前編 幼馴染ちゃんは距離感が近い
運命という言葉があるならどうして運命は俺たちに酷な人生を歩ませてくるのだろうか。
これまでの経験から何度も何度もそう運命を呪ってきた。
過去があったから今の生活がある。それはわかっている。しかし、俺は過去のことに区切りをつけられていない。それは過去に先を見据えていなかったから、かもしれない。
昔は今を生きるのに必死で支えがないと生きていけない、そんな状態だった。だから先を見据える余裕がそもそもなかったのかもしれない。しかし、その生活に甘えた結果、今は心に穴が空いているような状態。
今は過去から十分に成長して、支えがなくても一人で生きていける。先のことも見据えられるようにもなった。
でも、変われない、忘れられないものもあるのだ。
「ぷはーっ、好きな人に振られた後のやけ酒はうめーっ!」
十二月上旬の居酒屋、佐島 秋葉は友人二人と夕食を共にしていた。
秋葉の隣に座っているのが鷹木 修、男友達である。そして、秋葉たちの前に座っているのが西条 姫乃、女友達だ。
いわゆるいつメンというものである。同じ講義を受けていて、この場にいる全員が一浪していたりと共通点が多く、仲良くなった。
今日は三人で姫乃の慰め会をしている。当たって砕けろの精神で好きな人に告白したところ、姫乃が振られたので慰めろとのことだ。
「にしても、それを好きな人の前でするってどうなんだ?」
しかし、姫乃の言う好きな人というのは秋葉である。
秋葉はなぜ姫乃の慰め会を振った自分がやらなければいけないんだ、と思いつつ、参加していた。
「だって好きな人だけどその前に友達だし? あんた含めて一番仲良い二人に慰めてもらいたいじゃん?」
「修、こいつどう思う?」
「俺らの仲が壊れるよりはいんじゃね?」
「たしかにそれはそうだけどな」
「けど、酔い潰れるだけのはやめてくれよなー。だる絡みされても困る」
「大丈夫ぅ、大丈夫ぅ」
「……もうだめだな、これ」
姫乃はもうすでに顔が赤くなっていて、口調も変になっている。
秋葉と修は普通だが、姫乃はお酒に弱い。それなのにも関わらず、一気飲みするので困ったものだ。
二人は目を合わせると、お互いに笑った。
「すみません、生ビール三つと枝豆お願いします」
姫乃は慣れた口調で秋葉と修の分の追加ビールも頼んだ。
「ちなみになんで俺に告白してきたか聞いてもいいか? 今日、呼び出されて告白された時はビビったぞ」
「えー、だってそこそこ顔いいし、優しいし、ちょっといいかもなーって」
「お、俺は?」
「修はなし。顔がタイプじゃない」
「ぐふっ……女子から言われると傷つく……」
秋葉はそんな何も変わらないやり取りに思わず笑ってしまう。
姫乃が告白してきた時は驚いたが、結局、関係は変わらないらしい。
それが、少し怖かったから、安心だ。
「でも、秋葉ぁ、なんでうちのこと振ったん?」
酒に酔った姫乃は関西弁のイントネーション全開でそんなことを秋葉に聞く。
「だって、うち、顔はそこそこ可愛いし、性格もええ方やで」
「性格はいいかもしれないけど、飲むと酔いやすいからな。すぐに持ち帰られそうで彼女にしたら不安」
「秋葉なら全然持ち帰ってもらってもええで!」
「……修、こいつをどうにかしてくれ」
秋葉が視線を修の方にやると、修は知らんぷりをして目を逸らした。
酔った姫乃はやはり手に負えない。
「でも、うちはそんな尻軽ちゃうから! ピッチピッチの処女やで!」
「ちょっ、お前、声でかいって」
「秋葉がうちを彼女にしてくれるまで下ネタ大声で叫ぶわ!」
姫乃なら本当にやりかねない。酔っていない時でさえテンションが高いのに酔うとさらに高くなるのが厄介だ。
「でも、ほんまにそれが理由?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「じゃあどういうわけでうちを振ったんや」
「……過去のことを忘れられないからだろうな」
「過去ぉ? 秋葉って元カノいるん」
「……元カノじゃないけど、両思いだった子っていうか」
「えー、ちょー、その話聞かせてや。そんな話、聞いたことないで」
「話すほどのことでもないぞ?」
「別にええから、ええから。恋バナって楽しいやん?」
「姫乃に賛成―。俺も秋葉の話、気になる」
「……四年くらい前の話なんだけどな」
そうして秋葉は忘れたくても忘れられない過去のことを話すことにした。
秋葉が運命を呪うことになったきっかけの話を。
悔やんでも悔やみきれない話を。
そして、もう一度会いたい人の話を。
***
ある程度の友人関係、そこそこの成績、あまり苦のない学校生活。
佐島 秋葉は至って普通の青春を満喫していた。
人生設計はまだ立てていないので、先のことは不明瞭。しかし、今を満喫できればそれでいい。
そして、その今を満喫するためにも変化というのはある程度切り離さなければならない概念だ。現状に満足している秋葉は変化を嫌う。
中でも恋などという最低最悪の変化は自分の中で起こさないようにしていた。
もし、恋という変化を受け入れてしまえば、秋葉の目の前にいる友人のようになるからだ。
「秋葉ぁ、狙ってた子が彼氏いるらしくて萎えてるぅ、慰めてぇ……」
休み時間、同じクラスの友人が泣きっ面で秋葉の席に向かってきた。
腕を前に伸ばし切ってふらふらと歩くさまはゾンビのようである。
「おう、ドンマイ」
「え、友人の失恋だというのにちょっと冷たくない!?」
「だってお前の好きな子、結構変わるだろ。その度に失恋してるから流石に慰め飽きたぞ」
「やっぱ顔かなあ、イケメンとかじゃないからなあ」
「お前の問題は圧倒的に性格だろ」
「ってことは、顔はかっこいいってことか!? きゅんっ」
「男にときめくな」
「俺、これから秋葉のこと狙うからよろしくー」
そんな冗談を言いながら、秋葉の肩を揺らすこの男子生徒の名前は伊吹 恵。高校に入学して初めてできた友人であり、秋葉と一番仲の良い人物だ。
恵は交流関係が少なく、そもそも新しい友人を作ろうとしない秋葉とは正反対の性格をしている。楽しそうな会話をしているところには男女問わずに突っ込んでいく。いわゆる陽キャという存在である。しかし、特定のグループには所属しようとせず、秋葉といることを選んでくれている。秋葉も恵と一緒にいて楽しいと感じるので、波長が合うのだろう。
「そういえば、秋葉って好きな人とかいないのか?」
「いないな、作る気もない」
「そう言うなよ。学生と言ったら恋愛だろ」
「恋愛はトラウマだからな……俺は恋愛が嫌いなんだ」
「え、なんで? 可愛い女の子とイチャイチャワイワイしたいだろ」
秋葉は恋愛という単語から昔のことを思い出してしまい、ため息をついた。
恋を含めて変化自体を嫌いになった理由が秋葉にはある。重い話ではないが、今でも苦い思い出だ。
「……小学校高学年の頃、いい感じの女子がいたんだ」
「ほうほう」
「グイグイくる系の女子だったからその子は俺のことが好きなんじゃないかって思って、気づいたら俺もその子のことを好きなってた……それである日、いい感じの雰囲気になって告白してみたら、な」
「お、結果は!?」
「ばっさり振られた。友達としか見れない、って」
「あ……」
「そこからお互いに気まずくなって、話さなくなって……告白せずに友達でいた方がよかったなって」
もう絶対に勘違いはしないし、恋もしない。そう決めるには十分すぎるショックな出来事だった。
今で満足しているならそれ以上を求めて変える必要はない。
「……そういう時もある。切り替えてこうぜ」
「そんな哀れむような目で俺を見るな」
「でもよ、秋葉。お前、いい感じの子いるじゃねえか」
「いい感じの子……? だれ?」
「へえ、私も気になります」
「お、深月も気になるか。秋葉といい感じの子、俺が早く付き合って欲しいと思ってるカップリングなんだけどな……って、深月!?」
聞き覚えのある声がしたので横を向いてみれば、いつの間にか女子生徒が秋葉の横に立っていた。名前を深月 夢花と言う。
「あ、いや、えっと……」
「それで、誰なんですか? 秋葉くんといい感じの人って」
「なんで夢花が興味津々なんだよ」
「だって、気になるじゃないですか。秋葉くんと私は幼馴染なんですから知る権利もあります」
夢花とは幼稚園の頃からずっと一緒の幼馴染である。お互いの家がかなり近いので小さい頃から仲が良いのだ。
高校までも一緒になると思っていなかったが、同じになったゆえに今も一緒に登下校するくらいには仲がいい。仲がいいが、秋葉は夢花のことが少々苦手だ。苦手な理由は、決して夢花には言えない。けれど、苦手なことには変わりない。
そんな幼馴染の夢花がなぜ敬語を使っているのかはよくわからないが、口癖というものだろう。何でも祖母が品位の高い人であるらしい。
「そんな人いないから」
「秋葉くんは黙っていてください。恵さん、それでいい感じの人というのは?」
いい感じの人がいるというのは恵の紛れもない勘違いである。
しかし、発言権が与えられていない秋葉は何も喋れない。
「いい感じっていうか……秋葉と深月ってお似合いだよなー、って思って」
やはり恵の壮大な勘違いである。
秋葉はすぐに訂正を入れようとした。決して夢花とは恋愛関係にないからだ。
まずまず夢花と釣り合っていないと秋葉は思っている。高校に入って一気に垢抜けた夢花は今やアイドルレベルで学校内でモテている。だから、夢花が秋葉をそういう目で見ることはないだろう。秋葉も同じくそういう目で見ないようにしている。
しかし、夢花はなぜか満更でもない表情で、顔を赤らめていた。
「ほ、本当ですか? お似合いカップルに見えます……?」
「おう、見えるぜ。さっさと付き合ったらいいのにって思ってる」
「待て待て、夢花、何でそこで否定しない」
「ふふ、秋葉くん、お似合いカップルですって」
「ちょっとは俺のためにも自分のためにも否定してくれるとありがたいんだが……」
「ふふ、別にいいじゃないですか。そう見えたって」
「良くないよくない」
やはり夢花は苦手だ。その理由は思わせぶりな態度を取ってくるから。
夢花が秋葉のことを好きなわけがない。にもかかわらず、まるで秋葉のことを好きかのような態度を取ってくる。
気を抜いて勘違いしてしまうことだけは避けなければならない。あの頃の二の舞にはなりたくない。
「む……そう見られるのは、嫌、ですか……?」
「あんまり俺をからかうんじゃない。逆に、俺と夢花がそう見られて、何も思わないのか?」
「いいえ、嬉しいですよ。だ、だって私は秋葉くんのことが……」
夢花がそう言おうとしたところでちょうどよくチャイムが鳴る。
「あ、もう時間ですね。じゃあまた後で」
夢花はそう言って教室を去っていった。
最後、夢花は何を言おうとしていたのだろうか。おそらく冗談を言って秋葉をからかうつもりだったのだろうが、チャイムが鳴ったせいでそれっぽい雰囲気になってしまっている。
先ほどから黙ってやり取りを聞いていた恵を見てみればなぜかニヤニヤとしていた。
「お似合いじゃねーか」
「うっせ、さっさと席もどれ」
勘違いはよくない、よくない。
秋葉は何度も心の中でその言葉を詠唱した。どうにも夢花といると調子が狂わされる。
疲れから机に突っ伏すと、なぜか胸の鼓動がいつもよりも大きく聞こえた。
***
「……雨か、傘持ってきておいて正解だったな」
放課後のホームルーム終わり、秋葉は窓越しに、外で降っている雨を見ながらそう呟く。
天気予報を見て、少々大きめの傘を持ってきておいたのだ。風は吹いていないようで土砂降りというわけでもない。濡れずに帰ることができるだろう。
窓越しに外を見ていると、恵が前からやってきて話しかけられる。
「よ、秋葉、このまま直帰?」
「ああ、恵は部活か?」
「そうそう、雨だから今日は筋トレ。辛いっつーの。雨の日くらい休みにしてくれたらいいのに」
秋葉は部活動には所属していない。ただ単に興味のある部がなかったからだ。
対して恵は中学からサッカーをしていたようで、今もサッカー部に所属している。
「けど途中まで一緒に帰ろうぜ」
「ああ、そうだな」
そうして秋葉は恵と他愛もない話をしながら歩いていく。
「じゃ、また明日な」
昇降口付近で恵と別れると、秋葉は靴に履き替えて外に出た。昇降口前に設置された屋根に当たる雨音がよく聞こえてくる。
もう十一月の半ばということに加えて、雨が降っているので外は一段と寒かった。雨に濡れれば風邪をひいてしまうかもしれない。大きい傘を持ってきた選択は正しかったようだ。
傘を開けて雨の中帰ろうとすると、横から突然声が聞こえてきた。
「あー、私、傘ないんですよねー。誰か優しい人、入れてくれないかなーなんて」
横を向けば、秋葉の隣に夢花が立っていた。
どうやら傘がないらしく困っているらしい。家も近いので入れてあげてもいいのだが、二人で同じ傘に入ると濡れる可能性もある。バッグに常備してある折り畳み傘が入っているので、貸してあげるのが最善だろう。
「傘ないのか?」
「はい、忘れてしまいました」
「ならこれ貸すから」
秋葉はそう言って自身の持っていた傘を夢花に渡そうとする。
しかし、夢花はそれを受け取らなかった。
「……秋葉くんの傘は?」
「俺、折り畳み傘あるから」
秋葉はバッグから折り畳み傘を取り出して、夢花に見せる。すると、なぜか夢花はむすっと口を尖らせた。
「その小さい傘だと秋葉くんが濡れるのでは?」
「いいよ、俺は濡れても」
「でも……」
寒い中、雨に濡れれば風邪をひくかもしれない。それは夢花にも同じことが言える。
なら、秋葉は自分が濡れてさっさとお風呂に入ってしまおうと思っていた。
しかし、夢花はそんな秋葉の考えを肯定しなかった。
「……秋葉くん、二人とも濡れない得策がありますよ」
「どんな?」
夢花は秋葉の持っていた大きい方の傘を取ると、それを開く。
そして、秋葉との距離を詰めると、秋葉をその傘の中に入れた。
「二人でこれを使いましょう」
「……そっちの方が濡れる気がするんだが」
「さあ、帰りますよ、秋葉くん」
夢花が歩きだしたので秋葉は仕方なく、夢花が開いた傘に入った。
同じ傘の下、二人は足並みを揃えて歩いていく。しかし、夢花の方を見ると傘からはみ出た右肩が少し濡れていた。同じく秋葉も左肩の部分が雨に当たっている。
「俺持つから」
「あ、ありがとうございます」
秋葉は夢花の代わりに傘を持つ。そして、傘を少し夢花の方に傾けて濡れないようにした。
当然、秋葉が雨にあたる面積が広くなるが、別にかまわない。
「秋葉くん、左肩濡れてますよ。もう少し傘をそちらにやっても……」
「大丈夫だ。帰ったら風呂入るし」
「……やっぱり優しいですね、秋葉くんは。でも、私との距離を空けすぎじゃないですか?」
秋葉は夢花との距離を拳二個分ほど空けていた。
お互い思春期なので、カップルでもないただの幼馴染に近づきすぎても、夢花が嫌がるだろうなと考えたからだ。
しかし、そんな秋葉の考えを無視して夢花は距離を詰めてきた。
「こうしたらお互いに濡れません」
夢花は秋葉の制服の裾を掴んで、さらに距離を縮めた。
ほぼ密着しているではないか。お互いの呼吸音が聞こえる距離だ。
「ゆ、夢花? 距離近くない?」
「嫌、ですか?」
「別に嫌じゃないけど……」
「ではこのままで」
肩だけでなく太ももの部分も少し当たっている。それに夢花のフローラルな甘い匂いが鼻腔を掠めている。歩きにくいというのもある。ただ、それ以上に思春期男子にとっては心がもたない部分があった。
ただの幼馴染だと思っているから夢花はこうして秋葉に対して距離が近いのだろう。しかし、勘違いしやすいので勘弁してほしいものだ。もう、昔とは違うのだ。
ふと、秋葉は夢花の方を見る。その横顔は少し微笑んでいた。
可愛い、不覚にもそう思ってしまったのですぐに夢花から目を逸らす。
良くない流れである。心を落ち着かせるためにも秋葉はゆっくり呼吸した。
「なあ、夢花。お互いに別々の傘を使った方が良かった気がするんだが」
「いいえ、私がよくないです。秋葉くんと相合傘したかったので」
「……おい」
「だって相合傘の方が、秋葉くんとの距離が近いじゃないですか」
夢花はそう言ってニコッと笑った。
冗談なのか本音なのか。どちらにしても勘違いさせるような言葉であることには代わりない。
「そういう冗談はよしてくれ」
「本音かもしれませんよ?」
「ニヤニヤしてる時点で冗談だろ」
「じょ、冗談でもそういうことは、秋葉くんにしか……い、いえ、やっぱりなんでもない……です」
夢花は何かを言いかけたところで言葉を止めた。ただ、なんとなく言いたいことは伝わった。冗談だとしてもこうして距離が近いのは仲がいい証拠である。家が近くで、ほぼずっと一緒にいて、幼馴染で仲がいいからこそこういうことができる。
だから、嫌なのだ。そこに恋という変化が入ってしまって、関係を壊してしまうことが。もし勘違いすれば、そうなった時のことを容易に想像できた。
夢花はモテる。まだ彼氏も好きな人もいないらしいが、できた時に応援できる関係でありたい。
「でも、たまにはいいかもな。相合傘なんて久々だ」
「……この先、秋葉くんに彼女ができたらこの席は譲らないとですね」
「譲る必要はないと思うぞ」
「っ……そ、それって、つまり……」
「ああ、俺が高校生の間に彼女ができるとは思えない」
「……勘違いした私がバカでした」
「勘違い?」
「なんでもないです」
夢花はなぜかジト目で口を尖らせている。
