第十章 期限
その話を切り出したのは、夕食のあとだった。
食堂には、いつもより人が少なかった。
一人分減った席が、まだ馴染んでいない。
「大した話じゃないんですけど......」
エイルは、そう前置きしてから、少しだけ間を置いた。
ヴェルタは、黙って続きを待っている。
催促もしない。
ただ、視線を外さなかった。
「俺、ここにずっとはいられないみたいです」
その一言で、空気が変わった。
「......意味が分からない」
ヴェルタは即座に言った。
「ここにいるのは、効率的だ」
「そうだと思います」
エイルは頷く。
「俺も、そう思ってました」
「ならば問題はない」
「お前が出ていく必要性は、存在しない」
ヴェルタの声は、論理の形をしていた。
いつも通りの調子。
いつも通りの、整理された言葉。
「必要かどうかじゃなくて......」
エイルは言葉を選ぶ。
「そういう"話"が、外から来てるってだけです」
「外、とは何だ」
「人間の世界です」
「誰が決める」
「俺じゃないです」
エイルは首を振った。
「俺も、まだよく分かってません」
ヴェルタは、口を閉じた。
数秒。
だが、その沈黙は長かった。
「......不確定要素が多すぎる」
低い声で、そう結論づける。
「その"話"とやらの信憑性は」
「分かりません」
「ならば、保留だ」
「はい」
保留。
それは、いつもならそこで終わる言葉だった。
だが、今回は違った。
ヴェルタは立ち上がり、食堂を一歩出て、また戻ってきた。
意味のない動き。
「期限は、いつだ」
「まだ、決まってません」
「未定、ということか」
「そうなります」
ヴェルタは、机の縁に指先を置いた。
無意識に、力がこもっている。
「......では、その話が確定するまで」
「お前は、ここにいる」
確定するまで。
ヴェルタは、その言葉を自分でも意識しながら言っていた。確定するまで、ということは、確定したときのことも考えている。確定したときに、どうするかを、まだ考えていない。
いや、考えていない、は正確ではない。考えようとして、止めている。
「……問題はない」
繰り返してから、自分でその言葉が薄いと気づく。問題はない。本当に? 記録量が多い観察対象が、城を離れる可能性がある。その影響を、まだ検証していない。検証すべきだ。
だが、検証を始めると、答えが出てしまう気がした。
「ヴェルタ、大丈夫ですか」
「何が」
「なんか、考えてる顔してたから」
ヴェルタは、ノートを取り出してページを開いた。何を書くか決まっていない。ただ、何か書くふりをすると、考えを整理できる気がした。実際のところ、ペンは一文字も進まなかった。
「……整理中だ」
「手伝いますか」
「……不要だ」
「じゃあ、俺しばらくここにいますね」
ヴェルタは顔を上げた。
「理由は」
「整理が終わるまで、一人にしないほうがいい気がするんで」
その言葉は、余計だった。
余計なのに、胸の奥の何かが、少しだけ緩んだ。
命令に近い口調だった。
「はい」
エイルは答える。
「俺も、そのつもりです」
その返事に、ヴェルタはわずかに眉を動かした。
「......ならば、問題はない」
同じ言葉を、もう一度。
だが、そのあとが続かなかった。
食堂を出たあと、二人は並んで廊下を歩いた。
足音が、以前よりもはっきりと響く。
「ヴェルタ」
「何だ」
「さっきの"効率的"って」
「事実だ」
「俺がいなくなったら、効率が落ちますか」
ヴェルタは、足を止めた。
「......質問の意図を説明しろ」
「単純に、知りたいだけです」
少しの沈黙。
「......比較データが不足している」
「いなくなってみないと、分からない?」
「そうだ」
エイルは、小さく笑った。
「じゃあ、そのとき考えましょう」
「......許可できない」
「理由は?」
ヴェルタは、口を開いたまま止まった。
理由は、あった。
だが、言葉にすると、形が変わってしまう気がした。
「......合理的でない」
ようやく出た言葉は、それだった。
夜。
エイルが部屋に戻ったあとも、ヴェルタは回廊を歩いていた。
行って、戻って、止まる。
また行って、戻る。
期限。
未定。
外。
言葉だけが、頭の中で反復される。
記録しようとして、やめた。
記録すると、
それが"事象"になってしまう気がしたからだ。
部屋の前で、足が止まる。
扉の向こうに、エイルがいる。
いる、という事実だけで、
胸の奥の何かが、わずかに緩んだ。
「......不確定要素は、嫌いだ」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
それでも、扉は開けなかった。
開けてしまえば、
理由を聞いてしまいそうだったからだ。
期限が来る前に、
言葉にできない何かが、
先に形を持ってしまいそうで。
ヴェルタは、静かに廊下を引き返した。
城は、変わらずそこにある。
だが、時間だけが、
確実に、別の方向へ動き始めていた。




