第五話 魔族を統べる王
この出来事が起きる数分前……魔王城。
*
【――不快。ただ、ひたすらに不快だ】
この千年、我の生命を脅かす者など存在しなかった。
我に牙を剥いた同族も、勇者を名乗る人間共も……その全てを我が喰らい、血肉へと変えてきた。
これから先も、永劫。
我こそが世界の頂であり、我という意志こそが万物の生存を許す唯一の法であると――そう、信じて疑わなかった。
だが。
【……ッ、人間ごときに……この我が……】
魔王城最上階、玉座の間。砕け散った黒曜石の柱。汚された床。
千年間、一度として汚れなかった聖域に、今、我は片膝をついていた。
屈辱……屈辱だ。
腹の底から煮えくり返るような不快感が、魂核を焦がす。
下等な人間など、その気になればいつでも滅ぼせた。
全個体が魂術を行使できる我ら魔族に対し、奴ら人間は術を使える者すら限られる。個としての格差、種としての絶対的優位――そこに疑いの余地など万に一つもなかった。
故に、あえて滅ぼさなかった。
奴らの肉は魔族を酔わせる極上の食事であり、魂は我らの渇きを癒やす魂力の苗床。勝手に増え、勝手に肥える便利な家畜だったからだ。
そう、我は人間を甘く見ていた。
魂術とは本来、魂核にある魂力を詠唱という儀式によって形にする奇跡だ。
高位の術式ほど長く、複雑な詞を要し、そこには厳格なリズムと「隙」が存在する。
それが、この千年間一度として揺らぐことのなかった魂術の理論。
……だが、目の前の六人の勇者どもは、その根底から覆した。
音がない。詠唱がなかったのだ。
奴らが指先を向けるまで、それがどんな魂術なのかさえ判別がつかない。思考と現象が直結した、無作法で不透明な殺意。
本来なら数秒を要する術式が、瞬きをするような速度で連射される。
情報の予告がない「無詠唱」の暴力。
それが我をここまで追い詰めた。
「はぁ、……はぁ……ッ!」
眼下、聖剣を杖代わりに立ち上がる勇者、アクト。
血を流しながらも、その瞳から闘争の意思は消えていない。
黄金の輝きが、勇者の聖剣に集束していく。
「終わりだ……魔王!」
【人間ごときがぁーーーー!!!!!!】
我は、最後の一節を紡ごうと天を仰いだ。だが、その詠唱が唇から漏れるよりも早く、黄金の閃光が世界を白く染め抜いた。
轟音、そして遅れて届く、鼓膜を劈くような高らかな破壊音。
魂の芯が凍てつくような冷たい鋼の感触が、我が胸の中央――命の根源である魂核を正確に貫いた。
【……ガッ】
視界が白く染まる。
我の魂核が、たった一本の鉄屑によって、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせていく。
アクトが、血反吐を吐きながらも勝ち誇った表情で、聖剣をさらに深く押し込んでくる。
我が肉体が霧散し始め、崩壊する魂核の光が、卑しき勇者の内へと引きずり込まれようとしていた。
【がぁーーーーー!!!!!】
――これ以上の屈辱、あってたまるか。
魔族の王である……世界の王であるこの我が、あのような下等な家畜の一部に成り下がるなど……断じて!!
ドォォォォォンッ!!
我は砕けゆく魂核を内側から”爆散”させ、辺り一面を吹き飛ばすほどの衝撃波と共に、我が魂核は【十四個の欠片】へと裂け、四散した。
魂核が光となって玉座の間に広がる。
そのうちの一つ、力のみを宿した端切れをアクトが吸収し、強引に自らのものへと変えるのが見えた。
「ぐっ、あ……っ!? はは、やったぞ、ついに魔王を倒したぞ!」
男の歓喜の叫びが遠のいていく。
いいだろう、今は勝利に酔うがいい。
奴が手にしたのは、我という存在の残滓。魂の抜けた抜け殻に過ぎぬ。
【……我は、死んでおらぬ】
……いずれ必ず、貴様らを皆殺しにしてくれる。
我の意志を最も色濃く残した魂核は一筋の光となって、勇者共の強欲な手から逃れ、ただ深く、暗い地下深き闇へと――。
深淵「奈落」へと、彷徨い落ちていった。
……
【……視界が霞んできた】
数分間。あるいは、永遠にも思える落下。器を失い、剥き出しのまま深淵を漂う我が魂核は、刻一刻と消滅の危機に瀕していた。
肉体あっての魂核。光となった我は徐々に溶け、無へと還るだろう。
千年の時を支配した魂力が、極寒の深淵に投げ出された火種のように、弱々しく爆ぜ、萎んでいく。我とは言えど――限界だった。
焦燥の中、我は必死に暗闇を探った。
周囲には勇者どもに切り刻まれた魔族たちの死骸が散らばっている。
だが、どいつもこいつも魂核ごと破壊されており、器としては既に使い物にならぬ肉の塊だ。映る魂核が、どこにもない。
意識が、遠のく。
【……我が、ここで消えるというのか。人間共に、勝利を譲ったまま……】
その、消失の直前だった。
底なしの闇に塗り潰された視界の端で、一つだけ、**「異質な熱」**を放つ塊があった。
――見つけた。
【何だ、ここにいるではないか】
よく見えんが、同族の気配を感じる。
勇者に吸収され、奴らの血肉に成り下がる屈辱に比べれば、どこの馬の骨とも知れぬ魔族に宿るなど安い代償だ。
我は誘われるように、その肉体にある魂核へと滑り込んだ。
……
*
そして、現在に戻る。
*
ガガガガーーーーー
凄まじい衝撃が、意識の覚醒と共に掌に伝わってきた。視界が明転する。そこにあるのは、棍棒で叩き潰さんとするトロールの醜悪な姿だ。
この体を掌握した刹那に叩きつけられた敵意を、我はただ、左手一本で受け止めていた。
棍棒に指先を食い込ませ、ミシミシと嫌な音を立てて、鉄の棍棒を破壊する。
ガチンッ!!