怒っているのがわかりやすい表情に秋葉は思わず笑ってしまった。何に対して怒っているのかは知らないが。
「なんで笑うんですか」
「いや、面白い表情だなと思って」
「バカにしてます?」
「してないしてない。ていうか何に怒ってるんだ?」
「……なんでもないですよ、ばーか」
「夢花が暴言吐くなんて珍しい」
「秋葉くんが悪いんです」
そんな会話をしながら歩いていると夢花の家の前についた。
夢花の家は秋葉の家のちょうど向かい側にあるので、秋葉の家の前でもある。
屋根のある玄関前まで行くと、夢花は傘を抜け出して振り返る。
「傘、ありがとうございました。また雨の日は相合傘してもらってもいいですか?」
「いや、次は入れないからな。お互いに濡れるし」
「えー」
「なんで、えー、なんだよ」
「それはそうと秋葉くん、今日ってお母さん、仕事の日ですか?」
「ああ、遅くまで帰ってこない」
「なら今日の夕食、秋葉くんの家に行って作りましょうか?」
「……いいのか? だいぶありがたいんだが」
「いいですよ、傘に入れてもらったお礼です」
「助かる」
「では十八時ごろ家に伺いますね」
「わかった。じゃあまたな」
「はい、また後で」
そう約束すると、夢花は家に入って行った。
秋葉も自分の家へと帰った。
十八時すぎ、お風呂に入り終えて家で一人ゆっくりとしているとインターホンが鳴った。
扉を開けて出ると、制服から着替えてラフな格好をした夢花が立っていた。
片手には何かが入ったビニール袋を持っている。おそらく食材が入っているのだろう。
「こんばんは、秋葉くん」
「いらっしゃい、中入って」
「お邪魔します」
夢花を家にあげると、早速リビングにあるキッチンに行ってビニール袋の中から食材を取り出し始めた。
「キッチン借りますね」
「ああ、調理器具も好きに使ってくれ」
夢花は迷うことなく棚から必要な調理器具を取り出している。それは何回も夢花が秋葉の家でご飯を作っている証拠だ。
秋葉の家には父親がいない。秋葉が小学生の頃に不倫をして家を出て行った。養育費だけ支払ってもらっている状態である。
だから、こうして夢花が夜遅くまで働く母の代わりに夕食を作ってくれるときがあるのだ。
「お母さんの分も作った方がいいですか?」
「食べたいとか言ってたから作ってくれると母さん喜ぶな」
「なら二人分作っておきます」
「ありがとう。そうだ、俺も何か手伝った方がいいか?」
「自分の分の箸とスプーン、後は飲み物さえ出していただければ大丈夫です。秋葉くん、料理できないでしょう?」
「……そうだな、俺が手伝ったら味が不味くなる気がする」
秋葉は料理ができないので、机を拭いたり、箸やスプーンを並べたりした後はソファでゆっくり夢花の料理を待つことにした。この時間が一番落ち着かない。美味しそうな匂いが漂ってくるにも関わらず、じっと待つことしかできない。
しばらくスマホをいじったりして待っていると、夢花に呼ばれる。
「秋葉くん、できましたよ」
「ありがとう」
ソファから立ち上がって秋葉は椅子に座った。
食卓には見るからに美味しそうな料理が並べられていた。今日は洋食のようでオムライス、卵スープ、サラダの三品が置かれている。
「オムライスの卵の上にケチャップでハート型を描かれていることに突っ込んだ方がいいか?」
「ふふ、私からの愛がこもってます。愛も味わって召し上がってください」
「……じゃあ、いただきます」
夢花のいつものからかいをスルーしつつ、手を合わせて夕食を食べることにした。
まずはやはり主食のオムライスからだろう。
秋葉はスプーンでオムライスを一口分掬った。そして、それを口に運ぶ。
「……うまっ」
一口食べると、体がもう一口、もう一口と求めてしまう。
ケチャップライスに卵がよく合っていて、母の作るオムライスとはまた違った味だ。
この卵スープも卵のふわふわ感がたまらない。
「ふふ、いつも秋葉くんは美味しそうに食べてくれますよね」
秋葉の向かい側に座っている夢花は頬杖をつきながらそう言った。
「事実、美味いしな。俺のお母さんもこの前、仕事終わりに泣きながら食ってたぞ」
「二人の胃袋を掴んでいるというわけですか」
「ああ、もう二人とも夢花の料理の虜だ」
母は「夢花ちゃん、お嫁さんにしちゃいなさいよ」と言っていたので、母も夢花に胃袋を掴まれている。
夢花の料理はそれだけ美味しいのだ。
そうして秋葉が料理を頬張っていると、夢花が先ほどから変わらず頬杖をついて、じーっと秋葉の食べる様子を眺めていることに気づく。
「……どうした?」
「いえ……ただ、あまりにも秋葉くんが美味しそうに食べるものですから私もお腹が空いてきました」
「……一口食べるか?」
「いえ、大丈夫です。今日はおばあちゃんが作ってくれるらしいので、お腹を空かせたままにしておきたいですし」
「あー、そっか、腰治ったのか」
「はい、久々のおばあちゃんの手料理です。張り切るらしいので楽しみです」
夢花は夢花と、母方の祖母と祖父の三人で暮らしている。両親はいない。
小学校の頃に夢花の両親は交通事故で他界した。夢花の父のことは知らないが、母のことはよく覚えている。秋葉もよく可愛がってもらったからだ。笑顔の多い優しい母だった。
二人はお互いに親が欠けている。だからこうして支え合って生きている。
「……でも、やっぱり、お母さんの料理、また食べたいな」
お互いにお互いの気持ちはわかる。幼馴染だからというのもあるが、親が欠けているという共通点もあるからだ。
秋葉は母の仕事の関係で家に一人のことが多い。そんな時に夢花は支えてくれる。逆に夢花が寂しいと感じる時には秋葉が支える。そんな支え合い。
「……あ、秋葉くん?」
夢花が少し過去を懐かしむような、寂しいとでも言いたげな表情をしていたので、手を伸ばして夢花の額に近づける。
夢花が緊張した面持ちをしながら目を瞑ると、秋葉はその額に軽くデコピンをした。
「いたっ」
「夢花は……笑ってた方がいい」
何を言おうか迷った末に、何も言葉が出てこなかった秋葉は自分でも恥ずかしいと思うような言葉を言ってしまった。
夢花は目をぱちぱちとさせる。そして、次第に笑い出した。
「ふふ、不器用な励まし方ですね」
「……うっせ」
「でも、ありがとうございます」
夢花はそう言ってニコッと笑った。
***
「なあ、話変わるけど秋葉と夢花って本当にどういう関係なの?」
食堂にて、対面に座っていた恵は秋葉にストレートにそんな質問を投げかける。
昼休み、二人は一緒に昼食を食べていた。恵とはこうして昼食を共にすることが多い。その場合、秋葉は学食で、恵は弁当である。
秋葉は今日も学食で出てきたカレーライスを一口食べて、飲み込むと恵の質問に答えた。
「……仲良い幼馴染だな、ただの」
「見た感じもはやカップルなんだけどお互いにそういう気持ちとか雰囲気は?」
「全くない、俺も、相手も」
「近所なんだっけか」
「ああ、俺の向かい側に夢花の家がある……料理も作りに来てくれるくらい近いな」
「は、はあ? りょ、料理を作りに来てくれる……?」
恵は驚いた様子で目をぱちぱちとさせる。何かおかしいことを言っただろうか、と思うが、たしかに周りから見れば異質かもしれない。
「もう通い妻じゃね、それ」
「俺の家、母子家庭だから家に母さんがいないことが多いんだよな。だからたまに夢花が料理を作ってくれる」
「羨ましいな、おい。え、それで何もないの?」
「だって、昔からその生活だしな」
夢花がいつの間にか料理を覚えていて、いつの間にかそういう生活になっていた。小学生の時などは夕食が遅くなったり、弁当を作っていてくれたりしていたが、夢花が作りに来るようになってそれもなくなった。おかげで母の負担が軽減されている。
「考えてみろ、昔からずっと一緒で、今更そういう感情なんて湧かないだろ」
「……なら夢花もそういう感情はないと?」
「ああ、俺をからかうことはあるけど、それはお互いに恋愛感情がないからだ。好きの裏返しとかそんなものじゃない」
「そっか、今まで勘違いしてたわ。いい感じで好き合ってるのかなとか」
「ないない。ちなみに俺はそういう勘違いで、あっさり振られて、関係を壊したわけだからな」
「ふ、そういえばそうだったな」
「おい、鼻で笑うな、鼻で……しかも、釣り合ってないからそもそも恋愛感情が湧かないっていうのもある」
「釣り合ってない? そうか?」
「ああ、夢花はモテるだろ? 高嶺の花すぎると恋愛感情が湧かなくなるんだよな」
いつも一緒にいるというのもあるが、釣り合っていないから秋葉は夢花に対して恋愛感情を持てなかった。
そうなるとからかって来ても、冗談の範疇だとわかってしまう。勘違いすることはない。
「ふーん、そんなもんか……って、噂をすれば」
そんな話を恵としていると、前に友人と二人で歩く夢花の姿があった。秋葉は夢花と目が合い、夢花に満面の笑みを向けられる。そして、手を振られた。
笑顔をさらっと見せられることが夢花の人気の秘密なのだろうか。
秋葉が手を振り返すと、夢花は友人を連れてこちらに向かってくる。やがて、距離が近づくと、夢花の隣にいた友人が先に言葉を発した。
「やっほー、秋葉と恵」
夢花の横に立ち、顔の横で手を挙げて挨拶をする彼女の名前は千藤 緋奈。自称夢花の一番の親友であり、秋葉と恵の友人でもある人物だ。
秋葉は夢花経由で緋奈と仲がいい。そして、恵はというと緋奈がサッカー部のマネージャーをしているので同じ部活の緋奈と仲がいい。
大抵はこの四人で昼食を食べたりと、お互いに一緒にいることが多いメンバーだ。
「秋葉くん、恵さん。昼食、ご一緒してもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
「じゃあ俺、こっちに座ったほうがいいな」
秋葉の対面に座っていた恵は秋葉の横に移動する。そして、お互いに向かい合う形で座った。
「あれ、秋葉だけ弁当じゃん」
緋奈は座ると早々に秋葉の学食を見ながらそんなことを言う。
言われてみれば、秋葉以外の三人は弁当を食べている。
「そうだな」
「うんうん、そっかそっか。かわいそうに」
「……なんでそんなに弁当でマウント取ってるんだよ。学食も美味いぞ」
「いやー、そうかもしれないけど、夢花っちの弁当の方が断然美味いよ〜?」
緋奈はそう言うと自身の弁当から唐揚げを一つ取り出して、口に運んだ。そして、秋葉に見せつける形で美味しそうに緋奈は頬張っている。
秋葉が夢花の弁当に目を向けると、中身は緋奈のものと全く同じだった。つまり、それが意味することは一つ。
「くう〜……夢花っちが作ってくれた唐揚げ、堪らないな〜」
「ひ、緋奈、まさか夢花に弁当作ってもらったのか!?」
「そうなんですよ、緋奈ちゃんの今日の弁当は私が作りました」
「あれ、あれれ、もしかして秋葉、作ってもらってないの? かわいそうに……このコロッケも美味しいわ〜」
「ごめんなさい、それだけは冷凍なんですけどね。足りないと思って加えたものなので」
「いやいや、夢花っちの愛が詰まってるだけで冷凍でも百倍美味しくなるのよ」
緋奈は得意げな顔で秋葉の方を見てくる。
煽られたところで、出来立ての料理を頻繁に食べられるのは俺だけだ。対して相手は弁当。相手の煽りにわざわざイラつく必要はない。しかし、緋奈の顔を見ていると、なぜかイラついてしまった。
「でも、緋奈、夢花の出来立ての料理、食べたことないだろ?」
「はあ? だから何? 秋葉は今、学食食べてて弁当作ってもらってないじゃん。つまり私の方が、夢花っちの親友に相応しいってわけ。夢花っちに愛されてるってわけ」
「そうだな……直近で食べたのだと、オムライスだな。あれは美味しかったぞ。出来立てで熱々で、思い出しただけでもよだれが出てくる。あとハートマーク書いてくれたし」
「は、はあ? ぐぬぬ……じゃ、じゃあ、夢花っちから今日みたいな愛妻弁当作ってもらったこと、あるわけ?」
「弁当はないけど……お前も出来立て、食べたことないだろ?」
「あ、ありますー! い、一回だけだけど、前に昼ごはん作ってくれましたー!」
「市販のラーメンをただ茹でただけですけどね……じゃ、じゃなくて、二人とも落ち着いてください!」
秋葉が緋奈と特に意味のない煽り合いをして、ヒートアップし始めたところで夢花がそれを止める。
「今度、秋葉くんにはお弁当も作ってあげますし、緋奈ちゃんには手作りを振る舞ってあげますから」
「夢花っち、こいつに弁当作らない方がいいっすよ。私の方が美味しく食べる自信あるっす」
「緋奈ちゃん? そんなことを言っているともう料理を作りませんよ?」
「それは……す、すんません、姉御」
緋奈はしょぼんとした顔を夢花に見せる。秋葉がそんな緋奈を見ていると、目が合い、威嚇している猫のような表情で睨まれてしまった。
やはり夢花の料理は魔性の女、ならぬ魔性の料理である。食べた人全員を虜にしている。そして、料理を作らないという発言だけで緋奈を静かにさせてしまった。
「……まじで、なんで二人は煽り合ってんだ」
一方、そんなやりとりを聞いていた恵はジト目でそんなことを言う。
「緋奈の挑発に乗せられた」
「っていうか、深月の料理ってそんなに美味いのか?」
「結構美味いぞ、店出せるレベル」
「うんうん、夢花っちの料理は美味いよ〜」
「唐揚げ一つ、差し上げましょうか?」
「いいんすか?」
「はい、もちろんです」
恵は夢花の弁当から唐揚げを一つ箸で取ると、口に運んだ。
「うまっ!? 唐揚げで初めて感動したわ」
すると、口に運んだ途端に恵は目をキラキラとさせながら咀嚼し始めた。やはり、誰が食べても夢花の料理は美味しいらしい。そう思っていると、恵は秋葉の横腹を突いて、小声でこう言った。
「深月を嫁にしたらこんな料理、毎日食えるんだぜ? お前、他の人に取られていいのかよ」
母と同じようなことを恵は言っている。しかし、本心というよりかは俺をからかっているらしい。恵の顔がニヤついている。
「……それはそうだけど、うるさい」
とはいえ、秋葉も夢花の将来の夫が羨ましいな、と思ってしまう時があるので否定はしなかった。
「にしても秋葉くん、それだけで足りますか?」
「ああ、いつも昼はこれくらいで済ませてる。足りなかったら購買で菓子パンでも買ってるから、大丈夫だ」
「菓子パン……やはり毎日とは行かなくても秋葉くんにはお弁当を持たせるべきですね」
「いや、大丈夫だぞ? 弁当まで作ってもらったら悪いっていうか……」
「いえ、そういうわけにもいかないですよ。だって栄養取れてないじゃないですか。学食のカレーも具はほぼ入っていませんし」
「母さんみたいなことを……いや、母さんでもそんなこと言わないか」
夢花は秋葉の栄養を気にしているらしい。
しかし、そこまで気にする必要はないと秋葉は思っている。母が早く帰ってくる日や夢花が作りにきてくれる日には健康な夕食が食べられるからだ。
「とりあえず、秋葉くんも唐揚げ一個食べます?」
「……いいのか?」
「卵焼きも一個あげますよ」
「夢花の分がなくなる気がするんだが……」
「私はいいんです。むしろ食べさせたいです」
夢花は弁当から唐揚げを箸で取り出す。そして、それを秋葉の皿に乗せる、のかと思ったが、夢花はニコニコとした様子で唐揚げを掴んだままその箸を秋葉に近づけた。
「はい、あーん」
「待て待て、流石に自分で食べれる」
「……大人しく食べさせられましょう」
「あと、その俺がその箸で食べたら間接キス」
「私たちの関係ですよ? 今更気にしますか?」
「そんな誤解されそうなことを言うな」
「私からあーんってされないと、あげませんよ」
「……卑怯な」
夢花はまた秋葉をからかってニコニコとしている。どうやら夢花からあーんをされないと、もらえないらしい。
間接キスも含めて夢花の方は気にしている様子がないので、気にしているのは秋葉だけだ。
「……わかった」
結果、理性が負けて、夢花の料理に対する食欲が勝った。
「あーん」
秋葉はなるべく夢花の箸に自分の唾液がつかないようにあーんされた。同じように卵焼きも食べさせられた。
周りの人が見たらどう思うだろうか。
夢花の料理を求めたはずなのに、なぜか味がしなかった。美味い、確かに美味いのだが意識が別のところに行っているせいで味がしない。
「どうですか?」
「……美味い」
「ふふ、よかったです」
夢花は秋葉が美味しいと言ったからか、嬉しそうに笑った。
なぜかそんな夢花と目が合わせられなくなって、隣にいる緋奈の方に視線をやると、緋奈がニヤニヤとしていることに気づく。
「……なんだよ、緋奈」
「いやあ、別に、ただ、わざわざ夢花っちの箸に口をつけていないあたり紳士だなあと」
「いや、当たり前だろ。夢花が気にしてなくても俺が気にする」
「ふふ、すっかり思春期ですね」
「その通り。だから夢花はもう少し気をつけてくれ。発言とか、物理的な距離とか……結構困る」
思春期男子ゆえにどうしても意識してしまうことがある。それなのにも関わらず、昔の距離感で接してきたり、からかってきたりして、困らされているのだ。
秋葉としては割と真剣なお願いだったのだが、夢花は笑っていた。
「何が困るんですか?」
そして、夢花はまたからかうようにそう言った。
秋葉がどう言おうか迷っていたところ、先に緋奈が夢花に言った。
「夢花っち、秋葉だって思春期なんだからかうのは良くないよ……もしかしたら二人きりの時に襲われるかも」
「いやいや、襲わないから!」
