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悪意に潰されかけた私を救ったのは、地味男子でした

掲載日:2026/02/02

第一章 噂の中の摩耶


 私――摩耶は、自分が社内でどう呼ばれているのかを、だいたい知っている。


「かわいそうな人」

「報われない女」

「天才のそばにいるだけの地味な存在」


 そんな言葉が、コピー機の向こうや、給湯室の隅から、ひそひそと流れてくる。


 慣れているかと聞かれれば、正直に言えば――まだ、慣れない。


 でも、気にしないふりは、もう上手になった。


「摩耶、おはよ」


 隣のデスクから、美穂が小さく手を振る。


「おはよう」


 私はパソコンを立ち上げながら、軽く笑った。


 ここは、映像制作会社スタジオ・リンク

 ドラマやCM、配信番組を手がける、中堅規模の制作会社だ。


 そして――


 この会社には、一人だけ、特別扱いされている人間がいる。


「……ムカデさん、もう来てる」


 誰かが小声でつぶやいた。


 視線の先。

 フロアの奥、窓際のデスク。


 そこに座っているのが、ムカデ――本名・百田剣也。


 若手ながら、業界で“天才編集マン”と呼ばれる存在だ。


 無駄のない短髪。

 切れ長の目。

 いつも不機嫌そうな表情。


 話しかけても、


「……ああ」

「……そう」


 で終わる。


 愛想はゼロ。

 協調性も、ほぼゼロ。


 それなのに。


 彼が手がけた作品は、必ず評価される。


 だから誰も、文句を言えない。


「今日も怖い顔してるね……」


「近寄らないほうがいいよ」


「機嫌悪そう……」


 そんな声が、今日も聞こえる。


 私は、そっと視線を戻した。


 ――違う。


 あれは、機嫌が悪い顔じゃない。


 ただ、考え込んでいるだけ。


 資料とモニターを交互に見つめながら、指先でペンを回しているときは、大抵、頭の中で編集構成を組み立てている証拠だ。


 もう、何年も見てきた。


 だから、分かる。


「……摩耶」


 低い声が、私を呼んだ。


 顔を上げると、ムカデがこちらを見ていた。


「はい?」


「昨日の素材、あるか」


「あります。まとめてあります」


「……持ってきて」


「分かりました」


 私は席を立ち、USBと資料ファイルを持って、彼のデスクへ向かう。


 ――その途中。


 背中に、視線が刺さるのを感じた。


(また、か……)


 分かっている。


「また摩耶さんだけ呼ばれてる」


「特別扱いだよね」


「付き合ってるんじゃない?」


「でも、あの二人、全然話さないよね」


 そういう噂。


 事実と違うのに、勝手に作られて、勝手に広がる。


「どうぞ」


 私は資料を置いた。


「……助かる」


 ムカデは短く言って、すぐ画面に視線を戻す。


 それだけ。


 世間話もない。

 雑談もない。


 でも。


 この距離感が、私たちにはちょうどいい。


「今日、会議あるぞ」


「え?」


「午後三時。和久さん主催」


「……聞いてませんでした」


「今、決まった」


「そうですか」


 私はメモを取る。


 彼は、ちらっと私のノートを見ると、少しだけ眉を緩めた。


 本当に、ほんの一瞬。


 誰も気づかないくらい。


 でも、私は見逃さない。


「……新人、来るらしいな」


「新人?」


「ああ。セーラって名前」


「そうなんですね」


 ムカデは、小さく息を吐いた。


「……面倒だ」


「ふふ」


 思わず笑ってしまった。


「きっと、いい人ですよ」


「……どうだかな」


 その声は、どこか疲れていた。


 私は、心の中で思う。


(また、“可哀想な天才”扱いされるんだろうな)


 彼は、放っておいてほしいだけなのに。


 昼休み。


 私は美穂と並んで、コンビニ弁当を食べていた。


「ねえ摩耶」


「なに?」


「最近さ、噂すごいよ」


「……どんな?」


「ムカデさん、摩耶のこと冷たくしてるとか、幸せにしてないとか」


「……誰と誰が付き合ってる前提なの」


「知らないけどさ」


 美穂は苦笑した。


「でも、みんな『摩耶かわいそう』って」


 かわいそう。


 また、その言葉。


「……別に、かわいそうじゃないよ」


「え?」


「私は、今のままでいい」


 誰にも分からなくていい。


 言葉にしなくても、通じる関係があることを。


 夕方。


 フロアが少し静かになった頃。


「……摩耶」


 また、彼が呼んだ。


「はい」


「これ、見てくれ」


 差し出されたモニター。


 編集途中の映像。


「……ここ、少し間を空けたほうが、余韻が残りますね」


「……やっぱり、そうか」


 彼は、ほっとしたように息を吐いた。


「助かる」


 その一言で、十分だった。


 周囲からどう見えようと、関係ない。


 私は知っている。


 この無愛想な天才が、どれほど繊細で、誠実な人なのかを。


 だから。


 私は、可哀想なんかじゃない。


 むしろ――


 少しだけ、特別な場所にいるだけだ。





第二章 無愛想な理由


 正直に言って、人付き合いは得意じゃない。


 ――いや、嫌いだ。


 俺、百田剣也は、幼い頃からそうだった。


 雑談は無駄だし、愛想笑いは疲れる。

 必要なことだけ話せばいい。


 それで、何が悪い。


「……うるさい」


 編集室の隅で、俺は小さくつぶやいた。


 昼過ぎのフロアは、騒がしい。


 新人が来るらしく、あちこちで浮ついた声がしている。


「歓迎会どうする?」

「飲み会?」

「ムカデさん来るかな?」


 ――行くわけないだろ。


 俺はヘッドホンをかけ、画面に集中しようとした。


 だが、頭に入ってこない。


(……だめだな)


