要ありました?」

「確認だ」

「何の」

「体調」

 ヴェルタは淡々と言った。

「お前は、最近、動きが多い」

「普通に生活してるだけですよ」

「それが"多い"」

 エイルは首を傾げた。

「他の人より?」

「比較した結果だ」

 ヴェルタはそれ以上説明しなかった。

 そのまま踵を返し、去っていく。

 エイルは背中を見送りながら、胸の奥に引っかかるものを覚えた。

 ――今の、必要な確認だったか?

 昼過ぎ、図書館で本を読んでいると、再びヴェルタが現れた。

「昼食の時間だ」

「今日は早いですね」

「予定を変更した」

「理由は?」

「......お前の集中力が切れ始めている」

「え」

「視線が三行分、同じ位置で止まっている」

 言われて初めて、自分がページをめくっていないことに気づいた。

「よく見てますね」

「観察対象だからな」

 ヴェルタはそう言ってから、付け足す。

「......重要度が高い」

 エイルは思わず本を閉じた。

「今、なんて言いました?」

「重要度」

「俺が?」

「現時点では、そうだ」

「理由は」

 ヴェルタは即答しなかった。

「......記録量が多い」

 少しだけ、間があった。

「それだけ?」

「それ以外に、合理的な説明があるか」

 エイルは苦笑した。

「分かりました。

 じゃあ、その"重要な観察対象"、昼に何食べます?」

「昨日と同じでいいか」

 それが、ヴェルタにとっての答えだった。

 同じものを同じ量で、同じ時間に。変数を固定することで、異常値を検出しやすくなる。合理的だ。

 そう自分に言い聞かせながら、ヴェルタは昨日の記録を確認した。「パン:二個分。スープ:中量。肉:鶏、やや多め。残量:なし」

 エイルが昼食を平らげるということは、それだけ体調が安定しているということだ。記録の意味はある。合理的だ。

「ヴェルタ」

 呼ばれて、顔を上げる。エイルが少し不思議そうな顔をしていた。

「それ、自分のぶんは?」

 ヴェルタは、自分の前に何もないことに初めて気づいた。

「……不要だ」

「食べないんですか」

「観察中だ」

「観察しながら食べられるでしょう」

 エイルはパンをちぎって、ヴェルタの前に差し出した。小さな動作だった。特別なことではない、という顔で。

「……」

 ヴェルタはそのパンを、一瞬見た。

 受け取った。

 食べながらも、ノートのページを開いていたが、ペンは動かなかった。今この瞬間を記録すべきか、しなくていいのか、判断できなかったからだ。

 記録するには、感情の動きが多すぎた。

「覚えてるんですね」

「記録している」

 即答だったが、どこかぎこちなかった。

 食堂では、他の元勇者たちも食事をしていた。

 会話は少なく、穏やかな空気が流れている。

 その中で、エイルは気づいた。

 ヴェルタの視線が、ほとんど自分から離れない。

「......あの」

「何だ」

「見られてると、食べにくいんですが」

「問題はない」

「ありますよ」

 ヴェルタは、しばらく考えるように黙った。

「......視線を外す」

 そう言って、本当に外した。

 だが数秒後、また戻る。

「無意識ですか」

「......調整中だ」

 午後、医務室から報告があった。

 体調を崩した元勇者は、数日は安静が必要だという。

「私が様子を見ます」

 侍女が言うと、ヴェルタは首を振った。

「必要ない」

「ですが――」

「エイルを先に回せ」

 その場の空気が、一瞬止まった。

 侍女が目を瞬かせる。

「エイル様は、特に不調を訴えておられませんが」

「訴えていないだけだ」

 ヴェルタの声は低かった。

「優先度を変更する」

 命令だった。

 エイルは、思わず口を挟んだ。

「待ってください。

 体調悪い人を先に――」

「判断は私がする」

 ヴェルタはエイルを見た。

「......理由は、先ほど言った」

「記録量?」

「そうだ」

 その言葉は、どこか硬かった。

 結局、医務室にはエイルが先に呼ばれた。

 診察結果は、異常なし。

「ほら」

 戻りながら、エイルは言った。

「無駄でしたね」

「無駄ではない」

「何が分かったんですか」

 ヴェルタは答えなかった。

 代わりに、歩調を少しだけ緩める。

「......問題がなかったことが、分かった」

「それ、最初から分かってませんでした?」

「確認は必要だ」

「誰にとって」

 ヴェルタは、足を止めた。

 廊下の真ん中で、しばらく黙る。

「......合理的判断だ」

 同じ言葉を、繰り返す。

「偏りではない」

 まるで、自分に言い聞かせるように。

 エイルは、それ以上踏み込まなかった。

 夜。

 ヴェルタは、回廊の角に立っていた。

 三度目だった。「偏りではない」と言った言葉が、まだ胸の中で転がっている。繰り返すほど、空洞になる言葉というのがある。今日の自分の言葉は、そのたぐいだった。

 観察は、平等であるべきだ。全対象に同じ注意を向け、同じ基準で記録する。それが観察の原則。だが今日、ヴェルタはその原則を破った。意図せず、だが確かに。

 エイルの体調確認を、他の元勇者より優先した。

 理由を三回説明しようとして、三回とも「合理的」という言葉で誤魔化した。だが第四回目が必要になった今、ヴェルタはその言葉を使う気になれなかった。

 正直に言えば、エイルが廊下で声をかけてくるたびに、胸の奥で何かが動く。それは規則的ではない。声のトーンによって違う。名前を呼ばれると、少し大きく動く。視線が合うと、また動く。

 それを、観察の集中度として記録すべきか。

 いや、そうではないことはもう分かっていた。

 分かっていて、なお「合理的」と言い続けることが、どれほど苦しいか。三百年間、感情を持ちながら名前を知らなかったヴェルタには、正確には分からなかった。

 だが今夜、初めて、自分が何かに抗っていると感じていた。

 部屋に戻ろうとすると、回廊の先にヴェルタの姿があった。

 壁際に立ち、何かを考えている。

「ヴェルタ?」

「......何だ」

「さっきから、そこにいますよね」

「通路だ」

「遠回りですよ」

「誤差の範囲だ」

 エイルは小さく笑った。

「俺、先に寝ます」

 そう言って扉に手をかける。

「......待て」

 ヴェルタの声が、少しだけ速かった。

「何か?」

「......話がある」

「今から?」

「今だ」

 エイルは扉から手を離した。

「じゃあ、少しだけ」

 並んで廊下に立つ。

 言葉は出てこない。

「......今日の判断についてだが」

 ヴェルタが口を開いた。

「私の判断は、正しかった」

「そうですか」

「合理的だ」

「はい」

「......偏りではない」

 三度目だった。

 エイルは、静かに言った。

「ヴェルタ」

「何だ」

「偏ってたとしても、悪くないと思いますよ」

 ヴェルタは、即座に否定しなかった。

「......観察に、影響が出る」

「出ますかね」

「......分からない」

 珍しい答えだった。

 沈黙が落ちる。

 やがて、ヴェルタは小さく言った。

「選んだ理由を、説明する必要はない」

 それで話は終わった、という態度だった。

 だがエイルには分かった。

 この魔王は、すでに選んでいる。

 理由を持たないまま、

 理由を作れないまま。

 その夜、観察日誌に、新しい項目が書き加えられた。

『優先度の変更

 原因不明

 偏りではない(要再確認)』

 その文字は、

 これまでより少しだけ、力がこもっていた。

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