「お、襲われる……? どういうことですか?」
秋葉はすぐに突っ込むのだが、夢花はあまり意味を理解していなかったのかきょとんとした表情である。
「知らなくていい……って、おい、緋奈」
秋葉としてはそのまま意味を理解しないままでいて欲しかったのだが、緋奈は夢花に耳打ちをした。そして、徐々に夢花の顔は赤くなっていく。
「な、なるほど……そ、そうなんですか?」
「男の子ってみんなそうだよ」
「へ、へえ……」
「おい、緋奈、夢花に何を吹き込んだ」
「いやあ、別にー。ちょっと男の子について教えてあげただけ〜」
夢花の顔が見たこともないくらい真っ赤だ。
そんな夢花を見ていると、夢花と目があった。しかし、すぐに目を逸らされた。
緋奈が余計なことを吹き込んだせいで夢花の様子が明らかに変だ。ろくでもないことを緋奈は言ったのだろう。
「……ゆ、夢花?」
「私、ちょっとお手洗いに行ってきますね……!」
耳も頬も真っ赤な状態で、夢花は一度席を立った。
「緋奈、どうしてくれるんだ」
「あはは、まさかあそこまで赤くなるとは。夢花っちって意外にうぶなのかな……って、いたっ! 暴力反対!」
秋葉は夢花に余計なことを言った緋奈の頭を軽くチョップしておいた。
ホームルームが終わって、放課後。
結局、夢花は昼休みが終わってもいつもとは様子が違っていた。目があったらいつもは微笑まれるか、手を振られるのに、今日は逸らされるだけ。廊下ですれ違いそうな時は目も合わさずに、夢花は早歩きで秋葉の横を通り過ぎている。
そんな状態だったので、もう今日は一緒に帰らないだろうと思っていたのだが、ホームルームが終わると夢花の方から教室に来た。
「あ、秋葉くん、きょ、今日も一緒に帰りませんか?」
「……別にいいんだけど、顔赤くない?」
「き、気のせいです」
「ていうか、昼休みから様子が変だぞ」
「と、とにかく……! 一緒に……帰りましょう」
「お、おう」
そうして二人で放課後の帰り道を歩いていく。
いつもと変わらない時間、にも関わらず気まずい雰囲気が流れていた。夢花の方は相変わらず顔が赤い。そして、秋葉はそんな夢花にどうやって話しかければ良いのかわからない。
「もうすぐ期末テストだな」
「……は、はい」
「期末テストが終われば冬休みだ」
「……そ、そうですね」
夢花が顔を赤らめている理由は緋奈に言われたことを意識してしまっているからだろう。だから、別のところに意識を逸らさせようと思ったのだが、話題を提示しても返ってくるのは返事だけ。
秋葉は思い切って聞いてみることにした。
「……なあ、夢花、緋奈から何を言われたんだ?」
「それは、その……内緒です」
「内緒はなし。何となく俺の尊厳に関わることを言われた気がするから」
「……お、男の子のことについてです。あと、秋葉くんをからかいすぎると……わ、私がその……襲われるとか何とか」
夢花は秋葉のいる方向とは反対方向を見て、そう言った。
顔は見えないが夢花の言葉の節々に羞恥を孕んでいる。
緋奈が夢花に吹き込んだことは何となくわかった。男子に関する少々、下品な話を説明しながら話したのだろう。
ひとまず、誤解が結構されている気がするので、秋葉はその誤解を解いて、夢花を安心させなければならない。
「いや、二人きりの時でも襲わないから。そんなことを今まで俺がしたか?」
「したことない……ですけど。男の子って興奮すると……ご、ごめんなさい、やっぱり何でもないですっ!」
思った以上に緋奈が夢花に吹き込んだ話は下品なものらしい。
妄想の中でニヤついている緋奈が出てきたので、秋葉はそれをすぐに取っ払う。
「……あ、秋葉くんは、私で興奮したりするんですか?」
秋葉がどう誤解を解こうかと迷っていると、夢花がそんなことを聞いてくる。
何ということを聞いてくるのだろう。
「しないから。幼馴染だろ?」
「そ、そうですよね! 昔からずっと一緒にいますし、今更……ですよね」
夢花との会話はそこで途切れた。しばらく沈黙が続いて、気まずい雰囲気の状況。
わかったことは思ったよりも夢花はうぶだった。たしかに、こちらをからかってくることはあっても、誘惑に近い下品なからかいだったりは今までなかった。
一線を引いているから、だと思っていたが、そもそも夢花にそういう知識がなかったというのもあるのだろう。
そんなことを考えていると、歩いている時に夢花と手が当たった。少し、お互いに手の甲が触れただけ。しかし、夢花は過剰な反応を見せた。
「あ……ご、ごめんなさい」
すぐに手を引っ込めると、秋葉から若干距離を取る。
いつもなら当たった勢いで指でも絡めてきそうだが、今日の夢花はいつもとは違う。
何だか避けられている気がして、からかわれないのはいいが、少し秋葉の胸が痛んだ。
終始、気まずい雰囲気のまま、二人は家に着いた。
「……今日も、お母さん、家に居ないんでしたっけ」
「ああ、夜遅くまで返ってこない」
「で、では、また作りに行きますね」
「ありがたいけど……大丈夫か? 疲れてるみたいだし、今日くらいはインスタントで……」
「い、いえ、私の問題なのでお気になさらず……今日は、気まずくしてしまってすみません。また、夜に」
夢花はそう言って家に入って行った。その頬はやはり赤みを含んでいた。
夜、やはり夢花が家に来た時も夢花の様子は普通ではなかった。どこか少しそわそわとしていて、口数も少ない。
料理は安定して美味いのだが、食べているとこんな状態の夢花を幼馴染とはいえ異性の家に上がらせたことに罪悪感を感じてしまう。
「……りょ、料理、どうですか?」
「相変わらず美味い。いつもありがとう」
「い、いえ、そう思ってもらえたならよかったです」
「……大丈夫か?」
「す、すみません、昼休みから変に意識しちゃって……調子が変、です」
「今日くらいは自分で作ってみてもよかったかもな。ごめん。家に上がらせて」
「たしかにいつか秋葉くんには料理してもらわないとですけど……家に来たのは私の判断です。い、いつもこの調子というわけにもいかないですから。慣れないと、です」
「夢花は何に意識してるんだ? 緋奈が吹き込んだことはだいたいわかったけど」
「それは……」
夢花にそう聞いてみると、夢花の顔がどんどんと赤くなっていく。とても答えられる状態になさそうだった。
ふと、秋葉の目に机の上にあったテレビのリモコンが目に映った。
「気分転換にテレビでも見るか?」
テレビを見ていれば幾分か気も紛れるだろう。
夢花が何を意識しているのかは知らないが、それ抜きにしても学校終わりで疲労があるはず。リラックスにもなる。
そう思って、夢花にリモコンを渡す。
「あ、ありがとうございます」
「俺はこの料理をありがたく食べてるから、ソファにでも座ってゆっくりしてくれ」
「……そうします」
夢花はソファの真ん中で、背筋を伸ばして座る。そして、ソファにあるクッションをとって、膝の上に置いた。
いつものことだが、姿勢が整っている。気にせずもう少し崩してくれてもいいのだが、夢花の敬語含めて祖母にそう教わっているのだろう。
夢花は手に持っていたリモコンでテレビをつけた。しかし、秋葉はすぐに夢花にテレビを勧めたことを後悔することになった。
「あ……」
ただ電源ボタンを押しただけ。そして、たまたまドラマの時間だったのかテレビにドラマのワンシーンが映った。
ただのドラマだったら良かったかもしれない。しかし、恋愛ドラマのようで、さらに盛り上がりのシーンだった。
キスをしている男女二人の映像がいきなりテレビに流れたのだ。
「っ……」
夢花はすぐにテレビの電源を切ると、ソファの右端っこの方に移動する。やがて、姿勢を崩してうずくまるとクッションに顔を埋めた。
今の夢花にキスシーンは相当に刺激のあるものだというのに、何というタイミングの悪さだろう。
夢花を元の状態に戻して、いつも通りに接してほしいのだが無理そうだ。
「ごちそうさまでした」
秋葉は料理を食べ終えて、食器を片付けると、ソファの左端に座った。夢花とはだいぶ距離をとっている。
しばらくの間、無言の時間が続いた。
夢花は一言も喋らず、ぴくりとも動いていない。寝ているのではないかと勘違いするほどだ。しかし、話しかけようにも話しかけられないので、帰りの時よりどうすれば良いかわからない空気になっている。
やがて、秋葉が何もせずに夢花が落ち着くのを待とうと決めた時だった。夢花の方から喋り出した。
「……ねえ、秋葉くん」
「どうした?」
数秒間の無言の後、夢花は言葉を続ける。
「秋葉くんって、わ、私と……」
「私と?」
「……って思ったことあるんですか?」
「ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれないか?」
夢花の言葉が小さいので秋葉の耳にまで届いていない。申し訳ないと思いつつ、もう一度聞くと、今度は秋葉が聞こえる声ではっきりと言った。
「え、えっちなことをしたいって思ったことあるんですか……?」
秋葉は言葉を理解するのに少々時間がかかった。夢花はというと相変わらずクッションを埋めたままである。まさか、夢花からそんな言葉をもらうとは思わなかったので、秋葉は不覚にもドキドキとしてしまっていた。
二人きりのこの状況、幼馴染とはいえ異性と一つ屋根の下。
平常心を保とうと心の中では必死だった。
「ひ、緋奈ちゃんが男なら思わないわけないって……」
「したいって思ってたら?」
「……質問を質問で返さないでください」
正直、したいと思ったことがない、と言ったら嘘になる。
思春期男子だからか、心の奥深くではそう思ってしまうことがある。
幼馴染とはいえ、今見ても夢花は性格も容姿も可愛い。そんな人物と家で二人きり。
けれど、二人の関係に不要な感情だからと捨ててきた。あの日から、自分が夢花にどれだけ不釣り合いか知って、心の奥底に沈めていた。
今は、少し、抑えられそうにない。
「……ある」
「い、今も、ですか……?」
「今は別に思ってないよ。でもたまに」
夢花は少し黙った後、言葉を綴った。
「……私のからかいすぎ、でしょうか」
「それも、ぶっちゃけある。距離近いし」
「……い、今まで、えっちなことって言ったら、き、キスとか、手を繋ぐとかそれくらいしか想像してなくて。でも、緋奈ちゃんに教えてもらって、その……男子高校生はこ、子作りの時にすることをよく想像するって聞いて……」
夢花から話を聞けば聞くほどに緋奈への恨みがたまっていく。
この場にいたら何を夢花に教えているのだと怒ってやりたいくらいだ。
「だから……秋葉くんも、そういうこと考えてるのかなって思ったら、途端に顔、見れなく、なって……」
夢花の言葉は途切れ途切れになっていた。また、意識してしまって顔が赤くなっているのだろう。しかし、それは秋葉も同じだった。
釣り合わないと思って、意識しないようにしていた。けれど、今まで抑えていたものが爆発して、早くなった鼓動が止まらない。
「今まで、からかいすぎてました……ごめん、なさい」
ずっと秋葉をからかってきて、勘違いさせるようなことばかりをしてきたが、羞恥心というものを覚えた夢花はもうからかってくれないのだろうか。
からかわないならそれでいいのだが、少し寂しいと感じてしまう。夢花のからかいはなんだかんだ言って、楽しかった。
だからか、今度は秋葉が夢花をからかいたくなった。
秋葉は夢花のすぐ隣まで移動する。そして、クッションを少し剥がすと、真っ赤な顔の夢花が視界に映った。
「っ……」
夢花は一瞬だけ秋葉を見たが、目が合うとすぐにまたクッションに顔を埋めた。
やはり目が合うと意識してしまうようなので、この状態でからかってみる。
「な、なあ、夢花」
「は、はい」
「……そんなに意識してても、なんだかんだ俺の家で料理作ってくれたよな」
「秋葉くんと秋葉くんのお母さんのためですから……」
「必然と二人きりになるし、嫌なら別に来なくてもよかったのに」
「そ、そういうわけにもいきません。い、いやというより意識してしまうだけなので」
「……もしかしてだけど、俺とそういうことしたいの?」
秋葉がそう言うとしばらく夢花は固まった。
黙っているのに加えて、動く様子が一切ない。クッションを抱えて、顔を埋めたまま固まっている。
やがて一分ほど経っただろうか、やっと夢花は喋り出した。
「あ、秋葉くん」
「はい」
「私のこと、からかってます?」
「さあ、もし真面目に言ってたら?」
「っ……じょ、冗談ですよね」
「ああ、冗談……」
「っ……!」
夢花がようやく顔を上げたと思うと、すぐに自分の持っていたクッションを秋葉の顔に押し付ける。そして、秋葉は後ろに倒れた。
秋葉が顔のクッションを退けると、夢花はすでに立ち上がっていて、秋葉から少し離れていた。そして、夢花は周辺にあったクッション全てを秋葉の顔面に投げつける。
「んぐっ、んんっ! んー!」
やがて、夢花は最後の一個のクッションを秋葉の顔に強く押し付けて、数秒間、秋葉の顔を埋めた。
「も、もう帰ります! 今日の秋葉くんは意地悪です」
夢花の顔は見えなかったが、その口調は少し怒っていた。
少しからかいすぎただろうか。後から秋葉も夢花にしたことに対する罪悪感と羞恥心が湧いてくる。
夢花はリビングのドアを開けて、玄関に向かおうとしていた。本当に帰るつもりらしい。
しかし、秋葉はソファに夢花のスマホがあることに気づく。置いていくわけにもいかないので、それを持つと、夢花の元に向かった。
「夢花、ちょっと待ってくれ」
「も、もう、帰りますからっ!」
「いや、スマホ忘れてる」
「へ? あ、す、すみません」
夢花は後ろを向くと、スマホを取るために秋葉に近づく。
その時だった。
床が少し濡れていたのか、もしくは夢花が意識しすぎて正常に歩けていなかったからなのか。夢花が秋葉の近くで前につまずいた。秋葉はそんな夢花の肩を持って、反射的に受け止めた。
そして、秋葉の目線は夢花の顔より若干、下へ。視線の先に何があったのかは、到底夢花に言えるものではない。ただ、視線が移動してしまった原因が夢花がラフな格好に着ていたからなのは明らかだった。
無意識に視線が移動してしまい、視界に映るとすぐに秋葉は顔を逸らした。
しかし、夢花はその視線の動きを見ていた。視線の先に何があるのか理解したのか、また顔を赤くする。
「っ……あ、秋葉くんのばか!」
そして、すぐに秋葉から離れると家から出て行った。怒った口調だったが「お邪魔しました」としっかり言うところはやはり律儀だった。
「からかい……すぎたか」
夢花が帰って、家に一人。
秋葉は改めてあの場面でからかうべきではなかったと後悔する。
しかし、これでやっと夢花も変わってくれるのだろうかとも秋葉は思う。夢花にからかわれ続けてもこちらが持たない。
自分がしていることがどれだけ危ういことか理解して、あわよくば少し距離を取ってくれればいい。
秋葉はソファに座ると、ため息をこぼす。そして、何の意味もなくテレビをつけてみる。
先ほどのドラマは終わっていたようでニュースをしていた。けれど、何も頭に情報が入ってこない。
頭の中で考えているのは先ほどの出来事である。
「やっぱり、夢花のことがまだ……」
声にならない声で呻き声を上げると、また、ため息をこぼす。
長年、抑えていた感情が爆発したせいで胸のドキドキがまだ少し早い。
明日、また朝イチで謝ろう。今日は、疲れた。
そんなことを思いながら、重くなった体をソファの背もたれに預ける。そして、まぶたを閉じた。
「あきくん、あきくん、痛いよお、うわーん」
秋葉は夢花と親ぐるみの生まれた時からの仲だった。
記憶のない頃から夢花とは一緒にいて、今の人生のほとんどの時間を夢花と一緒に過ごしてきた。親よりも一緒にいる時間が長いと思う。
誰よりも大切な存在。
しかし、昔と今の性格はお互いに違っていた。
「転んだぐらいで泣くなよ。顔がぐちゃぐちゃだぞ」
「痛い! 痛いの! 歩けないよお、うわーん」
「ったく、ほら、この手、握れ」
昔の夢花は泣き虫で、秋葉はかなりやんちゃな少年だった。
そして、小さい頃の夢花は「あきくん」と呼んで、秋葉にずっとひっついて、離れなかった。
夢花に頼りにされていた秋葉は調子に乗って、かっこいいところを見せて、見栄を張っていたのをよく覚えている。
今ではそれのせいで恥ずかしい思い出も残っているが、それを恥ずかしいと感じるようになるのは随分と先のことだった。
小学校に上がってからも仲の良い関係は続いた。
一緒に学校に行って、一緒に帰って、一緒に遊んで。
相変わらず夢花は泣き虫で、秋葉はやんちゃ。
秋葉に関しては先生も手のかかる子供だと思っていただろう。「昔はやんちゃだったのに」と、親に未だに言われる。
こんな関係がずっと続くと思っていたある日、秋葉の心に変化が生じた。
「秋葉くん? どうしたの?」
「え……あ、いや、何でもない」
「顔赤いよ、熱あるんじゃない?」
「や、やめろっ」
「あ、ご、ごめん」
夢花と話すと、夢花に触られると、胸が熱くなって、ドキドキが止まらないようになった。
これが恋だと気づくのにそう時間はかからなかった。
それが小学校四年生くらいで、思春期の始まりである。
恋をしてからは、夢花に振り向いてもらおうと、さらにやんちゃになった。より格好をつけるようになったのだ。
夢花はそんな秋葉を見て「すごい」とはっきり言ってくれて、たくさん頼ってくれた。
「ったく、夢花は俺がいないとダメだな」
「……ごめんね、頼ってばっかり」
