第一章 魔王は勇者を殺さない
三百年という時間は、人間にとっては想像しがたい。
だがヴェルタは、その三百年を魔王城の中で過ごしてきた。
彼女にとってそれは「長さ」ではなく、ただ存在していた時間だった。
「長い」という感覚は、比べるものがあって初めて生まれる。
ヴェルタには、三百年以外の自分がいない。
だから、この時間を長いと感じたことは一度もなかった。
ただ、変化は確かに見えていた。
最初の頃は、世界がよく動いた。人間の王国は興亡を繰り返し、城が建ち、滅び、また建った。
そのすべてを、ヴェルタはこの城から見ていた。
二百年が経つ頃には、パターンが見え始めた。
英雄が生まれ、旅をして、この城に来る。ある者は単独で、ある者は仲間を連れて。怒りに燃えている者、義務感で動く者、純粋な恐怖を力に変えた者。どれも記録した。どれも、最後は同じだった。
三百年目。
世界は、まだ動いている。
ヴェルタだけが、止まっていた。
止まっているとは、正確ではない。城を管理し、魔族を統率し、人間との不干渉条約の均衡を保っている。機能は正常だ。
だが何かが、変化をやめていた。
例えば、城の石壁。三百年前に積まれたものが、今もほとんど同じ形で立っている。魔力による強化があるとはいえ、それは驚くほどの耐久性だった。変化しない壁の中で、自分も変化しなかった。
例えば、回廊の角。どんな季節でも、その角に立つと城内の空気の流れが分かる。三百年前から変わらない気流の道。そこに立つと、少しだけ落ち着く。
落ち着く、という感覚が何なのか、ヴェルタはずっと名前を知らなかった。
ただ、そこに立つと、時間が少し遅くなる気がした。
その角で今日も立っていると、遠くから足音が聞こえた。一人分の足音。城の中でこんな時間に動く者は、巡回の魔族か、あるいは――
「七人目が来た」
先ほどの報告が、頭の中で繰り返される。
単独。
武装軽微。
侵入経路不明。
ヴェルタは、角から離れた。玉座の間に向かう。
この城に来た者は、必ず玉座の間を目指す。そういうものだ。なぜかは分からない。だが三百年の観察がそう告げている。
今回も、同じだろうか。
――おそらく、同じだ。
そう予測して、しかし珍しく、外れることを少しだけ期待した。
新しい観察対象が来ても、それは「新しい」とは感じられなかった。パターンの新しい例示でしかない。記録する前から、結論が見えている。
それを退屈と呼ぶのか。
それを孤独と呼ぶのか。
ヴェルタには分からなかった。
名前のない現象として、ただそこにあった。
そして今日、七人目が来た。
魔王ヴェルタが玉座に座ることは、ほとんどない。
この城において、彼女が腰を下ろすのは、「そうする意味がある」と判断したときだけだ。
勇者が単独で城に踏み込んできた今回の事態に、本来、その必要性は感じられなかった。
力関係は明白で、状況も把握できている。
立ったままで十分だった。
だからヴェルタは、玉座の前に立っていた。
床に膝をつかされている人間――勇者エイルを、見下ろす形で。
ヴェルタの外見は人間でいえば十代半ばほどに見えたが、
その無表情な瞳だけは、
年齢という概念から切り離されていた。
「……以上だ」
報告を終えた魔族が一礼し、後ろへ下がる。
広間には、ヴェルタとエイルだけが残った。
勇者は剣を失い、拘束されている。
にもかかわらず、その視線は逃げていなかった。
玉座の間は、静かだった。
魔王城において「静か」という状態は異常ではない。
だが今は、その静けさがやけに重く、空間に沈殿しているように感じられた。
――形式だけは、整える必要がある。
そう判断して、
ヴェルタは玉座に腰を下ろした。
勇者。
単独。
負傷あり。
戦闘能力、低下。
条件は揃っている。
殺す理由は、十分だった。
ヴェルタは、視線をわずかに逸らし、記憶を辿る。
これまで、六人。
数としては少ない。だが、観察対象としては十分な数だ。
最初の勇者は、剣を握ったまま死んだ。
二人目は、仲間の名を呼んだ。
三人目は、何も言わなかった。
四人目は、命乞いをした。
五人目は、怒鳴った。
六人目は、笑った。
どれも、記録に残っている。
死に際の反応は多様だが、共通点がある。
目だ。
殺されると理解した瞬間、人間の目は変わる。
恐怖、諦め、後悔。
いずれにせよ、「見る」ことをやめる。
視線は内側に沈み、世界を捉えなくなる。
だから、分かる。
この人間は、まだ分かっていない。
ヴェルタは、再びエイルを見る。
視線が合う。
逸らされない。
敵意はない。
だが、諦めてもいない。
