第二章 魔王城の日常 後編
翌朝。
魔王城は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
ヴェルタは、定刻通りに起床した。
身支度を整え、回廊へ出る。
昨夜の思考は、整理済みだ。
――世話。
その単語は、不適切。
分類不能。
記録対象外。
以上。
それで終わらせたはずだった。
エイルの部屋の前を通る。
足は、止まらない。
止めないと決めたからだ。
確認は不要。
異常報告もない。
管理は機能している。
だから、立ち止まる理由はない。
……ない。
回廊を曲がる。
数歩進んで、足が止まった。
「……」
理由は、明確ではない。
確認事項はない。
不安要素もない。
だが、何かが抜けている感覚がある。
ヴェルタは、即座にその思考を遮断した。
――不要。
踵を返さない。
戻らない。
歩く。
そのまま執務室へ向かった。
昼。
書庫でエイルとすれ違う。
「おはようございます」
「起床は定刻か」
「たぶん」
いつものやり取り。
だが、今日は続きがなかった。
ヴェルタは、それ以上何も聞かない。
水分量も、睡眠の質も、行動効率も。
確認しない。
管理は自動化されている。
報告がなければ、問題なし。
合理的だ。
エイルは、わずかに首をかしげる。
「今日は、聞かないんですね」
「何をだ」
「……いろいろ」
曖昧な返答。
ヴェルタは、即答する。
「必要がない」
それは、事実だった。
だが。
その言い方は、少しだけ硬い。
「そっか」
エイルは、それ以上踏み込まない。
だが、視線が一瞬だけ長く残る。
ヴェルタは、それを感じ取り、すぐに目を逸らした。
夕方。
侍女が報告に来る。
「勇者様の水差しですが、今朝は補充されておりません」
「……」
ヴェルタは、一拍置く。
「補充は定期業務だ」
「はい。ただ、これまでは――」
「定期業務だ」
強めに、繰り返す。
侍女は深く頭を下げ、去っていく。
室内に、沈黙が落ちる。
ヴェルタは、机に視線を落とす。
昨夜、思い出してしまった単語が、
まだ消えていない。
だからこそ、今日は触れない。
触れれば、定義になる。
定義すれば、
否定できなくなる。
「……」
その夜。
エイルの部屋の卓には、何も増えていなかった。
水差しは半分のまま。
包みはない。
灯りは、通常設定。
異常はない。
問題もない。
ただ。
いつもより、少しだけ静かだった。
翌朝。
「……昨日より、静かですね」
エイルが、ぽつりと言った。
ヴェルタは即答する。
「環境は変えていない」
「そうですか」
エイルは、少しだけ笑う。
その笑みは、問いではなかった。
確認でもない。
ただの観察だ。
ヴェルタは、その表情を見て、理解する。
避けたことは、気づかれている。
だが、言葉にはされない。
それが、逆に不安定だった。
世話、という単語を否定するために、
何もしなかった。
だが。
何もしない、という行動もまた、
記録される。
ヴェルタは、その事実に気づき、
初めて小さく息を吐いた。
「……管理は継続する」
それは宣言ではなく、
修正だった。
夜、エイルの部屋の水差しは、
音もなく満たされた。
翌朝。
「睡眠時間は」
ヴェルタの第一声だった。
「……よく眠れました」
「覚醒は」
「なかったです」
ヴェルタはノートに書き込み、しばらく眺めてから言った。
「結論」
「人間は、完全な静寂より、制御された音を好む」
「……制御、ですか」
「無秩序な音は不要だ」
エイルは笑った。
「じゃあ、魔王城は完璧ですね」
「そうだ」
ヴェルタは言い切った。
だが、その日の夜。
エイルの部屋の箱から流れる水音は、昨日よりほんの少しだけ、小さくなっていた。
理由は、記録されていない。
「魔王は枕の正解を知らない」
夜の魔王城は、相変わらず静かだった。