「別に気にしてないし、むしろいっぱい俺を頼れ」
「っ……うん! ありがとう!」
当時の秋葉は調子に乗っていて、夢花とは相思相愛かもとさえ思っていた。
しかし、そんな時に事故は起こった。
居眠りドライバーによるトラックとの衝突事故。夢花の両親はその事故で、二人とも亡くなった。
その日はちょうど、夢花の誕生日だった。けれど、夢花の両親は帰らぬ人となった。
「ねえ、秋葉! 夢花ちゃん家の両親亡くなったって!」
「……は? か、母さん、何言ってんの?」
「本当のことよ。私も受け入れたくない……けど、明日、葬式だから。学校を休んで、ちゃんと二人にお別れをいいましょう」
夢花の両親には第二の親のように可愛がってもらっていた分、ショックが大きかった。
親同士も仲が良かったので、母も涙目だった。
父もショックだとは言っていた。けれど、心では何とも思っていなさそうにテレビを見ながら言う父の様子は妙に印象的だった。
「……夢花」
「秋葉……くん」
葬式の日、秋葉は一日ぶりに夢花を見た。
恋とかそんな自分の感情はどうでもよくて、夢花に対する心配しかなかった。
案の定、その心配が杞憂で終わることはなかった。
「その……」
「……私のお母さんとお父さん、死んじゃったみたいです」
秋葉が何と言えばいいか戸惑っている時、夢花は笑ってそう言った。
いつも使わない敬語を使って、なぜか笑顔だった。目元は少し潤んでいたけれど、両親が死んだ後とは思えない様子だった。
そこにいるのは泣き虫の夢花ではなかった。
「トラックとぶつかったらしいです」
「……うん、知ってる。母さんから聞いた」
「だからこれからは母方の祖父母と暮らします。引っ越しはしないですけどね」
「……そっか」
「私の誕生日の日だったので、お母さんとお父さんは注文したケーキを取りに行く途中だったらしいです」
夢花は誰よりも辛かっただろう。両親は夢花を愛していて、夢花も両親を愛していたから。
そんな夢花に秋葉はまた頼られて、秋葉が支えるはずだった。
しかし、泣き虫の夢花はもうどこにもいない。そこにいたのは大人になった夢花。
両親がいない分、自分が大人にならなければならない。そういう思いだったのだろう。
「お母さんとは……先週から喧嘩したままでした。謝り……たかったなあ」
そして、夢花がそう言った後に、涙が一滴、夢花の頬を伝って地面に落ちた。
すぐにその涙を拭いていたけれど、葬式では、一度だけ、その一度だけ涙を流していた。
そんな夢花を見て、秋葉の胸は締め付けられた。
しかし、いつもとは様子が違う夢花にどう声を掛ければ良いかわからなかった。
支えてあげなければならない。けれど、言葉は出てこない。
何を言っても夢花を傷つける気がして、怖かった。
今でも思う。
一言でもいいから、何か声をかけてあげれば良かった。
言葉が出てこなくてもいいから、抱きしめてあげれば良かった。
「すみません、もう泣かないって決めてたんですけどね……では、また後で」
秋葉はそう言って去る夢花の背中をただ見ていることしかできなかった。
結局、次の日の学校でも夢花は敬語のままで、笑うけれども元気ではなかった。
「ゆ、夢花、今日もまた公園で遊ぼうぜ」
「ごめんなさい、秋葉くん。今日は家庭の用事があるのでまた今度」
「あー、そっか。ご、ごめん」
「何で謝るのですか?」
「い、いや、ううん、何でもない」
葬式で何もできなかった分、秋葉は夢花を支えようと思った。
しかし、結局、夢花のためになるようなことは何もできなかった。
そんな自分が情けなくて悔しくてたまらなかった。
好きで、大切なのに、怖くて支えられない。恋を抱えたまま、秋葉は悶々としていた。
ちょうどそんな頃に秋葉の父の不倫が発覚した。そして、母と父は喧嘩をして、父は家から出て行った。
不倫だと知ったのはだいぶ後になってから。
父は冷たい部分もあった。何度も理不尽に怒られたりした。
今は父を憎んでいるし、当時もそんな父のことがあまり好きではなかったが、それでも実の父が家を出て行くというのは精神的にかなり傷つくものだった。
父が出て行ったその日、初めて秋葉は公園で泣いた。
自分は強い子、そう思っていたのに涙が止まらなかった。
止まれと思っても止まらない。
しかし、そんな涙を止めてくれたのは、夢花だった。
「あ、秋葉くん? だ、大丈夫、ですか?」
夢花は声をかけてきて、秋葉にハンカチを貸してくれた。
落ち着いた時に話も聞いてくれた。
支えてくれたのは、今まで泣き虫で秋葉に頼ってばかりの夢花だった。
それから、秋葉は驚くほど静かになった。
友人ともあまり遊ばないようになって、話してもあまり弾まないので友人は秋葉から離れていった。
「秋葉くん、私はいつでも秋葉くんの味方ですからね」
周りに残ったのは夢花だけだった。夢花だけはいつもそばにいてくれた。
夢花と接するほど、夢花への恋心は募っていく。
けれど、胸がドキドキするたびに秋葉は思う。
支えられてばかりで、夢花が辛い時には支えてあげられなかったじゃないか、と。
そのことがいつまでも後悔となって、秋葉は自分の恋から目を背けた。心の奥底にしまうことにしたのだ。
夢花とは釣り合わない。
夢花が辛い時に支えられる自信がないから、恋をするのが傲慢だと思った。
そんな自分の恋心を隠すために、秋葉は別の人にアタックしたりした。
もちろん、しっかり振られたけれど、恋をしない言い訳にできた。
勘違いしない。
秋葉は夢花とは釣り合っていないのだから。夢花が秋葉を好きになってはならないのだから。夢花にはもっと別のいい人がいる。
恋という変化を受け入れない。
関係性が変わってしまうのが怖いというのもある。
しかし、それ以上に受け入れてしまえば、きっとまた自分勝手になる。それが怖い。
だから秋葉は夢花に恋をしないと決めたのだ。
「夢花、昨日はごめん……からかいすぎた」
次の日、秋葉は朝に会うとすぐに夢花に謝った。
まだ気にしているのだろうかと思ったが、本人は全く気にしていなかった。
「いえ、大丈夫です。私のほうこそすみません……それにしても、秋葉くんもちゃんと男の子だということがわかりましたよ」
それどころか今度は緋奈から得た知識を使ってからかってきそうな雰囲気だったので、秋葉は身構えることにした。
***
「……よし、暇だな、やることがない」
十二月中旬、二学期が終わって、冬休みが始まった。
期末テストが終わればすぐに冬休みが始まる。テスト期間含めた二週間は勉強の時間ですぐに消費されるので、気づけば冬休みに入っていた状態である。
そのため、冬休みにすることを考えていなかった秋葉は暇でしかなかった。
テレビをつけながらスマホを眺めたり、母の代わりに掃除や洗濯をしたりする。しかし、消費されても数時間程度。
ご飯を食べようかと思っても、十一時とまだ少し早い時間である。
しかし、ふと、秋葉は時計を見て、思った。
「自炊でもしてみるのはありだな……」
秋葉は料理が作れない。
作ったことがないから作れないのではなく、単純に苦手だからである。
今は冬休みで、時間がある。練習してみてもいいかもしれない。
料理ができるようになれば、夢花に頼る頻度が少なくなる。
夕食を割と高頻度で作りにきてくれる夢花に対しては、ありがたさと同時に申し訳なさもあったのでちょうどいい機会だ。
母から頼まれた食材をスーパーで買うついでに昼食の材料も買って、料理をする。
そんなプランを頭の中で立てると、秋葉はエコバッグとスマホ、財布を持って外へと出た。
もう十二月なので流石に外は寒い。
上着のポケットに手を突っ込むと、その中に入れたカイロの温かみを感じながら歩き出す。
昼食は野菜炒めを作るつもりである。
ご飯と味噌汁はインスタントにするが、野菜炒めだけは作ることにした。
何となく簡単そうだから、である。
中学の家庭科実習でもやったような記憶があるので、何とかなるだろう、というのが秋葉の考えだ。
もし、これで失敗した時は、夢花に教えてもらうしかない。今度、一緒に料理しようと言っていたので教えてくれるだろう。
そんなことを考えながら、スーパーまでの道のりを歩いていた時だった。
「あの……私、用事があるので」
聞き覚えのある口調と敬語が聞こえてきた。
声の聞こえる方を辿って、秋葉が道を右に曲がると、前を歩いている夢花の後ろ姿が目に入った。しかし、夢花一人で歩いているわけではなく、夢花の周りに三人の男性がいる。
「いいじゃん、俺らと遊ぼうぜ」
「本当、私、急いでて……」
「じゃあ誰と? 待ち合わせ時間いつ? ちょっとだけでもいいから」
「……か、彼氏とですよ。遅れそうなんです」
「一旦、歩くの止めない?」
男性の一人が夢花の進行方向を塞ぐと、夢花の足は止まった。大人の男性三人に囲まれている形になっている。
会話の内容的にナンパだろう。人目を惹く夢花のことなのでよくされるとは聞いていたが、実際に秋葉が見るのは初めてである。
夢花なら一人で解決できそうではあるが、大人の三人相手に囲まれるのは恐怖でしかないはずだ。
秋葉は急いで夢花の下に駆け寄った。
「すみません、その人、俺の彼女なんですけど彼女に何か用ですか?」
「あ、秋葉くん……」
近づいて見てみると、意外に大人三人のガタイが良かったので怯んでしまう。しかし、同時に夢花の目がいつもよりも潤んでいるのもわかった。
助けに来て正解だったらしい。
秋葉は自身の感情が相手にバレないようになるべく笑顔で取り繕う。
「か、彼氏? あ、ああ、いや、ちょっと暇だったので遊ぶ人が欲しくて……誘ってる、みたいな」
「では、すみません。私たちこれから用事があるので」
「あー、二人はカップルって感じ?」
「そうですね。ちょうど今日が付き合った記念日なんですよ。一緒に水族館に行く予定で」
秋葉がそう言うと一人の男性が「もう行こうぜ」と他の二人に言う。
そうして夢花を囲んでいた三人組は秋葉が来た方向へと去っていった。
「こ、怖かったぁ……」
去っていった後、夢花は秋葉に近づく。そして服の裾をぎゅっと掴んだ。
その腕はまだ少し震えている。
「大丈夫だったか? 体触られたり、何かされたか?」
「い、いえ、特にされていません」
「なら良かった」
「秋葉くんがいてくれて良かったです……どうしようもできなくて、怖くて」
しばらく夢花が服の裾を掴んでいると、落ち着いたのかその手を離す。
そして、いつもの夢花の笑顔を浮かべた。
「改めて、助けてくれてありがとうございます。秋葉くん」
「ああ、どういたしまして」
夢花の笑顔が戻っただけで、助けた甲斐があったと思える。
しかし、それと同時にふと秋葉は疑問に思う。
「……にしても、今日は随分とおしゃれだな」
「はい、ファッションを少し頑張ってみました」
夢花は薄緑色のニットに白のスカートを履いていて、夢花の雰囲気とあっている。化粧も多少はしているのでだいぶ大人な印象だ。
女子高生をナンパするのはどうなのかと思っていたのだが、これでは大学生や成人と言われても信じてしまう。
「どうでしょう。可愛い、ですか?」
「ああ、清楚系の服でよく似合ってる。可愛いと思うぞ」
「……え、あ、ありがとう、ございます」
夢花はそう言うと前髪が気になっていたのかそれを指で整え始めた。
「ちなみにそんな服でどこに出かけるんだ? ……彼氏とデート?」
「そんなわけないですよ。いませんし。緋奈ちゃんと今日はお泊まりするんです。でも午後は二人で一緒に遊びに行くのでちょっと張り切りました」
「なら今から緋奈の家に行くのか?」
「そうですね。でもその前にスーパーです。夜は私の手作り料理が食べたいらしいので具材を買って行こうかと」
緋奈は前から夢花の出来立て料理が食べたいと言っていたのでさぞ楽しみにしていることだろう。ニヤニヤしながらよだれを垂らしている緋奈の顔が容易に想像できる。
ひとまず、目的地がスーパーなのは一緒のようだ。
「秋葉くんはどこへ?」
「俺もスーパー、郵便局の横の」
「同じですね、私もそこに行く予定です」
「なら一緒に行くか」
そうして二人はスーパーまでの道を一緒に歩き始めた。
やがて、スーパーに着いて、買い物すること三十分。夢花の助けもあって秋葉はいい具材を選ぶことができていた。
秋葉はエコバッグに先ほど買った具材を詰めながら夢花と話す。
「秋葉くん、自炊したいなんて本当珍しいですよね。明日は雷雨にでもなるのでしょうか」
「暇だったからな。やることなくて」
「いいことです。でも、上手くなりすぎないでくださいね。私の料理の必要性がなくなっちゃうじゃないですか」
「たとえ俺が上手くなっても夢花の料理には敵わない」
「ふふ、そうですね。秋葉くんへの愛情を込めてますから」
夢花は得意げな顔でそう言った。
お母さんかよ、と突っ込みたくなったがそう表現するのは何か違う気がして止めた。
そんな時にふと、いつ頃か恵が言った「通い妻」という言葉が蘇った。
こうして一緒にスーパーで買い物して、料理も作ってもらって、まるで妻のような存在。
そんなことを考えたが夢花に失礼なので口には出さなかった。
「……秋葉くん? そ、そんなに顔を見られると恥ずかしいのですが……愛情を込めているのは本当ですよ?」
「あ、ああ、悪い。ぼーっとしてた」
「もしかして、いやらしいことでも考えてたんですか?」
夢花はニヤニヤとしながらこちらを見てくる。
緋奈が余計なことを吹き込んでからというもの、夢花のからかいのレパートリーは増えていた。
パンツを見せるとか、そういったことは流石にしないが、隙を見てはからかってきて「秋葉くんも男の子ですね」などと言ってくる。
悪質さを増しているのだ。
とはいえ、いやらしくはないがそれに近しいことを考えていたのは事実。
秋葉は夢花から反射的に目を逸らした。
「別に……っていうか、待ち合わせ時間とか大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。待ち合わせというか、電車の時間があと十五分程度あるので。ここから駅まで近いですし」
「そっか、なら焦らなくてもいいな」
秋葉はそう言ってバッグに具材を入れきると、自分と夢花の分のバッグを持った。
スーパーのカゴを戻して、秋葉は歩き始める。
「あ、あの、自分で持ちますよ?」
「いや、重いし、駅まで持ってく。帰り道の途中だし」
「……ありがとうございます」
夢花はそんな秋葉に対して丁寧にお礼した。
「秋葉くんって、いつも思ってますけど、紳士ですよね」
「そうか? 紳士ではないと思うぞ」
「こうして荷物を持ってもらっていますし……い、今もそうですよ」
話をしながら、夢花が車道側を歩いていたので、秋葉は位置を交換する。
それを夢花は紳士だと言っている。
「車道側、危ないし」
「そういうところです。やっぱり秋葉くんは紳士ですね。自然に配慮してくれます」
「紳士……夢花だから、そうできるのかもな」
昔、支えられなかったから、いつか支えられるようになりたいと思った。
そんな過去の努力が自然な配慮につながっているのかもしれない。
自覚はしていたなかったが、それが夢花からすれば紳士な行動だったのだろう。
そう考えていると、ふと、夢花の顔が赤くなっていることに気づいた。
「……夢花だからって、そ、それどういう意味ですか?」
「いや、別にそのままの意味だけど」
「あ、秋葉くんのたまに出るそういうところ、よくないと思います」
「ど、どういうところ?」
「……そういうところです。ばーか」
夢花はそう罵ると頬を少し膨らませた。
何かまずいことでも言ったのだろうか、と思っても、どこがまずいのかわからない。
しかし、夢花は本気ではなかったようで、すぐに表情を戻した。
「でも、俺のこと紳士だって言ったけど、夢花もだいぶ礼儀正しいよな」
「……そう言われるとそうかもしれませんね。祖母は礼儀には厳しい人ですし、それなりの教養はあるつもりです」
「それに、何気ないことでも感謝したり、一緒にいて気分が良くなる」
「私も同じです。秋葉くんも私のご飯をしっかり完食してくれたり、お礼を欠かさず言ってくれたり、紳士ですし、優しい秋葉くんと一緒にいるのは好きです」
夢花の何気ない一言から、気づけばお互いを褒め合う時間になっていた。
秋葉が今まで当たり前だと思っていたことでも、夢花にはそれが良いと感じていたり、夢花が当たり前にしていることでも、秋葉は感謝している。
ずっと一緒でも、感じていることは違う。しかし、感謝はあってもお互いに不満はない。
「……って、何だかむず痒いですね」
「だな、何か恥ずい……不満とか、俺にあるか?」
「ないですよ。逆に秋葉くんは私に不満、ありますか?」
「不満なんてない。感謝しかしてない」
「私も同じです。秋葉くんには感謝しかしてません」
夢花がそう言うと二人の空気は少しだけ気まずくなった。何か言おうと思ってもむず痒くて言葉が出てこない。
そんな空気から逃げるためにか、夢花は話題を変えた。
「……あ、秋葉くんは将来のことって考えてますか?」
「将来か……あんまり考えてないな」
「そう……ですか」
「夢花はあるのか? 目標とか、なりたいものとか」
「私は……ないです。ただ、今が楽しいから、大人になって、今以上の生活を送っているところとか想像できなくて、不安はあります」
夢花の不安と同じものを秋葉も心の中で抱えていた。今が楽しいから、先の見えない未来に不安しかないのだ。
