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【奴隷君主】滅びた魔王を宿す者の崩壊路~世界は知らない、魔王は今もなお、少年の中で生きていることを。  作者: T.T
第一章 魂の世界

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第十八話 奴隷と魔王

【言え】

「……レグナートは——百歳を超えている」


 血の池が、揺れた。

 揺らしたのは、足元の液面だけではない。玉座の俺が——息をのんだ。かすかに、でも確かに。竜骨の肘掛けに預けていた手が、骨をぎりりと握る。


【……あやつの虚言ではないのだな】

「本当だ。今日、十年ぶりに再会したが何一つ変わっていなかった。容姿も声も立ち方も。まるで十年前に別れた次の日に会ったみたいに、全部そのままだった」


 玉座の俺は静かに背もたれへ身を沈めた。

 片足を組み直し、竜の頭骨でできた肘掛けの上で、細長い指がゆっくりと組まれていく。

 その表情は楽しそうに見えた。


【……引き続き、情報を集めておけ】

「お前のためにやる気はないが——俺自身も知りたいことだから、まぁ構わない」


 俺はそこで一度、言葉を切った。


「そろそろ俺の番だろ。三回は答えてもらうからな」

【……そうだったな】


 玉座の俺が、肘掛けの上で指を組み直した。

 俺は最初の問いを選んだ。


 一、お前は何者だ。

 返ってきたのは予想通りの答えだった——名前は教えない、姿も教えない。ただ、種族だけは答えてやろう、と。


【……魔族だ】


 俺はその一言を、胸の中でゆっくりと転がす。

 驚かなかった、というのは正確ではない。合点がいった、という方が近い。

 奈落の底から這い上がった時、折れていたはずの腕が動いていた。千切れかけていた腹の肉が、繋がっていた。どれだけ致命的な損傷を負っても、朝になると傷が塞がっていた——あれは、こいつの力。

 魔族は生まれつき、自身の肉体を修復する力を持っている。その力で俺は今ここにいる。

 命を繋いでもらったのは事実だ。だがその代わりに、俺はいつ体を乗っ取られるか分からない体になった。

 良いのか悪いのか、今はまだ判断がつかない。

 命をつないでもらったのは事実として、俺はその代わりにいつでも乗っ取られる体になった。今夜みたいに突然引きずり込まれ、気づいたら見知らぬ場所に立っている。そういう体に。

 確かなのは——これほど流暢に人語を扱い、俺の魂核に直接触れられる魔族が、並の存在であるはずがないということだ。かなりの上位に位置する。それが俺の中にいることだ。正体はゆっくりと知っていけばいいが、問題はこれからの質問の回答次第、だな。


 二、俺に宿った目的は何だ。


【ある者たちを、殺すためだ】


 間がなかった。

 俺の問いが空気に溶けきるより前に、答えが来た。「殺す」という言葉が、血の液面を波紋のように広がり、静かに消えていく。

 ある者たち、を殺す——。

 さっきのレグナートへの反応を思い返せば、その中にあの男が含まれている可能性は高い。

 そして、目的がそれなのであれば、絶対に聞かなければならないことがある。

 それが、三つ目の問いに繋がった。

 

 三、最後は……。


「お前は——俺の敵か。それとも、味方か」


 空白が落ちる。

 今夜で一番、長い空白だった。

 血の池が静止する。竜の骨の軋みすら止まる。この場所全体が、息を止めているようだ。

 玉座の俺は動かない。赤みを帯びた瞳がただ、細く、じっとこちらを向いている。

 俺の背中を、冷たいものが流れた。

 こいつはある者たちを殺すために俺に宿った。そのある者たちの中に、俺が含まれていない保証など、どこにもない。俺をこの場所に呼んだのは、俺を殺して体の主導権を完全に奪うためかもしれない——。


 俺は無意識に、足を一歩後ろへ引いた。

 重心が落ちる。膝が、わずかに曲がる。

 体が勝手に、戦闘の形を取っていた。どうするつもりだ、と自分に問う暇もなく、骨の中に刻まれた本能だけが動いていた。


 玉座の俺が、その動きを見ていた。

 見て——何かを読む。

 そして口の端が、ほんの微かに持ち上がった。


【……面白い反応をするな、人間。そこまで死にたくないか】

「当たり前だ。俺には、叶えなきゃいけない夢がある。死ぬのはそれが終わってからだ」


 瞬間、玉座の俺が俺を見る。

 ただ見る。

 その目に、笑いの色が浮かぶより先に——。


【ふっ……】


 短く、鼻から息が抜ける。


【……ふふ……ふふふ】


 止まらない。


【あーはっはっはっ——!!!】


 声が、血の池の底から天井の黒へ向かって弾けた。

 この場所に来てから一度も聞いたことのない声だ。低く、重く、それでいて奇妙なほど若い。玉座の俺が竜骨の肘掛けに肘をつき、体を折るようにして笑っている。俺を素材にして作られたはずの声が、今この瞬間だけ——まるで別の生き物から出てきているようだった。


