第八章 夜を共にする理由
その夜、エイルは眠れなかった。
理由ははっきりしている。
昼間に歩いた町の音が、頭の奥に残っていたからだ。
人の声。
子どもの笑い声。
パンの焼ける匂い。
城に戻れば、すべて遠ざかる。
それが普通だったはずなのに、今夜は違った。
寝返りを打ったとき、廊下から足音が聞こえた。
規則的な音。
行って、戻って、また行く。
エイルはしばらく天井を見つめてから、起き上がった。
扉を開ける。
回廊の先に、ヴェルタがいた。
壁に寄りかかり、歩いては止まり、また歩く。
まるで距離を測っているようだった。
「......ヴェルタ?」
呼びかけると、足音が止まった。
「起きていたのか」
「そっちこそ」
エイルは廊下に出た。
夜の城は、昼よりも静かだ。
音が少ないぶん、存在が際立つ。
「見張りですか」
「違う」
即答だった。
「では、何を」
ヴェルタは一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。
「......通路だ」
「はい?」
「この回廊は、最短経路だ」
エイルは、ゆっくりと周囲を見回した。
「遠回りしてますよ」
「......誤差の範囲だ」
昼にも聞いた言い訳だった。
沈黙が落ちる。
夜風が、開いた窓から流れ込む。
城の外では、虫の声がかすかに響いていた。
「町、どうでした?」
エイルが先に口を開いた。
「......情報量が多い」
「嫌でした?」
「不快ではない」
少し間があって、付け足す。
「だが、疲れる」
「俺も同じです」
ヴェルタは、エイルを見た。
「......城に戻ってから、お前の動きが変わった」
「そうですか」
「視線が、遠い」
「懐かしくなっただけです」
「懐かしい」
ヴェルタは、その言葉を口の中で転がす。
「失ったものを思い出す感覚だ」
エイルは言った。
「痛いけど、悪くない」
「......理解できないが」
否定はしなかった。
しばらくして、エイルはあくびを噛み殺した。
「俺、そろそろ寝ます」
扉に手をかける。
「......待て」
ヴェルタの声が、昼よりも低かった。
「何か?」
「......話の続きがある」
「今から?」
「今だ」
エイルは扉から手を離した。
「じゃあ、少しだけ」
二人は、壁にもたれて並んだ。
距離は、腕一本分。
それでも、近かった。
「......なぜ、人間は夜に集まる」
ヴェルタが言った。
「一人だと、考えすぎるからじゃないですか」
「考えることは、悪いことか」
「悪くはないです。
でも、長すぎると疲れます」
「......一人だと、時間が長い」
ヴェルタの言葉に、エイルは視線を向けた。
「さっきも、同じこと言ってましたね」
「事実だ」
「城は、広いですから」
「......広すぎる」
その言葉は、独り言に近かった。
また沈黙。
夜は、簡単に終わらない。
「エイル」
「はい」
「お前は、眠くないのか」
「眠いですよ」
「なら、なぜここにいる」
エイルは少し考えた。
「ヴェルタが、ここにいるからです」
答えは、あまりにも素直だった。
ヴェルタは、すぐに反応できなかった。
「......合理的ではない」
「感情は、だいたいそうです」
ヴェルタは、視線を前に戻す。
「......一人でいると、時間が伸びる」
「さっきも言ってました」
「......ここにいると、短い」
エイルは、ゆっくり息を吐いた。
「それ、悪くないですよ」
「......効率がいい」
言い換えだった。
「今夜は」
ヴェルタが、少しだけ間を置いて言う。
「ここにいる」
命令ではなかった。
選択でもなかった。
ただの、宣言だった。
エイルは笑った。
「じゃあ、俺も」
二人分の足音が廊下に重なった。行って、戻って、また行く。それだけのことなのに、しばらく前とは何かが違った。
ヴェルタは考える。一人でいると、時間が伸びる。そのことは知っていた。三百年で学んだことだ。夜は特に、長い。観察日誌を書いても、書き終わると次の項目を探す。探している間に、もっと長くなる。
だが今夜は、それが起きていない。
「……エイル」
「はい」
「お前は、なぜ眠れなかった」
「さっきも答えましたよ。町の音が残ってたから」
「……それは」
ヴェルタは、少し間を置いた。
「音が、記憶に残るのか」
「音じゃなくて、そこにいた感覚、ですかね。懐かしかったのかもしれない」
「懐かしい」
また、言葉が胸の中で転がる。
「……私には、懐かしい場所がない」
唐突な言葉だったが、エイルは驚かなかった。むしろ、ずっとそこに辿り着くと思っていた。
「城が、そうじゃないんですか」
「城は、最初からあった。前の魔王が作ったものだ。私が選んだわけではない」
「じゃあ、好きじゃないんですか、ここが」