何より秋葉は、夢花がそばにいない未来を想像できなかった。それでもいつかは夢花と離れる日が来るのだろう。自分の将来のためにもこの地を離れることもあるかもしれない。
「……いつか私たちも離れて暮らすようになるのでしょうか」
「だろうな、お互いに別の地で別の人生を歩むことになると思う」
「いつか……いつか秋葉くんと離れる日、そんないつかの日なんて、想像もできないです」
「……俺も同じ。夢花がいない未来を想像できないな」
「私がいないと一人で料理もできませんもんね」
「うっせ、だから今日作るんだ」
秋葉はそう言うが、実際に作れるようになったとしても夢花に胃袋を掴まれている秋葉はいつか夢花の手料理が恋しくなるのだろう。
そんな未来が想像できる。
でも、その頃にはお互いに結婚しているか、彼氏彼女がいて、幸せな生活を送っているかもしれない。秋葉はともかく、容姿端麗で性格も良い夢花はきっとそんな未来を送っている。
今は二人で支え合って生きている。
けれど、夢花は将来、きっと秋葉以上の男性と一緒にいて。
未来を想像して、秋葉は胸が一瞬痛んだ。
まただ、また、夢花の様子が変だった日から秋葉も調子が狂った。
諦めないと、夢花とは釣り合っていないのだから。
「夢花の旦那が羨ましいな。毎日、手料理食べられるじゃん」
「そもそも結婚できるでしょうか……」
「できるだろ、性格いいし、可愛いし」
「……褒められてるのに複雑です。あ、そうだ。秋葉くんが旦那になれば毎日、手料理食べられますよ」
「そんな冗談はよしてくれ」
「……ふふ、すみません」
二人はそんな会話をしながら駅まで一緒に歩いた。
距離は近くて、少し動かせば手が当たる距離。
それくらい近くにいるのに、夢花が触れられない距離にいる気がして、胸の違和感がずっと残ったままだった。
「……もう寝るか」
その日の夜、二十三時ごろのこと、秋葉はスマホをいじったりしてベッドに寝転がって、くつろいでいた。
冬休みになると寝る時間が遅くなる人がいるが、秋葉の場合はその逆である。
いつもよりも寝る時間が早くなる。やることがないからだ。
今日一日を通しては特に何もしていないが体はかなり疲れている。
秋葉はスマホを持ったまま、目を瞑った。眠るつもりはない。ただ目を瞑っただけである。
すると、昼間の失敗が脳裏に浮かんだのですぐに目を開けた。
部屋の片付けだけして、さっさと寝てしまおう。
そうして秋葉がスマホをしまおうとした時だった。電話がかかってきた際に鳴り響く軽快なリズムの音がスマホから流れてきた。
こんな時間に誰からだろうと思えば、緋奈からの着信だった。
「緋奈か……」
何の用だろうかと秋葉は数コールの後に電話を取る。
『あ、出たでた、やっほー、秋葉。寝てたー?』
電話を取るとすぐに緋奈のテンションが高めの声が耳に入ってきた。
「寝るところだった。何の用?」
『いやー、夢花っちが秋葉の声が恋しくなったって言うからさー』
緋奈が突然、夢花の名前をあげたので疑問に感じていると「そんなこと言ってませんから!」とスマホから夢花の声も聞こえてくる。
そういえば、と秋葉は昼間の夢花との会話を思い出した。
「お泊まりしてるのか?」
『うん、そーそー。聞いたよ〜、ナンパから助けたとかやるじゃん』
「ああ、昼間のやつか……緋奈だったら助けないけど夢花だったからな」
『何だそれ。私もか弱い乙女だぞ!?』
緋奈のテンションが高いのは元からだが、声色からその元よりもテンションが高くなっているように感じる。
「ちなみに、夢花の手作り料理はどうだった?」
『え、最高だった。ちょっと今から婚約届出してくる』
「バッチリ胃袋掴まれてるな」
『そりゃもちろん……あー、でもそっか、ダメか、夢花には秋葉っていう未来の旦那さんがいるしな〜』
「お前、深夜テンションだろ」
『えへへ、だって親友とお泊まり会なんて久しぶりだし〜、テンションもあげあげ』
酔っ払ってダル絡みしてくるおじさんのようである。
そんな緋奈にダル絡みされている夢花を想像して、秋葉は苦笑いをした。
『そうだ、ビデオ通話にしてもいい? 夢花が秋葉の顔見たいって』
スマホ越しにまた夢花の「そんなこと言ってませんから!」という声が聞こえてくる。
そこから向こうで少々やり取りがあった。
夢花は寝癖がついてるからとビデオ通話に否定的だったが、最終的に緋奈が強行してビデオ通話にした。
ビデオ通話に変わると正面からの画角で布団にくるまっている緋奈と夢花の姿が映し出された。
緋奈は枕に顎をつけながら腹這いになってコチラを見ている。しかし、夢花はそんな緋奈の横で布団に体を顔ごと埋めていた。
『夢花っち、恥ずかしがんなって〜』
『ビデオ通話だとちょっと……恥ずかしいです』
秋葉は勉強机の椅子に座って、スマホを壁に立てかけている。
ベッドに寝っ転がったことでついた寝癖は先ほど直したわけだが、ビデオ通話となると秋葉も少し落ち着けなかった。
いつも対面で会っているのに、恥ずかしいという不思議な感覚。
やがて、夢花も緋奈と同じ姿勢になって、こちらを見た。スマホ越しだが見られているという感覚が強い。夢花が恥ずかしがっていると、秋葉も恥ずかしくなってくる。
『……寝癖、すみません、ついちゃってて』
夢花はそう言って、頬を赤くしながら寝癖を手で直そうとしていた。
髪が少しぼさっとしていて、眠いのか瞼を重たそうにしている。
声も少しふわふわとしていた。
いつもと違う完全なオフモード、ギャップが大きい。
「夢花、眠いのか?」
『……はい。いつもならもう寝ている時間なので……眠たいです』
「いつもは何時ぐらいに寝てるんだ?」
『二十二時半とか、それくらいです』
「早いな」
『秋葉くんは何時ぐらいに寝てるんですか?』
「日付跨ぐちょっと前くらい」
夢花とこうして話していても、夢花のその瞼は今にも落ちそうだった。
そして、夢花は体勢が悪かったのか、少し体を起こして、体勢を変えた。しかし、体勢を変える時、夢花の胸元が見えそうだったので、スマホから少しの間、目を逸らした。
ここまで無防備な夢花は見たことがない。
「……本当に眠そうだな」
『はい、今日は少し、疲れました……っていうか、緋奈ちゃんはなんでそんなに元気なんですか』
『眠たいから深夜テンション入ってるのよ』
『……眠たいから、テンションが上がるという原理がわかりません』
夢花の声は段々と弱くなっていって、ふにゃふにゃとしていた。
可愛い。
思わずそうはっきりと声に出していた。
すぐに秋葉は自分が言ったことを振り返って、しまったと心の中で叫んだ。
『ん、秋葉、なんて?』
「い、いや、何でもない」
幸いにも向こう側には聞こえなかったようで、秋葉はホッと息をつく。
秋葉は自分も眠たくなっているのだと気づく。
先ほどのように失言しないように意識しなければならない。
『そういえば、秋葉くん。料理、作れましたか?』
夢花は話題を変えて、ふにゃふにゃとした声でそう聞いてきた。
秋葉が一番聞かれたくなかった料理のことである。
理由は単純で失敗したからだ。
「……失敗。野菜は水っぽいし、味付け濃すぎたしで、まずかった」
『そうですか……では、今度一緒に作りましょう』
「助かる。一人ですると失敗するから」
『……ふふ、秋葉くんとの料理、楽しみです』
夢花の何気ないセリフでもふにゃふにゃしているせいで、色気がありすぎる。
そして、夢花は枕に顔を埋めた。眠気の限界が来ているらしい。
緋奈も大きくあくびをする。
『じゃあそろそろ寝るね。おやすみ〜』
「ああ、おやすみ」
『夢花っち、寝る前に秋葉に愛の囁きでも言っといたら?』
緋奈にそう言われた夢花は少しだけ顔を上げた。
半分夢の世界にいるのだろう。瞼が重そうで目がうまく開いていなかった。
けれど、夢花は少し微笑んで、言った。
『んん……大好きですよ、秋葉くん。おやすみなさい』
夢花はそう言うと、布団にくるまった。
色気のある、けれど可愛らしい笑顔と甘い声。
秋葉の中で何回もリピートされて、秋葉は言われたことを理解できなかった。
おやすみと返したのは夢花が言った少し後のことだった。
「お、おう……おやすみ」
『え、ええ、あ、秋葉……? い、いや、でも君たちってまだ……』
「切るぞ、緋奈、おやすみ」
『え、あ、ちょっ……』
このままで繋いでいると緋奈にいじられる。そう思った秋葉は電話を切ると、ベッドに倒れ込んだ。
考えるのは夢花の先ほどの言葉。
夢花は秋葉に聞こえる声ではっきりと言った。
寝ぼけていたのだろう。でも、だからこそ、いつものからかいとは思えなくて、それが胸の違和感を大きくさせている。
「……いや、寝れるわけないだろ」
結局、秋葉はその日は寝付けなくて、最後に見た時計の短針は二を指していた。
冬休みというのは他の休みに比べて行事が多い。
クリスマス、それが終われば年越し。
しかし、高校生にもなるとその行事が特別なものに思えなくなる。
まず、クリスマス。
小さい頃は楽しみにしていた親からのクリスマスプレゼントはお小遣い。
息子に欲しいものがなかったが、何かあげておきたいと思った母の気持ちの結果である。
そして、その日は別に誰かとデートに行くわけでもない。
緋奈からクリスマス前に「夢花っちとのデート場所決めた?」と聞かれたわけだが、デートに行くことが前提の早まった質問である。それぞれ家族と過ごしたわけだ。
とはいえ、プレゼント交換はした。小学校以来のことだ。
夢花の提案で「なんとなくしてみたくなりました」とのこと。
「メリークリスマス、秋葉くん」
「メリークリスマス」
「早速ですけどプレゼント交換しましょうか。秋葉くんが何を選んだのか楽しみです」
「あんまり期待しないでくれるとありがたい」
「私もです。あまり高価なものではないですから」
「高価なものだったらそれはそれで困るけどな……じゃあ、どうぞ」
「……せーので開けますか?」
「そうだな、じゃあせーので」
『せーの』
プレゼント交換をした結果、お互いのセンスが同じだった。
夢花にもらったプレゼントはシロクマのイラストが描かれた可愛らしいマグカップ。
一方で、秋葉が夢花にあげたプレゼントはペンギンのイラストが描かれている似たようなマグカップ。
「ふふ、こうもプレゼントが似るって不思議ですね」
「本当だな、普通こんなことあるか?」
「ですね……でも、秋葉くんからもらったというだけで大事なプレゼントです。大切に使います」
「……おう。俺も、大切に使うよ」
プレゼントが似た。お互いに笑い合って、そんな少し面白いクリスマス。
何気ない日常だけれど、特別な空間だった。
気づいたのは家に帰ってから。
その日、何気ない日常の中の一日、秋葉は夢花にまた恋をした。
正確にいえば、今まで抑えていた感情が抑えられなくなった。
帰ってからずっと夢花の笑顔が脳裏に刻まれて、胸の鼓動は早く、外にいて冷えた体を熱くさせていた。
「あ、奇遇ですね。おはようございます、秋葉くん」
「……おは、よう」
「秋葉くん? 今日、様子がおかしくないですか?」
「いや……な、なんでもない」
どうせクリスマスの一日だけかと思った。また別の日に会えばいつも通りに戻っている。
しかし、そんなことはなく、別の日の朝。
用事があって家を出ると夢花とたまたま会った。そして、確信した。
自分が抱えていた感情は紛れもなく恋だった、と。
夢花の笑顔がどうしようもなく愛おしくて、夢花の一つ一つの言動に胸を突き動かされる。
まともに目も合わせられなかった。
「風邪を引いているのでは? 顔も赤いですし」
「だ、大丈夫だ。元気だし」
「そうですか……でも、あんまり無理しないでくださいね。もうすぐ年越しですから」
「……ああ、そうだな」
過去の後悔とか、そんなことを考えられないくらい恋の感情が大きくなった。
恋をするのが傲慢であることはわかっている。しかし、秋葉の恋は水槽から溢れ出していて、止まらなかった。
しばらくすれば、いつも通りに接することができるようになったが、自分の恋心がバレるのでは、とヒヤヒヤしている。
恋をしてもいい。その代わり、それをバレてはいけない。
夢花に釣り合っていないのだから。
とはいえ、恋心とは不思議なものでわかっていても相手と一緒にいたい、そう思ってしまう。以前は夢花のことを一日中考えたことなんてなかった。考えないようにしていた。
今は違う。
「本当、馬鹿だな、俺」
自身の部屋の片隅で、秋葉は静かにため息をつく。
やがてカーテンの隙間からは朝日が差し込んできた。
秋葉は気分を切り替えようとカーテンも窓も開けて、少し身を乗り出した。
外気に触れると一月の寒さの過酷さを思いしらされる。肌身の顔部分からその寒さが全身へと伝わっていった。しかし、同時に少しずつ少しずつ上り、強くなっていく朝日に暖められ、心地よい。
今年初の朝日。初日の出だ。
夢花も起きていて、同じものを見ているのだろうか。
ふと、秋葉はそんなことを思った。
すぐに頭の中でその疑問を取っ払うと、新年にそぐわないため息をもう一度つく。
吐いた息は白く染められて、上に上がっていく。やがて空気と同化して消えていった。
今日は一月一日、元旦である。
夢花はもう起きているのだろうか。メールであけましておめでとう、だけでも送ったほうがいいだろうか。
心地の良い朝のはずが、秋葉の頭は夢花に関することでいっぱいだった。
中でも今、特に悩んでいることがある。
釣り合っていないとはわかっている。しかし、夢花と一緒にいたい。夢花と会って、声を聞いて、接したい。笑顔を見たい。そんな思いは止まらない。
悩んでいること、それは、夢花を初詣に誘うかどうか。
初詣くらいならいい、よな。
そんなことを心の中で呟く。誰に対して言っているのかはわからない。もしかしたら過去の自分に対してかもしれない。
しばらく悩んで、秋葉の決意は固まった。
スマホを開くと時刻は七時過ぎ。起きてから一時間は経過している。それは同時に一時間近く悩んでいたことを意味するが、あまり気にしないことにした。
夢花はもう起きているだろう。夢花は年越しだとしてもいつも日を跨ぐ前に寝ている。
十二時過ぎに寝た秋葉よりも早い就寝だ。
秋葉はスマホを開くとすぐに夢花とのトーク画面を開いた。そして、文字を打って、メッセージを送った。
『あけましておめでとう』
メールはすぐに返ってきたと思う。一分も経っていないはずだ。
しかし、その一分の間、秋葉は多くの思考が浮かんでは消えていた。
当然、通知が鳴ってそれが夢花のメールだとわかれば、そんな秋葉の思考は全てなくなった。
『明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします』
そんなメールと一緒に新年の挨拶をするクマの可愛らしいスタンプが送られてくる。
秋葉は思わず少し笑ってしまった。
いつもなら笑わないところだが、可愛らしいスタンプを送る夢花が可愛いらしいなと思ってしまったのだ。
もしかしたら、緊張してテンションがおかしくなっているのかもしれない。
『こちらこそ今年もよろしく』
『今年も美味しい料理を秋葉くんの家に作りに行きますね』
『ありがたい。正直言って、夢花の料理なしだと生きていけないからな』
『すっかり私に胃袋掴まれてますよね。でも、今年は一緒に料理も作りましょう。秋葉くんの作った料理も食べたいので』
『そうだな、流石に覚える。それも含めて改めてよろしく』
『こちらこそです』
夢花のメッセージに既読をつけると秋葉はスマホを閉じる。
新年の挨拶から少しやり取りを広げた。メールはある程度続いたが、初詣の話には持っていけなかった。
誘うと決めても、タイミングが難しい。
しばらく悩んだが、誘うならもう今が一番のタイミングな気がした。
最後のメッセージを送って一分ほど経った時。
秋葉は夢花とのトーク画面を再度開くと、文を書き込む。送る前におかしくはないか見直すと、またメールを送った。
『急なんだけど、二人で初詣行かないか?』
先ほどまで会話していたからか、既読は意外に早くついた。その早くついた既読が余計に秋葉の心臓の鼓動を加速させた。
『いいですよ。でも、緋奈ちゃんと恵さんは誘わないんですか?』
『二人がいると騒がしいから。それにどうせ遅くまで起きてるから昼過ぎまで寝てるだろうし』
『たしかに、それもそうですね。では、二人で行きましょうか』
時間、場所を明確に決めるとメールのやり取りは終わった。
元日なので家族との用事があったりするかもしれないと思っていた。
まさかあっさりと承諾されるとは思わず、秋葉は「よし」と小声で呟いた。
メールをした後の時間の流れは早かった。
起きてきた母に新年の挨拶をして、そうこうしているともう待ち合わせの十四時。
秋葉が扉を開けると、向かい側の家でも扉を開ける人物が一人。お互いに時間ぴったりである。
家を出て、道に出ると夢花は少し小走りで秋葉に近づいた。
「メールでも言いましたけど、明けましておめでとうございます。秋葉くん」
「あけましておめでとう」
夢花は礼儀正しくぺこっとお辞儀もした。それに合わせて、秋葉もお辞儀をすると、変な雰囲気になってお互いに少し笑った。
そんな笑いで秋葉の緊張は少し解けた。しかし、冷静になったからこそ見えるものもある。
「……今日の服、いいな。似合ってる」
「本当ですか? 嬉しいです。私の好きな服なんですよね」
茶色のロングコートを羽織っていて、インナーは白色。マフラーに手袋もしていて、大人っぽさと可愛さが両立している。
対する秋葉はジーンズを履いて、厚めのジャケットを着ているだけ。
