第十五話 さっそくハプニング!?:エルフは毎晩、072をしなければならない!?
奴隷紋は……へそ下にこそでしょ!
折り畳まれた部屋着が整然と並んでいる。仕切りで左右に区切られていて、向かって右側に男物、左側に女物。サイズも豊富に用意されていた。
「リーファ、俺は晩飯を買いに出る。先に風呂でも入っておいてくれ。さっきの老婆に聞けば、場所は教えてもらえるはずだ」
「……分かった」
短い。いつも通り、と思いかけてやめた。
今夜の彼女は、どこか様子が違う。
俺はさりげなく目を向けた。
リーファはクローゼットを閉め、こちらに背を向けていた。銀髪が肩から流れて、その先が微かに揺れている。揺れているのは髪だけではない。肩が、ほんの少しだけ不規則に動いていた。呼吸だ。浅くて、速い。
……具合でも悪いか?
地下室での拘束、今日一日の疲労と緊張。消耗しているのは当然だ。
「リーファ」
俺がもう一度名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
ゆっくり振り返った顔が、蝋燭の橙色の中で、ほんのりと染まっていた。耳の先端だけが、輪郭を縁取るように赤い。蒼い瞳が俺を捉えて、すぐに泳いだ。
「……何」
声が、一拍分だけ遅れた。
「何か食べたいものはあるか?」
思い返してみれば、今日は起きてから何も口にしていない。
財布の中身は、金貨六枚と銀貨と銅貨が数枚。貯金どころか借金の身だ。なるべく安く済ませたいが、さすがに腹が減ったので多少はリーファの要望に応えられる。
「お肉が……いいわ」
食の要望だけは、やけにはっきりしていた。
そうか。来た道に、リーファの鼻がひくりと動いた場所があった。石窯の前で燻製肉を吊るしていた露店だ。彼女は立ち止まりこそしなかったが、確かに動いていた。元々その場所は寄ろうとしていたところ、ちょうどいいな。
「……時間、どれくらい掛かるの」
唐突に、彼女が言った。
「ん?」
「だから……帰ってくるまでどれくらい掛かるか、って聞いてるの」
変な質問だな。なぜそれを聞く。
「……あぁ、そうだな。長くて三十分くらいで帰れると思う」
途端に。
リーファの蒼い瞳が、わずかに大きくなった。
「……三十分。短いわね」
「短い?」
「っ……な、何でもないわ」
視線が横へ逃げた。逸らした横顔が、さっきよりも赤くなっている。さっきからもじもじと重心が左右に揺れていた。片脚に体重をかけ、また戻す。指先が部屋着の裾を摘んでは離す、摘んでは離す。
「……わっ、分かった。行ってきてよ」
追い出すような言い方だった。
俺は黙ってリーファの顔を見た。火照った頬。泳ぐ瞳。乱れた呼吸。
……何かある。
だが問い詰める気にはなれなかった。
「じゃあ、行ってくる。扉に鍵を掛けてくれ。帰ってきた時は三回ノックする」
「……分かってる」
扉を閉めた。
廊下に出た直後、かちり、と内側から鍵の落ちる音がした。
俺は少しだけそこで立ち止まり、それから階段を下りた。
*< 三人称視点 >
――ここで少しだけ「エルフ」という種族について説明しておく必要がある。
エルフ。魔族の中でも最も知能が高い種族。
その美しさは人間の詩人たちが幾度も歌に詠み、その叡智は大陸の歴史書に幾度も刻まれてきた。
だが彼らの種族には、優雅な外見に似つかわしくない、実に人間くさい「生理的制約」が一つある。
エルフは毎晩、就寝前に必ず「自己魂力循環」を行わなければならない。
難しく言えばそうなるが、要は――自らの手で、魂力を体の末端まで巡らせる行為だ。
放置すれば翌朝の魂術の精度が著しく落ち、最悪の場合、一日を通して魂術が使えなくなる。
そしてこの「循環行為」には一つ、どうにも不便な特性がある。
魂力を末端まで巡らせる最も効率的な方法が、自身の最も敏感な部位を刺激する、あるいは準ずる行為をするという点だ。
エルフにとっては水を飲むのと同程度の、ごく当たり前の日課に過ぎない。
ただ、それを他者にに見られたいかどうかは――また、別の話である。
*< ミロク視点 >
酒場の笑い声や、石畳に滲む焚き火の光が占めていた。路地の奥に蝋燭の灯りが点在し、どこか遠くで誰かが鼻歌でも歌っているのか、くぐもった旋律が夜気に漂っていた。
大通りを二本入ったところにある角の露店。近づくと、石窯の煙と脂の焦げる匂いが鼻腔を鋭く刺してきた。腕の太い中年の男が鉄の串をゆっくりと回しており、油が滴るたびに炎が小さく爆ぜ、橙色の火花が夜の石畳に落ちた。肉の旨みと香辛料が混ざり合った、胃袋を直接引っ張るような匂いが辺りに満ちていた。
「いくらだ」
「串一本、銅貨二枚。三本で五枚にしとくよ」
俺は三本分を頼んだ。男は手際よく串を紙で包み、俺の手に押し込んだ。
熱い。紙越しに、焼けた肉の熱が掌に伝わってくる。
隣には葉物と根野菜を並べた小さな青物屋だった。
今夜は宿で食べる。火は使えないから、生で食えるものでいい。俺はいくつか指で示して、銅貨を払った。飲み物は宿の女将に頼んで水を借りれば十分だ。
包みを脇に抱えながら、俺は頭の端に引っかかっていた問いを転がした。
――今夜、魂核で待っている。
あの声が、まだ消えていない。
レグナートは「いつ乗っ取られるか分からない」と言った。
今日は俺が主導権を保っているが、それがいつまで続くのかは分からない。こいつが何者で、何を目的にして俺の中にいるのか。正体も理由も分からないまま同居を続けるのは気持ちが悪い。
「魂核で会う」ということの意味なのかは分からないが、今夜、話をするのは確実。その時に聞けばいい。
俺は来た道を戻り始めた。
宿の扉を押し、軋む木の階段を上がる。廊下は薄暗く、壁の燭台が一本だけ、頼りない灯りを落としていた。
その時だった。
廊下の奥、共用のトイレの方角から――何かが聞こえてきた。
「……んっ、ぁ……」
俺の足が、自然と止まった。
「あっ……ふぅ、んっ……ぁ……」
……。
なんだ。
俺は数秒、廊下の真ん中で立ち尽くした。
二階建ての宿だ。他にも客がいることは最初から分かっていた。だが、よりにもよって廊下に筒抜けになるトイレでやることはないだろう。壁が薄いのか、それとも特別声が大きいのか。とにかく不可抗力で耳に入ってくる。
声が、小さくない。
明日はクエストだ。睡眠の方が遥かに重要。それにリーファがいる。彼女にこの声何?と聞かれても反応に困るだけだ。
他の客も迷惑しているはずだし、一声かけるのが妥当だろう。
俺はため息を一つ吐いて、音の方向へゆっくり歩いた。
一歩ごとに、声が少しずつはっきりしてくる。
……?
