第三話 ・・・者
「ハァッ、ハァッ……!!」
上空三メートル。俺はオーガの頭上でせり上がってきた熱い血を吐き捨てた。
空中で体勢を強引に立て直し、二本の短剣を逆手に構え直す。重力に従い、加速。
視下では、オーガが怒りに狂い俺を待ち構えていた。
断面からボコボコと肉を盛り上がらせ、不気味な自己再生を遂げた巨躯が、再び巨大な棍棒を振り上げる。奴は棍棒に魂術を付与していた。表面から突き出した鉄の棘が凶悪に脈動し、赤黒い魂力がバチバチと大気を焼いている。
「……」
俺は胸元から、錆びついた一本の投擲ナイフを引き抜き全力で撃ち放った。
――グチャリ。
ナイフは狙い違わず、オーガの右目に深々と突き刺さった。
刃に塗布していたのは、下級魔族の毒。巨躯を殺すには足りないが、神経を一瞬だけ麻痺させることができる。
その僅かな停滞を、俺は逃さない。
振り上げられた棍棒の側面を、俺は靴底で蹴り上がった。反動を利用してさらに高く、オーガの視界から消える。直後、死角である首の付け根へ二本の短剣を深く、深く突き立て、その肉を抉り始めた。
ザザザザザザーー!!!!!
鉄が擦れる不快な音がオーガの悲鳴をかき消す。
魂術による再生速度を、俺の連撃が上回る。首の皮一枚で繋がった巨躯を、渾身の力で踏みつけ、短剣を交差させて一気に横へと引き抜いた。
――ドシャリ。
重厚な肉塊が地面に転がる。オーガの首が、噴水のような返り血と共に泥の中へと沈んだ。一拍置いて、山が崩れるような音を立ててその胴体が崩れ去る。
「……ハァッ、ハァッ、ハァッ……!!」
肺が焼ける。腕の感覚がない。だが、安堵に浸る暇もなく、それはやってきた。
――ドクン。
オーガの巨大な魂核が砕け、淡く濁った光の奔流となって俺の胸へ吸い込まれる。その瞬間、視界が裏返った。
「…………ぁ」
見渡す限り、光の一条すら届かぬ巨大な玉座の間。
濃密な霊力が霧となって立ち込め、空間そのものが重苦しい。
そこには、数多の魔族が跪いていた。地を割り、山を砕くはずの屈強な魔族たちが羽虫のように小さく震え、石像のごとく頭を垂れている。
……視線の先、禍々しい骨の玉座に【絶望】が座っていた……。
天を衝くような真紅の二本角を戴き、漆黒の鱗に覆われた強靭な肉体。背には血の如き赤い翼を休ませ、その怪物は玉座に深く肘をつき、退屈そうに頬杖をついていた。
あまりの格の違い。俺が今日まで戦ってきた魔族がゴミにすら見えない。底知れない闇の恐怖が全身を駆け巡った。
その時だった。
ピシリ、と記憶の映像に亀裂が入る。退屈そうに視線を伏せていた魔王が不意にこちらを向いた。
【――貴様、見ているな】
ジジーッ、とノイズが走る。これは記憶だ。過去の残像のはずだ。なのに、魔王の真紅の瞳は、時空を超えて俺の魂核を正確に射抜いていた。
【塵芥が……失せろ】
「あ、が……ッ!!」
心臓を素手で握られたような、絶対的な死の予感。脳が焼き切れる寸前、俺の意識は強引に現実へと引き戻された。
「ミロク!ミロクッ!!」
激しい揺れ。鼓膜を震わせる声。焦点が合うと、そこには涙を浮かべたナナの顔があった。彼女は俺の両肩を掴み、壊れ物を扱うような必死さで俺の体を揺らしている。
「よかった……!目を開けたまま固まってたから、どうしようかと……」
ナナの温もりが、冷え切った意識を少しずつ解かしていく。周囲を見渡せば、イツキが安堵の溜息を吐きながら盾を下ろしていた。
「……悪い。少し、立ち眩みがしただけだ」
俺は荒い息を吐きながら、額の脂汗をぬぐった。
今のは、一体何だったんだ。
魔族の記憶を覗くことはこれまでにもあったが、向こう側から認識されたことなど一度もない。……というより、あるはずがない。
生前の記憶、つまり過去の出来事に干渉できるなど。
あれが、魔王……なのか?
だとしたら、あんな存在に勇者は本当に勝てるのか。そんな不吉な考えが胸の奥へ溜まっていく。
だが、戦場は俺に思考の猶予すら与えない。
周囲からは絶え間なく鉄が肉を裂く音と、死に際の叫びが聞こえてくる。オーガを仕留めた後も、魔族の攻勢は止まなかった。
「左から三体来るぞ!ミロク、まだ動けるか!?」
「あぁ、もちろんだ」
イツキの怒号に応え、俺は再び血に染まった短剣を握り直した。
そこからは、時間の感覚が消失するほどの乱戦だった。
次から次へと霧の向こうから湧き出す魔族の群れ。一歩踏み出すたびに足首まで泥と返り血に浸かり、呼吸をするたびに鉄の臭いが肺を焼く。
ナナの魂術による治癒も、もはや限界に近い。彼女の顔は紙のように白くなり、杖を持つ手は小刻みに震えている。俺たちは勇者のために道を切り開く捨て石だ。その事実が、消耗しきった体に重くのしかかる。
どれだけの魔族を斬り伏せ、どれだけの傷を負っただろうか。感覚が麻痺し、ただ機械的に刃を振るい続けて一時間が経過した頃――ようやく、その時が訪れた。
……俺たちが傷だらけになりながらも、結界を維持していた魔族を全て殺し尽くした瞬間だ……。
同様に、他の地点でも討伐隊が成果を上げたのだろう。
空を覆っていたドーム状の魂力障壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
パリンッ!
