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我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


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第七章 城の外の世界

 城の外に出るのは、久しぶりだった。

 門が開く音を聞きながら、エイルは少しだけ背筋を伸ばした。

 空気が違う。湿り気を帯びた風の匂いに、土と草の匂いが混じっている。

 エイルは少しだけ目を閉じた。懐かしい匂いだった。城の中は、石と蝋燭と乾いた空気の匂いがする。それは嫌いではないが、これとは違う。人が生きている匂い、と言えばいいのか。

 隣で、ヴェルタが立ち止まった。

「……気分は」

「良いですよ。ヴェルタは?」

 聞き返すと、少し間があった。

「……調査中だ」

「自分の気分を調査中?」

「……そうだ」

 エイルは、その答えが可愛かった。口には出さなかったが。

 魔王は今、城の外の空気を受け取りながら、自分の状態を確認しているのだ。それがこの人の感情との向き合い方だと、もう理解していた。

「外の空気、どうですか」

「……城と、違う」

「それは分かります。どう違うか、ですよ」

 ヴェルタは、少しだけ考えた。鼻から息を吸う。ゆっくりと、確かめるように。

「……情報量が多い」

「良い情報ですか、悪い情報ですか」

「……分類不能だ」

「じゃあ、嫌いじゃないですね」

 ヴェルタは、否定しなかった。

 それが答えだった。

「本当に、出るんですね」

「観察の一環だ」

 ヴェルタは、いつも通りの無表情で言った。

 だが、その足取りは、わずかに慎重だった。

「逃げるなよ」

「逃げませんよ」

 エイルは肩をすくめる。

「逃げたら、すぐ捕まるんでしょう」

「当然だ」

 短いやり取りのあと、二人は城下の町へ向かった。

 石畳の道。低い建物。市場から漂ってくる、焼いたパンの香り。

 人々の声が、重なり合って響いている。

「......うるさい」

 ヴェルタが、小さく呟いた。

「人が多いですから」

「理解はしている。

 だが、情報量が過剰だ」

 通りの角で、誰かがエイルの名を呼んだ。

「エイル?」

 振り向くと、かつて世話になった宿屋の主人が立っていた。

 驚いた顔から、すぐに笑顔になる。

「生きてたのか!」

「噂じゃ、魔王城で――」

「まあ、色々あって」

 曖昧に返すと、主人はそれ以上詮索しなかった。

「元気そうでよかった」

「無理はするなよ」

「ありがとうございます」

 短いやり取りだった。

 だが、その間、ヴェルタは一言も発しなかった。

 エイルと町人の顔を、交互に見ている。

「知り合いか」

 歩き出してから、そう聞かれた。

「はい。昔、泊めてもらってました」

「......なぜ、ああいう表情になる」

「安心、だと思います」

「安心」

 ヴェルタは復唱する。

「相手の生存を確認しただけで?」

「それだけで、十分なときもあります」

 しばらく歩くと、市場に出た。

 果物を並べる商人、駆け回る子どもたち、笑い声。

 一人の子どもが、転んだ拍子に泣き出す。

 すぐに別の子が駆け寄り、手を差し出した。

「......なぜ、助ける」

「友達だからです」

「利益は」

「ないですよ」

 ヴェルタは、子どもたちをじっと見つめていた。

「理由がなくても?」

「はい」

「理解できない」

 そう言いながらも、視線を逸らさなかった。

 通りの端で、パンを焼く屋台があった。

 香ばしい匂いが、風に乗って広がる。

「......あれは」

「パンです」

「知っている」

 ヴェルタは言った。

「だが、城で食べるものとは、匂いが違う」

「焼き立てですから」

 エイルが一つ買い、差し出す。

「食べます?」

「......不要だ」

 即答だった。

 だが、数歩進んでから足が止まる。

「......少量なら」

 結局、二人で半分ずつ分けた。

 ヴェルタは受け取ったパンを、しばらく眺めた。焼き立ての表面が、まだほんのりと湯気を立てている。

「熱い」

「少し冷ましてから食べてください」

 エイルが言うと、ヴェルタは少しの間待った。一秒。二秒。もう一口食べた。

「まだ熱い」

「だから待てって言いましたよ」

「……分かっていた」

 分かっていたのに待てなかった、という意味だということは、エイルには分かった。三百年生きた魔王が、焼き立てパンを前に辛抱できなかったという事実を、エイルは笑いをこらえて受け取った。

