第六話 最凶
*< 三人称視点 >
タッ タッ タッ。
奈落の底、光の届かぬ広大な洞窟。
そこは、凍えるような冷気と腐肉の臭いが立ち込める地獄の淵。
魔王のたった一言。その傲慢な響きがこの場を支配した。
ゆっくりと歩み寄るその真紅の瞳に映るは、およそ百体の魔族。
B級魔族であるトロール三体を筆頭に、オーガ、魔狼、ゴブリンの群れ。
彼らは本能的な恐怖で喉を鳴らした。
たった一人の奴隷(魔王)に。
ドッッッ!!
爆音。
踏み込みの一歩で、硬質の岩盤がクモの巣状に爆ぜた。
その衝撃にミロクの体は耐えきれず、背骨はひび割れ、筋繊維はボロ雑巾のように千切れ飛ぶ。だが、肉体に宿る魔王の魂核が、崩壊する肉体を無理やり繋ぎ止め、弾丸の速度へと変換する。
刹那、最前列のオーガは、恐怖を自覚する時間すら与えられなかった。
ゴシャアッ!
魔王の拳が分厚い胸板を捉える。衝撃波が背中まで突き抜け、オーガの巨躯は内側から風船のように破裂した。飛び散る鮮血と肉片が、背後の岩壁を無惨な朱に染め上げる。
バキバキバキッ!!
同時に、右腕も内側から砕け散った。
オーガを粉砕した反動が、そのまま自身の肉を突き破る。白く鋭い骨が数本露出し、腕はあり得ない方向へ折れ曲がった。
一撃ごとに自分自身が粉々になる苦悶。
しかし――。
シュゥゥゥゥ……ッ!!
砕けた両腕から、熱い白煙が立ち上った。
裂けた肉が、意思を持つ生き物のように蠢き、瞬時に癒着していく。
飛び出した骨は、肉の奥へと引きずり込まれるように戻り、数瞬前よりもさらに硬く編み直された。
十四に分かれた魔王の魂の一つ。その力は本来より弱まっているとはいえ、宿っているのは魔王そのもの。
【……ふん。壊れやすく、不潔な器だ】
唇が、冷酷な弧を描く。
魔王の魂は、目の前の魔族も、そしてこの忌々しい人間の肉体も、すべてを等しく破壊し尽くしたいという憤怒に燃えていた。
「グガァアアアアッ!!(食い殺してやる)」
横合いから、死の恐怖を振り払おうと魔狼の群れが飛びかかってきた。 魔王は走りながら、左右から迫る二匹の頭を正確につかみ取った。
【我を睨むとは、おこがましい】
ガボォッ!!
自分の指の骨が砕ける感触。
そのまま二匹の顔面同士を、正面から全力で激突させた。
バギィィィィィィンッ!!
頭蓋骨が粉々に砕け、中身が四方に飛び散った。
魔王は掌に残った肉の塊を、後続の群れに向けて砲弾のように投げつける。
放たれた肉塊が、別の魔狼の胴体を容易く貫通し、そのまま後方の岩壁にめり込んだ。
そこへ、遠距離から魔族たちの魂術が集中砲火となって降り注いだ。
闇を照らす赤や紫の魂術の光。火球、雷撃、風刃。
【遅い】
パッ、パッ……ドカンッ!!!!!
光の隙間を縫うように跳躍。円の端にいた二体の顔面を掴み、そのまま岩盤へと埋め殺した。
端から順に、ただ殴り殺していく。
己を壊しながら殴り、壊れた側から治していく。
「再生」と「破壊」の狂ったループ。
あとは、ただの解体作業。
拳を振るうたびに、誰かの肋骨が砕け、誰かの肺が潰れる。
同時に無数の魔族たちの記憶が流れ込んでくる。
【くだらんな】
魔王は気にせず頭蓋を割り、脊椎を引き抜き、生きたままの魔族を文字通りの肉片へと変えていく。
魂術は使わない。使えば一瞬で片が付いてしまうからだ。
ベチャッ、ドチャッ、ゴキィッ!!
絶え間なく続く破壊の連鎖、自分の骨が折れる感触。
ドクドクと脈打つ人間の心臓。
「ガ、ガャアアアッ!?(お前、人間、チガッ)」
逃げようとするオーガの群れに追いつき、その後頭部を無造作に掴む。
そのまま、もう片方の手で、丸太のように太い腕の付け根を握りしめた。
ブチィィィィィィッ!!
