第九章 選ばれるということ
知らせは、朝食のあとだった。
「一人、城を去る」
ヴェルタは、食堂の入口でそう告げた。
言葉は簡潔で、感情の揺れはない。
いつもと同じ調子だった。
「誰ですか」
エイルが問うと、ヴェルタは視線を動かした。
窓際の席に、元勇者の一人が座っている。
痩せた体躯の中年の男だった。
剣士だったというが、今は杖を頼りに歩いている。
「......俺か」
男は苦笑した。
「迎えが来た」
「人間の町で、居場所ができたらしい」
食堂の空気が、わずかに揺れた。
「おめでとうございます」
誰かが言った。
祝福の言葉は、正しい。
だが、どこか慎重だった。
ヴェルタは、それ以上何も言わなかった。
ただ一度、男を見て、そして視線を外した。
エイルは気づいた。
――見送らない。
その日の昼、出立の準備が整えられた。
城門の前に、元勇者たちと数人の魔族が集まる。
「世話になったな」
男は、照れたように頭をかいた。
「悪くない場所だった」
そう言って、ヴェルタを見る。
「......魔王様」
呼びかけに、ヴェルタは一拍遅れて応じた。
「何だ」
「礼を言う」
「殺さずにいてくれて」
ヴェルタは、すぐに答えなかった。
「......記録は、十分に取った」
それだけだった。
男は、少し寂しそうに笑った。
「相変わらずだな」
そう言って、踵を返す。
城門が閉じる音が、重く響いた。
去ったあと、誰もすぐには動かなかった。
エイルは、横に立つヴェルタを見た。
表情は、変わっていない。
「......見送らなかったんですね」
「必要がない」
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
その夜、食堂には一人分、空いた席があった。
誰もその席を使わない。
ヴェルタも、そこを見なかった。
エイルだけが、気づいていた。
夜更け、エイルは廊下で足を止めた。
ヴェルタが、回廊の先に立っている。
また、あの場所だった。
「......行ったんですね」
「確認した」
「どうでした」
「問題はない」
即答だった。
だが、次の言葉が続かない。
「......城は」
ヴェルタは、しばらく考える。
「少し、広い」
沈黙。
やがて、ヴェルタが言った。
「お前は、行かない」
断定だった。
エイルは、驚いて瞬きをした。
「......今、なんて」
「お前は、行かない」
繰り返す。
「少なくとも、今は」
少なくとも、今は。
その言葉には、例外が含まれていた。「今は」という限定は、「いつかは」という未来を含む。ヴェルタはそれを、論理として分かっていた。
だが今夜は、その先を考えたくなかった。
「……比較した、とは」
エイルが、少し首を傾ける。
「さっき言ってた、比較した結果って、何と何を?」
「……城が、広くなった感覚と」
ヴェルタは、視線を少しだけ横にずらした。
「……そうでない状態の差分だ」
エイルは、しばらくその言葉を受け止めていた。
「それ」
ゆっくり言う。
「さみしかった、って言いません?」
ヴェルタは、返答しなかった。
ただ、また視線が少しだけ横を向いた。
違う、と言わなかった。
それが、答えだった。
「理由は?」
ヴェルタは、口を開いたまま止まった。
数秒。
数十秒。
「......必要がない」
同じ言葉だった。
だが、さきほどとは意味が違う。
「城に、必要だから?」
「......違う」
「じゃあ、俺に?」
ヴェルタは、エイルを見た。
まっすぐな視線だった。
「......比較した」
「何を」
「結果だ」
それ以上、言葉はなかった。
だがエイルには、十分だった。
自分は、残されたのではない。
選ばれたのだ。
その夜、観察日誌に新しい一行が加えられた。
『対象一名、城を離脱
経過観察終了』
少し間を置いて、別のページ。
『エイル
――経過観察、継続』
その二行の間には、
理由も説明も、書かれていなかった。
けれどそれは、
これまでで一番、はっきりした記録だった。
ヴェルタは、そのページを閉じた。
選んだ、という事実だけが残った。
理由は、まだ知らないまま。
ヴェルタは、自室に戻って窓を開けた。
夜の空気が入ってくる。今日は少し冷えている。城の石壁は熱を持たないから、夜になると室内も冷える。それは三百年間変わらない。
今夜、ルードの日記を見た。触れただけだが、触れると、どこかが動く。記録ではない動き。説明できない動き。
「よく笑った」
自分が言った言葉が、また返ってくる。ルードを思い出すとき、最初に来る言葉は、いつもこれだ。笑い声が先に来て、次に顔が来て、最後に言葉が来る。
そういう順番で人間を思い出すのが、観察者として正しいのかは分からない。だが、ヴェルタにはそれしかない。
エイルを思い出すとき、何が先に来るのか。
考えて、少し驚いた。
目が、先に来た。玉座の間で最初に見た、あの目。逃げていない目。諦めも、虚勢も、演技もない、ただ現実を受け入れている目。それが、今も鮮明だった。
記録の中に埋もれていない。記録より先に来る。
それは何を意味するのか。
ヴェルタは窓を閉めた。今夜は、それ以上考えない。考えれば、名前をつけることになる。名前をつければ、選んだことが確定してしまう。
確定してもいい。でも今夜は、まだいい。
夜が深まる。
ヴェルタは、観察日誌を二冊並べた。一冊は今日書いたもの。もう一冊は、五十年前のルードのもの。
比べるつもりはなかった。ただ、手が伸びた。
ルードのページを開く。読み慣れた文字。
「今日も、朝食が用意されていた。好みを覚えられているらしい。なぜだ」
エイルも、最初の頃、同じことを思っていたかもしれない。だが口に出さなかった。あるいは出したが、ヴェルタが記録しなかった。
次のページ。
「魔王は感情を表に出さない。だが、私が笑うと、少しだけ黙る」
ヴェルタは、自分が笑うと黙ることを知らなかった。知らないから記録していなかった。ルードが書き留めてくれていなければ、今も知らなかったかもしれない。
今日のエイルを思い返す。
彼が笑ったとき、自分はどうしていたか。
……黙っていた、と思う。
「……三百年経っても、変わっていない」
その事実が、なぜか少し温かかった。
変わっていないことは、記録と実在が一致しているということだ。記録は正確だった。そして、ルードが書いた「少しだけ黙る」が、今もそのまま存在している。
ルードはそれを観察した。エイルも、気づいているかもしれない。
ヴェルタは、自分が笑ったときに黙ることを、意識したことがなかった。だが今後、意識するかもしれない。意識することで、変えようとするかもしれない。
あるいは、変えなくていいと判断するかもしれない。
「……エイルが見ても、気にしないのか」
その問いを、自分自身に向けた。
長い間があった。
答えは、出なかった。
だが、答えを出す必要がない気もした。
ルードの日記を閉じる。今日の日誌を開く。新しいページの一行目に書く。
「エイル、城に選択される(保留)」
保留、と書いたが、ヴェルタ自身はもう知っていた。
保留ではない。
ただ、まだ言葉にしたくなかった。言葉にする日は、来るかもしれない。だが今夜は、まだいい。