「……何がそんなに可笑しい」

【いや、そういえば貴様、あのエルフに向かって夢を語っていたことを思い出してな】

「……見ていたのか」

【あぁ、見ていたぞ】


 俺は少しの間、黙った。

 見られていた。こいつはずっと内側から眺めていたのか。

 言いようのない居心地の悪さがある。自分の部屋に覗き穴が開いていたと、後から知った時のような感覚だ。


【まぁ、途中で飽きたがな。貴様らの入浴など微塵も興味がない。さっさと呼んだまでだ】

「お前が俺の中にいる限り、俺にプライベートは存在しないのか」

【そういうことになるな】


 あっさりと言った。

 俺は深く息を吐いた。後でゆっくり絶望することにした。

 玉座の俺が、座り直す。片足を組み、竜の骨盤に片肘をつき直す。


【さて。三つ目の問いに答える前に——貴様、自由になることが夢だったな】

「……あぁ」

【いいだろう。我が、協力してやる】


 俺は一瞬、聞き間違いかと思った。


「……今、何と言った」

【協力してやると言っているのだ。聞こえなかったのか】


 あれほど傲岸だった声が——静かに、確かに、そこにある。

 胸の奥で、何かが動いた。引っ張られるような感覚。希望と呼ぶには早すぎると分かっていても、それが何なのかを考える前に体が反応した。


「急に、どういう風の吹き回しだ。俺を殺して体を奪うんじゃないのか」

【違う。貴様に死なれては困る事情が、我にはある】

「つまり、三つ目の答えは……」

【どちらかと言えば——味方だ。少なくとも今は貴様の敵ではない】

「……そうか」


 声に出すと、変だった。

 安堵がある。認めたくはないが、たしかにある。ついさっきまで戦闘の形を作っていた体から、ゆっくりと力が抜けていく。まだ信用するには早い。だがこいつは俺の魂に繋がっていて、嘘は通じないと言っていた——なら、向こうからの言葉も、同じ理屈で考えていいはずだ。


「協力すると言ったな。あんたは俺に何をしてくれる?」

【大きく二つだ。まず——我の力を”貸してやる”】

「……力」

【魂力、魂術、魂能、自己修復能力。この四つだ。我が許可をすれば、貴様はこの力を行使できる。扱えるかどうかはまた別だがな】


 魂が隣り合っている。一心同体だからこそ、力の共有もできるということか。

 力が欲しいと思っていた。ずっと思っていた。生まれた時から欠けたまま埋まらなかった、その穴が——今、埋まろうとしている。


「どれだけ使っていいんだ。魂力にはその日に使える上限があるんだろう」

【全部だ。我の魂力が尽きるまで使え】


 俺は黙った。

 本当にありがたい。ありがたいが——そう素直に受け取れない自分がいる。

 こいつは「"貸してやる"」と言った。口ぶりからして、力を渡せる状況にある。魂同士で力のやり取りができる。ならば、逆も成り立つはずだ。いつでも力を奪い返せる状態に、こいつはある。

 裏があるのは目に見えているが、とりあえず話を聞かなければ進まない。

 

「もう一つは……」

【”緊急時以外”——貴様の許可なく体を奪うのをやめよう。貴様が瀕死に至る、もしくは死の寸前と”我が判断した”時などは例外だ。先ほども言ったが、貴様に死なれては面倒だからな】


 レグナートに告げられた言葉が蘇る。いつ体を奪われるか分からない、と。その恐怖が、今夜だけで何度俺の背筋を走ったか。それが消える。

 緊急時以外は奪わない。つまり俺が意識を持っている間は——俺のままでいられる。

 ……それにしても。

 俺は胸の内側をゆっくりと整理した。

 さっきの話といい、あまりに好条件が並ぶ。こいつが俺の中に滞在すること自体に、何か意味があるはずだ。俺の体を使い続けることに——こいつ自身の利益がある。そうでなければ、ここまで親切にする理由がない。

 上位の魔族に体の内側から援助してもらう。これは良いことだが、安心していいことにはならないだろう。

 魔族が体内にいること自体がそもそもおかしなこと。俺の体が異常であることに変わりはない。


【分かっているだろうが、タダではない。同じく二つの条件だ。これを貴様が守るなら、その夢とやらに協力する。力を貸し、体を奪うこともせん】


 俺はゴクリと息をのんだ。

 血の生臭さが、もう一度濃くなった気がした。


【一つ。我のことを誰にも話すな】


 一拍の間があった。


【あの商人レグナートが貴様の中に我がいることを知っているのは、この際、見逃す。だが——それ以外の者には、一切口にするな。我の存在を、我の言葉を、今夜ここで交わしたことの全てを】


 要するに、誰かと組んでこいつの正体を探ることはできないということだ。

 玉座の上で今も俺の顔をしているこいつが、それほど必死に隠したがる理由がある。

 まぁ元々、一人でこいつの正体を探るつもりだった。なら条件としては受け入れられる。

 そう自分に言い聞かせた。


「……分かった。話さない」


 玉座の俺が、指を二本立てた。


【よし。ならば二つ目……我が指定した者を、殺せ】


 好条件には、必ず裏があると思ったが、予想通りだな。


「さっき、ある者たちを殺したいと言っていたな。つまりその中の誰かを、俺に代わりに殺させると」

【……まぁ、そういうことになるな】

「悪いが——それはできない」


 俺は、まっすぐに玉座を見上げた。

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