水音も、風音もない。
完全に制御された沈黙の中で、エイルはゆっくりと寝返りを打った。
「……首、痛いな」
声に出したわけではない。
ただ、意識の端でそう思った瞬間だった。
――気配。
次の瞬間、視界の端に銀色が映った。
「起きているか」
ヴェルタだった。
「……ええ、まあ」
「寝返りの頻度が増えている」
「見てたんですか」
「観察だ」
即答。
その手には、何かが抱えられていた。
枕だった。
正確には、三つ。
「……なんでそんなに」
「人間の頸椎は脆弱だ」
「いきなり専門的ですね」
「不適切な角度は、睡眠効率を下げる」
ヴェルタは淡々と説明しながら、枕をベッドの上に並べた。
一つ目は、低くて柔らかい。
二つ目は、中程度。
三つ目は、異様に高い。
「……三つ目、要ります?」
「比較対象だ」
エイルは上体を起こし、低い枕を指さした。
「まずはこれで」
横になる。
数秒。
「どうだ」
「……低いですね」
ヴェルタはすぐに枕を入れ替えた。
「では、これ」
中程度。
「……悪くないです」
「結論を急ぐな」
三つ目が差し出される。
「いや、それは」
「試行だ」
有無を言わせぬ調子で、枕が首の下に差し込まれた。
「……高いです」
「どの程度」
「首が前に出ます」
ヴェルタは一瞬、動きを止めた。
「……前に出るのは、問題か」
「問題です」
「理由は」
「……違和感がある」
その言葉に、ヴェルタは僅かに眉をひそめた。
「違和感、とは」
「数値化できないやつです」
沈黙。
ヴェルタは三つの枕を見比べ、それからノートを取り出した。
「枕 高さ:中程度
柔軟性:必要
違和感:要注意」
書きながら、ちらりとエイルを見る。
「他に要素は」
「え?」
「幅、温度、匂い」
「……匂い?」
「人間は、嗅覚の影響を受けやすい」
「……無臭でお願いします」
「記録した」
ヴェルタは中程度の枕を選び、位置を微調整する。
ほんの数センチ。
だが、その動作は異様に慎重だった。
「……これでどうだ」
エイルは首を預け、目を閉じた。
「……ちょうどいいです」
「本当か」
「はい」
ヴェルタは、すぐには離れなかった。
エイルの呼吸が整うのを、じっと見ている。
「……魔王様」
「何だ」
「そんなに真剣に枕と向き合う存在だと思いませんでした」
「軽視する理由がない」
「……そうですか」
しばらくして、エイルの声が少しだけ低くなる。
「……あの」
「何だ」
「これ、毎晩同じですか」
「必要に応じて調整する」
「それ、必要なくても来ません?」
ヴェルタは答えなかった。
代わりに、視線がわずかに逸れた。
「……誤差が出る」
「はいはい」
エイルは笑って、目を閉じた。
数分後。
完全に寝息に変わったのを確認してから、ヴェルタは静かに立ち上がる。
枕の位置を、ほんの少しだけ直す。
――首が楽になる角度。
「……これが、正解か」
呟いてから、首を振る。
「正解ではない」
「今日の最適解だ」
ノートに、小さく追記する。
「枕調整後、寝息安定
理由:未特定」
部屋を出る直前、ヴェルタは一度だけ振り返った。
安らかな寝顔。
観察対象としては、これ以上ない状態。
なのに、なぜか。
胸の奥に、小さな静けさが広がっていた。
その感覚の名前は、
まだ、分からない。
「魔王は飲み物の温度を測りすぎる」
夜の魔王城は、昼よりも静かだった。
水音も風音もない。
制御された沈黙の中で、エイルは机に肘をつき、手元の本をめくっていた。
「……喉、乾いたな」
独り言だった。
次の瞬間、背後の空気が変わる。
「水分補給は必要だ」
振り向くと、ヴェルタが立っていた。
「……聞こえてました?」
「聴覚強化は常時稼働している」
「それ、切れません?」
「不要だ」
即答だった。
ヴェルタは小さな卓を引き寄せ、その上にカップを置いた。
