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我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


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*間章 魔王の初夜


 夜の魔王城は、静かだった。

 水音も、風音もない。

 完全に制御された沈黙の中で、エイルは自室の椅子に腰を下ろし、机の上に広げた本を眺めていた。

 文字は読めている。

 だが、内容が頭に入ってこない。

 理由は分かっていた。

「……視線、感じるんだよな」

 独り言だった。

 振り返っても、誰もいない。

 扉は閉じている。

 窓の外には中庭と噴水があるだけだ。


 それでも、確かに感じる。

 見られている、というより――

 確認されている感覚。

 エイルは肩をすくめ、本を閉じた。

「慣れないな……」

 そのときだった。

 扉の外で、微かな音がした。

 足音ではない。

 布が擦れるような、控えめすぎる気配。

「……?」

 次の瞬間、扉が静かに開いた。

 ヴェルタだった。

「起きていたか」

「はい。……えっと、何か?」

 ヴェルタは答えず、部屋の中を一瞥した。


 机。

 椅子。

 本。

 エイルの姿勢。


 視線が、一つずつ、淡々と確認していく。


「……何か、問題あります?」

「ない」

 即答だった。

 それなのに、ヴェルタは去らない。

 代わりに、机の脇へと歩み寄り、置かれていたカップに目を留めた。


「水分は摂取したか」

「さっき、少し」

「量は」

「……コップ一杯くらい」

 ヴェルタは、わずかに眉を動かした。

「不足だ」

「え?」

「この時間帯の活動量に対して、少ない」

「そこまで管理されてるんですか、俺」

「管理が必要だと言った」

 言い切りだった。

 ヴェルタは手を伸ばし、机の端に置かれていた小さな水差しを持ち上げる。

「……それ、どこから」

「ここにあった」

「いつの間に」

 返答はない。

 ヴェルタはカップに水を注ぎ、音を立てないよう慎重に置いた。

「飲め」

「命令形」

「推奨だ」

「……どっちでもいいですけど」

 エイルはカップを手に取り、一口飲む。

「……冷たすぎない」

「調整済みだ」

「はいはい」

 飲み干すと、確かに喉が楽になった。

「……ありがとうございます」

「礼は不要だ」


 そう言いながら、ヴェルタはまだ部屋を出ない。

 視線は、今度はベッドに向いていた。


 毛布。

 枕。

 位置。


 わずかに、手が伸びかけて、止まる。

「……何です?」

 エイルが気づくと、ヴェルタはすぐに手を引いた。

「配置に、問題はない」

「さっき直そうとしてませんでした?」

「誤認だ」

「いや、今――」

「誤認だ」

 即断だった。

 エイルはそれ以上突っ込まなかった。


 しばらくの沈黙。


 水音も、風音もない。

 ただ、二人分の呼吸だけがある。


「……あの」

 エイルが口を開く。

「俺、何かしました?」

「何もしていない」

「じゃあ、なんでこんなに――」

 言葉が続かなかった。

 世話をされている、とは言えない。

 だが、放置されているわけでもない。

 ヴェルタは、エイルの言葉の続きを待っている。

 だが、促さない。

「……管理、ですよね」

 代わりに、そう言う。

「そうだ」

 ヴェルタは頷いた。

「観察対象が不調を起こせば、記録に誤差が出る」

「……そのために、水とか、毛布とか?」

「そうだ」

 迷いのない答え。

「だが」


 そこで、ほんの一拍、間が空いた。


「……それだけではない」

 エイルは、その間に気づいた。

 ヴェルタ自身が、なぜ間を置いたのか、分かっていない。

「それだけじゃ、ない?」

 問い返す。


 ヴェルタは、少し考え込んだ。

「……詳細は、未定義だ」

「便利な言葉ですね」

「未定義のものは、後回しにする」

「俺のことも?」

「お前は」


 そこで、言葉が止まった。

 ヴェルタは、視線を逸らす。