また、間があった。今度は少し長い。
「……嫌いではない」
「それって、好きってことじゃないですか」
「……定義を要求するな」
それは珍しく、困ったときの言葉に聞こえた。エイルはそれ以上突っ込まなかった。
廊下の窓から、外の闇が見える。星がいくつか、かすかに光っていた。
「……効率がいい」
ヴェルタが、ぽつりと言った。
「何が」
「ここにいると。時間が、短くなる」
エイルは何も言わなかった。言う必要がない気がした。
二人分の足音が、またゆっくりと歩き始めた。
二人分の足音が、廊下に重なる。
行って、戻って、止まる。
夜は、まだ長い。
だが、
一人で過ごす夜よりは、短かった。
*間章 観察日誌の外側
日付:勇者エイル到着より十九日目。
ヴェルタは朝、観察日誌を開いた。
今日の項目を書こうとして、気づいた。昨日のエイルの記録が、いつもより長い。行動の記述ではなく、会話の内容が多い。その中に、自分が答えた言葉が何行も書かれている。
『一人でいると、時間が長い』
『ここにいると、短い』
事実の記録。だが、なぜそう答えたのかの説明が、書かれていない。
書こうとして、言葉が出なかった。書けないのではなく、書くと、それが「定まって」しまう気がした。
名前がつくと、軽くなる。だが同時に、名前がついたものは、他の人間にも使える言葉になる。それが……どこか、惜しかった。
ヴェルタは、その感情の名前を探さなかった。今日は、探さない。そう決めて、観察日誌を閉じた。
だが代わりに、別のノートを引き出しから取り出した。普段の記録に使わない、白紙のもの。最初のページを開く。
書いたのは、たった一行だった。
『エイルと話した夜は、眠れる』
それだけ。
ヴェルタはその一行を長く見つめてから、ノートを引き出しの奥にしまった。
だれにも見せない。説明もしない。ただ、記録した。
なぜそうしたのかも、まだ分からないまま。
引き出しを閉めてから、ヴェルタはしばらくそこに座っていた。
エイルと話した夜は、眠れる。
その事実が、記録されるべきかどうか、今も判断がつかない。
眠れる、というのは、身体機能の問題だ。眠れないのは、何かが処理されていないからだ。処理されない何かは、考えることで消費される。エイルと話すことで、その何かが消費されている。
それが合理的説明だった。
だが、もう一つの説明もある。
エイルがいると、安心する。安心すると、身体が緩む。緩むと、眠りやすくなる。
どちらの説明も、正しいかもしれない。どちらも、正しくないかもしれない。
違いは一つだけある。
前者の説明では、エイルは「効率的なツール」だ。後者の説明では、エイルは「大切な存在」だ。
ヴェルタは、その違いを知っていた。
知っていて、どちらを選ぶかを、今夜は決めなかった。
引き出しの奥に、白紙のノートがある。
その一行が、どちらの説明にも収まらないことも、知っていた。
*間章 星の数
ヴェルタは、廊下を歩きながら考えていた。
エイルが先ほど言ったこと。「ヴェルタがここにいるから」。
それは、説明としてはあまりにも不合理だ。眠い人間が眠れない場所にいる理由として、「誰かがそこにいるから」は論理的な答えではない。人間は、眠れない理由があるなら眠れる場所に移動するか、眠れるようにするかどちらかを選ぶ。
なのに、エイルはそう言った。
そしてそれを聞いたとき、ヴェルタは「そうか」と答えた。その「そうか」が何を意味したのか、今の自分でも説明できない。
城の外から、虫の声が聞こえる。夏が近い。三百年、毎年聞いていた音だ。最初の頃は記録した。二十年目頃には記録しなくなった。意味を持たない繰り返し、と判断したからだ。
今夜は、少し違って聞こえる。
音そのものは変わっていない。変わったのは自分だ。聞く側が変わると、音も変わる。それは理屈として知っていた。だが経験したのは、今夜が初めてかもしれない。
エイルがいる。
それだけで、城が少し違う場所に見える。それだけで、時間が少し違う速さで動く。
ヴェルタは窓から星を見た。
数えたことはない。数えても、意味がないからだ。だが今夜、なぜか数えたくなった。
一つ、二つ、三つ――
途中で止まった。数えながら、別のことを考え始めていたからだ。
エイルは今、自室で何をしているのだろう。眠れているか。眠れていないなら、何を考えているか。
そういうことが、気になった。
三百年間、誰かのことをこういう形で気にしたことはあっただろうか。記録のためではなく、純粋に、今どうしているか、を。
ヴェルタは、その問いに答えを出さなかった。
答えを出すと、次の問いが来る。次の問いは、また答えを要求する。そうして辿り着く場所が、まだ見たくなかった。
夜は、まだ長い。
だが、以前ほど、長くはない。