小気味よい音と共に、結界がガラス細工のように砕け散った。だが、それは俺たちの勝利の合図ではない。魔王城への道が開かれた。つまり、本隊が突撃を開始する狼煙だ。
「諸君、よくやってくれた」
演説で聞いた、あの勇者の声が霊術による拡声で戦場全体に響き渡る。直後、背後の空気が爆ぜた。
「邪魔だ。しゃがんでいたまえ」
ドォォォォォォンッ!!!
脳を揺らす爆音。そして、遅れてやってくる猛烈な地鳴り。俺たちが一時間、泥を啜りながら血路を切り開いたその場所を、黄金の光の奔流が一瞬で貫いていく。
その光は、雑魚兵である俺たちのことなど、路傍の石ころほどにも気にかけていない。ただ真っ直ぐに、魔王城に向かって突き進む。
黄金が通り過ぎた後には、巨大な衝撃波によってなぎ倒された木々と、吹き飛ばされた霧、そして地面に這いつくばるしか術のない俺たちだけが残された。
「……ッ!?」
次の瞬間、森の奥から大量の魔族の群れが溢れ出してきた。
散発的だった咆哮が、数千、数万の合奏へと変わる。
地面を震わせ、霧を押し返して迫りくる魔族の大軍。前線だけで、こちらの十倍以上。逃げ場など、どこにもない。
「総員に通達!勇者様が魔王を討つまで、その場を死守しろ! 一歩も退くことは許さん!この場を守り抜き、勇者様の帰路を作るのだ!」
通信宝珠から響く指揮官の声。
死守しろ。
安全な場所から放たれるその言葉は、俺たちにここで死ねと言っているのと同義だった。
「クソが……死んでたまるかよ……!」
イツキが盾を構え直し、奥歯を鳴らす。ナナは震える手で杖を握り、必死に詠唱の準備を始めた。その時だった。
――カツン、カシャン……。
戦場の喧騒の中で、その音だけが異質に、そして鮮明に響いた。
鎖と鉄が擦れ合う、重く、冷たい音。ピタリ、と魔族たちの咆哮が止む。殺到していた下級魔族たちが、上位の捕食者に怯える小動物のように道を開けていく。
深い霧の向こうから姿を現したのは、
全身を漆黒の重装甲で包んだ『騎士』だった。
ナイトのような洗練された甲冑。だが、腰に長剣を据えたまま歩くその姿からは、生命の鼓動が一切感じられない。兜の奥からは、底知れない無の圧力が溢れ出している。
「おい……嘘だろ。あんなの聞いてねえぞ……」
イツキの顔から血の気が引く。魂力の適性がない俺でさえ理解できる。あれは次元が違う。一体で一軍を壊滅させる、A級魔族……それ以上かもしれない。
その騎士の声が聞こえてきた。
「(気のせい、だったか……ここに、いると思ったのだが)」
そして、ふわりと消えた。
「――ッ」
イツキが反応するよりも速い。鎧の音さえ置き去りにして肉薄した騎士が、その拳を無造作に放った。
ドゴォッ!!
「が、は……っ!?」
暴力的な一撃。鉄塊のような拳は、イツキが構えた大盾を紙切れのようにひしゃげさせ、その内側の肉体を強引に折り曲げた。衝撃で内臓が悲鳴を上げ、イツキは血を撒き散らしながら後方の岩壁まで叩き飛ばされ、動かなくなった。
「イツキ!!」
ナナが悲鳴を上げる。だが、騎士は既に彼女の眼前に立っていた。
騎士の黒い拳が、ゴミを掃除するような動作でナナの頭上へと振りかざされる。
(間に合え……間に合え、動けッ!!)
思考よりも先に体が弾けた。自由を掴むための金貨も、魔王の恐怖も、すべて忘れた。
「ナナァァァッ!!」
心臓が爆発しそうな速度で俺は滑り込み、ナナの細い肩を、持てる力の全てで突き飛ばした。一瞬。宙に浮いたナナの、驚愕に染まった瞳と目が合った。
「……え?ミロク」
それと入れ替わるように、俺の視界は騎士の黒い拳で埋め尽くされる。
――ドゴォォォォンッ!!
背中に大きな衝撃が突き抜けた。バキバキと背骨が砕け、肺が潰れる感触。人間の肉体が耐えられる限界を超えた一撃は、俺の体ごと、足場の岩盤を粉砕した。
ガラガラと崩落する大地。支えを失った俺の体は、砕けた岩塊と共に、背中から奈落へと投げ出される。
「いやぁぁぁーーー!!!!! ミロク――――ッ!!!」
ナナの絶叫が、遠ざかっていく。逆さまの視界の中で、崖の上からこちらを見下ろす騎士の冷徹な姿と、手を伸ばして泣き叫ぶ少女の姿が、夕闇に溶けていく。
意識が急速に闇へ溶けていく。
俺はそのまま、光の届かない地獄の底へと、真っ逆さまに吸い込まれていった。
……
第四話 終わりという名の始まり