我の手が力を込めた瞬間、重厚な金属塊は耐えきれずに爆散した。鉄の礫が、煤けた頬を掠めて零れ落ちる。
【不愉快だ。――下がれ】
目の前の肉塊が、己の武器を握り潰された事実を理解できぬまま、大きく後方へ飛び退いた。
周囲を囲っていた下等な魔族共も、逃げるように距離を取る。
我はゆっくりと立ち上がった。
メキメキメキ
意識を肉体の隅々まで巡らせる。欠落していた肉体が、我が支配下に入ったことで強制的に書き換えられていく。
傷ついた皮層が塞がり、断裂していた筋繊維が、漆黒の魂力を受けて鋼のように編み直される。
ゴキ……ゴキ。
首を左右に傾げた。
所々の体を動かして、我が体の主導権を奪い取れたかを確認する。
【……ふむ。無事、魂核の乗っ取りに成功したようだ】
我は下を向き、目で体を確認する。
……そこで、ようやく「異変」に気づいた。
消滅寸前、意識が混濁していたのは事実だ。
我は確かに周囲に漂う魔族の気配を感じ、その魂核を喰らい、支配したはずだった。
我に千年の時を経て二度目の生を与える、誉れ高き器は――。
ふと、視界に「人間の手」が入った。
・・・はっ?
シャンッ! ボトッ。
無意識だった。気づいた時には、我は自らの左腕を右腕で切り落としていた。
地面に転がった「それ」を、我は吐き気を催すような嫌悪と共に見下ろした。
【これは……悪夢か?】
そう言い聞かせ、現実を拒絶する。信じられるはずがない。信じてなるものか。
我が、魔王たる我が、よりにもよって。
泥にまみれて転がる腕には鱗も、鋭利な爪も、魔導を刻む硬質な外殻もなかった。
そこにあるのは……透けるように薄く、ひ弱で、柔らかな桃色の肌。
力を込めればすぐにでも折れてしまいそうな、あまりに細い骨。
そして、鼻をつく忌々しい血の臭い。
――人間。
それは、紛れもなく我らが家畜と見下し、勇者と同じ種の、下等な人間そのものの肉体だった。
我は乾いた喉で吐息を漏らす。脳を焼くような屈辱が、魂核の奥底までを駆け巡る。
【この体、魔族ではない……。人間、だったのか?】
なぜ見誤った。この我を欺き、不浄の器へと誘ったものは何だ……。
……あぁ、そうか。
周囲に澱む魔族共の気配。それにこの人間の気配が塗りつぶされ、我は魔族と履き違えたというのか。
【……腹立たしい。実に、腹立たしいぞ】
今すぐにでも、この不浄な器を爆散させて脱ぎ捨てたい。
だが、今の我にはその自由すらない。今、魂核を自壊させれば、意志は粉々に砕け散り、真なる無へと還ることになる。
四散した「十四の欠片」を再び統合するその時まで……我はこの屈辱に耐えねばならぬというのか。
それにしても、なぜこんな場所に人間がいる。
全くもって意味が分からん。
その時、トロールの周囲にいたオーガが、我の放つ威圧に耐えかねたように咆哮し、襲いかかってきた。
「グァァァァァッ!!」
【下がれと……】
――ドォォォォォンッ!!
【言ったはずだ】
我は右腕を一閃させ、オーガを薙ぎ払った。
大気が爆ぜる。衝突の瞬間、オーガの上半身は肉片すら残さず霧散し、行き場を失った下半身が、ピクピクと痙攣しながら泥の中に没した。
キーン……ッ!!
突如、頭蓋を割るような衝撃と共に、どす黒い濁流が流れ込んできた。
……オーガの記憶。
下劣な食欲、略奪の快感、そして先ほどまでこの人間をどう引き裂こうとしていたかという、醜悪な思考。
【……ふ、ふふ。……あぁ、なるほど。貴様か】
……魔族の記憶を返し、我の姿を覗き見た不届き者は……。
何の巡りあわせだろうか。まさか、こういった形で答え合わせをすることになるとは。
殺した相手の記憶が流れてくる呪い、のようなものか。
数々の病、呪いを聞き及んできたが、これは初めてだ。
【あぁぁぁ……】
もはや憎悪を通り越して、滑稽ですらある。
勇者に殺され、人間の肉体に我が魂核が宿り、さらにはこの呪いも引き受けることになった……。
我は切り落とした左腕をゆっくりと持ち上げ――。
ぐちゃり。
と、右手の握力だけで粉々に握り潰した。
折れる骨の音。弾ける肉。飛び散る深紅の飛沫。
痛覚が悲鳴を上げているが、そんなものは知らん。
この脆弱で、不潔で、忌々しい「人間の肉」を自らの手で壊すことが、今の我には唯一の救いだった。
【貴様ら……我が誰か、分かるか?……”分かるよな”】
我の静かな問いに、周囲を埋め尽くす数百の魔族共が、本能的な恐怖で喉を鳴らした。ガチガチと牙を鳴らしながら、その正体を絞り出すように喘いだ。
「ガッ……ダッ……(人……間……)」
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ふっ
そうか……
我が、人間か……
ふっ、ふふふ……。
【……死ぬがいい】
……
次回:第六話 最凶




