第十一章 交渉失敗
交渉だと、ヴェルタは考えていた。
条件を整理し、合理的な結論を導く。
それが最も効率的で、確実な方法だ。
場所は、玉座の間ではなかった。
広すぎる空間は、今は使いたくなかった。
代わりに、回廊に面した小さな部屋。
二人で並んで座れる程度の、簡素な応接室だった。
「座れ」
ヴェルタは言った。
「命令ですか」
「......そうだ」
エイルは素直に椅子に腰を下ろした。
それだけで、胸の奥がわずかに緩む。
まだ、命令は効く。
「話とは」
エイルが促す。
「昨日の件だ」
「期限の話」
ヴェルタは、一息で続けた。
「結論から言う。
その話は、却下する」
エイルは驚かなかった。
静かに、頷く。
「理由は」
「お前は、ここにいるべきだ」
「それは」
「私が決める」
言い切った。
魔王としての言葉だった。
しばらく、沈黙。
「......命令、ですね」
「そうだ」
エイルは、少し困ったように笑った。
「従えない命令も、あります」
胸の奥で、何かがひっかかった。
「なぜだ」
「理由が、俺の外にあるからです」
「外、とは何だ」
「人の世界です。
俺が生きてきた場所」
ヴェルタは、すぐに次の手を出した。
「論理的に説明する」
「お前が外に出る利点はない」
指を一本立てる。
「安全性。ここは、最も高い」
二本目。
「安定性。食事、睡眠、治療、すべて保証されている」
三本目。
「効率。お前は、ここで最も価値のある観察対象だ」
指を下ろす。
「以上だ」
エイルは、黙って聞いていた。
「全部、正しいです」
その言葉に、ヴェルタは小さく頷く。
「ならば」
「でも、それは"条件"の話です」
「条件が整っていれば、人間は満足する」
「満足と、納得は違います」
言葉が、少しだけ強くなった。
「俺が外に出たい理由は、
条件じゃないところにあります」
ヴェルタは、眉をひそめた。
「理解できない」
「でしょうね」
エイルは否定しなかった。
ヴェルタは、第三の手を出す。
「条件を追加する」
「追加?」
「外出の頻度を制限する」
「城外の情報は、私が管理する」
「必要であれば、人間と接触させる」
「......それは」
「拘束ではない。調整だ」
エイルは、少し考えてから言った。
「囚われてる感じは、嫌いじゃないです」
ヴェルタは、わずかに目を見開く。
「だが」
エイルは続けた。
「それを選べないのは、困ります」
言葉が、胸に刺さった。
「選択権は、私にある」
「勇者だった頃は、そうでした」
「今は?」
「今は、ただの人間です」
沈黙が落ちる。
ヴェルタは、次に言うべき言葉を探した。
――行くな。
――残れ。
――そばにいろ。
どれも、浮かんでは消える。
どれも、合理的ではない。
「......お前は」
声に出しかけて、止まった。
「お前は、ここに――」
言葉が続かない。
「ヴェルタ?」
名を呼ばれて、胸が跳ねる。
「......合理的でない」
ようやく出たのは、その一言だった。
エイルは、静かに見つめてくる。
「俺が出ていったら」
一拍。
「困りますか」
時間が、止まったように感じた。
「......困る、という言葉の定義を確認したい」
「寂しいとか」
「つらいとか」
ヴェルタは、口を開いた。
そして、閉じた。
「......その定義なら」
喉が、わずかに詰まる。
「......困る」
小さな声だった。
それが、限界だった。
エイルは、少し笑った。
「それ、理由になりますよ」
ヴェルタは、何も言えなかった。
理由を言葉にしてしまえば、
それが変わる。
魔王としての自分が。観察者としての距離が。三百年間、積み上げてきた合理の体系が。
感情を持っていることは、問題ではない。感情は現象であり、現象は記録できる。それは分かっている。
だが、この感情だけは記録するつもりがなかった。記録してしまえば、自分でも確認できてしまう。確認できれば、行動が変わる。行動が変われば、世界との距離が変わる。
そして、この人間はもう、観察対象ではなくなってしまう。
「ヴェルタ?」
エイルの声に、ヴェルタは我に返った。
「……何だ」
「部屋、出て行っていいですか。ちょっと歩きたくて」
「……行け」
エイルが部屋を出た後、ヴェルタは少しの間、扉を見ていた。
言えなかった言葉が、まだ胸の中に残っている。論理として整えることができない。名前もつけられない。処理できない。
「……困る」
そう呟いて、どこか遠くを見た。
その言葉の定義を確認する必要は、もうなかった。
それはもう、観察でも飼育でもなくなる。
自分が、何を失おうとしているのか。
それを、理解してしまう気がした。
「......今日は、ここまでだ」
ヴェルタは立ち上がった。
命令でも、結論でもない。
逃げだった。
「分かりました」
エイルも立つ。
「考える時間、必要ですよね」
その言葉が、優しすぎて、痛かった。
部屋を出るとき、エイルが振り返る。
「ヴェルタ」
「何だ」
「俺、急にはいなくなりません」
それだけ言って、去っていった。
一人残されたヴェルタは、しばらく動けなかった。
交渉は、失敗した。
命令も、論理も、取引も。