生木をへし折るような音と共に、オーガの肩から腕をもぎ取った。
魔王はその腕を、ただの棒切れのように振り回し、群がる魔族を次々と叩き潰していく。
【まだ怒りが収まらん。全員で掛かってこい】
ダンッ!!!
ゴシャッ! ギチギチッ! ブチッ!
「ギャァアアア!(やめっ)」
ドガッ! バキッ! ボコォッ!
「ギギィッ……(助け……)」
ベチャッ……。
……
ぺちゃ、ぺちゃ。
手の中でピクピクと震えていた魔狼の首が、無造作に放り捨てられた。
洞窟内を支配していた喧騒は消え、残ったのは肉を焼く臭いと、重苦しい静寂だけだ。
その沈黙を破ったのは、生き残った三体のトロールだった。
B級魔族となるとそこら辺の魔族とは格が違う。
高い知能、鋼の筋肉、魔族特有の自己再生能力は尋常ではなく、五秒もあれば完治する。
その力がありながらトロールたちは、一歩も動けずにいた。
目の前の光景が、彼らの高い知能に異常を告げていたからだ。
足元に転がっているのは、さっきまで仲間だった魔族の残骸。
そしてその中心に、血の海に立ち尽くす、一人の小さな人間。
「ガウガウガウ(人間、ではないようだな)」
リーダー格のトロールが、濁った声を吐く。
彼らは一列に並び、冷静に間合いを測った。油断はない。目の前の少年は、見た目こそ餌だが、中身は自分たちを遥かに凌駕する何かだと理解したからだ。
タッ。
魔王が軽く地面を蹴った。
同時に、トロールたちの詠唱が重なる。
「ガァァァァーー」
「ガダガダ」
一瞬だった。
トロールが手にした巨大な棍棒が、瞬時に黒光りする鋼鉄へと変質する。
さらに、ミロクが踏み込もうとした足元の岩盤が、ドロドロとした深い泥の沼へと姿を変えた。
「ガァァーーー(叩き潰してくれる)」
ずぶっ、と足首まで飲み込まれ、体勢が崩れる。
そこへ、重量を増した鋼鉄の棍棒が、空気を爆ぜさせながら横薙ぎに迫った。
回避不能。魔王は右腕を突き出した。
ガギィィィィィィィンッ!!
肉が弾け、骨が粉々に砕ける快音。
少年の細い腕は、鋼鉄の衝撃に耐えきれず、ひじから先が消し飛んだ。
だが、瞳に宿る真紅の光は、一切の揺らぎもない。
腕を失った反動を利用し、魔王は泥沼を強引に踏み抜いた。
千切れる脚の筋肉、砕ける足首。魔王の魂が再生の速度を限界まで引き上げる。
一歩踏み出すごとに肉が編み直され、泥から這い出たときには、失われた右腕もすでに半分以上が再生していた。
ドゴォッ!!
超低空からの回し蹴りが、棍棒を振ったトロールの膝を粉砕する。
その隙を逃さず、残りの二体が魂術を畳み掛けた。
一方が無数の岩の槍を頭上から降らせ、もう一方が魔王の背後の空間を爆裂させた。
ドンッ、ドガガガガガガッ!!
背中を焼かれ、胸を岩の槍が貫く。
血飛沫が舞い、魔王の体はボロ雑巾のように宙を舞った。
普通なら即死だ。だが、空中にあるその肉体からは、猛烈な勢いで白煙が噴き出している。
シュゥゥゥゥゥゥゥッ!!
魔王は空中で自らに刺さった岩槍を力任せに引き抜くと、それを逆手に持って地上へ投げつけた。
ドシュッ!と槍がトロールの足を縫い止める。
着地する頃には背中の大火傷は消え、貫かれた胸の穴も肉の芽が蠢いて塞がっていた。
着地と同時に、膝を折ったトロールの顔面に、再生したばかりの拳を叩き込む。
ゴッシャァァァッ!!
顔面が潰れるが、トロールは死なない。数秒後には陥没した顔が内側から盛り上がり、元の不細工な面構えに戻っていく。
「ガァーーー!!!!(無駄だぁーー!!!)」
トロールたちは狂ったように攻撃を続けた。
棍棒が魔王の脇腹を抉り、魂術がその皮膚を剥ぎ取る。
魔王もまた、トロールの目玉を突き刺し、心臓を握りつぶし、首の骨をへし折る。
ぐちゃ、ボキッ、ドロォ。
終わりのない応酬。
広大な洞窟内は、噴き出した血で湖のようになり、壁は肉片で塗り固められた。
魔王は、飛びかかってきた一体の腕を掴み、そのまま背負い投げの要領で岩壁に叩きつける。
ドゴォォォォォンッ!!