理解が、遅れているわけではない。
むしろ、状況を把握した上で、なお見ている。
その目が、邪魔だった。
合理的ではない感情が、判断を鈍らせる。
そう分かっているのに、視線を切らない。
ヴェルタは、無意識に指先を動かした。
玉座の肘掛けに刻まれた、微細な傷。
歴代の魔王が残した痕跡。
ここで判断を誤れば、また一つ増える。
殺す。
それが、最も効率的だ。
勇者は、いずれ戻る。
人間は、学習しない。
殺せば、時間が稼げる。
それなのに。
ヴェルタは、問いを投げかけている自分に気づいた。
――なぜ、まだ見ている。
声には出さない。
出せば、答えが返ってきてしまう気がした。
エイルは、震えていない。
強がっている様子もない。
ただ、立っている。
殺されるかもしれない場所で、
まだ、自分の居場所を探しているように。
それは、これまでの勇者にはなかった反応だった。
ヴェルタは、初めて「記録が追いついていない」と感じた。
データが足りないのではない。
項目が、存在しない。
この反応を、何と分類すればいい。
観察。
その言葉が、脳裏に浮かぶ。
観察は、殺さなくてもできる。
むしろ、生かした方が精度は上がる。
それは、合理的な判断だ。
そう結論づけようとして――
ヴェルタは、わずかに眉を寄せた。
「精度が上がる」という言い回しが、
どこか、言い訳に近いと感じたからだ。
だが、他に適切な言葉がない。
だから、その言葉を採用する。
ヴェルタは、静かに息を吐いた。
玉座の間の空気が、ほんの少しだけ動く。
そして、決断する。
殺さない。
理由は、合理性。
そう、記録しておく。
真の理由が、まだ言語化できないことには、
気づかないふりをしたまま。
「殺さないのか」
エイルが問いかけた。
挑発ではない。
確認に近い声音だった。
ヴェルタは、少しだけ首を傾ける。
「なぜ、そう思った」
「魔王に捕まった勇者の末路は、一つだろ」
「……記録上は、そうだな」
ヴェルタは否定も肯定もしなかった。
代わりに、一歩、距離を詰める。
その動きに、エイルの肩がわずかに強張る。
だが、剣は振るわれなかった。
ヴェルタは、ただ見ていた。
紫の瞳が、静かに動く。
剣を奪われ、膝をつかされたまま、この人間は一度も目を伏せなかった。それが不思議だった。
ヴェルタは三百年間、無数の勇者を見てきた。恐怖で震える者。虚勢を張る者。諦めで静まる者。そのどれとも、この目は違う。
――静かすぎる。
怒りも、嘆きも、演技すら含まれていない。ただ、現実を受け入れている。その受け入れ方が、記録にないパターンだった。
呼吸の間。
視線の揺れ。
恐怖と、覚悟が同時に存在する顔。
――想定内。
それでも、目を逸らす理由はなかった。
ヴェルタは、いかにも興味がないという顔をしていたが、その視線だけは、エイルから一度も離れていなかった。
三百年間で、この感覚は何度あっただろうか。
ヴェルタは考えた。顔に出ないように、いつも通りの無表情を保ちながら。
視線が離れない。意識して観察しているわけではなく、目が向く。エイルが少し動くと、視線がそれを追う。身体が、勝手に。
これを何と記録するべきか。
「……注意集中」
そう分類しよう。今のところは。
記録の精度を上げるためには、対象への注意集中が必要だ。それは正しい。妥当だ。
ただ。
今まで六人の勇者を観察してきて、こんな風に視線が離れなかったことは、これまで一度もなかった気がした。
気がした、というのが、珍しかった。記録には「あった」か「なかった」かしかない。「気がした」という曖昧さは、通常は誤差として処理する。
だが今夜は、誤差にする気になれなかった。
「勘違いするな」
唐突に、ヴェルタが言った。
声は低く、感情の起伏はない。
「お前を生かしたのは、気まぐれじゃない」
エイルが、わずかに目を見開く。
「……じゃあ、何だ」
ヴェルタは即答した。
「不要じゃなかった」
一拍。
「それだけだ」
言い切りだった。
突き放すような言葉。
上からの判断。
魔王らしい、断定。
――ツンデレだな。
もしエイルが第三者だったなら、
そう評したかもしれない。
だが、ヴェルタ自身には、そんな分類は存在しない。
彼女はただ、「排除すべき理由が見つからなかった」という事実を述べただけだった。
「……生かす理由が、それかよ」
エイルは苦笑した。
「随分、雑だな」
「合理的だ」
ヴェルタは淡々と返す。
「殺害は資源を失う」
「拘束は情報を得られる」
「情報?」
「人間は、個体差が大きい」
ヴェルタは、ようやく「観察対象」を見る目になった。