すべて使った。すべて、通じなかった。正確には、通じなかったのではなく、エイルは「分かった上で、それでも」と言った。合理的に説明できる条件は揃っている。なのに、従わない。
それが人間の感情だ、とエイルは前に教えてくれた。感情は、論理的じゃない。
ヴェルタは初めて、「感情は論理的じゃない」という言葉を、自分に向けた。
俺が出ていったら、困りますか。
その問いへの答えは、「困る」だった。それは感情だ。論理的ではない。合理的ではない。だが、確かにある。
感情は、論理的に処理できない。
では、どう処理するのか。
エイルが、時々、何かを諦めるように息を吐くことがある。深く、ゆっくりと。あの動作が、何かを処理しているように見えた。感情を空気の形で外に出している。
ヴェルタは、試してみた。
ゆっくりと、息を吐く。
……少しだけ、軽くなった気がした。
「……記録する」
誰にも聞かせず、自分だけに向けて言った。
感情の処理方法、一つ習得。
命令も、論理も、取引も。
すべて尽くした。
それでも、
言えなかった一言が、胸の奥に残っている。
それは、まだ名前を持たない。
だが、確かにそこにあった。
回廊を出て、エイルはしばらく歩いた。
歩きたい、と言ったのは本心だった。
部屋に戻る気分ではなかったし、
どこかへ行く目的も、まだなかった。
城は夜だった。
灯りは必要な分だけ点いていて、
足音は、自分のものしか聞こえない。
この城の静けさには、
もう驚かなくなっている。
「……慣れるもんだな」
小さく呟いて、足を止める。
回廊の先に、門が見えた。
正門ではない。
人の出入りを想定した、
小さな通用門だ。
警備兵がいる。
だが、こちらを見ても動かない。
止めない。
呼び止めもしない。
それが、この城のやり方だった。
エイルは一瞬だけ迷ってから、
兵の前で足を止めた。
「……出ても、いいですか」
質問というより、確認だった。
兵は即答しない。
だが、視線を逸らし、門の方を見る。
「日没後の外出は禁止されていない」
それだけ言って、鍵に手を伸ばした。
重い音がして、門が開く。
外の空気が、流れ込んできた。
「戻ります」
エイルは、そう言った。
戻らない、とは言わなかった。
急にはいなくならない、
という言葉も、
否定していない。
兵は何も答えず、
ただ一礼した。
エイルは城を出た。
振り返らなかった。
振り返ると、
戻れなくなりそうだったからだ。
門は、閉じられた。
音は小さく、
夜に溶けた。
それが、交渉の結果だった。
*間章 ヴェルタのいる場所
ガゼルは、魔王が廊下を歩く音を聞いていた。
行って、戻って、止まる。
年老いた体では追えないが、音だけで分かる。七十三年で覚えた、その城の言語だ。
「若い子が来たな」
誰にともなく呟いた。
部屋の外で足音が止まった。少しして、動き出す。向かった先は、分かっている。エイルの部屋の前だ。
ガゼルは毛布を引き上げて、目を閉じた。
ルードが死んだとき、魔王は三日間、食事をしなかった。それを知っているのは、城で長く生きてきた者だけだ。
だが今のヴェルタは、ルードの頃とは少し違う。
見ていれば分かる。動きが、速い。反応が、多い。何かを考えるとき、以前は視線が遠かったが、今は視線が近い。
「……気づいていないのは、本人だけだな」
ガゼルは小さく笑った。
三百年。その間、あの子はずっと、感情に名前を持てないまま生きてきた。だから今、感情に振り回されているのに、気づかないでいる。
それは可哀想なことかもしれないが、どこか、愛おしくもあった。
「急がなくていい」
誰にも届かない言葉を、老人は呟いた。
「ゆっくり、気づけばいい」
夜の城は、静かに息をしていた。
*間章 感情の処理
息を吐くと、少し軽くなる。
それは発見だった。三百年間、感情を処理しようとしてきたが、空気の形で外に出すという方法は試したことがなかった。記録した。管理した。無視した。名前をつけなかった。だが、吐き出すというやり方は知らなかった。
エイルが時々やる動作を思い出す。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。あれは、感情を処理しているのだ。自分の知らないやり方で、毎日やっていた。
ヴェルタは、もう一度試した。
ゆっくりと、息を吸う。
ゆっくりと、吐く。
……少しだけ、軽い。
合理的だ、と思いながら、なぜかそれが可笑しかった。感情を空気で処理する。人間はよくそんな方法を見つけるものだ。感情を数値化して記録する方が、ずっと正確のはずなのに。
なのに、数値化より、こっちの方が効いた。
ヴェルタは、観察日誌を開いた。
「感情の処理方法、習得:呼吸」
そう書いて、少し考えてから付け足した。
「教示者:エイル」
書いてから、じっと見つめる。
教えてもらったことを記録するのは、観察者として正しい行為だ。合理的だ。問題はない。
なのに、その一行が、他の記録と違う重さを持っていた。
ヴェルタはノートを閉じた。
やがてエイルは、この城を去らねばならない期限が来る。それは分かっている。だが今夜は、その先を考えない。今夜は、感情の処理を一つ学んだ夜だ。それで十分だ。