 集中が切れる原因は、分かっている。


 視界の端。


 デスクで資料を整理している、摩耶の存在だ。


 彼女は、いつも静かだ。


 騒がず、目立たず、出しゃばらない。


 それなのに。


 必要なときには、必ずそばにいる。


 俺が欲しい答えを、的確にくれる。


「……ずるいだろ」


 小さく、吐き捨てるように言った。


 本人に聞こえるわけもない。


 初めて彼女と組んだのは、三年前。


 俺が、初めてメイン編集を任された企画だった。


 失敗できない現場。


 プレッシャーで、眠れない日が続いていた。


 周囲は、無責任に言った。


「天才なら余裕でしょ」

「百田なら大丈夫」


 誰も、助けてはくれなかった。


 ――あの時。


 深夜の編集室で、一人で頭を抱えていた俺に、声をかけたのが摩耶だった。


「……お疲れさまです」


「……何だ」


「これ、差し入れです」


 コンビニの、安いコーヒー。


 でも、妙にうまかった。


「無理しすぎると、判断鈍りますよ」


「……放っておけ」


「はい。放っておきます」


 そう言って、彼女は本当に何も言わず、隣に座った。


 話しかけてもこない。


 励ましもしない。


 ただ、静かに作業していた。


 それが――救いだった。


 以来、俺は彼女を手放せなくなった。


(……依存、か)


 いや、違う。


 依存じゃない。


 信頼だ。


 多分。


「ムカデさん」


 不意に、声がした。


 振り向くと、和久秀雄が立っていた。


「新人、紹介するから。ちょっと来て」


「……今、忙しい」


「五分でいいから」


 逃げ場はなかった。


 会議室。


 そこには、派手な服装の女がいた。


 金髪に近い茶髪。

 大きな瞳。

 明るい笑顔。


「初めまして! セーラです!」


 声がでかい。


「百田です」


 それだけ言って、椅子に座る。


「わあ、本物だ~! 噂通りクールですね!」


 やめろ。


 勝手に決めつけるな。


「私、尊敬してるんです! 一緒に仕事できて光栄です!」


「……そう」


 和久が苦笑する。


「セーラ、百田は集中型だからな。あんまり話しかけすぎるなよ」


「え~? 仲良くしたいのに~」


 無理だ。


 このタイプは、無理。


 会議が終わり、俺は即座に席に戻った。


 そして。


「……摩耶」


「はい?」


 彼女はすぐに反応する。


「……さっきの、新人」


「セーラさんですね」


「……苦手だ」


 正直な感想だった。


 摩耶は、少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。


「無理しなくていいですよ」


「……無理は、しない」


 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。


 夕方。


 フロアは静まり返っていた。


 俺は、編集データを見つめながら、行き詰まっていた。


(……ダメだ)


 構成が、決まらない。


 焦りが、思考を邪魔する。


 そのとき。


 隣に、気配。


「……コーヒーです」


 摩耶だった。


「……ありがとう」


 受け取る。


 無言。


 でも、安心する。


「……なあ」


「はい」


「俺、ちゃんと……やれてるか?」


 口から出た瞬間、自分で驚いた。


 こんな弱音、誰にも吐かないのに。


 摩耶は、少し考えてから答えた。


「はい。誰よりも」


「……根拠は」


「私が、ずっと見てますから」


 その一言で、十分だった。


 胸の奥が、熱くなる。


(……ずるい)


 こんなの、好きになるに決まってるだろ。


 だが、俺は言わない。


 言葉にしたら、壊れそうだから。


 この静かな関係が。


 この距離が。


 今は、何より大切だから。


 ――だから。


 俺は今日も、無愛想でいる。


 彼女の居場所を、守るために。




第三章 優しさという名の嵐


 その日からだった。


 社内の空気が、微妙に変わり始めたのは。


「おはようございます、ムカデさんっ!」


 朝八時五十分。


 始業十分前。


 誰よりも早く現れたセーラが、弾んだ声で叫ぶ。


「……おはよう」


 ムカデは、ヘッドホンをかけながら、最低限の返事だけを返す。


 だが、セーラは気にしない。


「これ、差し入れです! 手作りマフィン!」


 派手なラッピング。


 甘い香りが、フロアに広がった。


(……甘すぎる)


 摩耶は、少しだけ眉をひそめた。


 ムカデは、甘い匂いが苦手だ。


 集中が乱れる。


 でも――


「……ありがとう」


 断れなかった。


 その様子を、周囲は見逃さない。


「え、受け取ったよね?」


「初めてじゃない?」


「セーラちゃん、すご……」


 ささやきが、波紋のように広がる。


 摩耶は、静かに資料を整理していた。


 見ないふりをするのは、得意だった。


 ――昼。


「ムカデさん! 一緒にランチ行きません?」


「……今日は無理だ」


「え~! じゃあ、これだけでも!」


 今度は手作りサンドイッチ。


 また甘い匂い。


 ムカデは、困ったように視線を泳がせた。


 その先に、摩耶がいる。


 一瞬、目が合う。


 摩耶は、そっと微笑んだ。


(大丈夫ですよ)


 そう言っているような笑顔。


 だから、ムカデは断れなかった。


「……少しだけなら」


「やったぁ!」


 周囲が、ざわめく。


「一緒に食べてる……」


「完全に狙ってるよね」


「摩耶、大丈夫かな」


 その言葉が、摩耶の耳に刺さった。


 大丈夫。


 何が?


 何を基準に?