湯気が、かすかに立っている。
「温度は」
そう前置きしてから言う。
「四十五度」
「……ぬるいですね」
「人間の口腔粘膜は脆弱だ」
「いきなり専門用語」
「高温は刺激となり、覚醒を促進する」
「なるほど……」
エイルはカップを手に取り、一口含んだ。
「……あ、でも」
「問題があるか」
「もう少し、温かい方が好みです」
ヴェルタの動きが止まった。
「好み、とは」
「こう……ほっとする感じ」
「数値で言え」
「無理です」
沈黙。
ヴェルタはノートを取り出し、書き始める。
「飲料温度
四十五度:安全
満足度:未確定」
書き終え、カップを受け取ると、指先で温度を調整した。
再び差し出される。
「五十度」
「……ちょうどいいです」
エイルがそう言うと、ヴェルタはすぐにノートに追記した。
「五十度:好反応」
その文字は、なぜか少しだけ大きかった。
「魔王様」
「何だ」
「そんなに真剣に飲み物と向き合う人だとは」
「向き合ってはいない」
否定は速い。
「最適化しているだけだ」
「……はいはい」
エイルは笑って、カップを口に運ぶ。
しばらくして。
「……あの」
「何だ」
「これ、中身は何ですか」
「白湯だ」
「……味、ないですね」
「刺激は不要だ」
「でも、人間は味も楽しむんですよ」
ヴェルタは考え込んだ。
「甘味か」
「夜は控えめで」
「では、香り」
次の瞬間、湯気に微かな香草の匂いが混じった。
「……それ、どこから」
「城の温室」
「用意よすぎません?」
ヴェルタは答えなかった。
代わりに、エイルの飲む速度を見ている。
「……飲むの、遅いですね」
「熱いからですよ」
「冷却するか」
「いや、それは……」
だが、ヴェルタはすでに手を伸ばしていた。
温度が、ほんの少し下がる。
「……今度は冷めすぎです」
「……調整が難しい」
その呟きは、珍しく小さかった。
ヴェルタはノートを閉じ、カップを見つめる。
「人間は、なぜ飲料に感情を付与する」
「付与?」
「『ほっとする』『落ち着く』」
「それ、気分の問題ですね」
「非合理だ」
「でも、大事です」
ヴェルタは否定しなかった。
少し考えてから、カップをエイルの手元に戻す。
「……今日は、これでいい」
「今日は?」
「次回、別の条件を試す」
「毎晩来る気ですか」
ヴェルタは一瞬、視線を逸らした。
「……喉の渇きは、定期的に発生する」
「それ、理由になってます?」
返答はなかった。
エイルは残りを飲み干し、カップを置いた。
「ごちそうさまでした」
「……回収する」
ヴェルタはカップを手に取り、立ち上がる。
扉に向かいかけて、足を止めた。
「……温度が合わなければ、言え」
「はい」
「……記録する」
扉が閉まる。
エイルはベッドに横になり、天井を見た。
「……飲み物一杯で、ここまでやるか」
だが、不思議と眠気が来ていた。
廊下の向こう。
ヴェルタはノートを開き、最後に一行だけ書き足した。
「五十度
飲了後、覚醒低下
理由:未特定」
その行に、しばらく視線を落とす。
「……未特定が、多い」
そう呟きながらも、
その文字を消すことはなかった。
理由を知らないまま、
それでも、次の夜の準備を始めていた。
「魔王は楽な服の定義が分からない」
朝の魔王城は、相変わらず静かだった。
エイルは自室の床に腰を下ろし、ブーツの紐を結び直していた。
城の中を歩くだけなら、ここまでしっかり履く必要はない。それは分かっている。だが、慣れない石床と長い回廊は、油断すると足にくる。
「……地味に疲れるな」
小さく呟いた、その直後だった。
「その装備は、不要だ」
振り向くと、ヴェルタが立っていた。
「……どの装備の話ですか」
「全体だ」
あまりにも大雑把な指摘だった。
「人間は、城内で常に戦闘を想定する必要はない」