変ではないがオシャレとは言えない。今年はそういう面でも頑張らなければならない。
そう思って、ふと、秋葉は気づく。気づかないうちに夢花のために、夢花に釣り合うために、秋葉は頑張ろうとしていた。
好きの気持ちは日に日に抑えられなくなっているらしい。
「祖母からは着物を着ていけと言われていたんですけどね。でも、堅苦しいので」
「たしかに。それはそれで見てみたいけどな」
「さ、流石に恥ずかしいです」
夢花の頬も耳もいつもより赤い。そして、話すたびに白い息が出て、空気に消えている。
そんな夢花の様子に秋葉は見惚れた。
新年の始めは思ったよりも寒かったけれど、秋葉の体温は上がり続けていた。
会話もそこそこにして、やがて、二人は神社に向かって歩き始めた。
近くの神社、ではなく電車で移動して少し名のある神社に向かうことになっている。
夢花の提案でどうせなら遠出したいとのこと。
「それにしても秋葉くんから誘ってくれるなんて珍しいですよね。しかも二人で」
「……なんとなくな、暇だったし。家族と行かなくてよかったか?」
「大丈夫です。むしろ祖父には青春を謳歌してきなさいと言われましたし……あの人、まだ私たちが付き合っていると思っているんですよ。びっくりですよね」
夢花はそう言うと「ふふ」と可愛らしい声で笑った。
昔から夢花の祖父は秋葉と夢花が付き合っていると思っている。秋葉が夢花の祖父に会うたびに「夢花を末長くよろしくな」といじられるのだ。
「だな、別に付き合ってないのに」
「ですね……今度おじいちゃんに言っておかないと」
この話は夢花の祖父に限った話ではない。
夢花は学校でかなりモテている。そんな夢花と仲の良い秋葉は付き合っているのかと勘違いされることが多い。直接聞かれたりすることもある。その度に否定しているので、男子はそろそろ夢花を狙うようになったはずだ。しかし、成功した話は聞いたことがない。
「話変わるけどさ……夢花って、好きな人いるのか?」
今まで何気に聞いていなかった質問を秋葉はすることにした。
夢花も女子高生、好きな人の一人いてもおかしくはない。
秋葉はそれが自分であることを望みながら、そうでないことを願っている。いないと言ってくれた方が、秋葉の心にとっては楽だ。
「好きな人……」
夢花はそう言うとしばらく考え込む。
その表情は真剣だが、夢花が何について悩んでいるのかはわからない。しかし、間が秋葉にとっては耐えられないものだった。
「悩んでるってことは……いるのか?」
「……わかりません」
「わからない?」
「わ、私にはずっと……い、いえ、やっぱりやめます。要するに好きってなんだろなって話です」
「一緒にいてドキドキしたら好きなんじゃないのか? それか、一緒にいると安心して満たされる、とか」
「……あ、秋葉くんはいるんですか? そういう人」
質問した段階で聞かれるかもと予想していたが、いざ聞かれると答え方に迷う。
正直に答えてしまえば、相手に好意を悟られる危険にもなる。しかし、正直に答えて、相手に好意を悟られればもしかしたら。
結局、秋葉は自分自身が何をしたいのかわかっていない。夢花と付き合いたいのか、夢花に幸せになって欲しいのか。
もし、秋葉が夢花のためを思うなら。
そこから先の言葉は口に出すのが苦しい。胸が痛くなる。
「……内緒。いるかもしれないし、いないかもしれない」
「その反応、絶対いるじゃないですか。誰なんですか?」
「いないかもしれないって言ってるだろ」
「これは絶対いますね。緋奈ちゃん、とかですか?」
「緋奈はないな……友達としては好きだけど異性としては無理」
「なるほど、緋奈ちゃんに言っておきますね」
「やめてくれ、緋奈にこれ聞かれたら、俺が絞められる」
「えー、では誰でしょう」
「横にいる誰かさんかもな」
「……からかってますよね?」
「本気かも」
「その反応はもう絶対からかってます。ひどいです」
夢花は分かりやすく口を尖らせて、頬を膨らませた。秋葉がそんな夢花のわかりやすい反応に笑うと、夢花も笑い始めて、お互いにしばらく笑い合った。
そんな会話をしながら二人で歩いていく。やがて、電車で何駅か乗ると、目的の神社の前に着いた。
「人多いですね」
「だな、元日だから仕方ないけど」
神社周辺は人が多く、賑わっていた。新年ということで多くの人が初詣に来ている。
家族で来ている人、カップルにも見える男女、友人同士、あるいは一人。外国から来た観光客に見える人もちらほらいる。
神社に向かって二人で歩いていると、その人混みの影響で、二人は離されてしまう。
またすぐに、並んで歩き始めるのだが、どうにも歩きづらい。
「離れてごめん、やっぱ人多いな」
「私もすみません。前をあまり見ていませんでした……しばらく来ない間に、人が多くなっています」
何かの影響でこの神社が有名になったのだろう。テレビで紹介されたか、ネットで有名になったか。おかげで人が多くなっているらしい。
そんな時にふと、前を歩くカップルであろう男女が互いに手を繋いでいる様子が目に入る。
夢花と手を繋ぎたい。そんな欲望が掻き立てられ、気づけば夢花の方に右手を近づけていた。しかし、その右手をすぐにポケットに入れた。
何を考えているのだろうか、そう思った秋葉は冷静になるために一度深呼吸した。
夢花でもいきなり手を繋がれたら困るだろう。繋ぐにしても人が多いから、そう明確に理由を言うべきだ。
「あーあ、手が寒いです。今日は一段と冷えます」
「夢花、手袋してなかったか? ……って」
「いえ、していませんよ」
夢花がいきなり手が寒いと言うので、秋葉は夢花の手を見た。
すると、夢花の左手につけていた手袋は右手にあり、華奢で綺麗な夢花の左手が秋葉の目に映った。
秋葉は右手を伸ばすと、そんな夢花の左手を握った。
「これでいいか?」
「っ……えっと、は、はい」
いつものからかいのつもりだったのか、秋葉から手を握ると思っていなかったのだろう。
秋葉が手を握ると、夢花は耳と頬を赤くした。
「まさか、握ってくれるとは思いませんでした」
「こっちの方が歩きやすいし……その、嫌だったか?」
「……いえ、大丈夫です」
前のカップルのように恋人繋ぎをしているわけではない。握手のように、ただ手を繋いでいるだけだ。
それでも、緊張してしまうものがある。
冬だが、体が暑い。手汗は大丈夫だろうか。そんな不安に駆られていた時に、夢花の方を見ると、その横顔は少し笑っていた。
秋葉は何だか恥ずかしくなって、前に視線を戻した。
「懐かしいです。昔はこうしてよく手を繋いでましたよね」
「夢花は二つの意味で手のかかる子供だったからな」
「ふふ、たしかに。過去の私は泣き虫でしたから。でも、秋葉くんもお調子者でしたよね。今の秋葉くんからは考えられません」
「俺の黒歴史の大半がお調子者だった頃から来てるからな」
「でも……頼りがいのあるところは変わっていませんよ」
昔はいい意味でも悪い意味でも現実と自分を知らなかった。しかし、今は自分を理解しているつもりだ。いざという時に支えられない弱い人間、だと。
「……俺に頼りがいなんてないだろ」
「いいえ、ありますよ。この手を何回握って、何回安心したことか」
「昔はあったかもしれないけどな。今は別に……」
「今も昔もそういう秋葉くんのいいところは変わらないですよ」
しかし、夢花の秋葉に対する評価は違った。頼りがいがあるとさえ言って、秋葉を褒めてくる。
夢花が大変な時にうまく支えられなかったというのに、そんな秋葉を夢花は肯定した。
「昔から秋葉くんの手は私より断然大きくて、暖かいです」
夢花はそう言ってニコッと笑う。その笑顔は秋葉にとっては眩しいもので、同時に秋葉の心を暖めた。
しかし、夢花のそんな笑顔に秋葉は耐えられなかった。
秋葉は夢花から目を逸らす。
「あれ、ちょっと照れてます?」
「……うっせ、ほら、一礼するぞ」
二人で話しながら歩いていると、神社の入り口である大きな鳥居の前に着く。
手を繋いだまま、二人で一礼すると境内に入った。
「鳥居潜るとやっぱり雰囲気変わるな」
「雰囲気、ですか?」
「なんとなくだけど、神聖な空気というか」
鳥居を潜ると土地の雰囲気が少し変わったように秋葉は感じる。
ただの気のせいなのだろうが、そういう雰囲気に飲まれてしまう感覚になるのだ。
「秋葉くんって神様とか、信じますか?」
「そういうのはあんまり興味ないけど、テスト前とかだけ信じてる」
「ふふ、秋葉くんらしいです」
「夢花は神様っていると思うか?」
「……私は信じてないです。そういう文化だと思っています」
「どうにもならなくなった時とか、最後のひと押しとかに、神頼みするのも意外に清々しいぞ」
「それもそうですね……私も秋葉くんみたいにテスト前だけ信じようかな」
やがて、神様のいる本殿の前まで来た。本殿の前まで来るとその厳かな雰囲気に包まれる。
決して目立つわけではない木の茶色が多い古びた木造建築の建物。少し古びていて、だからこそ雰囲気がある。
置かれた賽銭箱の前には人が並んでいて、二人もその列に並んだ。
「何を祈ればいいのでしょうか……悩みます」
「欲張りに多めに祈っといたら?」
「ふふ、神様は信じていませんけど、バチが当たりそうで怖いです。一個に絞りますよ」
そんな会話をしていると順番が回ってくる。
お互いに財布から五円玉を取り出すと、賽銭箱に投げた。二礼して二回手を叩くと、手を合わせたまま目を瞑った。
そうしたはいいが、何を祈ればいいのだろうと、秋葉は考える。まだ願い事を決めていなかった。
自分の願い事は他にない。誰か他の人のために祈ってもいいかもしれない。
そして、ふと、隣にいる夢花が思い浮かんだ。
もし、神様がいるならどうして夢花に酷な人生を歩ませるのだろう。
両親は良い親で、そんな両親に育てられた夢花は当然良い子で、今もそうだ。
人が辛い時に支えられて、人のために料理も作れる。
純情で、明るくて、笑顔が多い。たまにからかってくるけど、それでも礼儀は弁えている。
そんな夢花の両親は交通事故で突然亡くなった。夢花の誕生日という大切な日に。
何も夢花は悪いことをしていない。むしろ善行しかしていない。
夢花は初恋の人でもあり、大切な存在でもある。
なら、もし、神様がいて、一つ願いを叶えてくれるとするならば、秋葉は。
願い事を心の中で唱えた後、秋葉は瞑っていた目を開けた。
夢花は秋葉より早く願い終わっていたようで、列からはみ出て秋葉の左手に回っていた。
少し長く祈りすぎていたらしい。
「秋葉くん、そんなに長く何を願っていたんですか?」
夢花にそう聞かれるが、言うのは恥ずかしい。何せ夢花に関することを願ったのだから。
「テストでいい点取れますようにって。祈れば祈るほど点数上がるかなと」
「……そんなわけないです。しっかり勉強してください」
「夢花は何を願ったんだ?」
「私は無難に、今年も良い年になりますように、と」
夢花は何を願うのだろうと思っていたが、夢花らしいシンプルな願いだった。
今年がいい年になるとは限らない。しかし、もうこれ以上、夢花は苦しんでほしくない。
夢花にとっていい年になりますように、そう心の中でもう一度願った。
「秋葉くん、もう少し神社を見てまわりませんか?」
「ああ、そうだな。境内、結構広いし」
本殿で願い事をした後は、軽く神社を見て回ることにした。
境内はかなり広く、木々に囲まれて神秘的な場所も多かった。
「秋葉くん、くじ、どうでした?」
「……末吉、なんとも言えない」
「私、大吉でした」
「運いいな」
「ふふ、でも、ここで運を使っても困るんですけどね」
くじを引いたり、お守りを買ったり、二人で初詣を満喫した。
しばらくして、そろそろ神社から去ろうとなった時だ。
「私、お手洗いに行ってきますね」
「ああ、わかった。ここで待ってる」
夢花がお手洗いに行って、秋葉はスマホのメールをチェックしたりしつつ、待機していた。
すると、子供が啜り泣く声が聞こえてきたのだ。
「うう、うぐっ……お母さん……お父さん……」
耳をすませばトイレの裏手から聞こえてくる。
秋葉が声のする方を辿ると、トイレの裏手で女児が一人泣いていた。
目元を擦りながら鼻水を啜っている。
「……大丈夫か?」
「お父さん……?」
秋葉が声をかけた一瞬だけ、女児は泣き止んで秋葉を見る。
女児の顔つきはかなり幼かった。幼稚園か、小学校低学年くらいの年齢だ。
「いや、お父さんじゃないんだが……」
「うぐっ、うう、うわああん」
女児は秋葉が父ではないことがわかると、秋葉の顔を見ながら再び泣き出した。
顔を見て泣かれたので、秋葉は申し訳なさを感じる。
お母さん、お父さんと言っていたので、迷子だろうか。境内は人が多かったので、家族と逸れてしまったのだろう。
「どうしたものか……」
「秋葉くん……?」
迷子の女児をどうしようかと考えていると、秋葉の名前を呼ぶ声が後ろからした。
振り返ると、夢花が立っていた。
夢花はしゃがんで泣いている女児を見ると、すぐに声をかける。
「大丈夫? どうしたの?」
「お母さん……じゃない。うう、うわああん」
「ごめんね、お母さんじゃないよ。もしかして、お母さんと逸れちゃった?」
夢花の問いかけに対して、女児は首を一回縦に振った。
「そっか、じゃあお姉さんと一緒にお母さんたち、探そっか」
「本当に……?」
「もちろん、お姉さんたちが見つけてあげる。だから、ほら、もう泣かなくていいよ。これ使っていいから……自分で涙拭ける?」
「うん……!」
夢花は女児にハンカチを貸すと、女児を泣き止ませる。
秋葉がどうすればいいかテンパっていたところを、夢花はすぐに女児を安心させた。
「すみません、秋葉くん。勝手に言いましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ、もちろん。俺も探すから」
困っている女児をこのまま放っておく訳にはいかない。
秋葉も夢花と同じ考えで両親を探すつもりだった。
「ありがとうございます」
「にしても、人多いな。見つかるか?」
「ですね……どこで逸れたとかわかる?」
「わかんない……ちょうちょがいたからね、追いかけたらお母さんたちいなかったの……」
女児もどこで逸れたかわかっていないらしい。
人混みもあるので、その中で探し回るのも女児の負担になる。
「一度、社務所に行ってみますか?」
「そうするか」
二人はそうして迷子の女児を引き連れて、社務所に向かうことにした。
親を探すのは難しいだろうが、ある程度の対応を社務所だとしてくれるだろう。
もしかしたら女児の両親はすでに社務所を訪ねているかもしれない。
「……お母さん」
「大丈夫、お姉ちゃんたちがなんとかするから。きっとすぐに見つかるよ」
「本当……?」
「安心して、見つかるまで一緒にいてあげるから」
「うん!」
夢花は不安がっている女児を落ち着かせる。
女児が落ち着いた後、夢花から話を持ちかけたりして、女児はだんだんと元気に会話するようになった。女児は名前も教えてくれて、サエと言うらしい。年齢は六歳で、両親の名前はわからないようだったが、母と父の特徴もある程度教えてもらった。
サエの目からは先ほどの涙は消えていて、子供らしい無邪気な笑みで笑っている。
夢花もすっかりお喋りになった女児の話を包容力のある口調で聞いている。
そんな夢花の子供に対する接し方から夢花の母性が垣間見える。
実際に子供を持つ母のようだな、と考えながら夢花を見ていると、その視線に夢花が気づく。
「どうしたんですか?」
「あー、いや、なんでもない」
「……もしかして、私に見惚れてました?」
夢花はニヤニヤとしながらそう言う。
サエが二人の真ん中にいるというのにお構いなしにからかってきた。
相変わらずだが、どう返答すればいいかわからない。
「ミトレル? ミトレルってなあに?」
「かっこいい、かわいいって思って、その人のことをついつい見ちゃうことだよ」
「そーなの? じゃあさっきお兄ちゃんはお姉ちゃんのことかわいいって思ってたの?」
サエの言い換えに秋葉は戸惑う。
ここで否定してしまえば、夢花が可愛くないと言っていることになるので傷つけてしまうかもしれない。しかし、肯定したとしてもからかわれる。
何か誤魔化せないだろうか、そう思ったが、数秒のうちに回答は出なかった。
「ああ、そうだよ、かわいいって思って見てた」
秋葉が思い切ってそう言うと、夢花は目を丸くしながら秋葉を見る。
「……い、意外です。秋葉くんならてっきり否定するかと」
「否定したら、それはそれで夢花を傷つけるだろ……肯定したら俺がからかわれるけど」
「あ、ありがとうございます」
夢花は少し頬を赤くして、髪をくるくるといじり始めた。
からかわれると思っていたのだが、夢花が照れたので秋葉も羞恥心が湧いてくる。
「ねえねえ、お姉ちゃんとお兄ちゃんはふーふなの?」
少し気まずい空気が流れかけた時、二人の真ん中にいたサエがそう聞いた。
子供らしいかわいい質問だった。
秋葉は夢花と目を合わせると、お互いに笑った。
「ううん、違うよ。どうしてそう思ったの?」
「なんかね、ふっくんが言ってたの! 仲の良いおとこの人とおんなの人はね、みんなふーふって言うんだって。お母さんとお父さんはふーふだから、お姉ちゃんとお兄ちゃんもふーふじゃないの?」
「ふーふって言うのはね。お互いがお互いに愛を誓ってる人同士のことなんだよ」
「あいをちかってる? サエ、よくわかんないや」
「……とりあえず、俺たちは友達ってことだ」
