第十七話 魂の底:【起きろ、人間】
手ぬぐいが、背骨の際をゆっくりと辿る。そのたびに、リーファの肩がぴくりと揺れる。小さな声が零れ——すぐに奥歯で噛み殺される。
また揺れる。また、殺す。その繰り返しが、しばらく続いた。
水音だけが、等間隔に時を刻んでいた。
落ち着け。俺は心の中で、もう何度繰り返したか分からない言葉を唱えた。
視線は手ぬぐいの動きだけに固定する。
「……終わった」
「……うん」
リーファの声も、いつもの半分の音量だ。
俺は柄杓に湯を汲み、彼女の肩から流した。泡が白く散り、石床へ落ちていく。
「……ありがとう」
声が、かすかに柔らかい。一拍置いてから、付け加えてくる。
「前は、自分で洗うわ」
「……あぁ」
俺はリーファに背を向け、自分の体を洗い始める。
石鹸を手に取り、泡立てる。ただそれだけの動作に、いつもより三倍ほど集中力を使った。
背後でリーファが動く気配がする。水音。布を絞る音。柄杓が木桶の縁に当たる小さな音。その一つひとつを、俺は意図的にただの音として処理した。
「……先に入ってるわ」
湯船から、かすかな水音が聞こえてきた。
俺は体を流し終え、手ぬぐいで軽く拭いてから、引き戸の前に立った。
——先に部屋へ戻ろう。
リーファが湯船に浸かっている。同じ場所に入るのはやりすぎだ。もうここまで彼女に手を出していない。それで十分なはずだ。
取っ手を引こうとした、その時だった。
「……どこ行くの」
声が、湯気の向こうから届く。俺はドアの方を向いたまま、答えた。
「先に部屋へ戻る。ゆっくり浸かっていてくれ」
短い沈黙。
「……湯船には、浸からないの?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「リーファがいるからな」
「……せっかく、お金まで払ったんだし」
ぽつりと、水の表面に小石を落とすように言った。
「あなたも……入ったら、どう?」
嫌な予感が、的中した。
「いや、さすがに」
「洗うだけじゃ、湯冷めするかもでしょ」
その通りだった。返す言葉がない。
「体調を崩したら……それこそ、良くない、わ」
リーファの声は、相変わらず静かだった。感情の起伏を丁寧に均した、あの声。だが——均しても均しきれない何かが、語尾のわずかな揺れに滲んでいた。
これは追加の試練だ、と俺は理解した。まだ足りないと思っているのか。それとも——試すことを、やめられなくなっているのか。どちらにしても、答えは一つだった。
俺は取っ手から指を離した。引き戸を、開けた。
「……じゃあ、数分だ……」
ジリ……
「け……ぐっ」
頭の中に、棘のような痛みが走った。
頭痛ではない。もっと深い場所。胸の奥、心臓のすぐ隣で何かが脈打つ感覚。
……違う。これは魔族の記憶じゃない。
俺は湯船の縁を掴もうとした。だが、指先に力が入らなかった。視界が歪む。湯気が白くなる。白が、黒に変わる。
「ちょっ、ミロク……!?」
「リーファ、すまない——」
言い切れなかった。
俺の意識は、そのまま深い暗闇の中へ、真っ逆さまに落ちていった。
…………
………
……
【起きろ、人間】
暗闇の底から、声が落ちた。
声ではなく、圧力だった。肺の空気を全部抜き取るような重圧が、胸の奥へ直接叩き込まれる。
「——ガッ……ッ!!」
心臓を、素手で鷲掴みにされた。
そういう感覚だった。握る、絞る。胸骨の裏側から、何かが強引に引き抜かれていく。俺の意識は呻きを上げながら暗闇を引き裂き、どこかも分からない場所へ叩き出された。
……
静寂があった。
俺は上半身を起こした。ベッドの柔らかい沈み込みを期待していた手のひらが冷たいものに触れた。
ポチャ、と水が鳴り響く。
「……っ」
掌を持ち上げる。
赤黒い何かが、指の間から糸を引いて垂れていった。