「まあ、そうですけど」
「ならば、もっと楽な服を着るべきだ」
そう言い切ってから、ヴェルタは一歩下がった。
その背後に、侍女が二人控えている。
それぞれ、腕に布を抱えていた。
「……嫌な予感しかしないんですが」
「懸念は無用だ」
ヴェルタは淡々と言う。
「人間の衣服については、資料を参照した」
「どんな資料を」
「“部屋着”という概念だ」
その瞬間、エイルの中で警鐘が鳴った。
「……ちょっと待ってください」
だが、止める間もなく、侍女たちが布を広げる。
それは、柔らかそうな素材の服だった。
締め付けは少なく、確かに動きやすそうだ。
「……あの」
「着替えろ」
「ここで?」
「合理的だ」
「いやいやいや」
エイルは思わず立ち上がった。
「さすがにそれは」
「何が問題だ」
「問題だらけですよ!」
ヴェルタは、わずかに首を傾げた。
「肌の露出は、平均値以下だ」
「そういう問題じゃなくてですね」
「温度調節も容易だ」
「違うんです!」
エイルは頭を抱えた。
「……魔王様」
「何だ」
「人間には、“見られたくない格好”ってものがあるんです」
その言葉に、ヴェルタは動きを止めた。
「見られたくない?」
「はい。楽でも、恥ずかしい格好ってあるんです」
沈黙。
ヴェルタは、しばらく考えてから言った。
「……理解できない」
「でしょうね」
「合理性に反する」
「でも、事実です」
ヴェルタは侍女たちに視線を向けた。
「退がれ」
一礼して、侍女たちは静かに去っていく。
部屋に残ったのは、二人だけだった。
「……説明を求める」
ヴェルタは言った。
「なぜ、楽であることと、見られたくないことが両立しない」
エイルは少し考えた。
「……距離感、ですかね」
「距離感」
「人に見せる自分と、一人のときの自分は、違うんです」
ヴェルタは黙って聞いている。
「部屋着って、すごく個人的なものなんですよ」
「個人最適化された状態か」
「まあ、そうです」
「ならば、観察対象としては最適だ」
「そういう意味じゃないです!」
エイルは即座に否定した。
その声に、ヴェルタが一瞬だけ目を見開いた。
「……声量が上がった」
「そりゃ上がりますよ!」
ヴェルタは視線を逸らし、少し考え込む。
「……つまり」
慎重に言葉を選ぶ。
「“楽な服”は、許可された者の前でのみ着用される」
「……だいたい合ってます」
その瞬間。
ヴェルタの思考が、明らかに一拍遅れた。
「……許可」
小さく繰り返す。
「魔族の侍女は、許可された存在か」
「え?」
「私は」
言葉が、そこで止まった。
ヴェルタは口を閉じ、視線を落とした。
ほんの一瞬だったが、確実に。
「……この話題は、終了だ」
唐突な打ち切りだった。
「え、いや」
「服装の変更は、保留する」
「……助かります」
ヴェルタは背を向け、扉へ向かう。
だが、手をかける直前で立ち止まった。
「……代替案はあるか」
「代替案?」
「楽で、かつ、見られても問題がない服」
エイルは少し考えた。
「……上着を羽織る、とか」
「なるほど」
ヴェルタは頷いた。
「部分的に隠蔽すれば、許容範囲になる」
「まあ……はい」
「記録する」
扉が閉まる。
数時間後。
エイルの部屋に、新しい上着が届けられていた。
柔らかく、重くなく、サイズもぴったり。
「……仕事が早いな」
袖を通すと、確かに楽だった。
その様子を、廊下の向こうからヴェルタが見ていた。
上着がある。
隠れている。
だが、完全ではない。
「……これで、境界は保たれる」
誰にともなく呟く。
ノートには、こう書き足された。
「服装
楽=可
見られる=条件付き可
条件:距離」
その一行の横に、
小さく、書き加える。
「距離が縮まると、判断が難しくなる」
理由は、書かれていない。
そして、書かれないまま、
ページはめくられた。