「……お前は、現在進行形だ」

 エイルは、なぜか笑ってしまった。

「何ですか、それ」

「分類だ」

「人間を?」

「そうだ」

 分類、と言われても、どこか乱雑だ。

 これまでの勇者たちは、

 もっと簡単に分類されてきたのだろう。


 敵。

 脅威。

 排除対象。


 エイルは、そうではない。

 だから、ヴェルタは迷っている。

 迷っている自覚がないまま。

「……魔王様」

「何だ」

「俺、ここにいていいんですか」

 ヴェルタは即答しなかった。

 それ自体が、答えのようでもあった。

「……現時点では」

 そう前置きしてから、

「問題はない」

 と言う。

 エイルは、それで十分だった。

 少なくとも、今日のところは。

 ヴェルタは踵を返し、扉へ向かう。

 だが、手をかける前に、立ち止まった。

「……」

「……?」

「照明は、この明るさでいいか」

「え?」

「暗すぎると、読書効率が下がる」

「……ああ。はい。大丈夫です」

 ヴェルタは、何も操作しない。

 ただ、確認しただけだ。

「……何かあれば言え」

「管理の一環ですか」

「そうだ」

 扉が閉まる。

 エイルは、しばらくその扉を見ていた。

「……管理、ね」

 だが、胸の奥に残っている感覚は、

 どう考えても「管理」ではなかった。

 廊下の向こう。

 ヴェルタは足を止め、自分の手を見下ろした。

 さきほど、毛布に触れかけた指。

 理由は分からない。

 必要だと判断したわけでもない。

 問題を発見したわけでもない。


 ただ、そのままにしておくのが、落ち着かなかった。


「……非合理だ」

 小さく呟く。

 だが、記録はしない。

 理由が未定義の行動は、まだ、書き残すべきではない。


 そう判断して、判断したこと自体を、ノートには書かなかった。


 


 その夜。

 エイルの部屋の水差しは、空になる前に補充されていた。


 誰が、いつ、どこで。


 それを知っているのは、城の中で、たった一人だった。

 ヴェルタの声音は変わらない。

「逃走、衰弱、無意味な消耗は避ける」

「それ、ほぼ飼ってるって言わないか」

「人間の語彙では、そうなる」

 ヴェルタは認めた。


 認めながら、ほんの一瞬、奇妙な感覚があった。

 言葉を選んでいた、自分に気づいた。

「捕虜」でも「人質」でもなく、「飼育対象」と言った。他の単語が浮かんで、消えた。その選択の理由を、彼女は問わなかった。問う必要がないと判断したからではなく、問うと、答えが出てしまう気がしたからだ。

 彼女は、何も言わずに歩き出した。


      ☆


 ヴェルタは、自室の机に向かっていた。

 新しいノートが一冊、開かれている。革表紙で、まだ真新しい匂いがする。表紙には何も書いていない。最初のページも、白紙のまま。

 名前を書こうとして、止まった。

 観察日誌の最初のページには、必ず対象の名前を書く。それが三百年間の習慣だった。名前、年齢、武装、体格、第一印象の観察結果。そういった項目を、決まった順序で記録する。

 だが今夜、ペンが動かなかった。

 理由が分からないのではない。分かっている。名前を書けば、それが「記録された存在」になる。記録された存在は、観察対象として定義される。観察対象として定義されれば、処理できる。管理できる。距離を保てる。それが、正しい手順だ。

 なのに、ペンが動かない。

 玉座の間でのやり取りが、頭の中で繰り返される。「殺さないのか」という問い。「不要じゃなかった」という自分の答え。その言葉を口にした瞬間、胸のあたりで何かが動いた。収まった、の方が近い。何かが、その言葉によって、ふさわしい場所に収まったような感覚。

 そういう感覚が、三百年で、初めてだった。


 「……エイル」


 名前を、声に出した。誰もいない部屋で、静かに。確かめるように。音として口から出ると、それはもう自分だけのものではなくなる。空気に溶けて、城の中に広がる。聞いている者がいなくても、それはもう外に出てしまった言葉だ。

 ヴェルタは、ペンを置いた。今夜は、まだ書かない。見つけてしまうと、何かが確定してしまう気がした。確定した何かは、次に何かを要求する。今夜だけは、このままでいたかった。


