第四話 終わりという名の始まり
――熱い。いや、寒い。
背中を焼くような激痛と、肺を満たす血の泡。次に意識が浮上したとき、俺を包んでいたのは死の予感だけだった。
「が、はっ……ごほっ!!」
咳き込むたび、砕けた肺の破片が熱い塊となってせり上がってくる。
視界はほとんど機能していない。わずかに見えるのは湿り気を帯びた岩壁と、どこからか差し込む不気味な青白い燐光だけだ。俺は崖の下……奈落へと突き落とされたのだ。
「あ……が、ぁ…………」
動こうとした瞬間、脊髄に衝撃が走り、俺は無様に地面を転がった。
背骨が、終わっている。あの漆黒の騎士の一撃。鉄塊のような拳が脊椎を粉砕した感触は、今も脳裏にこびりついて離れない。本来なら即死レベルの重傷。だが、意識は残酷なまでに冴え渡っている。
ナナが最後にかけた『持続回復』の魂術。
彼女の祈りにも似たその霊力が、砕けた骨を強引に繋ぎ止め、溢れる血を無理やり止めていた。
ズルり、ズルりと地面を這う。砕けた骨の破片が動くたびに内臓を削り神経を逆なでする。その時、闇の奥からドロリとした重厚な足音が地鳴りのように響いた。
「グルルルル……」
血の臭いを嗅ぎつけたのだ。霧の向こうから現れたのは、オーガの二倍はある巨躯を誇る……トロール。B級魔族だ。
地上ならば一個小隊を組み、決死の覚悟で挑むべき怪物。それがここでは、野良犬のように平然と徘徊している。
「は、はは……冗談、だろ……」
俺は必死に声を押し殺した。トロールが鼻を鳴らし、周囲を警戒するように見渡している。その巨体が動くたびに岩壁が震え、俺の心臓は爆発しそうなほどに跳ね上がった。
戦えない。今の俺は自ら首を吊る力さえない餌だ。
岩の隙間に指を食い込ませ、トロールが立ち去るまで俺は肺に残ったわずかな空気を止めて、岩の隙間に身を縮める。
一分が一時間のようにも感じられる。
不気味なほどの静寂の中で、俺の耳に届くのはトロールの重すぎる足音と、そいつの鼻から漏れる「フシュゥゥ」という湿った呼吸音だけだ。
気づかれないよう叫び出したくなるほどの痛みを、唇を血が出るほど噛んで押し殺した。
怪物の鼻腔が俺の血の臭いを嗅ぎつけようとヒクリと動く。そのたびに全身の毛穴から嫌な汗が噴き出した。
「……行け。向こうへ行け」
祈りが通じたのか、やがて地響きは遠ざかり闇の中に消えた。
俺は泥を吐き出し、震える手でもはやゴミ同然となった自分の装備を確認した。
鉄の鎧はひしゃげて肉に食い込み、呼吸をするたびに鋭い痛みを与える。二本の短剣のうち、一本は根元から無残にへし折れていた。
手元に残ったのは、一本の短剣。
……これ一本で、あの巨躯を誇るトロールに何ができるというのか。
ただでさえ、C級も一人で倒せないというのに。
「……クソッ、笑わせるな」
短剣を鞘に収める際、手が震えてカチカチと音が鳴った。
俺は震えを止めるために、服を力任せに裂き、不自然な方向に曲がった左肩を強引に胴体へ括り付ける。
――グシャリ、と嫌な音がした。
骨と骨が擦れ合う感触が脳を焼き、意識が白く弾ける。それでも、俺は下唇を噛んで取り戻す。
ここで止まれば、今までの惨めな努力も、あの騎士に突き飛ばした覚悟も、全てが無意味な死として処理される。
……そんなの、御免だ。
「……ああ、ナナ……イツキ……」
二人の名を呼ぶ声が、血の混じった吐息となってこぼれる。
あいつらは無事か?