泥のように粘つく生臭い血。石畳の染みではない。もっと深い、大量の血が地面そのものを作っているような、そういう場所だった。
「……何だ、ここは」
立ち上がろうとして、足元に視線を落とす。
血の池だった。
地平線まで続いている。地面と呼べるものは存在せず、ただ底のない赤黒い液面が、息をするように静かに波打っている。天井は黒。空は黒。光源がどこにあるのか分からないのに、周囲だけがぼんやりと浮かんで見えた。
俺はゆっくりと顔を上げ、視線を遠くへ投げた。
——竜がいた。
いや、正確には、竜の「死体」だ。
骨と鱗と翼の残骸が、山のように積み上がっている。一頭二頭の規模ではない。数十、いや、もっと多い。強大な生命が折り重なり、腐らぬまま永遠に積まれ続けたような、そういう山だった。
鱗の一枚一枚が大人の盾ほどの大きさがある。折れた牙が血の池に半分沈み、巨大な爪が天へ向かって突き出ている。
そして——その頂点に、玉座があった。
竜の骨を積み上げて作られた、禍々しい玉座。砕けた頭蓋骨が肘掛けになり、互いに絡み合った太い肋骨が背もたれになっている。
そこに、誰かが座っていた。
「……」
俺は目を細めた。
部屋着だ。今夜、宿で着ていたはずの、白い麻の部屋着。肩に引っかけるように着崩し、竜骨の肘掛けに片腕を預けて、こちらを見下ろしている。
顔が——俺だった。
髪も、目も、輪郭も。背丈も体格も、今の俺そのままの姿が、血の池の頂点に座っていた。
「お前が……」
俺の声が、静寂の中に沈んだ。
玉座の俺は表情を動かさなかった。ただ、血の池を渡ってくる俺を、興味と退屈の中間にある目で眺めていた。
「……俺を呼んだのか?」
「今夜、魂核で待つ」。あの言葉の意味から察するにここは魂核の中。
それも俺のではなく、もう一人の魂核の中。
目の前にこいつが……。
「答えてくれ。お前は何者なんだ」
【我に指図するな】
声が、低かった。
俺の声を素材にして、倍ほどの重さを持たせたような声。同じ声帯から出てきたとは思えない、底冷えする響きが血の池の表面を揺らす。
【貴様に答える義理は……ない】
俺は一歩、踏み出した。血の表面が波紋を作る。
「俺の中に宿って、俺の体を好き勝手に動かした。その理由くらいは聞かせてもらう権利がある」
玉座の「俺」が、かすかに表情を動かした。
笑った、ように見えた。嘲笑ではない。もっと奇妙な何か。厄介なものに引っかかってしまったと認めながら、同時にそれを楽しんでいるような、矛盾した笑みだった。
【答える権利もない……それにしても貴様、随分と図太い神経をしているな】
「お互い様だろ」
【……ふっ】
短い笑声が落ちた。
俺は血の池を歩きながら、相手を観察し続けた。自分の顔をしているせいで気持ちが悪い。だが、よく見れば分かる。瞳の色が、俺とは違う。光の加減によっては、深い赤を帯びて見えた。
……どこかで見た色だ。
記憶の底をひっくり返すような既視感が走ったが、すぐには結びつかなかった。
【それ以上近づくな】
声が、一段低くなった。足が、止まった。
止めようと思って止めたわけではない。体が勝手に止まった。声に、そういう力があった。命令ではなく、重力のような何か。近づいてはいけないと、本能が大声で叫んでいた。
「……俺の体を乗っ取ったのはお前だ。それは認めるか」
【……それが何だ】
「なぜ乗っ取った」
【必要があったからだ】
「どんな必要があって、俺の体でレグナートに喧嘩を売った」
一拍の間があった。
【……それは偶然だ。目の前にあやつが居たから力試しをしたにすぎん。それにしても、口の利き方には気を付けろ。不愉快だ】
「お前が何者か分かったら、そうするんだがな」
【……】
挑発は効かないか。俺は玉座を見上げた。
「俺はお前のことを何も知らない。名前も、目的も、なぜ俺の中に宿ったのかも。このまま同じ体に居続けるのなら、最低限のことは教えてもらわないと困る」