「ふーん、なんか、サエとふっくんみたい」
「そのふっくんって言うのはお友達?」
「うん、そうだよ! ふっくんはねえ、ともだち! 今日も一緒に来てるの!」
秋葉も夢花も社務所に行くまでサエとの会話を楽しんでいたのだが、サエは新しい情報を出してくれた。
どうやら母と父含めた三人で来ているのだと思っていたのだが、違うらしい。
「じゃあ今日はふっくんと、サエちゃんのお母さん、お父さんで来てるの?」
「うん、そう! 四人で来てるの!」
「ふっくんは男の子?」
「そうだよ! おとこのこ! サエと同じ六歳!」
サエとその母と父、ふっくんの四人で来ていたようだ。しかし、人混みの多いところで逸れてしまって、今、サエは迷子。
そろそろサエを探している人がいてもおかしくはない。
サエと会話しながらも秋葉は人探しをしている人がいないか、目を配らせた。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん! 手繋いでいい?」
「いいよ、繋ごっか」
「ああ、また逸れたら困るしな」
そうして三人は手を繋いだ。
秋葉がサエの左手を、夢花がサエの右手を握る形で、真ん中にいるサエは二人と手を繋いでいる。
サエは手を繋ぐとニコニコと笑って、鼻歌を歌い始めた。
「ふふ、かわいい」
夢花はサエを見ながらそう呟いた。
子供ができたらこんな感じなのだろうか、と秋葉もサエを見ながら思う。
親心というものが少しわかった気がした。
秋葉と夢花がサエと一緒にいた時間はそう長くはなかった。
社務所まで行くと、サエの母と父、そしてふっくんがいたのだ。タイミングがよかったようでサエは無事に両親と再会することができた。
「お母さん!」
サエは家族の姿が目に入った途端に秋葉と夢花の手を離して、走って向かった。
「もう! サエ! 心配したんだから!」
「うう、うぐっ、お母さん……会いたかったよお……」
父も母もほっとした様子で、母に至っては半泣きだった。
サエはというと秋葉がサエと会った時よりも涙を流して、母に抱きついていた。
「お前は本当に泣き虫だなあ」
ふっくんは心配していたのだろうが、子供らしく笑っていた。
サエが涙目で、ふっくんはそれをやれやれとでも言いたそうな目で見ている。
どこか、その様子に既視感を感じた。
「だって、もうお母さんにもお父さんにも、ふっくんにも会えないかもって思ったもん……」
「はいはい、でも迷子になるサエのせいだぞ」
「むう……」
「あ、こ、これでも心配してたんだからな」
「あはは、わかってる。ふっくんはサエのこと大好きだもんねー」
「そ、そんなんじゃねえけど」
「……嫌い?」
「ああ! もう! 好きだから心配したんだろ!」
「ぷっ、あはは、ふっくん怒ったー」
よく泣いて、よく笑う一人の女児と、素直じゃないけれど女児のことを思っている男児。
既視感を感じるのはなぜなのだろうか。
娘思いの両親と、いい友達に囲まれたサエは泣きながらも笑っていった。
サエの親にはかなり感謝されて、何度も頭を下げられた。
お礼をしたいと言われたが、お礼目的でサエを連れて来たわけではない。
感謝の気持ちだけ受け取っておくことにした。
「本当にありがとうございます……じゃあ、サエ、ふっくん、そろそろ行こっか」
「うん! ばいばい、ふーふのお姉ちゃん、お兄ちゃん! また会おうね!」
サエはそう言って、去っていった。
ふっくんと笑顔で話しながら、母と父はそれを温かい目で見守っている。
ホッと心が温まる光景だな、そう思っていた時。
「……泣けるなー、こういうの」
夢花はサエたち家族の様子を見て、涙を一粒流していた。
そんな夢花の左手を秋葉は右手で優しく握った。
急に握ったので少し驚いていたが、すぐに夢花は目を潤ませながら笑った。
「俺らもそろそろ帰るか」
「そうですね、帰りましょう」
サエたち家族が見えなくなるまでその背中を見送った後、二人も帰ることにした。
「どうする? まだ時間あるし、何かしたいんだったら付き合う」
「デパートで買い物とかしたいですけど……また今度にします。人も多そうですし」
「それもそうだな」
手は繋いだまま、そんな会話をしながら帰り道を歩いていく。
帰り道はお互いに静かだった。しかし、不思議と心地が良い空気だった。
おそらく、お互いに考えているのは先ほどのことだろう。
「……ねえ、秋葉くん」
そんな空気の中、夢花は秋葉の名前を呼ぶ。
「どうした?」
「さっきのサエちゃんたち、小さい頃の私たちみたいじゃないですか?」
夢花に言われて、秋葉はやっと先ほどの既視感の正体に気づく。
サエとふっくんのやり取りから、二人に過去の秋葉と夢花の姿を重ねていたのだ。
「私は泣き虫で、それを秋葉くんが素直じゃないけど心配してくれて」
「ああ、そうだな……俺もそう思った」
「そう思うと私たち、だいぶ変わりましたよね」
秋葉はもし、お互いに両親がいたら、どうなっていたのだろうと考える。
よくも悪くも、あの出来事があったから、今の二人がある。
支え合って生きていこう、そうなってからお互いに変わった。
夢花は泣かなくなって、秋葉も現実を知っておとなしくなった。
一緒にいる、から、支え合うに変わって、関係が変わって、いつの間にか夢花なしの人生が考えられなくなっていて。
「……ふーふ、か」
サエが別れ際に放った言葉を秋葉は呟く。
「ふふ、サエちゃん、可愛いですよね。別に付き合ってもいないのに……夫婦だなんて」
「……手は繋いでるから周りの人からはカップルだって思われそうだけどな」
「ふふ、たしかに。だからと言って別に離しませんけど」
付き合ってもいないのに手を繋いで、夢花の手を握ると安心して、胸が熱くなって。
夢花に料理を作ってもらって、たまに一緒に出かけて、そこで一緒に笑ったり話したりして、プレゼント交換はするし、一緒にいたいと言えば一緒にいれる。
夫婦のようで、しかし、どこかカップルのようで、それでも付き合っていない。
好きになってしまったから、そんな関係から変わりたい。
今のままどころか今よりも距離をもっと取るべきなのに今のままでは嫌だという感情が生まれてしまって、逆に近づこうとする自分がいる。
少し微笑んでいる夢花の横顔を見ると息が詰まった。
だから好きになんてなりたくなかったのだ。
「なあ、夢花って彼氏の理想のタイプとかあるのか?」
自分の感情から逃げるように夢花にそう質問する。
夢花の理想がどれだけ秋葉から離れているか自覚して、理解して、安心するために。
好きだから隣にいたい。でも、好きだからこそ、秋葉自身の隣に夢花がいて欲しくない。
そんな矛盾が秋葉の中にはある。
支えられなかった過去がずっと秋葉の心を突いてくる。
「うーん、強いていうなら優しくて、頼りになる人です」
「ありきたりだな。もっと何かないのか?」
「……思い浮かばないです。でも、秋葉くんみたいな人が理想かもしれません」
夢花はいつものからかいのつもりだったのだろう。
秋葉が突っ込んで、夢花が笑って、そんないつものやり取り。
しかし、夢花のからかいが秋葉にとっては辛くて、胸が痛くなるものだった。
「俺も、夢花みたいな人が彼女だったらって、思うな」
秋葉はポロッと本音を口に出していた。
思いを抱えておくには秋葉の器は少し脆かった。胸が張り裂けそうで、だから本音が出た。
失言だとすぐに気づいたが、もう訂正なんてできない。
焦ったが、諦めて夢花の反応を見ると顔が紅潮していた。寒い日なので余計にその変化がわかりやすい。
「あ、あの……それって……えっと」
夢花があまりにも顔を赤くしているので、秋葉も恥ずかしくなってくる。
「わ、私みたいな人ってど、どういう意味ですか?」
「文字通り……夢花みたいな人」
「そうじゃなくて……えっと……」
お互いに言葉は途切れ途切れで、秋葉の失言で空気はガラッと変わった。
秋葉も好きバレしたかもしれないという焦りと羞恥で、言葉が出てこない。
からかったということにしたいのだが、口が動かないのだ。
「ね、ねえ、秋葉くん」
「……どうした?」
「い、いくら鈍感な人でも流石にわかりますよ」
夢花はそう言って黙り込んだ。
もういっそのこと言ってしまおうか。自暴自棄になりかけたが、やめておく。
でも、これで良かったのかもしれない。
秋葉の好意に気づいて、おそらく関係は壊れる。
しかし、夢花は秋葉と距離が遠くなったおかげで秋葉よりいい人を見つけられる。それで、いいじゃないか。
そう、思っていたのだが、まだ秋葉たちの関係は続くらしい。
「……秋葉くんが私をからかっているってことくらい、私が鈍感でもわかりますよ」
夢花は顔を赤くしていたが、秋葉の本音をからかいだと思ったらしい。
むっと口を尖らせながらジト目で秋葉を見る。
「ぷっ、ぷはっ……はは」
「笑ってるってことはからかいだったんですか……よ、よくないです」
「わ、悪い、夢花の反応が面白かったから、つい」
「いつも私がからかってますけど、秋葉くんがからかうのはよくないです」
「夢花をからかうと可愛い反応見せてくれるし、からかいたくなる」
「……そういうところです。秋葉くんのばか」
結局、秋葉のからかいということで片付いた。しかし、それでも不安は拭えなかった。
会話は自然になっていたけれど、夢花の頬も耳も赤いままで、そんな夢花を見て、秋葉の顔も熱くなった。
やがて、午後五時ごろ、お互いの家の前に着いた。
新年の夕日は空を紅く染めていた。
「秋葉くん、今日はありがとうございました。楽しかったです」
「こちらこそありがとう。楽しかった……ハプニングはあったけどな」
「サエちゃんのことですか? 無事、見つかって良かったです。本当に」
「夢花のおかげで助かった。どうすればいいかテンパってたから」
「ふふ、秋葉くんが泣いている女の子といるのを見た時は驚きましたよ」
サエは今頃家族仲良くこの元日を過ごしているだろう。もしくはふっくんと遊んでいるか。
あの時の夢花は母性が溢れていて、意外な一面でもあった。そんな一面にも秋葉はドキッとした。
秋葉は自分が夢花のことを堪らなく好きなのだと自覚した。
もし、夢花の彼氏としてそばにいれたら、そんなことを想像する。
この関係に恋愛感情が入ればどうなるのだろうか。
夢花ともっと一緒にいられるようになって、一緒にできることも増えるだろう。しかし、夢花が辛い時、夢花をうまく支えられるだろうか、そんな不安が残っている。
そんなことを考えるが、そんなのは杞憂だと考えるのをやめた。
「夢花」
「どうしました?」
「……じゃあ、な。よいお年を」
好きの二文字は到底言えるわけなくて、秋葉は踵を返した。
これからは少し夢花と距離を取ろう。
夢花と行く初詣は楽しくて、夢花のことが堪らなく好きなのだと今日でわかった。
しかし、夢花のことを思うなら、やはり夢花にはこれ以上近づいてはいけないのだ。
「……ね、ねえ秋葉くん」
そうして家に入ろうとする秋葉の腕を夢花は掴む。
ちょうど夢花のことを考えていた秋葉は急に夢花に触れられたことで、一瞬体が硬直した。
「ひ、ひとつ聞いてもいいですか……?」
「あ、ああ」
夢花の顔は先ほどよりも赤くなっていて、何か重要なことを聞こうとしていた。
次の言葉を綴るまで、少し間があいた。
その間が秋葉の緊張を加速させる。
「あ、秋葉くんって、私のこと……」
夢花はそう何かを言いかけたところで掴んでいた手を離す。
「い、いえ、やっぱりなんでもないです……よいお年を」
そう言い終えると、夢花は踵を返して、家に向かっていった。
何を夢花は言おうとしていたのだろう。もしかして、バレてしまっただろうか。
思考がぐるぐると頭の中で回って、秋葉の胸の鼓動はまた速くなっている。
気づけば、ぎゅっと自分の拳を握りしめていた。
***
「雪……か」
教室にて、秋葉は窓越しに降っている雪を見ながら、そう呟く。
三学期が始まって、一週間が経った。
学校が始まると余計にその寒さを実感させられることになる。今日は一段と冷えていて、外では少しだけ雪が降っている。
雪は雨よりも嫌いだ。雨よりも切なくて、無情で、あの日も雪が降っていた。
全てを奪っていく、そんな感覚がある。
もうすぐ夢花の誕生日、あの出来事をこの時期になると毎年思い出す。
「何、ぼーっとしてんの」
そんな風に考え事をしていた時、ある人物が秋葉の机にやってきた。
秋葉は割と充実した学校生活を送っている。
学校に友人と呼べる存在はあまりいない。大勢と仲良くするタイプではなく、特定の人とだけ絡むことを好むからだ。
それでも、楽しいと思えるのはこの友人のおかげでもある。
千藤 緋奈、秋葉の女友達である。
「よっすよっす、元気―?」
緋奈は冬にも関わらず制服の上着を着ていない。
カッターシャツ一枚という暴挙。
「ああ、元気だった」
「なんで過去形?」
「緋奈が来たせいで元気がなくなった」
「はあ? 何? 私は元気吸い取るサキュバスか何かなわけ?」
「緋奈は聞かなくても、何か元気そうだな。冬にカッターシャツ一枚とか……寒くないのか?」
「いやー、友達と話してると暑くなるんだよね。暖房効いてるし」
緋奈はそう言うとカッターシャツの襟元をパタパタとさせた。
一人だけ季節を間違えている。相変わらずテンションも体温も高いらしい。
秋葉の前の席に横向きで座ると、こちらを向いた。
そして、ふと、秋葉は気づく。いつもは夢花と来るのだが今日は珍しく一人である。
「あれ、夢花は?」
「クラスメイトと駄弁ってた。あ、男子もいたよ」
「……なるほどな」
「あれれ、秋葉、ちょっと嫉妬しちゃったー?」
「いや、別に」
嫉妬していないといえば嘘になるが、緋奈に煽られる気がしたので無表情を貫いた。
緋奈も来たことなので、持っていたスマホをポケットにしまう。
「で、どうしたんだ?」
「別にー、ただ暇だったから来ただけ」
緋奈一人で来ることは少ない。何か用事があってきたのかと思ったのだが、そうでもないらしい。
「教室戻っても話し相手いないから暇なんだよね」
「適当に話してるグループ入ればいいんじゃないか? 緋奈のコミュ力ならいけるだろ」
「集団で話すと疲れるからさー、それに今日は秋葉と話したい気分だったし」
「なるほどな……なんか緋奈と一対一で話すの、久しぶりだな」
「たーしかに、いつも恵か夢花っちがいるから二人きりで話すことはあんまりないかも」
緋奈と二人きりで話すことは少ない。と言っても、会話が気まずくなることはない。
それは緋奈のコミュ力もあるし、会話の波長が合うというのもある。
「でも、なーんか話すことあってきたんだけど……あ、そうだ、夢花の誕生日プレゼント買った?」
夢花の誕生日が来週に控えているからか、話を変えて緋奈はそう聞く。
「ああ、もう買ってある」
「何買ったの?」
「無難にハンドクリーム」
「おお、いいね」
「緋奈は?」
「私はまだ買ってない。週末買う予定だから……でも何買うか決めてないんだよなー。まじでどうしよう」
緋奈は腕を伸ばして背伸びをするとため息をついた。
どうやら相当に悩んでいるらしい。
緋奈と夢花は親友とも言える関係である。だから、喜んでくれるものを選びたいのだろう。
「夢花なら何でも喜んでくれるだろ」
「ちっちっち、そういう問題じゃないんだよ。わかってないなあ」
緋奈は大袈裟に指を自身の顔の前で振ると、言葉を続ける。
「秋葉の誕プレと私の誕プレだと、絶対に秋葉の誕プレの方が喜ばれるから、それを私は越したいわけ……秋葉に夢花を取られたくないの」
「……なんで俺の誕プレの方が喜ばれるんだよ」
「え、いや、だってそんなの……あ、やっぱり何でもない。わ、忘れてくれる? 今の?」
「お、おう……」
緋奈はなぜか急に顔を青くすると、焦ったように言葉を撤回した。
テンションが高いと思ったら急に冷めたり、よくわからない。
「あ、秋葉! ゲームしよ! ゲーム!」
「はあ? 何で急に?」
「良いから良いから、マルバツしよ。先に揃った方が勝ちってやつ」
緋奈はスマホを取り出すと、秋葉の机の真ん中に置いた。そして、あるアプリを開く。
どうやらマルバツゲームのアプリがあるらしい。
「さっきのことは忘れて! ね? ね?」
「あ、ああ、もう覚えてないけど」
「……でも、そっか、秋葉、鈍感だからいいのか」
緋奈はボソボソと呟いているつもりなのだが、秋葉には聞こえている。
何に鈍感なのかわからないが、忘れろと言われたので記憶に留めないことにした。
いつもそうだが、今日は特に緋奈に振り回される日らしい。それが一緒にいて面白いと思う理由の一つでもある。
しばらく、秋葉は先ほどの緋奈のセリフなど忘れてマルバツゲームを一緒にした。
「ふふーん、私の勝ちー」
「二連敗……縦横五マス、普通に難しくないか?」
「秋葉がアホなだけでしょ」
「……もう一戦だな」
「望むところ」
やがて、数戦ほどした後、ゲームの途中でのことだった。
いきなり緋奈は言った。
「秋葉、いきなりだけど一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「……秋葉はさ、夢花のことどう思ってる?」
緋奈にそう聞かれた秋葉はゲームをする手を止める。
本当にいきなりの質問だった。夢花のことを出されて、心臓が跳ね上がる。
「と、突然どうした?」
「いや、何となく、どう思ってるのかなーって」
「……大切な友達だけど」
「じゃあ、夢花に対して恋愛感情はある?」
