第十四話 奴隷に厳しい世界:二人っきりの部屋へ
「こんなところにまで入ってくるのか」
「いやね、食事が不味くなるじゃない」
俺は表情を動かさなかった。
この視線には慣れている。街に出るたびに向けられてきた目だ。驚きでも、怒りでもない。ただ——異物を確認した時の、静かで無自覚な冷たさ。
俺は無視しながらカウンターへ真っ直ぐ歩いたが、隣が付いてこなかった。
入口のすぐ内側で、彼女は立ち尽くしていた。
蒼い瞳が、室内をゆっくりと見渡している。男の席を女の顔をこちらへ向いたままの視線の数を——確かめるように。
唇が、きゅっと結ばれた。
表情は変わらない。だが、さっきまでパンの匂いにつられていた耳が内側へと折れ、僅かに震えていた。
奴隷としての日が浅いのだろう。俺と違って慣れていないように見える。その姿もまた、幼い頃の俺の姿と重なった。
俺はリーファの元へ戻り、低く、他の客に聞こえない声で呼んだ。
「リーファ」
彼女の視線が、ようやく俺の方へ動いた。
「大丈夫だ。俺がいる」
返事はなかった。
ただ、リーファはしばらくの間だけ俺の顔を見ていた。
それからトコトコと前を向いて歩き出した。
俺の隣に立ち無言のまま、俺の袖の端を二本指でそっと掴んだ。
耳が元に戻り、震えが止まったことを確認した俺はカウンターの前に立ち、財布を取り出した。
「二人分、丸パンとスープ、この子にはクッキーも頼む」
丸顔の主人は俺の首元に一度だけ目を落とし、それから何事もなかったように頷いた。
「銅貨二枚だ」
俺は黙って払い、窓際の隅の卓へ向かった。
リーファは俺の袖を離さないまま、ついてきた。卓の前に来てようやく指が解け、彼女は椅子に腰を下ろした。
少しして、木の皿が届く。
丸パンは表皮がきつね色に焼けていて、スープからは白い湯気が立ち昇っている。豆と塩漬け肉の匂いが鼻の奥まで届いた。
リーファがキラキラとした目で皿を眺めていた。
俺が食べないと食べずらいかと思い、先にスープを一口飲んだ。豆の重みが舌に乗る、素朴な旨さだ。
リーファはようやく、パンの端を指先でちぎった。慎重に、まるで毒味でもするように口に運ぶ。
それから——彼女の表情が、ほんの少しだけ溶けた。
「んん~」
口の中に広がるものを確かめるように、ゆっくりと咀嚼する。
もう一口。今度は少し大きく。
それから、スープの椀を両手で持ち、一口啜った。
「……うまいか?」
俺が聞くと、リーファは顔を上げた。
「……うん」
そう言いながらもう一口かぶりついた。耳の先がほんのり赤い。余程口にあったのか、少し素直になったようだ。
「それは良かった」
俺は自分のパンを手に取った。
外側は硬く、中は驚くほど柔らかかった。焦げた小麦の香ばしさと、甘みと塩気が均等に広がる。奴隷の食事は固くて臭い乾燥パンか、正体不明の煮物だった。これほど単純な食い物が、これほど美味いとは思っていなかった。
俺はここで色々とリーファについて聞きたいことがあったのだが、美味しそうに食べているリーファの姿とV字鎧の件があったからか妙に聞きづらかった。
しばらく、二人とも黙って食べた。
*< 三人称視点 >
冒険者――それはギルドからクエストを果たすことで報酬を得る者たちの総称。
実力に応じて階級が与えられ、Eランクから始まり、やがてはSランクへと至る。
魔族討伐、護衛任務、危険地帯の調査、様々なクエストが存在する。
そして魔族がS~Eの等級に分かれているのは、その魔族の等級以上の冒険者ランクならば討伐可能、依頼をこなせるかの指標としてもなっている。
この世界で最も稼げる(裏の商売を除く)職業。
だが同時に最も危険な職業と言われている。
*< ミロク視点 >
次の目的地は、決まっていた。
冒険者ギルド。レグナートから聞いていた場所だ。
大通りの東側、鍛冶屋と宿屋が集まる区画に、この都市で唯一の冒険者ギルドがあるという。金を稼ぐには、まずそこへ登録しなければならない。
道を歩きながら、俺は頭の中で段取りを組んだ。
登録に必要なもの——銀貨数枚の登録料、そして、身分証明書。必ず求められる書類だ。それは知っていた。
しかし、既にその問題は解決している。
……
数時間前の話だ。
リーファを背負い、レグナートに背を向けて歩き出した直後——男の声が、後ろから静かに届いた。