岩壁が砕けた……と同時に笑いながら立ち上がった。
どれだけ肉を削り、骨を砕いても、数秒後には元通り。
【……トロール如きにここまで時間が掛かるとはな】
魔王は、滴り落ちる自分の血を払い、冷めた目で見据えた。
いくら破壊しても、すぐさま形を戻す肉の塊。
この「小さな人間の肉体が出せる力では、三体のトロールを同時に殺すには、あまりに効率が悪すぎる。
【そろそろ……終わりにしてやろう】
魔王の唇から、低く、冷酷な声が漏れた。
この不自由な肉体でこれ以上戯れるのも不快極まりない。
魔王は右手をゆっくりと掲げた。
その瞬間、洞窟内の空気が凍りついた。
ズズズッ……と、重力が数倍に膨れ上がったかのような重圧。広大な岩盤が、未知の恐怖に耐えかねてミシミシと悲鳴を上げる。
……
適性者は三つの系統に分かれる。
攻撃系、防御系、支援系。
系統ごとに使える魂術が存在する。
しかし、魂の形は人それぞれ。
「その者にしか使えない術」もまた、存在する。
それが……
……
ゾワァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!
空間そのものが恐怖に縮み上がるような、おぞましい振動。
トロールたちの足が、意思に反してガクガクと震え始めた。
動けば死ぬ。しかし、動かなくても死ぬ。
彼らの野生の直感が、かつてない絶望を告げていた。
選ぶのならば、せめて抗って死ぬのみ。
「グガァァーーーーーー!!!(殺せ!!)」「グガァァーーーーー!!!(殺せ!!)」「グガァァーーーーーー!!(殺せ!!)」
恐怖を振り払うように、三体のトロールが一斉に咆哮を上げ、巨大な棍棒を魔王の頭上へと振り下ろす。
その、刹那。
パリンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
世界にヒビが入る音がした。
【我が名は ゼノン】
バンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
【天を穿つ爪、地を砕く牙、万物を灰塵に帰す絶望の翼。理を喰らい、神を呪い、全ての光を飲み干す漆黒の竜よ。逃れられぬ終焉の路に、貴様らの魂を供物として捧げよ】
********
【”魂能”:竜葬冥壇】
********
ゾワッ!!
トロールたちの背後。
何もないはずの虚空から、三つの巨大な「漆黒の竜頭」が音もなくヌラリと現れた。
ゴオォォォォォォォォォォォッ……!!!!!
竜の顎が大きく開かれる。そこには、地獄の業火よりも禍々しい、紫黒色の炎が凝縮されていた。
「ガ、ア……ッ!?」
振り下ろされるはずだった棍棒が、空中で止まる。
振り向く暇さえ与えられない。
ピンッ ドッバァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
零距離。三つの竜頭から放たれた極大のブレスが、トロールたちの巨躯を丸ごと飲み込んだ。
バチバチバチッ!! ジュゥゥゥゥゥッ!!
鋼鉄の棍棒が蒸発し、鋼の筋肉が炭化し、強靭な骨が灰へと変わる。
細胞の一つ一つ、魂の一欠けらまでを焼き尽くす圧倒的な破壊。
「ギ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
トロールたちの絶叫は、一瞬で炎の爆音にかき消された。
広大な洞窟が、紫黒の光に埋め尽くされる。
……やがて。
嵐のような暴虐が過ぎ去り、光が収束していく。
シーン……。
あとに残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。
あれほどの巨体を誇っていたトロールたちは、肉片ひとつ残っていなかった。
ただ、地面の岩盤に、彼らがそこにいたことを証明する「三つの黒い影」が、不気味に焼き付いているだけだ。
その焦げ付いた影の中心。
もうもうと立ち昇る熱気と白煙の中、魔王は一人、退屈そうに立ち尽くしていた。
トロール三体の魂核が破壊され、光となって魔王の魂核に吸収される。
ドクンッ。
同時に、死んだ魔族たちの記憶が脳裏に逆流するが、全て無視した。
魔王はふと顔を上げ、遥か頭上、分厚い岩盤のさらに上にあるはずの「魔王城」の方角へ視線を送った。
【さて、行くか】
魔王は城に背を向け、ゆっくりと歩き出す。
【十二個魂核】を求めて……。