もはや勇者が魔王を倒すとか、戦況がどうのとかどうでもよかった。
二人が、二人だけさえ生き延びてくれればそれでいい。
「後で会えばいいだけだ」
壁に爪を立て、無理やり身体を引きずる。
「地上は、どっちだ……」
冷たい風が、わずかに頬を撫でた。
風の吹いてくる方へ。光のある方へ。
俺はいつか手にする自由を、泥まみれではない、温かい太陽の下で、三人で笑顔で暮らせる生活。
真っ暗な脳裏に、すがり付くように描きながら、俺は一歩一歩、歩を進めていった。
…………
どれほど歩いただろうか。感覚は麻痺し、ただ機械的に脚を動かしてきた。周囲に魔族の気配はない。不気味なほどの静寂が、洞窟内を支配していた。
「……ふぅ、ハァッ……」
一時の安息を求め、崩れかけた岩壁に背中を預け、俺はそのままズルズルと座り込む。
自嘲気味に笑い、俺は疲れ果てて顔を横に倒した。
冷たい岩の感触が、熱を持った頬に心地よかった。
だが、その安らぎは、一瞬で凍りついた。
ギョロリ。
――視線の先。
別方向から散歩でもするかのようにゆっくりと歩いてきた巨影。月光のような燐光の下で、その瞳と真っ向から目が合ってしまった。
……トロール。
先ほど俺がやり過ごした個体ではない。
血のように赤い双眸が、岩陰でうずくまる俺を正確に捉えていた。
怪物が立ち止まる。俺は息を吸い込むことさえ忘れた。
トロールの鼻腔が大きく開き、獲物の絶望を味わうように深く空気を吸い込む。
三メートル……いや、五メートルはある。
怪物の手に握られた鉄の棍棒が、岩の床を叩き、低い重低音を響かせた。
「――――あ」
声にならなかった。心臓が今までで一番激しく警鐘を鳴らした。
逃げ道はない。隠れる術もない。トロールの醜悪な口が、吊り上がるように裂けた。それは弱者を一方的に蹂躙することを確信した、捕食者の笑みだった。
「……ガァァァァァァァァッ!!!」
そこから先のことは、記憶が断片的だ。
トロールの丸太のような腕が俺を殴り飛ばし、岩壁に激突した衝撃。集まってきた他の魔族たちが動けない俺の四肢を愉しげに引きちぎろうとする感触。
ただただ、一方的な蹂躙。
嬲られながら、俺は考えていた。
ナナが魂術で俺を繋ぎ止めるたび。イツキが魂術で俺の盾になるたび。 この世界を謳歌する「適格者」たちが、その魂を輝かせて奇跡を紡ぐたび。
――俺の魂核は、凍りついたように静まり返っている。
「ガッ……!」
羨ましい、なんて言葉では生ぬるい。
この世界において、生まれた瞬間に刻まれる「魂術の適性」は、神が与えた絶対的な優劣。
炎を操り、傷を癒し、肉体を神域へと引き上げる力。それを持たぬ俺の魂核は、ただそこにあるだけの空っぽな石ころでしかなかった。
「……あ……ぁ、がっ」
物心ついた頃、その事実を突きつけられた時の絶望を俺は一生忘れない。
それは戦場に立ち続ける奴隷のある種の死刑宣告でもあった。
魂術を持たない人間が、魔族に勝てるはずがないのだ。
魔族共は、強靭な肉体に加え、呼吸をするように魂術を放ってくる。
地を割り、雷を呼び、圧倒的な力で、持たざる者「非適性者」を踏み潰す。
何度も考えたことがある。
もし、俺に魂力があり、魂術を使えたのなら。
ナナのように自らを癒し、イツキのように敵を薙ぎ払えたなら……。
これまで苦労した場面も、この絶望的な状況も打破することができるのではないかと。
バンッ ボトッ
「……」
だが、どれだけ理想を並べようと現実は変わらない。
弱者は強者に喰らわれる。それがこの世界の、唯一無二のルール。
魂術が使える「適性者」。
魂術が使えない「非適性者」……俺。
俺は劣側に居ただけだ。
ただ、それだけだ。
トロールが、その太い腕を振り上げる。その拳が振り下ろされれば、俺の頭蓋は一瞬で砕け、すべてが終わるだろう。
「ここ、まで、か……」
俺は二人のことを思い、同時に謝りながら重い瞼を閉じた。
…………
……
…
*
ミロクの意識はここで完全に途絶えた。
そんなことは関係なく、魔族たちは目の前の人間を殺そうとしていた。
一体のトロールが鉄の棍棒を振りかざす。
……確実に死ぬ。
そんな状況だったが、ミロクは一つの幸運というなの絶望の場所に偶然いたのだ。
ミロクが必死に歩いた先は、魔王城に向かっていた。
そう、ミロクが今いる場所は魔王城の地下と言っても過言ではない場所だった。
そして……彷徨う【魔王の魂核】の最も近くに、偶然、居合わせてしまっていたのだ。
・
・
・
・
・
・
・
【何だ、ここにいるではないか】
・
・
・
・
シュドンッ!!!
ドクンッ!!
ミロクの心臓が、あり得ない強さで跳ねた。
トロールの棍棒が脳天をカチ割る寸前……少年の瞳がカッと見開かれ――真紅の輝きを放つ。
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ……!!
バンッ!
ドカンッ!!!
衝撃音が、遅れて大気を震わせた。
「……ア?」
トロールが、間の抜けた声を漏らす。
手応えがない。潰れた感触がない。
それもそのはずだ。
全霊を込めて振り下ろした鉄の棍棒は、ピタリと止まっていた。
瀕死だったはずの餌。
その細い右腕がトロールの必殺の一撃を涼しい顔で受け止めていたのだから……。
……
第五話 魔を統べる王