何かが、引っかかる。
「んっ……ぁあ……っ」
ノックしようと右手を上げた。
ト、ン。
一回叩いた。扉越しに声を出す。
「取り込み中すまないが、声が漏れている。他の客もいるから、少し――」
二回目を叩こうと、手を返した、その瞬間。
スカッ。
手が、空を切った。
……扉が、開いていた。
一回目のノックの反動で押し込んでいたらしい。鍵が掛かっていなかった。扉は内側へゆっくりと、まるで見てくださいと言わんばかりに、無情に開いていった。
「て、あっ……」
俺の声が、間抜けに廊下に漏れた。
視界が、一瞬で白く飽和した。
そこにいたのは――リーファだった。
防具も、上の服も、脱いでいた。
月光を映したような白磁の肌が、蝋燭の乏しい光の中でそれ自体が発光しているように白く輝いている。銀髪が乱れ、片方の肩から零れ落ちていた。火照った頬に張り付いた前髪が、呼吸に合わせて小さく揺れている。片手が胸元に添えられ、もう片方の手が――下の方へ、向かっていた。
手に持っていた肉の包みが、重力に従って、ゆっくりと廊下の床へ落ちていった。
ぼとん、という音が、やけに大きく聞こえる。
蒼い瞳が、丸く見開かれた。
――時間が、凍りつく。
開いた扉の向こうで、リーファが俺を見ていた。俺も、リーファを見ていた。どちらも動けなかった。どちらも、声が出なかった。
永遠のような沈黙が三秒続いた後――俺の思考が高速で動き始める。
待て。落ち着け。まず状況を整理しろ。なぜリーファがトイレに。
待て、それよりも重要な情報が今視界に入った。
へその下。
白い肌に、それまで見えなかった文字が、くっきりと刻まれていた。「Z001」の数字と、その周囲を取り囲む奴隷紋の紋様。
あぁ。だから見えなかったのか。
魔族の場合、刻まれる場所が違うとレグナートが言っていた。「今夜には分かる」という言葉の意味が、最悪なタイミングで答え合わせされた。
――おい。
今それどころじゃない。
「こっ……」
リーファの唇が、震えながら動いた。
みるみるうちに、彼女の顔が赤く染まっていく。耳だけが赤かった今日の彼女の顔が、今は首の根元まで、一色に染まっていた。身を縮めて、片手を俺へ向けて突き出す。
「……出て、いって」
低かった。
震えを奥歯で噛み殺した、静かで冷たい一声。
「待っ、リーファ、俺の話を――」
「白き吐息は慈悲、空想は氷刃と化す。描くは凍てつく景色、綴るは零の叙事詩――!」
不味い。
「白き霧の帳よ、我が意思を依代に形を成せ」
「頼む待ってくれ!」
「魂能:『絶対零度』!!」
ファンッ――!
白い霧が、一瞬で廊下の空気を塗り替えた。床から霜が走り、壁を白く覆い尽くす。吐いた息が白煙になる。細かな氷の結晶が、数えきれないほど虚空に生まれ、その全ての矛先が俺へ向いた。
速い。この距離では回避しきれない。
「止まれ! リーファ!!」
直後、リーファの動きが――ピタリと止まった。
氷の結晶が、勢いを失って宙に静止する。
俺の鼻先で、尖った結晶の切っ先が止まっていた。数センチだけ前へ進んでいたら、今頃俺は廊下で氷漬けになっていた。
…………。
白い霧が、廊下をゆっくりと流れていく。
俺は荒い息を整えながら、止まれという命令を受けたリーファを見た。
俯いたまま固まっている。肩が小刻みに震えていた。怒りか、羞恥か。おそらく、その両方だろう。対して俺は心の奥底から、罪悪感が湧き上がってきた。
……俺は、今、何をした。
「止まれ」と叫んだ。奴隷紋を通じた命令として。
嫌だと言えない強制の力。俺が十年間、骨の髄まで憎んできた、あの感覚と同じものを――今、俺はリーファに向けて使った。守ると言った彼女にそう言ってしまったのだ。
白い霧の中、廊下に転がった肉の包みが、ぼんやりと湯気を上げていた。