 分からないまま、時間だけが過ぎる。


 ――数日後。


 セーラの行動は、さらに加速した。


 差し入れ。


 メッセージ。


 SNSでの匂わせ投稿。


《今日は尊敬する人とお仕事♡》


《一緒に頑張れるって幸せ》


 タグ付き。


 会社名入り。


 すぐに、噂になる。


「完全に付き合ってるよね?」


「もう公認じゃん」


「摩耶、立場ないじゃん……」


 摩耶は、スマホを伏せた。


 見なければ、傷つかない。


 ……そう思っていた。


 だが。


「ねえ、摩耶さん」


 ある日、絵里子が声をかけてきた。


「はい?」


「大丈夫? 最近、元気なくない?」


「……そうですか?」


「うん。ムカデさんのこと……」


 言いかけて、止める。


 その沈黙が、何よりも残酷だった。


「……大丈夫です」


 摩耶は、そう答えるしかなかった。


 その夜。


 編集室に残っていたのは、摩耶とムカデだけだった。


 雨が、窓を叩いている。


「……まだ帰らないのか」


 ムカデが言う。


「もう少し、まとめてから」


「……無理するな」


「大丈夫です」


 沈黙。


 重たい沈黙。


 ムカデは、違和感を覚えていた。


(……最近、様子がおかしい)


 以前なら、自然に話していたのに。


 今は、距離がある。


「……摩耶」


「はい」


「何か……あったか」


 摩耶は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 だが、すぐに首を振る。


「いいえ」


 嘘だった。


 でも、言えなかった。


 ――翌週。


 決定的な出来事が起きる。


 大事なプレゼン資料。


 提出期限前日に、データが消えた。


「……え?」


 摩耶は、青ざめた。


「バックアップは?」


「……一部だけです」


 プロジェクトは、ムカデ主導。


 失敗すれば、責任は彼にいく。


 そのとき。


「私、知ってます」


 セーラが、手を挙げた。


「昨日、摩耶さん、最後まで残ってましたよね?」


 その場が、凍りついた。


「……それが?」


 和久が尋ねる。


「もしかして……間違えて消しちゃったとか……?」


 言葉は柔らかい。


 でも、意味は鋭い。


 疑惑。


 視線が、一斉に摩耶に集まる。


「……私、そんな……」


 声が震える。


「セーラ、言い過ぎだ」


 小林が割って入る。


「でも、可能性は……」


「黙れ」


 低い声。


 ムカデだった。


 全員が、息を呑む。


「摩耶がそんなことするわけない」


 即答だった。


「……俺が保証する」


 その一言で、空気が変わった。


 和久が頷く。


「調べ直そう。責めるのは早い」


 結局、原因はサーバートラブルだった。


 摩耶の責任ではない。


 だが――


 心の傷は、残った。


 夜。


 屋上。


 摩耶は、一人で夜風に当たっていた。


(……私は、邪魔なのかな)


 そんな考えが、浮かんでは消える。


 そこへ。


「……ここにいたか」


 ムカデが現れた。


「探した」


「……どうして」


「……心配だからだ」


 摩耶は、驚いて彼を見る。


「最近、無理してる」


「……そんなこと」


「ある」


 きっぱり。


「俺は……鈍いが、何も見てないわけじゃない」


 彼は、少し間を置いて言った。


「セーラの件……すまない」


「え?」


「迷惑だと、分かってたのに……止めなかった」


 摩耶の胸が、きゅっと締まる。


「俺は……君を傷つけた」


 真剣な瞳。


 逃げない視線。


「……ごめん」


 その言葉に、摩耶は、初めて涙をこぼした。


「……謝らないでください」


「……なぜだ」


「私が、勝手に……我慢してただけですから」


 ムカデは、拳を握りしめた。


(……もう、放っておかない)


 そう、心に決めた。


 嵐は、まだ終わっていない。


 だが。


 この誤解が、二人を引き離すことはない。


 ――むしろ。


 より強く、結びつける前触れだった。



――――――――――――――――――――

第4章:摩耶の弱さ)

――――――――――――――――――――


 夕方の校舎は、昼間とはまるで別の顔をしていた。

 窓から差し込むオレンジ色の光が、廊下をゆっくりと染めていく。


 摩耶は、誰もいなくなった美術室の片隅で、膝を抱えて座っていた。


「……はぁ……」


 ため息が、何度目かわからないほどこぼれる。


 ここ最近、ずっと調子が悪かった。


 クラスの視線。

 SNSに流れる噂。

 ムカデやセーラ、和久たちとの微妙な距離。


 何もかもが、少しずつ、でも確実に摩耶の心をすり減らしていた。


「……私、何やってるんだろ……」


 誰にも聞こえないように、つぶやく。


 強くなりたい。

 平気な顔で笑っていたい。


 そう思っているのに、現実は逆だった。


 ちょっとした言葉で傷ついて、

 些細な噂で眠れなくなって、

 誰かの視線が怖くて、逃げたくなる。


 ――弱い。


 それが、自分でもわかっていた。


 ガラッ。


 突然、扉が開く音がした。


「……あ、やっぱりここにいた」


 入ってきたのは、美穂だった。


 長い髪を揺らしながら、少し心配そうな顔で摩耶を見る。


「……美穂……」


「探したよ。連絡しても返事ないしさ」


 美穂は摩耶の隣に、静かに腰を下ろした。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 夕焼けだけが、ゆっくりと時間を進めていく。