緋奈とこういう話をするのは初めてだった。
からかわれたことはあっても直接聞かれることはあまりなかった。
顔を上げて、緋奈の方を見る。スマホを見ていたけれど、顔は真剣で、笑っていなかった。
「言わないって約束するか?」
「それは当然。絶対に言わない」
緋奈に言うかどうか、秋葉は迷った。
今はまだ、自分の好意が夢花にバレないようにしたい。しかし、同時に一人で抱えるには限界だった。
緋奈に言うのは流石に気が引ける、そう思っていたが、緋奈の表情はいつになく真剣で、だから秋葉は決めた。
「……夢花のことは好きだ。友達としてじゃなくて異性として」
「そっかそっか、やっぱりそうだよね……今日、実は秋葉にこれを聞きたかっただけなんだよね」
「何で急にそんなことを?」
「二人の関係が気になったから。いつから好きなの?」
「冬休みあたりから、好きって気づいた」
「あれ、意外と最近なんだ。もっと前から好きかと」
「それもある意味あってる。初恋は小四くらいで、また好きになったって感じだから」
「お、ふーん、いいね君たち。付き合っちゃいないよ」
緋奈は指をパチンと鳴らすと、その人差し指を秋葉に指す。
「付き合う……か」
「告白の予定とかもう決めてるの?」
「いや、全く。好きだけど、付き合う気はないから」
「……へ? どゆこと?」
それから秋葉は緋奈に自分の心情を少し話した。
釣り合わないから。付き合いたい、けれど、秋葉は夢花の彼氏になるべきではないのだ。
秋葉は冬休みが終わって、たくさん悩んで、考えた。その末に、もう一度、自分の恋を封印することに決めたのだ。
恋愛感情を持って接せられたところで、夢花も嫌かもしれない、関係性が変わるかもしれないから、というのもある。ただ、それ以前に、秋葉は夢花と釣り合うような人ではないのだ。
自分の心情を緋奈に言った後、胸がふっと軽くなるのを感じた。
「は、はあ? なんで……」
「なんでって言われても、な」
「好きなら攻めちゃえば良いじゃん。関係ないでしょ。釣り合うとか釣り合ってないとか」
「それは……」
緋奈らしい一言だった。しかし、それを気にしていなければ、この悩みはないのだ。
おそらく緋奈は知らない。
両親が亡くなったことは知っていても、事故で急に亡くなったことまでは知らないだろう。
そして、その時に秋葉が支えられなかったから、夢花は今も心の傷を負っていることを知らない。
「好きなんでしょ? もっと一緒にいたいって思ってるんでしょ? 攻めればいいじゃん。初詣も一緒に行ってるんだし」
「……初詣のこと知ってるのか?」
「夢花っちから聞いたし。たしかに、夢花は人気だし、可愛いよ? だけど、幼馴染じゃん。釣り合わないとかなくない?」
緋奈はそう軽々と言う。しかし、秋葉は数年前のあの日からずっと後悔している。
敬語になっていた時点でおかしいと思った。夢花は強がっていたけど、明らかに傷ついていた。
その証拠が葬式で一度だけ見せたあの涙。
今思えば、ティッシュでもハンカチでもいいから貸してあげればよかった。
抱きしめるのはハードルが高かったかもしれないけれど、手くらい握ってあげればよかった。
そんな後悔がずっと残っている。
もし、今、そんな状況になったとしても、秋葉は夢花を支える自信がないのだ。
「……そういう意味じゃない。ただ、夢花には、きっと、俺よりいい人がいる。そう思ってる」
「何をそんなに悩んでるのかはわからないけどさ、じゃあ夢花とちょっと距離取った方がいいんじゃない? 付き合ってもないのにベタつきすぎでしょ」
そんな会話をしていると気づけば秋葉は緋奈にゲームで負けていた。
しかし、そんな負けはどうでもいい。
緋奈に言われた言葉が秋葉の心に深く刺さっていた。
「あー、でも、なんっかなあ……ああ、もう。秋葉って意外に女々しいんだね」
緋奈は頭を乱雑にかいて、少しイラつきを見せる。
「夢花のこと大切にしすぎでしょ。もっと自分の気持ちも大切にしなよ」
秋葉はそんな緋奈の言葉が胸に刺さった。
自分と夢花、どちらの方が大切かと聞けば、夢花を選ぶから。そんな考えはおかしいのだろうか。
一度、緋奈の言う通り、夢花と距離を取るべきなのかもしれない。
料理を作りに来てもらったりと、秋葉は夢花に甘えていた節があった。
やっぱり恋は嫌いだ。何かを変える必要性が出てくる。現状維持を許してくれない。
「……トイレ行ってくる。頭冷やしたい」
「あ、うん、じゃあ私も戻ろっかな」
そうして二人は立ち上がって教室を出た。別れ際、緋奈は言った。
「ごめん、秋葉、つい深いこと聞いちゃった。でも、自信持っていいよ。だって、もう……ね?」
緋奈はニコッと笑うと自身の教室へ戻っていく。
最後、緋奈は何も言わずに「わかってるでしょ?」とでも言いたげに笑みを浮かべた。
何を言いたかったのか、秋葉は読み取れなかったが、良い友を持ったなと、秋葉は思う。
「……真面目な時は真面目なんだよな」
心の中でその背中に感謝を贈った。
やがて、一週間が経ち、夢花の誕生日が来た。
平日で学校がある日だった。
「おはよう、夢花」
「おはようございます、秋葉くん」
「あと、誕生日おめでとう」
「……誕プレ、ですか?」
「ああ、見ての通り誕プレ。また後で開けてくれ」
「ふふ、ありがとうございます。毎年貰ってますけど、やっぱり秋葉くんからのプレゼントは嬉しいです」
「……期待はあまりしないでほしい。大したものじゃないから」
「いえいえ、秋葉くんから貰ったプレゼントですから、どんなものでも大切にしますよ。」
誕生日というのは日常の延長線上で、朝はいつものように会話していた。
会った時にプレゼントを渡して、あとは他愛もない会話をしながら一緒に登校する。
学校に着いてからは緋奈たちが夢花の誕生日を祝った。
昼休みの教室、いつもの四人でご飯を食べつつ、緋奈と恵はプレゼントを渡したりした。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー……誕生日おめでと〜! 夢花っちー!」
緋奈のテンションはというと、なぜか誕生日の夢花より高かった。
「ありがとうございます、緋奈ちゃん」
「夢花っち、十六歳の抱負は?」
「良い十六歳にすることです」
「うーん、夢花っちらしいけど、シンプル」
「あとは恋愛も頑張りたいです」
「ニコニコしながらこっち向かれると反応に困る」
「ふふ、十六歳になっても秋葉くんをいっぱいからかうことにします」
夢花のからかいもどうやら続くらしい。
そして、そんな二人のやり取りを聞いてニヤニヤする緋奈がいる。
「いやー、友達の誕生日祝ってるとこっちまで気分上がってくる〜! ってことで、はい、誕プレ!」
「ありがとうございます。中を見てもいいですか?」
「いいよ、開けて開けて!」
緋奈のプレゼントはというと秋葉の比にならないものだった。
ヘアオイルや入浴剤、乳液、化粧水などが入った袋を渡していて、おそらくそういうセットなのだろう。
「……ひ、緋奈ちゃん? い、いいんですか? こんなものを貰ってしまって」
「親友のためだし、あと実用的だし」
「緋奈ちゃん……! ちょうど欲しいと思ってたんですよ。本当にありがとうございます。」
緋奈はこちらを見てウインクをしてきたりと、秋葉を煽っていた。
同じ性別である分、やはりプレゼントの質としてはニーズがわかっている緋奈の方が高い。
煽ってきているとはいえ、秋葉が下手に選ぶと失敗する可能性があったので、ハンドクリームでよかったのだ。要らないものではない。
「あとは……ハンカチ、ですか?」
「そうそう。刺繍教室に行って縫ってきたんだけど、先生に縫いたいって言ったらハンカチで刺繍させてくれたの」
「……へえ」
「緋奈、刺繍できたんだな。意外だ」
「意外って何よ、意外って……でも、習い始めたのは今年の冬休みくらいからだけどね。暇だったから」
夢花が手に持っているハンカチは、ピンク色で、花の刺繍がされていた。
何の花なのかはわからないが、花も淡いピンク色で、緋奈の意外に器用な一面が見られた。
ただ、そのハンカチを夢花はなぜかじーっと見つめていた。
「どう? なかなか上手くできたと思うんだけど」
「ハン……カチ……」
「……な、何? そんなに私のハンカチに見惚れちゃった?」
「え? あ、あー、えーっと、はい。すごく好きなデザインです。この花マークもかわいいです。わざわざ縫ってくれたんですか?」
「そうそう、ついでにだけどね」
「……私も今度刺繍習ってみようかな。緋奈ちゃんの誕生日の日にお返しがしたいです」
「お、じゃあ、今度時間あったら一緒に行こ。楽しいよ!」
「ふふ、お願いします」
緋奈と夢花のやり取りから、相変わらず仲の良い関係であることがわかる。
恵はというと、何を選べばいいのかわからなかったらしく、大量のチョコを渡していた。
「ちょ、恵、食べきれないくらいの量のチョコあるじゃん」
「いやー、深月に何渡せばいいかわからなかったから、とりあえずチョコを。まじですまん! こんなもんだけど勉強の時とかに、な」
「いえいえ、美味しくいただきますよ。ありがとうございます」
夢花の誕生日を祝ったのは三人だけではない。
プレゼントはなくても、交流関係のある女子生徒が「誕生日おめでとう」と言っている声が聞こえてくる。それに、夢花を狙っているであろう一部の男子生徒も夢花にそう言っていた。
学校ではモテて、多くの人に祝われた夢花の誕生日。
側から見れば十分すぎるくらい幸せそうな様子だった。
それでも、そんな日に一人、夕方の公園で、ブランコを漕いでいる少女がいた。
空は真っ赤に染まって、カラスが声を出しながら上空を飛んでいる。
公園ではすでに街灯がついていた。そんな公園に人の気配は何もなくて、金具が軋む音だけが響いている。
到底、今日が誕生日とは思えないような顔をして俯いている少女はマフラーも手袋もせずにただただブランコを漕いでいた。
「……夢花」
秋葉はそんな少女、夢花に声をかける。
「あ、秋葉くん……どうしたんですか?」
「コンビニ行こうと思ったら、たまたま夢花がいたから」
「なるほど、偶然ですね」
夢花はニコッと笑う。しかし、どうにも秋葉にはそれが取り繕った笑顔にしか見えない。
人生をほぼずっと夢花と過ごしてきたから、何となくわかる。
こんなところで何をしているのか、そう訊こうとした。しかし、そんな夢花を見て、やめておいた。わかりきっていることをわざわざ聞く必要はない。
秋葉は何も言わずに夢花の隣のブランコに腰掛ける。
「……この公園で二人で良く遊んだの覚えてるか?」
「ええ、覚えています……秋葉くんがあそこの木の上のボールを取ろうとして、落ちた時はびっくりしましたよ」
「そんなこともあったな、恥ずい」
「シーソーもありませんでしたっけ? 今はもうないですけど」
「そういえば、そんなのあったな。夢花の体重が軽くて、するときに夢花がバッグ背負ってた記憶がある」
「ふふ、たしかに。幼少期は少し痩せすぎていましたからね」
当たり障りのないことを言いながら、夢花と昔話をしていく。
それでも、夢花は落ち込んでいるのがわかった。笑顔は少し自然になったが、目には悲しさが宿っていて、秋葉ではないどこか遠くを見ているような気がした。
やがて、二人の口数は減っていき、無言になった。
ブランコも漕がず、カラスの鳴き声もいつの間にか遠くなっている。
太陽が沈んでいく様が、その時間の経過を表していた。
気づけば、太陽は地平線に沈みかけていた。そんなときに、夢花が重々しく口を開く。
「……ねえ、秋葉くん」
「どうした?」
「今日、緋奈ちゃんからハンカチを貰いました。手作りのハンカチです」
夢花はポケットから緋奈お手製のハンカチを取り出す。
ピンク色の生地に花の刺繍がされた可愛らしいハンカチだ。
「……緋奈ちゃんがくれた時、そういえばお母さんも刺繍が好きだったなって思い出して……お母さんのこと、思い出しちゃって」
そう語る口調は重く、無理に夢花は笑おうしていたが元気のない、から笑いだった。
こんなときに何もできない自分が嫌いだ。
どう声を掛ければいいのか、どうすればいいのか、わからなくなる。
「これ、お母さんが生前に縫ってくれたハンカチなんです。今でも大事に使ってます」
夢花はもう一枚のハンカチをポケットから取り出す。
そのハンカチは色褪せていて、使い古されているのがわかった。同時に、形は整っていて、シワがない。大切にされてきたのもわかる。
「何で、私、あんなこと言っちゃったんだろ……ごめんなさい。やっぱり、誕生日は気分が下がっちゃいます」
夢花の笑みがあまりにも痛々しくて、何かしてあげたかった。
秋葉はポケットに入れていたカイロを取り出すと、それを夢花の手の甲に押し当てる。
すると、夢花は少しだけ表情を崩した。
「……あったかいです」
「夢花の手はだいぶ冷たいな」
秋葉が夢花の手に触れると、その冷たさが肌に伝わる。そんな夢花の手を秋葉はカイロ越しに自身の手で包んだ。
誕生日、夢花にとっては同時に両親の命日という意味も持つ。
「……お母さんとは喧嘩したままなんです。お母さんに会えたら、私はお母さんに謝りたいです。お父さんもそうです。けど、二人はもうこの世には……いないんです。天国で見守ってる、そんなことをおばあちゃんもおじいちゃんも言いますけど……もう、何を言っても、何も返って来ないんですよ……」
夢花の声は震えていた。涙は流していなかったが、堪えているのがわかる。
何かしてあげたい、支えたい。
そう思っても夢花のためになるようなことをしてあげられない自分が嫌いだ。
秋葉はカイロをポケットにしまうと、今度は夢花の手を握った。夢花もその手をぎゅっと握り返す。
「……ごめん、こういうことしかできなくて」
秋葉は自分が情けなくて、夢花に謝る。しかし、秋葉がそう言うとなぜか夢花は笑い出した。
「ふふ、秋葉くんは不器用ですね。こういうことでいいんですよ」
「そう……なのか?」
「……ええ、一番安心します。秋葉くんは優しいですね。変に言葉もかけず、ただ聞いてくれてそばにいてくれる」
違う、そんなものではない。
どう声を掛ければいいのかわからないから、聞くことしかできないのだ。優しいという言葉のせいで、余計に自身への不甲斐なさに腹が立つ。
秋葉は少し強く夢花の手を握った。
しばらくして、気づけば太陽は地平線に沈みきり、空の光はすでに消えていた。
街灯の光だけが公園を照らしている。
「暗くなりましたし、そろそろ帰りましょう……ごめんなさい、話に付き合わせちゃって」
「いや、大丈夫だ。何もしてないし」
「そんなことないです。一緒にいてくれて、安心しました」
二人はブランコから立ち上がる。
秋葉は夢花の手を離そうと力を緩めた。しかし、夢花は握ったままだったので、もう一度握り返した。
暗い夜道を二人で歩いていく。その間、お互いに一言も喋らなかった。
喋る必要がなかったのだ。手を繋いでいて、一緒にいるということがわかるから。
公園から家までの道は近い。すぐに二人の家の前に着いた。
そこでやっと、お互いに繋ぎっぱなしだった手を離す。
「秋葉くん、忘れてましたけどコンビニは良かったんですか?」
「あ、俺も忘れてた。けど、軽くお菓子を買いたいだけだったから、また行けばいい」
秋葉がそう言うと夢花は謝ったが、コンビニくらいまた行けばいい。夢花の心が少しでも晴れたらそれでいいのだ。
「じゃあ……な。誕生日おめでとう、夢花」
秋葉は踵を返して、家に帰ろうとする。しかし、夢花はそんな秋葉の服の裾を引っ張った。
夢花の方を見ると顔は下を向いている。
「……秋葉くん、一つ私と約束してもらってもいいですか?」
夢花は少し間を空けて、言った。
「いなくならないで……くださいね。これからもこうして私と一緒に、いてください」
「……大丈夫。一緒にいるから」
夢花は服の裾を強く握ると、手を離す。
「すみません、引き留めて……誕生日プレゼント、ありがとうございました。また明日、秋葉くん」
「ああ、また明日」
そうして二人はお互いの家に戻った。
秋葉はうまく夢花を支えられているのだろうか。
家に戻ってからも、ずっとそんなことを考えていた。
いなくなってほしくない、一緒にいたいのは秋葉も同じだ。それは恋でもあり、依存とも言える。しかし、今日も不器用なことしかできずに、夢花を元気づけることはできなかったのだ。
ふと、緋奈の距離を取るべきという言葉が頭に浮かぶ。緋奈の言う通り、もう秋葉は距離を置くべきなのかもしれない。
夢花が秋葉にしてくれていることに対して、秋葉は夢花に何もできていない。秋葉より頼れる人はいくらでもいる。
もし、秋葉のせいでそういう人と夢花が接点を持てないなら、秋葉は夢花から離れるべきだ。
恋をするのも依存するのもやめて、その感情を自分の心の中に封印していた方がいい。
「好き、なんだけどな」
自分の部屋に入ると、秋葉は大きくため息をついた。
それから日にちが経ったある日のことだった。
運命は秋葉がダラダラと悩むことを許してくれなかった。
いつも運命は突拍子もなく残酷になる。父の離婚の時もそうだった。急に離婚すると言われて、そう容易に現実を飲み込めなかった。
夢花の時もそうだった。突然に、運命は夢花から両親を奪った。
あの時と同じで、何が起こっているのか、秋葉は状況と現状が全く飲み込めなかった。
しかし、運命は無情だった。
「診断結果ですが……このまま治療をしなければ持って二、三年と言ったところです」