「魔王は椅子の置き場所を変えられない」
午後の魔王城は、昼の中でもいちばん静かな時間だった。
陽は高いが、回廊を行き交う者は少ない。
中庭の噴水だけが、一定のリズムで音を刻んでいる。
エイルは書庫の隅で、本を閉じた。
「……腰、痛いな」
机は立派だった。
天板は広く、書物を並べるには申し分ない。
だが、椅子だけが合っていなかった。
背もたれが直立すぎる。
座面が少し高い。
長く座ると、どうしても姿勢が固まる。
立ち上がった、その瞬間だった。
「姿勢が崩れている」
背後から声がした。
「……また、見てました?」
振り返ると、ヴェルタが立っていた。
いつもの無表情。
だが、視線は机と椅子を行き来している。
「長時間、同一姿勢を維持していた」
「読書してただけです」
「人間は、座位での負荷に弱い」
ヴェルタはそう言って、椅子の背に手を置いた。
「この椅子は、適切ではない」
「そう思います」
即答すると、ヴェルタは一瞬だけ動きを止めた。
「……同意が早い」
「否定する理由がないですから」
ヴェルタは小さく頷いた。
「代替を用意する」
「え、今から?」
「今だ」
その日のうちに、椅子は三脚分、運び込まれた。
一つ目は、背もたれが低く、簡素。
二つ目は、柔らかいクッション付き。
三つ目は、肘掛けがあり、明らかに重厚だった。
「……どれがいいか、座って試せと」
「比較は必要だ」
エイルは順番に腰を下ろす。
「一つ目は……軽いけど、落ち着かない」
「安定性不足」
「二つ目は……楽です」
「沈み込みが大きい」
「三つ目は……」
言葉が途切れた。
深く座れる。
背中が自然に預けられる。
立ち上がる気が、少しだけ失われる。
「……いいですね」
その瞬間、ヴェルタの視線が止まった。
「具体的には」
「長く座っていられる感じです」
「それは、問題だ」
「え?」
「人間は、長時間同一場所に留まると、行動量が低下する」
「でも、読書には向いてます」
ヴェルタは黙り込んだ。
理屈は通っている。
だが、どこかで引っかかっている。
「……配置を変える」
そう言って、三つ目の椅子を机から少し離した。
「どうです?」
エイルが座り直す。
「……さっきより、落ち着かないですね」
「距離が変わった」
「はい」
ヴェルタは、さらに数センチ動かした。
「今度は?」
「……微妙です」
また、戻す。
「これで?」
「……いいです」
ヴェルタは、椅子と机の位置をじっと見つめた。
角度。
距離。
噴水の音が、左耳に入る位置。
「……ここだ」
呟きは、小さかった。
「ここが、最適だ」
エイルは、その言い方に少し笑った。
「魔王様」
「何だ」
「椅子一つで、そこまで悩みます?」
「悩んでいない」
即答。
「定義しているだけだ」
その後、ヴェルタは書庫を離れなかった。
書物を読むわけでもなく、命令を出すわけでもない。
ただ、回廊の柱にもたれ、椅子と机を視界に入れている。
「……あの」
「何だ」
「見張りですか」
「違う」
「じゃあ」
「……確認だ」
何の確認かは、言わなかった。
エイルが本を読み、時折ページをめくる。
椅子が、軋まない。
姿勢が崩れない。
それを見て、ヴェルタは動かない。
夕方。
陽が傾き、影が長くなる。
「……もう行きます?」
エイルが聞くと、ヴェルタは少しだけ首を振った。
「日照角が変わる」
「……は?」
「座面への光量が変わる」
実際、椅子の半分に影が落ちていた。
ヴェルタは無言で、椅子を元の位置に戻した。
ほんの数センチ。
だが、最初に決めた位置だ。
「……それ、戻してますよね」
「変える必要がない」
「さっきは変えたのに」
「今は、違う」
理由は、言わなかった。
その夜。
書庫には、誰もいない。
だが、椅子はそのまま置かれていた。
他の椅子は片付けられ、