 ヴェルタは、自分が少しだけ急いだことを認めなかった。認める必要はない。ただ、熱かった。それだけだ。

 だが、なぜ急いだのかは、少しだけ分かっていた。焼き立てのパンの匂いが、何かを誘っていた。論理ではなく、感覚が先に動いた。それは「焦り」に似ているが、違う。焦りは何かを失いそうなときに生まれる。これは――何かを得たいときに生まれる感覚だ。

 まだ名前を知らない感覚。

 エイルは笑っている。笑いをこらえている、という方が正確だろう。だが、こらえ方が下手で、表情に少し出ている。

 ヴェルタは、そのことを指摘しなかった。

 指摘する気になれなかったからだ。

 笑われている、とは思わなかった。笑わせてしまった、と思った。その違いが、新しかった。笑われることは、観察対象にとって不名誉であることが多い。だが、笑わせることは――どうやら、違う感触を持つ。

 その感触に名前をつけるとしたら。

 ヴェルタは、記録しないことにした。今はまだ、言葉にしたくない。

「おいしいですか」

「……データが不足している」

「もう一口食べれば分かります」

 ヴェルタは、残りを食べた。

「……悪くない」

「それ、さっきも言ってましたね」

「同じ評価だ」

 なぜか、その評価がうれしかった。城の中では絶対に見られない表情で、今のヴェルタはパンの残りかすを見ている。何かを考えているような、考えていないような顔で。

 エイルは、その横顔を眺めた。

「もう一個、買いますか」

 ヴェルタは、即答しなかった。

「……そこまでしなくていい」

「食べたそうでしたよ」

「……情報を開示しすぎていた」

 そう言いながら、目線がもう一度、屋台の方へ動いた。

 エイルはもう一個買った。

「どうですか」

「......熱い」

「感想は?」

 ヴェルタは、少し考える。

「......悪くない」

 その言い方に、エイルは笑った。

「町、どうです?」

「......観察には適している」

 そう言いながら、ヴェルタはエイルの方を見た。

「お前は、ここでは自然だ」

「そうですか」

「城にいるときより、動きが滑らかだ」

「生まれた場所ですから」

「......理解できる」

 意外な言葉だった。

「戻ろう」

 唐突に、ヴェルタが言った。

「もうですか」

「これ以上の観察は不要だ」

 理由は、説明されなかった。

 城への帰り道、二人はほとんど話さなかった。

 だが、沈黙は重くなかった。

 門をくぐる直前、ヴェルタが小さく言う。

「......胸部が、温かい」

「それ、さっきからですか」

「......町に入ってからだ」

「多分」

 エイルは少し考えてから言った。

「誇らしい、って感覚かもしれません」

「誇らしい」

「自分が見ているものが、ちゃんと生きているって思えるときの」

 ヴェルタは、その言葉をすぐには記録しなかった。

 城に戻り、門が閉じる。

 外の音が、遠ざかる。

 それでも、胸の奥の温かさは、消えなかった。

 ヴェルタは、自室へ戻る前に、一度だけ振り返った。

 町の方角を。

 理由は、分からない。

 それで、いいと思った。

 三百年間、理由のない行動は極力避けてきた。城の管理。魔族の統率。人間との関係。すべてに、論理的な根拠を持って動いてきた。

 だが最近、「理由が分からない」という状況が増えている。

 エイルの食事の量を記録すること。

 彼が部屋にいることを確認すること。

 彼が話しかけてきたとき、少しだけ答えを探すのに時間がかかること。

 いずれも、記録の対象として正当化できる。だが、正当化するたびに、何かが残る。正当化しきれない、余分な重さのようなものが。

 部屋の窓を開ける。城の外の夜気が入ってくる。遠くに、町の灯りがいくつか見えた。

 エイルは、今日あの灯りの方を見ていた。懐かしいと言っていた。

 ヴェルタは、懐かしいと感じたことがない。三百年間この城にいたが、どこか他の場所を思うことがない。記憶の中に、「帰りたい場所」がない。

 それは、寂しいことなのか。

 寂しい、という感情の定義を、ヴェルタはエイルから学んだばかりだった。一人でいると感じる、埋めたい空白。

「……城は、空白ではない」

 自分に言い聞かせる。

 城には、魔族がいる。元勇者たちがいる。ガゼルがいる。エイルがいる。

 エイルがいる。

 その一文が、頭の中で繰り返されて、ヴェルタは少し目を細めた。

 帰りたい場所はない。だが、「居ていい場所」は、いつの間にか存在していた。

 それを認識したのは、今夜が初めてだった。

 ただ、戻るのが、少しだけ惜しかった。

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