「……さ」


 先に口を開いたのは、美穂だった。


「最近、無理してるでしょ」


「……してない」


 反射的に否定する。


 でも、美穂はすぐに首を振った。


「嘘。顔に全部出てる」


「……」


「摩耶さ、昔からそうだよね。平気なふりするの、上手すぎ」


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「……だって……」


 摩耶は視線を床に落とす。


「弱いって思われたくないし……迷惑かけたくないし……」


「誰に?」


「……みんなに」


 ぽつり、とこぼれた本音。


「ムカデにも……セーラにも……和久にも……」


 言葉にした瞬間、涙がにじんできた。


「私さ……」


 声が震える。


「最近、何しても失敗ばっかりで……噂も広がって……」


「頑張ろうって思えば思うほど、空回りして……」


 ぽろっ、と涙が落ちた。


「……もう、疲れた……」


 それを見て、美穂は少し驚いたように目を見開いたあと、優しく笑った。


「……やっと言った」


「え……?」


「やっと、本音言ったじゃん」


 美穂は摩耶の肩に、そっと手を置く。


「ねえ、摩耶」


「……うん」


「弱くていいんだよ」


「……え?」


「泣いていいし、逃げたくなっていいし、しんどいって言っていい」


 まっすぐな目で、美穂は続けた。


「摩耶ってさ、ずっと一人で抱えすぎなの」


「みんなに優しいくせに、自分にはめちゃくちゃ厳しい」


 摩耶の喉が、詰まった。


「でも……迷惑……」


「ならない」


 きっぱりと、美穂は言った。


「むしろ、頼ってほしい」


「……私、役に立てないし……」


「関係ない」


「一緒に笑って、一緒に落ち込めるだけでいいんだよ」


 その言葉が、心に染み込んでいく。


「……美穂……」


 摩耶は、ついに堪えきれなくなった。


「私……怖かった……」


「うん」


「嫌われるのも……置いていかれるのも……」


「うん」


「だから……何も言えなかった……」


 美穂は、そっと摩耶を抱き寄せた。


「大丈夫」


「私、ずっと味方だから」


 その温もりに、張りつめていた心が一気にほどけた。


「……うぅ……」


 声を殺して泣いていた摩耶だったが、やがて、声をあげて泣き始めた。


 子どもみたいに、みっともなく。


 でも、それでよかった。


 しばらくして、落ち着いた頃。


「……ごめん、こんな……」


「何が?」


「泣き虫で……」


「可愛いじゃん」


「えっ!?」


 思わず顔を上げる。


 美穂はニヤッと笑っていた。


「人間らしくて、私は好き」


「……もう……」


 摩耶は、少しだけ笑った。


 久しぶりに、心から。


「ねえ、摩耶」


「ん?」


「これからはさ、一人で抱えないで」


「私もいるし、きっと他のみんなもいる」


「……ムカデとか、特に心配してるよ」


「え……?」


「知らなかった?」


「……全然……」


 美穂はくすっと笑う。


「鈍感すぎ」


 摩耶の胸が、少しだけあたたかくなった。


「……私……」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「もう少しだけ、信じてみる」


「自分も……みんなも」


「うん。それでいい」


 夕焼けは、いつの間にか紫色に変わっていた。


 摩耶の中で、何かが静かに変わり始めていた。


 ――弱さを認めることは、負けじゃない。


 それは、前に進むための一歩なのだと。


 彼女は、初めてそう思えたのだった。


――――――――――――――――――――




第5章:ムカデ×摩耶

――――――――――――――――――――


 放課後の校舎は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。


 夕暮れが近づき、窓の外は淡いオレンジと紫が混じり合っている。


 摩耶は、廊下の窓際に寄りかかりながら、スマホを見つめていた。


(……まだ、来ない)


