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【奴隷君主】滅びた魔王を宿す者の崩壊路~世界は知らない、魔王は今もなお、少年の中で生きていることを。  作者: T.T
第一章 魂の世界

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第十六話 試練:「お風呂に……その、一緒に入りましょう、ってことよ」

「……解除する」


 俺は静かに言い、奴隷紋の命令を手放す。

 目に見える変化はない。だが——リーファの肩が一度だけ大きく震えた。解けた、と分かった。

 俯いていた顔がゆっくりと上がる。と同時に、両腕が胸元を覆うように交差された。


「……俺が悪かった。まさかリーファがいるとは思わなかった。ノックして開いてしまったのは、俺の不注意だ」


 続けようとして、言葉が詰まる。


「……止まれ、と命令したのも謝る」


 あの瞬間の判断は正しかったと、今も思っている。氷の結晶がもう数センチ前に出ていれば、俺は廊下で死んでいた。だが、彼女に辛い思いをさせてしまった。守ると言ったのに……。

 廊下の沈黙が、重く落ちる。

 リーファは何も言わない。白い霧がゆっくりと薄れていく。床の霜が蝋燭の熱に負けてじわりと溶け始め、壁の白が少しずつ元の石造りの色を取り戻した。その変化を、俺はただ見ていた。


「……服着るから、部屋で待ってて」


 怒鳴るでも、氷を向けるでもなく。ただそれだけを、感情を丁寧に抑え込んだ声で言った。

 ——その落ち着きが、かえって喉の奥に重く滲んだ。怒鳴られた方が、まだよかった。


「……あぁ」


 俺は廊下に転がった包みを拾い上げ、部屋へ戻った。

 扉を閉める。かちり、という音が、ひどく大きく聞こえた。


 机の上に包みを置き、椅子に腰を下ろす。腕を組み、天井を仰ぐ。


 ……


 ギィー。数分後、部屋の扉が開く。


 服を着直したリーファが、どこか慎重な足取りで部屋へ入ってくる。薄藍色の装備ではなく、クローゼットから取り出した部屋着だ。くるぶしまである白い麻の服が、蝋燭の橙色に照らされてゆらりと揺れている。銀髪がまだわずかに乱れていて、片方の肩から零れた一房が、首筋に貼り付いていた。

 何かを言おうとして——互いに、黙る。

 どちらが先に口を開くべきか分からないような、奇妙な均衡。リーファは視線を机の上へ移し、向かいの椅子へ静かに腰を下ろした。

 俺は包みを開け、串を二本、彼女の前へ静かに押す。

 串肉は冷え切っており、脂が固まりかけていた。リーファは見下ろしたまま、少し間を置いてからそれに手を伸ばす。箸の代わりに素手で持ち、ゆっくりと口へ運んだ。

 俺も自分の分を取り、歯を立てる。

 味がしない。しているはずなのに、していない。

 外の通りから酔客の笑い声と夜鳥の鳴く音が届いていた。蝋燭が揺れ、二人の影が壁の上で伸び縮みする。俺はその影をぼんやりと眺めながら、ただ咀嚼を続けた。

 しばらくして、リーファが机の上へ視線を落としたまま半分ほど食べて手を止める。指先が、部屋着の裾を静かに摘んでいた。


「……さっき見たことを、忘れてくれるなら……許しても、いいわ」

「……」

「わざとじゃないことくらい、分かってる。ノックもしていたし」

「……そうだ。声が漏れていたから、注意しようとしただけだった」


 俺は短く答える。余計なことは言わない。

 リーファは小さく一度だけ頷き、視線を膝の上へ落とした。しばらく、また沈黙が続く。だが今度の沈黙は——廊下の重さとは、少しだけ質が違う。怒りが完全に消えたわけではない。ただ、その下に何か別の層が生まれていた。


「……あなたのこと、一方的に嫌いと思ってた。人間という種族が怖かったし、あなたに何をされるか分からなかったから。だから悪い人だと決めて、それで安心しようとしていたのかもしれない」