玉座の「俺」は、しばらく何も言わなかった。
血の池が、静かに波打つ。竜の骨が風もないのにかすかに軋む。
【そうだな。ならば、我の問いに答えれば、その分だけ教えてやろう】
「話し合い、取引に近いか。いいぞ。何を聞きたい」
【その前に言っておくが、虚言は通じんぞ。忘れるな、我は今貴様の魂核と繋がっている状態だ。貴様がどれだけ脳内で言い張ろうと、魂は嘘をつけない。我にはそれが分かる】
「……分かった」
俺はそれが虚勢ではないと直感した。この場所に引きずり込まれた時から、体の内側を誰かに覗かれているような、薄気味の悪い感覚がずっとある。嘘をつけば、すぐに分かるだろう。
【では最初の問いだ。貴様の過去について話せ】
俺がこいつのことを知りたいと思うように、俺のことも知りたい、ということだろうか。
「俺の覚えている範囲でいいなら」
【構わん】
俺は順を追って口にした。
物心ついた時には奴隷で、最初の主人はレグナート。三年間、毎日殺し合いをさせられた。理由は分からない。ただ死ぬほど殴られ続けた。次にオルロ―という変態指揮官に売り飛ばされ、戦場の使い捨て駒として今日まで生き延びてきた。その間に、イツキとナナという仲間ができた。奴隷紋を解除して三人で自由になる、それだけが目的だった。
魔王討伐遠征軍に徴用され、結界を壊す捨て石として使われた。仲間を庇って黒い騎士に叩き落とされ、奈落の底で魔族に嬲られて——気づいたら、ここまで生きていた。
話し終えた時、血の池は静まり返っていた。
【……はぁ】
玉座の俺が、短く息を吐いた。心底から興の冷めた溜息だった。
【つまらん。期待外れだ】
「お前が聞いてきたんだろ」
【十六年生きてきてその程度か。戦場で死に続けただけの話など、魔族の記憶の方がまだ深みがある】
「面白い話ができなくて悪かったな」
俺は肩をすくめた。
数分しかこいつと話していないが、もう本格的に嫌いになってきた。俺の体を借りて傷を治してくれたことは感謝している。だがそれとこれとは別の話だ。口が悪すぎる。
「次は俺の質問に——」
【いいや、まだ終わっていない】
遮られた。
「……二つ目か。ちゃんと数えているからな」
【勝手にしろ】
玉座の俺が、組んでいた指をほどいた。竜骨の肘掛けへ片腕を預け直し、血の池の表面に視線を落とす。
【……レグナート。あの商人について、話せ。良い情報を期待しているぞ】
次はレグナートか。今度はあまり記憶を蒸し返したくはないな。けれど、仕方ない。
レグナートが奴隷商人と言うことをこいつは実際に対峙して知ったのだろう。だとするなら他の情報……。
「そうだな。まず一つだけ断言できることがある」
【何だ】
「あいつは——最強だ」
短い沈黙が落ちた。
【……最強】
「お前がどれほど強いのかは知らない。だが、これだけは分かる。どんな攻撃も、レグナートには通じない。俺の体術も、他の奴の魂術も魂能も、何一つとして傷一つつけられなかった。三年間、奴と共にいたが——一度も敗北したところを見たことがない」
玉座の俺は無言だった。
表情は動かない。だが眼の奥で、何かが静かに燃えているのが見えた。怒りではない。もっと冷たい、理性的な何か。
【……魂能を、貴様は知っているか。詠唱は何を口にしている】
詠唱はその術に関することがある程度記載されている。
俺もレグナートの強さの秘密が何なのか知りたくて試したが……。
「聞いたことがない。一日中そばにいたことがあるが、一言もそれらしいことは言っていなかった」
【……常時発動型か】
「お前もそう思うか。俺もずっとそうだと思っていた」
俺が同意すると、玉座の俺は俺に視線を戻した。
【……貴様の与太話よりは興味深い。他にはないのか】
「人の人生を与太話と呼ぶな」
【他には】
切り捨てられた。本当に口が悪い。
「一つだけある。ただ、信じられないかもしれない」