 ムカデから「放課後、少し話せる?」とだけ送られてきたのは、一時間前。


 それ以来、何の連絡もない。


「……遅いよ……」


 小さくつぶやきながら、胸の奥がそわそわするのを感じていた。


 ――昨日、美穂と話してから。


 摩耶の中で、何かが変わっていた。


 自分の弱さを、少しだけ許せるようになったこと。


 誰かを、ちゃんと信じてみようと思えたこと。


 そして――


 ムカデのことを、前よりも強く意識してしまっていること。


「……意識しすぎ……」


 自分に言い聞かせるように、息を吐く。


「摩耶」


 後ろから、聞き慣れた声がした。


 振り向くと、そこにムカデが立っていた。


「……あ」


 思わず、声が詰まる。


 制服のネクタイを緩めて、少し疲れたような顔。


 でも、目だけは真剣だった。


「待たせてごめん。先生に捕まっててさ」


「……ううん、大丈夫」


 本当は、少しだけ不安だった。


 でも、それを口に出す勇気は、まだない。


「……ここ、人目あるから」


 ムカデは、廊下の奥を指さした。


「中庭、行かない?」


「……うん」


 二人並んで歩く。


 距離は、ほんの数十センチ。


 なのに、やけに遠く感じる。


 中庭には、ほとんど人がいなかった。


 ベンチの周りに、落ち葉が散らばっている。


 二人は並んで座った。


 沈黙が、流れる。


 風が、木の葉を揺らす音だけが聞こえた。


「……あのさ」


 先に口を開いたのは、ムカデだった。


「最近……ごめん」


「……え?」


「俺、ちゃんと話してなかった」


 摩耶は、驚いて彼を見る。


「噂のことも……セーラのことも……」


「全部、放置してた」


「……」


「正直、どうしていいかわからなかった」


 ムカデは、視線を地面に落とした。


「摩耶が傷ついてるの、わかってたのに」


「……逃げてた」


 胸が、きゅっとなる。


「……ムカデ……」


「でもさ」


 彼は、意を決したように顔を上げた。


「もう、逃げたくない」


 真っ直ぐな目だった。


「俺……摩耶のこと、大事にしたい」


 その言葉に、心臓が跳ねた。


「……え……?」


「友達として、とかじゃなくて」


 一瞬、言葉に詰まる。


 深呼吸して、続けた。


「……好きだから」


 世界が、止まったように感じた。


「……す……き……?」


 頭が、追いつかない。


「前からだった。でも言えなかった」


「噂とか、立場とか……色々怖くて」


「でも……」


 ムカデは、拳をぎゅっと握る。


「失う方が、もっと怖いって気づいた」


 摩耶の目に、涙がにじむ。


「……私……」


 声が震える。


「私、ずっと……ムカデに嫌われたと思ってた……」


「そんなわけない!」


 思わず、大きな声になる。


 すぐに、照れたように小さくなる。


「……むしろ、好きすぎて……」


 沈黙。


 そして、二人同時に、ふっと笑った。


「……バカみたいだね」


「……うん」


「お互い、勝手に傷ついて」


「勝手に距離作って」


 摩耶は、そっとムカデを見る。


「……でも……今は?」


「今は……」


 ムカデは、少しだけ近づいた。


「ちゃんと、向き合いたい」


「逃げない」


「摩耶のそばにいたい」


 胸が、じんわり熱くなる。


「……私も……」


 勇気を振りしぼる。


「私も……ムカデのこと、好き」


 はっきりと言えた。


 初めて。


 ムカデの目が、大きく見開かれる。


「……マジで?」


「……うん」


「……やば……」


 彼は、顔を両手で覆った。


「嬉しすぎる……」


「ちょっと……」


 摩耶は、思わず笑う。


「……変な反応」


「無理だって……」


「こんなの……」


 しばらくして、ムカデは手を下ろした。


 少し、赤い。


「……なあ」


「なに?」


「手……つないでいい?」


 摩耶の心臓が、また跳ねる。


「……うん……」


 そっと、指先が触れる。


 一瞬、ためらってから、ぎゅっと握られた。


 あたたかい。


 安心する。


「……不思議」


 摩耶がつぶやく。


「今まで、こんなに近くにいたのに」


「こんなに……遠かった」


「……これからは、近いままでいよう」


 ムカデは、そう言って微笑んだ。


「……うん」


 二人は、並んで夕空を見上げた。


 紫とオレンジが溶け合う空。


 その下で、静かに始まった関係。


 まだ不安も、問題も、たくさんある。


 でも――


 今はただ、この温もりを信じたかった。


 ――やっと、たどり着いた。


 本当のスタートラインに。


――――――――――――――――――――



第6章:波乱編

――――――――――――――――――――


 翌朝の教室は、いつもよりざわついていた。


 まだ始業前だというのに、あちこちで小声の会話が飛び交っている。


「ねえ、聞いた?」


「昨日さ……」


「やっぱ付き合ってるんでしょ?」


 そんな言葉が、断片的に耳に入る。


 摩耶は、自分の席に座りながら、無意識に肩をすくめていた。


(……来た……)


 予感は、外れていなかった。


 昨日、中庭でムカデと手をつないでいるところを、何人かに見られていた。


 そのうち噂になるだろうとは、覚悟していた。


 でも――


 こんなに早いとは思わなかった。


「……摩耶」


 隣の席に、美穂が座る。


「もう、広がってる」


「……うん……」


 机の上に置いたスマホには、すでに何件も通知が溜まっていた。


『ムカデと付き合ってるって本当?』

『セーラと揉めてるらしいよ』

『二股じゃない?』


「……二股って……」


 思わず、苦笑いがこぼれる。


「意味わかんない……」


「でも、こういうのって勝手に膨らむからね」


 美穂は、少し険しい表情をしていた。


「放っとくと、危ないかも」


 そのときだった。


「……ねえ、摩耶」


 後ろから、低めの声がかかった。


 振り向くと、そこに立っていたのは絵里子だった。


 長い髪をきっちりまとめ、どこか冷たい目をしている。


「……絵里子……?」


「ちょっと、話あるんだけど」


 周囲の視線が、一斉に集まる。


「……今?」


「今がいい」


 有無を言わせない口調だった。


 摩耶は、小さくうなずく。


 二人は、廊下へ出た。


 人の少ない階段の踊り場で、絵里子は腕を組んだ。


「……で?」


「……で、って……」


「ムカデと、付き合ってるんでしょ?」


 直球だった。


「……うん……」


「やっぱり」


 絵里子は、鼻で笑う。


「正直さ……」


「やめといた方がよかったと思うよ」


「……え?」


「摩耶、知らないの?」


 彼女は、スマホを取り出した。


 画面には、匿名アカウントの投稿。


『ムカデ、まだセーラと切れてないらしい』

『裏で連絡取ってるって噂』


「……なに、これ……」


 血の気が引く。


「昨日から、出回ってる」


「佐賀が言ってた」


「……佐賀……?」


 佐賀は、情報通として有名な生徒だった。


 良くも悪くも、噂の発信源。


「しかもさ」


 絵里子は、少し声を落とす。


「凛も、関わってるっぽい」


「……凛まで……?」


 凛は、セーラの親友で、気が強いことで知られていた。


「摩耶さ……」


 絵里子は、真剣な目で言った。


「傷つくよ、このままだと」


「……私は……」


 言葉に詰まる。


「ムカデ、信じたい……」


「……甘い」


 ぴしゃりと言われる。


「恋愛って、そんな綺麗じゃない」


「特に、周りが絡むと」


 その言葉が、胸に刺さった。


 その日の昼休み。


 摩耶は、ムカデを探して校舎を歩いていた。


(話さなきゃ……)


 噂のこと。

 セーラのこと。

 凛のこと。


 全部、ちゃんと聞きたかった。


 すると、中庭の端で――


 見てしまった。


 ムカデと、セーラが話している姿を。


 しかも、かなり近い距離で。


「……うそ……」


 足が、止まる。


 物陰から、二人の様子が見えた。


 セーラは、泣いているようだった。


 ムカデは、困った顔で、何か必死に話している。


(……なに、してるの……)


 頭が、真っ白になる。


 その瞬間。


「……あれ?摩耶じゃん」


 背後から、声。


 振り向くと、凛が立っていた。


 腕を組み、挑発的な笑み。


「……見ちゃった?」


「……」


「かわいそ」


 凛は、わざとらしくため息をつく。


「ムカデ、まだセーラのこと好きなんだよ?」


「……うそ……」


「ほんとほんと」


「さっきも『放っておけない』って言ってたし」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……信じてたのに……」