 俺は何も言わなかった。

 言葉を返すより、黙って聞く方がいい場面というものがある。これは、そういう場面だった。


「今日一日で……全部が分かったわけじゃない。でも」


 彼女は、そこで少し間を置く。


「……あなたが、私が思っていた人間じゃないことは、分かった」


 彼女と出会ってから数時間、俺は初めて彼女に認められたと思った。

 ほんの少しだが、それが嬉しかった。

 

「……そうか」


 また、沈黙が落ちた。

 ただし今度は——少しだけ、違う質感の沈黙だった。廊下の重さとは違う。気まずさの中に、薄く、何か別のものが混じっていた。空気の温度が、ほんのわずかに、変わっていた。


「……あのね、ミロク、様」

「なんだ」


 リーファが顔を上げた。

 蒼い瞳が、蝋燭の橙色を映しながら、まっすぐに俺を見ていた。頬にまだかすかな赤みが残っていた。耳の先端も、同じ色をしていた。


「……あなたを信用させてほしい。明日からクエストでしょ。一緒に戦うのにこのままじゃ危険だから、手っ取り早く済ませたいの」


 確かにリーファの言うとおりだ。

 互いへの信頼が揺らいだまま実戦に出れば、それは命取りになる。背中を任せると決めた相手を心の底から信じられなければ——いざという瞬間に、体が一手遅れる。一手が、命の差になる。戦場で何度も見てきた。

 しかし、鎧の件といい今夜といい、俺は彼女の信用を失いすぎた。

 そんな早く彼女の信頼を得ることができるのか?


「……どうすればいい?」


 リーファは少しだけ間を置いた。

 それから——瞳を、少し横へ逃した。


「……体、流して」

「……ん?」

「だから」


 俺が聞き返したことで意を決したのか、リーファは顔を正面へ戻し、声を一段上げた。


「お風呂に……その、一緒に入りましょうってことよ」


 部屋の中に、しんとした沈黙が落ちた。

 蝋燭が、ゆれた。

 彼女は乱れた銀髪を片手で少しいじりながら、頬を赤くしたまま続ける。


「私も今回のことは、多少、悪いと思っていて……。事前にこのことを伝えなかったし……。その、何というか、お詫びもかねて」


 付け足した言葉が、微妙に宙に浮いた。

 目が泳いでいる。耳が赤い。指先が止まらず裾を弄り続けている。

 俺はそれを聞いて……彼女らしからぬ発言だと思った。

 しかし、お詫びという名目——彼女の本心は別だろう。

 要は、試したいのだ。

 俺が本当に信用できる人間なのか、どうか。そのための、これだ。

 一緒に風呂に入る。そこで俺が手を出すかどうか——それを以て、判断しようとしている。

 言葉で責めるより、行動で確かめる方を選んだのだ。


「……もしも変な行動を取ったら、その時は」

「分かっている。絶対にしない」


 俺は反射的にそう言ってから、自分の言葉の速さに少し驚いた。

 リーファは小さく頷いた。それから視線を膝の上へ落とし、消え入りそうな声で付け足した。


「……信じるわ」


 俺はその言葉を聞いて安心すると同時に心を落ち着かせていた。

 大丈夫だ。

 リーファが美しいことは、今日一日で十分すぎるほど分かっている。店の老主人が「娘さん、可愛いですな」と言った時の周囲の視線も。防具を着て試着室から出てきた時の——あの一瞬も。