三つ目の椅子だけが、机の前に残っている。
ヴェルタは、一人でそこに立っていた。
「……ここに座る」
小さく呟き、位置を確かめる。
視線の高さ。
机との距離。
城の中で、最も長く視界に入る場所。
「……問題はない」
そう言い切る前に、言葉が途切れた。
是非の問題ではない。
もう、動かせなかった。
ノートを開き、書く。
「椅子
配置:固定
理由:??」
ペン先が、止まる。
理由を書けば、定義になる。
定義すれば、戻れなくなる。
ヴェルタは、理由を書かなかった。
代わりに、ページを閉じる。
「……観察は、続ける」
そう呟いて、書庫を後にする。
椅子は、そこに残った。
次の日も。
その次の日も。
エイルが無意識にそこへ向かうようになるまで。
そしてヴェルタは、
それを見るたびに、
城の中で唯一、動かないものが増えたことを、
なぜか否定しなかった。
☆
魔王城は、思っていたよりも静かだった。
エイルに与えられた部屋は、これまで泊まったどの宿よりも広く、清潔だった。石造りの壁には一切の汚れがなく、窓からは中庭が見える。花壇には色とりどりの花が植えられ、中央の噴水が低い音を立てていた。
「......牢屋じゃないんだな」
思わず口にすると、背後から声が返ってきた。
「必要がない」
振り向くと、ヴェルタがいつの間にか部屋の入口に立っていた。ノックをする気配はなかったが、足音も聞こえなかった。
「逃げる気、満々なんですけど」
「逃げても捕まえる」
魔王は淡々と言った。
「だから、牢は不要だ」
理屈としては、筋が通っている気がしたのが腹立たしい。
「......プライバシーという概念をご存じで?」
「知っている」
ヴェルタは即答した。
「どうでもいい概念だ」
「人間には結構大事なんですが」
「記録しておく」
「え、今の記録対象そこ?」
ヴェルタは窓際の椅子に腰を下ろし、革張りの小さなノートを開いた。几帳面な文字で、何かを書き留めている。
「それ、何ですか」
「観察日誌だ」
「俺の?」
「そうだ。睡眠時間、食事の好み、行動傾向、感情の変動」
ヴェルタはさらりと言う。
「三百年間、勇者全員分を記録している」
「......研究対象みたいな言い方ですね」
「観察対象だ。研究とは違う」
「どう違うんですか」
ヴェルタは少し考えた。
「研究は仮説を立てる。観察は、事実を積み重ねる」
「つまり俺は、積み重ねられてる最中と」
「そうなる」
エイルはため息をついた。
「一応言っておきますけど、俺は人間です。ペットじゃない」
「分かっている」
ヴェルタは顔を上げた。
「ペットは愛でるものだ。お前は、観察するものだ」
「……その違い、後で重要になりそうですね」
「区別が曖昧になる可能性はある」
さらっと危ないことを言う魔王だった。
沈黙が落ちる。ヴェルタは窓の外を見ていた。紫の瞳は遠くを見つめていて、城の外ではなく、時間そのものを眺めているようにも見えた。
「昼食は、何が食べたい」
唐突に、そう言われた。
「......はい?」
「質問している」
「いや、普通は勝手に出てくるものかと」
「好みを把握した方が効率的だ」
「効率......」
少し考えてから、答える。
「パンと、スープと、肉があれば」
「量は」
「......普通で」
「記録した」
ペン先が、迷いなく走る。
「なんでそこまで」
「変数は少ない方がいい」
「俺、変数扱いなんですね」
「現時点では、そうだ」
現時点では、という言い方が妙に引っかかった。
ヴェルタが次に言うべき言葉を探して、結局何も言わずに窓の外を見た。
中庭の噴水が、低い音を立てている。花は今日も咲いており、誰かが丁寧に世話をしている証拠があちこちに見えた。
「……城を作ったのは、あなたですか」
エイルが聞くと、ヴェルタはわずかに首を傾げた。