 声が、かすれる。


「信じる方が悪いんだって」


 凛は、肩をすくめた。


「摩耶ってさ、いい子すぎるんだよ」


「だから、利用されやすい」


「……やめて……」


「事実じゃん」


 そのとき。


「――凛!」


 鋭い声が響いた。


 振り向くと、そこにムカデが立っていた。


「何、言ってんだよ」


「摩耶に、変なこと吹き込むな」


「変なこと?」


 凛は笑う。


「じゃあ、さっきの何?」


「セーラと、あんな近くで」


 ムカデは、一瞬黙る。


 そして、深く息を吸った。


「……あれは……」


「セーラに、ちゃんと終わらせる話してただけだ」


「もう、俺は摩耶が好きだって」


「はっきり言ってきた」


 摩耶は、目を見開く。


「……ほんと……?」


「ほんとだ」


 ムカデは、まっすぐ見つめる。


「逃げないって、決めたから」


 凛は、舌打ちする。


「……つまんない」


「じゃあね」


 そう言って、去っていった。


 その場に、二人きりが残る。


「……ごめん……」


 摩耶が、先に言った。


「疑っちゃって……」


「いいよ」


 ムカデは、優しく笑う。


「不安になるの、当たり前だ」


「俺が、ちゃんと守れなかった」


 そっと、摩耶の手を握る。


「でもさ」


「これからは、一緒に乗り越えよう」


「噂も、妨害も」


「全部」


 摩耶の胸に、また温かいものが広がった。


「……うん」


 うなずく。


 でも――


 遠くから、それを見つめる影があった。


 スマホを構える、誰か。


 新たな火種は、すでに生まれていた。


 嵐は、まだ終わらない。



第8章:和久・小林

――――――――――――――――――――


 噂は、完全に暴走していた。


 たった数日で、校内の空気は一変していた。


「摩耶って、やっぱ計算高いらしいよ」


「ムカデ利用してるって」


「セーラ可哀想じゃない?」


 そんな言葉が、平然と飛び交う。


 事実なんて、誰も気にしていない。


 面白ければ、それでいい。


 摩耶は、日に日に無口になっていった。


 笑う回数も、減った。


 ムカデの前では、無理に明るく振る舞っていたが、心はすり減っていた。


「……平気だよ」


 そう言うたびに、自分が少しずつ壊れていくのを感じていた。


 放課後。


 誰もいない図書室で、摩耶は一人、机に突っ伏していた。


 目は腫れ、喉は痛い。


 もう、限界だった。


「……もう、やだ……」


 声にならない声が漏れる。


 そのときだった。


「……おい」


 低い声。


 顔を上げると、和久秀雄が立っていた。


 無愛想で、いつもクールなクラスメイト。


「……和久……?」


「こんなとこで泣くなよ」


「……泣いてない……」


「嘘つけ」


 和久は、無理やり椅子を引いて座る。


「目、真っ赤だ」


「……」


「なあ」


 彼は、少し言いにくそうに頭をかく。


「ムカデと、お前……」


「……うまくいってないのか?」


「……違う……」


 摩耶は、小さく首を振る。


「……周りが……」


 それ以上、言えなかった。


「……あー、もう」


 和久は、ため息をつく。


「やっぱな」


「……?」


「この噂、誰が流してるか、だいたい分かった」


 摩耶は、はっと顔を上げる。


「……え?」


「佐賀と、凛だ」


「裏で匿名アカ使ってる」


「……!」


 心臓が跳ねる。


「……でも、証拠なくて……」


「ある」


 後ろから、声がした。


「俺が集めた」


 そこに立っていたのは、小林陽介だった。


 明るくて、人当たりのいい人気者。


 いつもは軽いノリなのに、今は真剣だった。


「……小林……?」


「摩耶ちゃんさ」


 小林は、椅子に腰掛けながら言う。


「気づいてないかもだけど」


「かなり、やられてる」


「……」


「見てて、腹立った」


「なんで、こんないい子が叩かれてんだって」


 和久は腕を組む。


「俺らさ」


「前から、お前のこと見てた」


「……え?」


「ムカデのことで悩んでるのも」


「無理して笑ってるのも」


「全部」


 摩耶の胸が、ぎゅっとなる。


「……なんで……」


「仲間だからだろ」


 和久は、当たり前みたいに言う。


「一人で潰れるまで耐えるタイプだって」


「分かりすぎてて、放っとけねー」


 小林はスマホを取り出した。


「これ見て」


 画面には、スクショの山。


 匿名投稿。


 裏アカの会話履歴。


 同じ文体、同じ誤字。


 同じ投稿時間。


「……これ……」


「佐賀のサブ垢と一致」


「凛のも、特定した」


 摩耶は、震える手で画面を見る。


「……こんな……」


「全部、私のこと……」


「許せるわけないだろ」


 和久の声は、低かった。


「しかもさ」


 小林が続ける。


「写真も加工してた」


「ムカデと他の子が並んでるやつ、切り貼り」


「フェイク」


「……最低……」


 涙が、またあふれそうになる。


「……私……信じかけてた……」


「俺らが止める」


 和久は、きっぱり言った。


「これ以上、やらせない」


 その日の夜。


 四人は、グループ通話をしていた。


 摩耶、ムカデ、和久、小林。


「……で、どうする?」


 ムカデが切り出す。


 声は、悔しそうだった。


「俺……何もできてなくて……」


「そんなことねーよ」


 和久が即答する。


「今からやればいい」


 小林が笑う。


「作戦会議、開始ね」


 彼は、画面を共有した。


「まず、証拠まとめ」


「時系列に整理」


「第三者にも分かる形にする」


「で、拡散前に」


「先生と生徒指導に提出」


「……先生……」


 摩耶は、不安そうに言う。


「大丈夫」


 小林はうなずく。


「この量なら、無視できない」


「それから」


 和久が続ける。


「ムカデ、お前が前に出ろ」


「……俺?」


「ああ」


「逃げてたの、お前だ」


「だから、今度は守れ」


 ムカデは、強くうなずいた。


「……やる」


「絶対、守る」


 翌日。


 生徒指導室は、重い空気に包まれていた。


 机の上には、分厚い資料。


 スクショ、分析、比較表。


「……これは……」


 担任は、目を見開いた。


「かなり悪質だな……」


「はい」


 小林は冷静に説明する。


「複数アカでの誹謗中傷」


「捏造画像の拡散」


「名誉毀損にあたります」


 和久も続ける。