 この城に、一人分の例外が来た。名前も、理由も、まだ持たない何かが。


 ヴェルタは、ノートを閉じた。白紙のページを、白紙のままにして。

 記録しない、という判断もまた、判断であることを、

 ヴェルタはまだ認めていなかった。


           ☆


 夜明け前の魔王城は、昼よりも静かだった。

 夜の沈黙は「活動の停止」だが、

 この時間の静けさは「始動前の空白」に近い。

 ヴェルタは、回廊の端に立ち止まっていた。

 進行予定はない。

 命令も、確認も、記録も。

 それでも、足が止まった。

 理由は、分かっている。

 扉の向こう――

 エイルの部屋から、音がしなかった。


 水音もない。

 寝返りの気配もない。

 不自然ではない。

 睡眠中なら、当然だ。

 だが、ヴェルタは扉から視線を逸らせなかった。


「……」


 ノートは持っていない。

 記録する項目が、見当たらないからだ。


 睡眠時間は適正範囲。

 前日の摂取量も問題ない。

 環境音、照明、温度。

 すべて、基準値内。

 それなのに。

 ヴェルタは、扉に近づいた。

 音を立てないよう、慎重に。

 取っ手に手をかけて――

 止まる。

 確認の必要は、ない。

 そう判断できる。

 それでも、手が離れない。

「……非合理だ」

 小さく呟いた。

 自分に向けた言葉だ。

 確認する理由がない。

 記録に反映される変数もない。

 ならば、ここに留まる意味はない。

 そう、分かっている。

 ヴェルタは、ゆっくりと息を吐いた。

 そして――扉を開けた。

 音は、最小限。

 部屋の中は暗い。

 照明は落とされている。

 ベッドの上で、エイルが横になっている。

 寝息は、規則正しい。

 問題はない。

 はずだった。

 ヴェルタは、そこで気づいた。

 毛布が、ずれている。

 肩が、わずかに出ていた。

 寒さを感じるほどではない。

 体温低下の兆候もない。

 放置しても、支障はない。

 ヴェルタは、そう判断できた。

 だが。

 そのまま扉を閉めることが、できなかった。

 ゆっくりと、近づく。

 足音は、出ていない。

 魔王としての訓練が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 毛布に、手を伸ばす。

 ほんの数センチ、引き上げるだけだ。

 記録に残す必要もない。

 管理項目にも該当しない。

 ただ――

 戻した。

 それだけの動作だった。

 エイルは目を覚まさない。

 ヴェルタは、そのまま立ち尽くした。

 問題は、解決している。

 それなのに、胸の奥に違和感が残った。

「……なぜだ」

 声に出してから、気づく。

 この問いは、

 観察対象に向けたものではない。

 自分自身に向けたものだ。

 理由は分かる。

 毛布がずれていたから。

 戻した方が、安定するから。

 それは、合理的だ。

 だが、その説明では――足りない。

 ヴェルタは、ゆっくりと視線を下げた。

 眠るエイルの顔。

 無防備だ。

 敵でも、脅威でもない。

 排除対象でもない。

 分類不能。

「……」

 ノートが、欲しいと思った。

 記録したいからではない。

 否定したいからだ。

 言葉にして、定義して、

 これは世話ではない、と書きたい。

 だが、今ここに、

 書ける言葉が見当たらない。


 管理。

 観察。

 合理。


 どれも、この行動を完全には覆えない。

 ヴェルタは、初めて理解した。

 ――否定できない、という状態を。

 肯定ではない。

 認めたわけでもない。

 ただ、否定するための理由が、消えた。

「……」

 ヴェルタは、静かに後ずさる。

 扉の前で、一度だけ振り返る。

 毛布は、きちんとかかっている。

 問題は、ない。

 そう言い切れる。

 それなのに。

 扉を閉めたあとも、胸の奥の違和感は消えなかった。


 回廊を歩きながら、ヴェルタは考える。

 もし、これは世話だと仮定したら。


 その瞬間、思考が止まった。


 仮定したくない。

 仮定したら、次に来る言葉を、知っている気がしたからだ。

 それは、魔王が使うべき語彙ではない。

 だから、思考を切る。

 ヴェルタは、歩調を速めた。

 だが、歩きながら、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。

 理由は、未定義。記録不可。

 ただ一つ、確かなことがある。

 次に毛布がずれていたら、

 また同じことをするだろう。

 それを止める理由は、もう、見つからなかった。

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