「勇者という役割に至った経緯」
「恐怖への耐性」
「判断速度」
一つずつ、項目を読み上げるように。
「お前は、平均値から外れている」
「褒めてるのか?」
「評価している」
それは、肯定でも否定でもなかった。
ヴェルタは、少し考えてから続ける。
「しばらく、この城に留まれ」
「……捕虜ってことか」
「違う」
即座に否定する。
「飼育対象だ」
エイルは、一瞬、言葉を失った。
「……は?」
ヴェルタが立ち上がると、玉座の間の空気がわずかに動いた。
「連れて行け」
短い命令だった。
エイルの両脇に立った魔族の兵は、拘束具を追加することもなく、ただ歩き出すよう促した。そのことが、かえって落ち着かなかった。
牢へ向かうのだろう。
そう思いながら、エイルは足を動かす。
玉座の間を出たところで、ヴェルタは歩調を緩めた。
背後では、魔族の兵が勇者エイルの両脇を挟んでいる。
手首には拘束具。
剣はすでに離され、兵の一人が持っていた。
――処理としては、正しい。
玉座の前では、拘束は必要だ。
象徴としても、秩序としても。
ヴェルタは振り返らずに言った。
「ここから先は、不要だ」
兵が一瞬、迷う気配を見せる。
「ですが――」
「命令だ」
短い一言だった。
兵はそれ以上何も言わず、足を止める。
手際よく、拘束具を外す。
金属が外れる音は、小さかった。
エイルは何も言わない。
驚いた様子も、抗議もない。
次に、剣が差し出される。
ヴェルタは一瞬だけ視線を落とし、それから首を振った。
「持たせておけ」
兵は、ためらいながらも剣をエイルの腰へ戻す。
「……逃走の危険が」
「ここは城内だ」
それだけで、十分だった。
兵たちは一礼し、一定の距離を保って後方に下がった。
回廊に響く足音は、ほとんど二人分だけに近い。
拘束はない。
剣もある。
だが、それは「自由」を意味しない。
拘束を解いたのが「逃走防止の失敗」ではなく、
「役目が終わったから」だということだけは、
エイルにも分かった。
回廊は広く、天井が高い。石壁には傷一つなく、灯りは等間隔に配置されている。明るすぎず、暗すぎもしない。逃走を防ぐための威圧感もなければ、見張りの気配も薄い。
「……静かだな」
思わず漏れた言葉に、兵は反応しなかった。
足音だけが、規則正しく響く。
牢へ行くなら、地下だ。
湿った空気と、鉄の匂いがある。
だが、階段は下へ向かわなかった。
水平に、ただ奥へと続いている。
エイルは気づかれない程度に、周囲を見回した。
窓がある。
細長いが、確かに外と繋がっている。
中庭の噴水が、遠くで低い音を立てていた。
「……あれ?」
思わず足が止まりかける。
牢に、窓はない。
しばらく進んだ先で、兵の一人が扉の前に立った。
重厚な扉だが、鉄格子ではない。
装飾もなく、ただの木製の扉。
鍵が外される音がした。
「入れ」
兵に促され、中へ足を踏み入れる。
拍子抜けするほど、普通の部屋だった。
広さは十分にあり、簡素な机と椅子、整えられたベッド。
壁には何もないが、埃一つ見当たらない。
窓からは、城の中庭が見える。
「……牢じゃない」
エイルは一拍遅れて、言い直す。
「牢じゃないんですか?」
「必要がない」
ヴェルタからそれ以上の説明は、なかった。
兵は答えない。
ただ一礼し、扉を閉める。
鍵の音は、外からしか聞こえなかった。
エイルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
拘束はない。
剣も、奪われていない。
逃げられないと分かっている場所なのに、逃げるための檻がない。
「……どういう扱いだよ、これ」
呟きは、部屋に吸い込まれた。
しばらくして、扉の向こうから足音が聞こえる。
今度は、魔族の兵ではなかった。
「必要がない」
聞き覚えのある声。
扉が開き、ヴェルタが立っていた。
「牢は、な」
それだけ言って、部屋を見渡す。
「……逃げる気、満々なんですけど」
「逃げても捕まえる」
淡々とした返答。
「だから、牢は不要だ」
理屈としては通っている。
通っているだけに、反論しづらい。
エイルは部屋を見回し、最後にヴェルタを見た。
「……信用されてるわけじゃ、ないですよね」
「信用ではない」
即答だった。
「観察だ」
その言葉を聞いて、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着いた。
理由は、分からない。
ただ、この部屋が「罰」ではないことだけは、確かだった。
「観察には、管理が必要だ」