「被害は、摩耶一人じゃない」


「クラス全体の問題です」


 ムカデは、摩耶の横に立つ。


「……俺も、責任感じてます」


「ちゃんと説明させてください」


 その姿に、摩耶は胸が熱くなった。


 数日後。


 校内放送で、注意喚起が流れた。


「SNS上の誹謗中傷について……」


 同時に、佐賀と凛は指導を受けた。


 噂は、急速にしぼんでいった。


 廊下では、空気が変わり始める。


「……あれ、デマだったんだって」


「摩耶、可哀想だったよね」


「ごめんって言えばよかった……」


 放課後。


 屋上。


 四人は並んで座っていた。


「……終わったな」


 ムカデが言う。


「……うん」


 摩耶は、空を見る。


「でも……一人だったら、無理だった」


 和久は照れたようにそっぽを向く。


「……当たり前だろ」


 小林は笑う。


「チーム戦、勝利ってことで」


 ムカデは、摩耶の手をそっと握る。


「……ありがとう」


「信じてくれて」


「……こちらこそ」


 摩耶は、微笑んだ。


 傷ついた分だけ、人の温かさを知った。


 そして――


 本当の意味で、強くなり始めていた。


――――――――――――――――――――



――――――――――――――――――――

第9章:告白・崩壊

――――――――――――――――――――


 校内の空気は、確実に変わっていた。


 噂は消えた。


 佐賀と凛は表に出なくなり、匿名アカウントも削除された。


 摩耶に向けられていた視線も、同情や好奇心ではなく、どこか申し訳なさそうなものに変わった。


 けれど――


 摩耶の心は、まだ元に戻っていなかった。


 表面は穏やかでも、内側には細かい傷が無数に残っている。


 笑顔は戻った。


 でも、それは「大丈夫なふり」だった。


 放課後。


 教室には、摩耶とムカデだけが残っていた。


 夕焼けが窓を赤く染めている。


 ムカデは、机に座ったまま、何度もスマホを見ては閉じていた。


「……摩耶」


「なに?」


「……最近さ」


「無理してないか?」


 摩耶は、一瞬だけ目を伏せた。


「……してないよ」


「……嘘だ」


 ムカデは、ゆっくり立ち上がる。


「俺には分かる」


「前より、笑わなくなった」


「前より、俺に甘えなくなった」


「……」


「怖いんだろ?」


「また、何か言われるのが」


「俺のせいで、傷つくのが」


 摩耶の胸が、きゅっと締めつけられる。


「……ムカデは悪くない」


「違う」


 彼は、首を振った。


「俺が、一番悪い」


「最初に守れなかった」


「逃げた」


「信じきれなかった」


「……ごめん」


 深く、頭を下げる。


 摩耶は、驚いて立ち上がった。


「やめて……!」


「そんなの……」


「全部、私が弱かっただけ……」


「違う!」


 ムカデの声が、初めて荒くなる。


「強がらせたのは、俺だ」


「一人で抱えさせたのは、俺だ」


 沈黙が落ちる。


 教室には、時計の音だけが響く。


「……俺さ」


 ムカデは、震える声で続けた。


「ずっと、怖かった」


「お前が、俺のせいで壊れるのが」


「でも……」


「離れる方が、もっと怖かった」


 彼は、拳を握りしめる。


「……好きなんだよ」


「めちゃくちゃ」


「最初から」


 摩耶の呼吸が止まる。


「……え……」


「友達のふりして」


「余裕あるふりして」


「全部、嘘だった」


「本当は――」


「独占したかった」


「守りたかった」


「隣にいたかった」


 夕焼けの中で、彼の目は潤んでいた。


「……俺と、付き合ってほしい」


「逃げない」


「今度こそ、絶対に」


 長い沈黙。


 摩耶は、唇を噛んだ。


「……私ね」


 小さな声。


「……怖いの」


「誰かを信じるのが」


「また、壊されたらって……」


 涙が落ちる。


「……でも」


 顔を上げる。


「ムカデといるときだけは」


「……平気だった」


「傷ついても」


「それでも、そばにいたいって」


「思ってた」


 彼の目が見開かれる。


「……摩耶……」


「私も……好き」


「ずっと」


 その瞬間。


 ムカデは、衝動的に彼女を抱きしめた。


「……ごめん」


「ありがとう」


「……絶対、離さない」


 摩耶は、彼の背中に腕を回す。


「……今度は、信じる」


 二人の影が、夕日に溶けていく。


 ――そのはずだった。


 ◇


 翌日。


 事件は、起きた。


 昼休み。


 校内SNSに、一つの投稿が流れた。


【摩耶の“本当の顔”】【動画あり】


 一瞬で、拡散された。


 中身は――


 摩耶が、泣きながら誰かと口論している映像。


「なんで……こんなこと……」


「もう無理……」


 切り取られた言葉だけが並ぶ。


 まるで、誰かを責め、裏切っているように見える編集。


 フェイク動画だった。


 和久が、最初に気づいた。


「……くそ……!」


 小林も顔色を変える。


「こんなの……悪質すぎる」


 犯人は、佐賀だった。


 退学処分目前の逆恨み。


 最後の悪あがきだった。


 摩耶は、廊下でスマホを見て、立ち尽くした。


「……なに……これ……」


 足が震える。


 息が苦しい。


 まただ。


 また、壊される。


 そのとき。


「摩耶!」


 ムカデが駆け寄る。


「見るな!」


 スマホを奪う。


「信じるな!」


 彼は、みんなの前で叫んだ。


「これは偽物だ!」


「編集だ!」


「俺は、摩耶を信じてる!」


 廊下が静まり返る。


「……昨日」


 ムカデは続ける。


「俺たち、ちゃんと向き合った」


「逃げなかった」


「だから――」


「今度は、俺が守る番だ」


 和久が前に出る。


「証拠ある」


 小林も続く。


「元動画、回収した」


「編集前のやつ」


 二人は、教師に提出。


 放送室。


 緊急説明。


 フェイクであることが正式に公表された。


 佐賀は、完全に処分された。


 噂は、完全に終わった。


 ◇


 放課後。


 屋上。


 風が強い。


 摩耶は、フェンスにもたれていた。


「……怖かった」


 正直な声。


「また、一人になるかと思った」


 ムカデは、隣に立つ。


「……させない」


「二度と」


 彼は、そっと手を取る。


「俺、決めた」


「お前を、人生で一番大事にするって」


 摩耶は、笑って泣いた。