「違う。私が来たとき、すでにあった」
「前の魔王が?」
「そうだ。私の前にも、魔王はいた。一代限りだが」
「前の魔王は、どんな人でしたか」
長い沈黙があった。
「知らない。記録だけが残っている」
「残っているなら」
「記録と、実際の人間は違う」
その言葉は、妙に確信を持っていた。
「記録は、事実だ。だが事実は、人間のすべてではない」
エイルは少し考えた。
「……それ、随分と人間のことを分かった言い方ですね」
ヴェルタは答えなかった。代わりに立ち上がり、部屋を出た。
残されたエイルは、静かな部屋で少しの間、窓の外を見ていた。
魔王が作ったわけでもない城に、魔王が住んでいる。
その孤独の形を、エイルはまだ想像できていなかった。
ヴェルタは廊下を歩いた。部屋を出てから、どこへ行くか決めていなかった。行き先を決めずに歩くのは、珍しいことだった。
「記録と、実際の人間は違う」
自分が言った言葉が、まだ胸の中に残っていた。
事実は事実だ。だが事実は人間のすべてではない。それはそうだ。三百年間の観察で学んだことの一つだ。記録された言葉と、その人間が実際に感じていたことは、常に一致しない。
ルードの日記がそれを証明している。書かれた言葉と、書かれなかった感情。書かれなかった部分こそが、その人の本質だったかもしれない。
エイルは今、書かれていない部分がどのくらいあるのだろうか。
仲間を失ったこと。一人で城に来たこと。殺されなかったことへの驚き。そして今この部屋で、一人でいること。それらを彼は言葉にしたか。どこまでが表面で、どこからが内側か。
ヴェルタは、中庭の回廊で立ち止まった。
噴水の音が聞こえる。
花壇の花は、今日も咲いている。
三百年間、誰かが世話をし続けている花たち。命令でそうしているわけではない。侍女たちが、自分で選んで続けている。
理由もなく続けること、は、人間の習慣かもしれない。
それとも、
好きだから続けること、かもしれない。
「他にも、俺みたいなのがいるんですか」
「いる」
「......何人」
「六人」
思っていたより少ない。
「全員、生きてるんですか」
「今は」
短い返答だった。
それ以上聞くな、という線引きが、言葉に出さずとも分かった。
ヴェルタはノートを閉じ、立ち上がる。
「城内は自由に歩いていい。ただし、外には出るな」
「理由は?」
「逃げるだろう」
「否定はしません」
「分かっている」
ドアに向かいかけて、ヴェルタは一度だけ立ち止まった。
「......何か、不都合はあるか」
それは、命令でも確認でもない、奇妙な問いだった。
「不都合、ですか」
エイルは少し考えた。
「今のところは。静かすぎるくらいで」
「そうか」
それだけ言って、ヴェルタは部屋を出た。
しばらくして、エイルはベッドに腰を下ろした。
剣は取り上げられていない。
拘束具もない。
扉も、内側から開く。
逃げられないと分かっていて、逃げる必要もない場所。
「......変な城だな」
昼食は、希望通りのものが出た。
パンは温かく、スープはちょうどいい塩加減で、肉は柔らかかった。
なぜか、少しだけ、覚えがある味だった。
エイルは気づかないふりをして、皿を空にした。
その様子を、ヴェルタは廊下の陰から確認していた。
確認、とは言うが、それ以上の何かがあった。空になった皿を見た瞬間、胸の奥が、わずかに軽くなった。何かが、正常だと確認された感覚。それが最も近い。
侍女が後片付けのために部屋に入ろうとして、廊下に立つヴェルタに気づいた。
「……魔王様、お食事は」
「不要だ」
即答した。侍女は一礼して、部屋に入る。エイルが何かを話しかけているのが、低い声で聞こえた。笑い声も。
ヴェルタは、廊下を引き返した。笑い声が、少しの間、耳に残った。記録する必要はない。不要な情報だ。そう判断して、判断したことも忘れようとした。忘れられなかった。