 だが俺は今日、この少女の震える指先が俺の手に触れた時のことを覚えている。「馬鹿みたい」と、泣きそうな声で言いながらも手を伸ばしてきたことも。

 俺は彼女を守ると決めた。

 ナナと同様に家族……妹のように思えばいい。


「行こう」

「……えぇ」


 俺たちは食事を終え、椅子を引いた。


 ……


 一階へ降りると、受付の老婆が帳面から目を上げ、俺とリーファを交互に見た。

 何も言わなかった。

 ただ、冷たい目で俺を見てから、小さな木の鍵を二本、カウンターに置いた。


「風呂の鍵だよ。使い終わったら戻しな」

「ありがとう」

「……別料金だよ」


 銅貨を追加で払い、廊下の奥へ進んだ。一番奥。石造りの厚い壁の向こうから、水蒸気と石鹸の微かな匂いが漏れていた。

 木の板に「湯浴み処」と掘られた看板。三つの個室が並んでいた。向かって左の二つに「使用中」の木札が掛かっている。

 俺たちは最後の一つ——右端の個室へ入った。

 小さい部屋の両端に棚がある。ここで服を脱ぎ、奥の風呂へと向かえと言うことだろう。


 リーファは腕を胸元で交差させ、指先が部屋着の袖をぎゅっと掴んでいる。視線は床に落ちていたが、その耳が——両方とも、根元まで赤く染まっていた。


「……向こうを向いてて」


 俺は素直に壁の方へ向いた。

 背後で布の擦れる音。ゆっくりと慎重に動いている。部屋着が肩から滑り落ちていく音が、狭い個室の中でやけに鮮明に聞こえた。

 それから——わずかな間があった。動いている音がしていない。

 何秒か静寂が続いた。


「……先に、待っているわ」


 引き戸が開き、閉まる音がした。

 声が、かすかに上ずっていた。

 俺はゆっくりと振り向き、自分の服を脱いだ。

 落ち着け、と心の中でただ一度だけ言う。

 

 ……


 湯気が、白く満ちていた。

 石造りの壁。腰ほどの高さの木桶が一つ。その脇に水汲み用の桶と柄杓。天井の小窓から夜風が差し込むのか、棚に置かれた蝋燭の炎が細く、気まぐれな揺れ方をしていた。


 正面には——リーファが座っていた。


 月光を写し取ったような背中だった。

 細い肩。長い首筋。白磁のような肌が蝋燭の橙色を受けて、まるで内側に灯りを宿しているかのように艶めいている。乱れた銀髪が半分ほど前へ流れ、肩甲骨の上を薄く覆っていた。木桶の前に膝をつき、両膝を揃えてこちらに背を向け、両腕を胸元でかたく交差させている。

 ほんの少しだけ、身を縮めていた。

 耳が赤い。

 後頭部まで染まっているのが、銀髪の隙間からのぞいている。


「……早く」


 ただ小さく、頼りない声だけが、湯気の中に溶けていく。

 いつもの声ではなかった。剣の切っ先のような鋭さが、どこにもない。ただ静かに、水面に落とした一粒の雫のように、漂って消えた。


「……あぁ」


 一歩、歩み寄った。

 手ぬぐいを手に取り、石鹸をよく泡立てる。片手で硬く絞り、彼女の背後の石床に膝をついた。


 リーファの肩が——ぴくりと動いた。


「……強かったら言ってくれ」

「……大丈夫だから、早くして」


 俺は手ぬぐいを肩甲骨の上に——そっと、当てた。

 リーファの背中が、細かく震えた。

 戦場で傷の手当てを覚えた時に身についた力加減だ。強すぎず、頼りなくもない。肩甲骨の上から、背骨に沿って腰の手前まで。それから戻ってくる。石鹸の泡が白く立ちながら、白磁の肌を静かに流れていく。


「……っ」


 リーファの肩が、じわりと力を抜く。

 緊張が一層ずつほどけていくのが、手のひら越しに伝わってくる。縮めていた背中が少しだけ伸びる。それに気づいて、また少し縮む。その繰り返し。自分が反応していることを、自分で持て余しているような動き方だった。


「……痛かったか」

「……ちっ、違う。続けて」


 声が、微妙にひっくり返っていた。

 俺は黙って、手を動かした。

 肩甲骨の際。背骨の両脇。肩の付け根から首筋のすぐ下まで。丁寧に、一定のリズムで。


「……んっ」



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