「……重いよ」


「でも……嬉しい」


 彼は照れる。


「……重くていい」


「逃げないから」


 二人は、額を合わせる。


「……好きだよ、摩耶」


「……私も」


 夕日が、二人を包む。


 もう、噂は関係ない。


 他人の物語じゃない。


 これは――


 二人が選んだ、恋の形だった。


 ◇


 その夜。


 摩耶は、美穂にメッセージを送った。


『ちゃんと、幸せになる』


 美穂から、すぐ返信。


『やっとだね。泣かせたら殺すからね』


 摩耶は笑った。


 本当のクライマックスは、ここだった。


 ――自分を信じ、人を信じると決めたこと。


 それこそが、最大の勝利だったのだから。





――――――――――――――――――――

最終章:未来へつづく場所

――――――――――――――――――――


 春が来ていた。


 校舎の前の桜並木は、満開で、風が吹くたびに淡い花びらを舞わせている。


 あの騒動から、三ヶ月。


 学校は、驚くほど穏やかだった。


 噂も、悪意も、いつの間にか消えていた。


 人は、意外と早く次の話題へ移っていく。


 でも――


 摩耶の中では、すべてが確かに残っていた。


 痛みも、涙も、救われた瞬間も。


 全部が、今の自分を作っている。


 中庭のベンチ。


 摩耶は、ノートを膝に乗せて座っていた。


「……よし」


 小さくつぶやく。


 進路希望調査票。


 第一志望――


【心理学部】


 ペンを置いたとき、胸がすっと軽くなった。


 誰かの心を理解したい。


 寄り添える人になりたい。


 そう思えるようになったのは、きっと――


 あの時間があったからだ。


「摩耶ー!」


 遠くから、聞き慣れた声。


 ムカデが走ってくる。


「また一人で考え事?」


「うん、ちょっとね」


 彼は、隣にどさっと座る。


「最近さ」


「大人っぽくなったよな」


「……それ褒めてる?」


「もちろん」


 照れたように笑う。


 二人の距離は、自然だった。


 手をつなぐことも、寄り添うことも、もう特別じゃない。


 日常の一部。


 それが、何より幸せだった。


 ◇


 放課後。


 カフェ「凛音」。


 五人は、いつもの席に集まっていた。


 摩耶、ムカデ、和久、小林、美穂。


「いやー」


 小林がストローをくわえながら言う。


「平和すぎて逆に怖い」


「分かる」


 和久もうなずく。


「前が嵐すぎた」


「もう二度とごめんだわ」


 美穂は腕を組む。


「ほんとそれ」


「摩耶、よく生き残ったよ」


「ちょっと……」


 摩耶は苦笑する。


「でもさ」


 美穂は、にやっと笑う。


「結果オーライでしょ?」


「彼氏、激重愛情タイプだし」


「ちょっ……!」


 摩耶が赤くなる。


「誰が激重だ!」


 ムカデが反論する。


「普通だろ!」


「普通は毎日『無事?』『疲れてない?』って10回も送らない」


「心配なんだよ!」


 全員、吹き出す。


 笑い声が、店に広がる。


 この時間が、尊かった。


 ◇


 夏。


 海。


 クラス旅行。


 青い空、白い砂浜、騒がしい声。


「摩耶ー!写真ー!」


 小林が叫ぶ。


「はいはい」


 並ぶ五人。


 シャッター。


 カシャ。


 その一瞬、摩耶は思う。


 ――ああ、幸せだな。


 過去の自分が見たら、信じられないくらい。


 ◇


 秋。


 文化祭。


 摩耶は、実行委員になっていた。


 忙しい日々。


「無理すんなよ」


 ムカデは、差し入れを持ってくる。


「ありがとう」


「……支える係ですから」


 照れながら言う彼に、摩耶は笑う。


 彼は、もう逃げない人になった。


 それが、何より誇らしかった。


 ◇


 冬。


 初雪の日。


 帰り道。


「寒い……」


「ほら」


 ムカデは、自分のマフラーを外して巻いてくれる。


「……優しすぎ」


「彼氏ですから」


 当たり前みたいに言う。


 胸が温かくなる。


 ◇


 三年生、卒業間近。


 屋上。


 夕暮れ。


 二人は並んで座っていた。


「……もうすぐだね」


「うん」


 卒業。


 別々の大学。


 別々の道。


 不安が、ゼロじゃない。


「……怖くない?」


 摩耶が聞く。


「少し」


 ムカデは正直に答える。


「でも」


 彼女を見る。


「離れても、選び続ける」


「摩耶を」


 摩耶の目が潤む。


「……プロポーズみたい」


「え、まだ早い?」


「……将来なら、いい」


 二人、笑う。


 ◇


 卒業式の日。


 桜は、まだ蕾だった。


「摩耶」


 ムカデは、真剣な顔で言う。


「これ」


 小さな箱。


 中には、ペアの指輪。


「約束」


「どこにいても」


「帰ってくる場所は、ここ」


 摩耶は、涙をこぼしながらうなずく。


「……うん」


 指輪は、未来へのしるし。


 ◇


 数年後。


 大学生になった摩耶は、ボランティア活動をしていた。


 ムカデは、IT系の道へ進んでいた。


 忙しくても。


 遠くても。


 毎週、会う。


 毎晩、話す。


 変わらない。


 ◇


 ある夜。


 星のきれいな公園。


「……なあ」


 ムカデが言う。


「結婚しよう」


「……急」


「ずっと考えてた」


「一緒に、歳とりたい」


 摩耶は、泣き笑いで答える。


「……はい」


 ◇


 結婚式。


 笑顔と涙。


 和久はスピーチで噛み。


 小林は号泣。


 美穂は親みたいに泣く。


 全員、最高だった。


 誓いのキス。


 拍手。


 ◇


 夜。


 新居。


 ソファで寄り添う二人。


「ねえ」


 摩耶が言う。


「私、昔、すごく弱かったよね」


「今も弱い」


 ムカデは笑う。


「でも」


「俺の前では、強い」


 摩耶は、彼の肩にもたれる。


「……ありがとう」


「出会ってくれて」


「生きてくれて」


 彼は、そっと抱きしめる。


「こちらこそ」


「俺の人生、全部あげる」


 窓の外には、静かな月。


 噂に傷ついた少女は、


 愛され、


 信じ、


 選び、


 幸せになった。


 これは、特別な奇跡じゃない。


 ――大切にし合った、二人の物語だ。


【完】









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