エイルは気づかないふりをして、皿を空にした。
魔王城の日常は、その裏で。
ヴェルタは自室の机に向かっていた。
机の上には、新しい革表紙のノートが一冊。最初のページは白紙のまま。ペンを持って、何を書くか考えている。
観察日誌の形式は決まっている。日付。対象の名前。体格・外見の特徴。行動パターン。発言の記録。それ以外の項目は、必要に応じて追加する。
だが今夜は、何か書くべきかどうかの判断から、始まらなかった。
昼食の話をした。希望を聞いた。その通りに用意させた。エイルは皿を空にした。それだけのことなのに、ヴェルタはなぜかそのシーンを何度も思い返していた。
空になった皿を見たとき、ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。
正確には「軽くなった」ではない。何かが、満たされた。だが「満たされた」も違う。何かが、正常だと確認された。それが最も近い。
正常。
観察対象が正常な状態を保っていることは、観察の継続が可能であることを意味する。それは合理的に喜ばしいことだ。だから、胸の奥が変化したのだろう。
ヴェルタは、その推論を紙に書いた。読み返す。なぜか、薄いと感じた。書いた言葉の意味は正しいのに、それが全体を説明していない気がする。
「……変数が多い」
呟いて、新しい項目を追加する。
「パンと、スープと、肉が残量なし」
だけ書いて、またペンが止まった。
三百年間、食事の記録を残したことはなかった。勇者たちが何を食べたかを記録した意味はなかったからだ。栄養状態と戦闘能力の相関を調べるための一項目として残したことはあるが、それは別の目的だった。
では今夜、なぜこれを書いているのか。
ヴェルタは、答えを考えた。
考えて、やめた。
答えが出そうだったから。
こうして、何事もない顔をして始まった。
その裏で、
ヴェルタは、机の上に三冊のノートを広げた。勇者エイルの記録。最初のページには、日付と基本データだけが並んでいる。名前。年齢(推定)。武装。戦闘スタイル。単独行動の理由。仲間を失った事実。
だが、今日書き加えた項目は、そういう類のものではなかった。
「……食事の好みが、理由なく分かった」
それが気になった。
三百年間、多くの人間を観察してきた。だが通常、食事の好みを理解するには、少なくとも数日の観察が必要だ。今回は、問うたのではなく、出す前から予測していた。パンと、スープと、肉があれば。それが「合うだろう」と直感した。
なぜそう判断したのか、説明できない。
「説明できない判断」は、通常、記録しない。記録は事実を残すものであり、根拠のない推論は誤差になる。だが今日、ヴェルタはその「説明できない判断」を、小さな文字で書き留めた。
*理由未特定の予測精度が、通常の判断を上回った。
書いてから、しばらく見つめた。
これは何を意味するのか。
記録の精度が上がることは、観察の精度が上がることだ。それは成果だ。だが、何の精度が上がったのか。
ヴェルタはペンを置いた。
部屋の窓から、中庭の噴水が見える。今夜も、誰かが花壇の水やりをしていた。魔族の侍女たちは、命じなくとも仕事をする。それは三百年で変わらないことだ。
変わったことは、今日、ある。
この城に、自分が「分からない」と感じる人間が来た。
分からない、というのは、記録が足りないという意味ではない。観察していれば、記録は増える。そうではなく、記録しても記録しても、説明できない部分が残る、という種類の「分からない」だ。
ヴェルタは、そのことを不快とは感じなかった。
むしろ、ページをめくる指先が、わずかに速かった。
誰かの観察日誌の一ページ目が、静かに埋まっていくとも知らずに。




