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我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


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第五章 感情の名前

 雨の夜だった。

 城の外壁を打つ雨音が、一定のリズムで響いている。

 眠れずに廊下を歩いていたエイルは、回廊の角で足を止めた。

 灯りが、点いている。

 ヴェルタの私室だった。

 扉の隙間から、紙をめくる音が漏れている。

 それも一枚や二枚ではない。

 何かを、急いで書きつけている音だった。

「......ヴェルタ?」

 声をかけても、返事はない。

 一瞬迷ってから、エイルは扉を軽く叩いた。

「入るぞ」

 返事を待たずに扉を開けると、

 ヴェルタは机に向かっていた。

 机の上には、何冊ものノートが広げられている。

 どれも同じ革表紙。

 年代ごとに並べられた、観察日誌だった。

 ヴェルタは顔を上げなかった。

 鉛筆が、紙の上を走り続けている。

「......何を書いてるんですか」

「記録だ」

 即答だった。

「もう十分じゃないですか。

 三百年分もあるんでしょう」

「不足している」

 ヴェルタはようやく手を止め、エイルを見た。

「お前は、変数が多い」

「それ、褒めてます?」

「評価だ」

 エイルは苦笑して、机の脇の椅子に腰を下ろした。

「聞いてもいいですか」

「何だ」

「ヴェルタは、感情がないんですか」

 ヴェルタは、すぐには答えなかった。

 鉛筆を置き、机の端にきちんと揃える。

 その動作は、いつもより少しだけ遅かった。

「ない、とは思っていない」

「じゃあ」

「......分からない」

 珍しく、曖昧な返答だった。

「感情が存在しないのではない」

 ヴェルタは続ける。

「存在を、認識できない」

「どういう意味ですか」

「お前たちは、感情に名前をつける」

「怒り、喜び、悲しみ」

「名前があるから、それを"それ"として扱える」

 ヴェルタは自分の胸に、軽く指先を当てた。

「私の中にも、何かがある」

「だが、名前がない」

「名前がなければ、それは現象でしかない」

 エイルは、しばらく考えた。

「じゃあ」

 ゆっくりと言う。

「一緒に探してみませんか」

「何を」

「ヴェルタの感情の名前を」

 ヴェルタは、明らかに困惑した表情を見せた。

 ほんの一瞬だったが、確かに。

「......非効率だ」

「かもしれません」

 エイルは頷く。

「でも、面白そうでしょう」

 沈黙が落ちた。

 雨音が、二人の間を満たす。

「......続けろ」

 それは、許可だった。

「じゃあ、最初の質問から」

 エイルは机に肘をついた。

「ヴェルタが一番最初に、感情みたいなものを感じたのって、いつですか」

「感情みたいなもの、とは曖昧だ」

「名前がつく前の話ですから、曖昧でいいです」

 ヴェルタは少しの間、本当に記憶を辿るように目を伏せた。

「……二十年目だったと思う」

「何があったんですか」

「初めての勇者が来た」

 エイルは待った。

「それまでの二十年間、私と話した人間はいなかった。魔族も、私に話しかけることをしなかった。命令を受け、従う。それだけだった」

「その勇者は、怖れなかったんですか」

「怖れていた」とヴェルタは即答した。「それは見て分かった。だが、それでも話しかけてきた。最初の言葉は……剣を向けながら、名前を聞いてきた」

「名前を」

「ヴェルタと答えた。そのとき、胸のあたりで何かが動いた」

「その感情に、今なら名前をつけられますか」

 ヴェルタはしばらく考えた。

「……驚き、だろうか。名前を聞かれると、予測していなかった」

「驚き、か」エイルは小さく笑った。「三百年前の感情ですね」

「記録していなかったから、正確ではない」

「でも、覚えてる」

「……そうだ」

 その「そうだ」は、少しだけ声が低かった。

「人間は、子供の頃から感情の名前を教えてもらうんです。怒ったとき、嬉しいとき、悲しいとき。誰かが横にいて『それは悲しいんだよ』って言ってくれる」

 ヴェルタは、その言葉を聞いて何かを考えた。

「私にはいなかった」

「そうですよね」

「……だから、百年以上、名前を持てなかった」

「でも今は、持てますよ」

 エイルはヴェルタを見た。

「俺がいる間は、一緒に探しましょう」

 ヴェルタは、すぐに答えなかった。

「……お前がいる間、とは、いつまでだ」

「分かりません」

「……不確定要素だ」

「感情って、だいたいそういうものじゃないですか」

 ヴェルタは、その答えを否定しなかった。

「じゃあ、最初の日」

 エイルは言った。

「俺がここに来た日、どんな感じでした?」

「記録によれば――」

「記録じゃなくて」

 ヴェルタは言葉を止めた。

「......胸のあたりが、少し速かった」

「心臓が?」

「分からない」

「だが、何かが動いていた」

「それ、多分」

 エイルは少し笑った。

「期待、です」

「期待」

 ヴェルタは、その言葉を繰り返した。

「次」

 エイルは続ける。

「俺が逃げた夜は」

 ヴェルタの指が、わずかに強く握られた。

「......早く捕まえなければならない、という衝動があった」

「それは」

「不快ではなかった」

「だが、落ち着かなかった」

「焦り、ですね」

「焦り」

 ヴェルタは、二つの言葉をノートに書き込んだ。

 文字が、いつもより少しだけ大きかった。

「ルードが死んだときは」

 その問いに、ヴェルタはすぐ答えなかった。

「......三日間、食事ができなかった」

「理由は」

「分からない」

「それ、喪失感です」

「喪失感」

 ヴェルタは、しばらくその言葉を見つめていた。

「穴、という表現が適切か」

「はい」

「......そうだな」

 少し、声が低くなった。

 エイルは続けた。

「じゃあ、今は」

「今?」

「俺と話しているとき」

 ヴェルタは、エイルを見た。

 長い沈黙。

「......穴が、ない」

 エイルは、ゆっくりと頷いた。

「それ、安心って言います」

「安心」

 ヴェルタは、その言葉を書き留めた。

 ノートを閉じる。

「......名前がつくと」

 小さく呟く。

「少し、軽い」

「そういうものです」

 ヴェルタは、しばらく机を見つめていた。

「お前は」

 ふと、言う。

「なぜ、ここまで話す」

「話したいから」

「理由になっていない」

「感情は、そんなに論理的じゃないです」

 ヴェルタは、その言葉を否定しなかった。

 代わりに、雨音に耳を澄ませる。

「......記録する感情が、増えすぎた」

「嫌ですか」

「嫌、という言葉の定義を確認したい」

 エイルは笑った。

「じゃあ、また今度」

 立ち上がり、扉へ向かう。

「エイル」

 呼び止められて、振り返る。

「......協力には、感謝する」

 それは、命令でも観察でもなかった。

 エイルは少し驚いてから、頷いた。

「どういたしまして」

 扉を閉めると、雨音が少し遠くなった。

 ヴェルタは、一人きりの部屋で、ノートを開いた。

 新しいページに、こう書き足す。

『期待/焦り/喪失感/安心

 ――いずれも、以前から存在していた。

 名前を知らなかっただけだ』

 しばらく考えてから、もう一行。

『名前がつくと、

 世界が少し、扱いやすくなる』

 ヴェルタは鉛筆を置いた。

 胸の奥に、まだ名前のない何かが残っている。

 それを呼ぶ日は、まだ来ない。

 ――今は、それでいい。

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