「振り返らなくていいので聞いてください。あなたが冒険者になるのでしたら、今身に着けている服の内ポケットにある書類が役に立つはずです。Z001番のポケットの中にも同様です」
足が止まった。
「いくらだ?」
「いりません。前金の中に含まれていたとお考えください」
何か裏がありそうだと思い、歩きながら片手でリーファを支え、片手で内ポケットに手を差し込む。指先に触れたのは、丁寧に折り畳まれた一枚の紙だった。
広げると——奴隷証明書(奴隷の身分証明書)。
俺の奴隷番号と戦歴、そして主人の欄。
そこに記されていたのは、オルローの名ではなかった。
レグナート。
十年前の書類を、バレないように書き換えたのだろう。
本物の奴隷商人が、本物の書式で、本物の透かしまで入れて作った偽造書類。もはや偽物と呼ぶ方が無理がある。自由行動可のボックスには、きっちりとチェックが入っていた。
試着の際にリーファにも書類を見せてもらったが、やはり同じだった。リーファの主人欄にも、レグナートの名が記されている。
俺はもともと、この手の書類を自分で偽造するつもりだった。
十年前、レグナートとの商談に同行した際、何度も偽の書類を作らされた経験がある。書式は頭に入っていた。インクと紙さえあれば、それなりのものは作れた。
俺は今、オルロ―の所有物。しかし、その当人のオルロ―はいない。
それが露見すれば俺は逃亡奴隷扱い、オルロ―が迎えに来るまで牢獄行き。だからこれと同じような書類を作ろうとしていた。
だが——この書類の前では、俺の技術など子供の落書きに等しかった。
さすが、裏の世界で”百年”生きてきた男。
俺がこれから何をするかまで、とっくに読まれていた。
……
冒険者ギルドもまた、遠くからでも一目で分かった。
木造と石造りの三階建て。入口の上に、剣と盾が交差した紋章の看板。扉の前では屈強な男たちが笑いながら話し込んでいた。全員、腰に武器を提げている。俺たちを見て、ちらりと目を向けたが、特に何も言わなかった。
扉を押すと、煙草と汗と革の混ざった匂いが飛び込んできた。
中は広く、正面に長いカウンターが並んでいた。その奥には数人の受付係が書類を処理している。
左の壁一面は巨大な掲示板で、色分けされた大量の依頼書が隙間なく貼り付けられていた。右側には丸テーブルが並び、冒険者たちが飯を食いながら大声で話している。
天井から吊り下げられた大きなランタンが、室内を暖かく照らしていた。
俺はカウンターへ向かった。
「冒険者登録をしたい」
受付に座っていたのは、二十代半ばほどの細面の受付嬢だった。ポニーテール、丸眼鏡、書類を手に持ったまま顔を上げる。その視線が俺の首元で、一拍だけ止まった。
「……失礼ですが、奴隷紋がございますね。ギルドの規定では、奴隷身分の方が冒険者登録をされる場合、主人の許可証、もしくはそれに準じる書類が必要になります」
俺はレグナートの書類を取り出した。リーファの分も合わせて、二枚。カウンターに静かに置く。
受付嬢が書類を手に取り、目を走らせた。
「お預かりいたします。二枚ということは、お二人ともご登録なさるということで間違いはないでしょうか?」
「そうだ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
女は書類を持ち、カウンターの奥へ消えた。
俺はリーファを連れ、左壁の掲示板へ向かった。
依頼書の量に、まず圧倒された。
一番上にS~Eの表記があり、縦線で区切られている。
Eランクは一番右。白い紙だけで、ざっと数えて四十枚以上ある。
街道の魔族討伐(E級魔族のみ)。薬草の採取。行方不明者の捜索。荷物の護衛。廃坑の調査。怪しい人物の尾行。果物を運ぶだけの簡単な配達まである。
報酬は依頼によってばらばらだ。配達が銀貨三枚。魔族討伐の中には金貨一枚を超えるものもあった。ただし死亡率の注記が横に書いてある。
「……これ、全部依頼?」
隣でリーファが呟いた。
「あぁ。困っている人間が金を出して、冒険者に頼む仕組みだ」
俺は一枚一枚、丁寧に読んでいった。今日は受けない。情報を頭に入れるだけでいい。
「今から行くの?」
「明日からにしようと思う。今日はもう遅いからな」
「……そう」
ちらりと横を見た。
リーファは依頼書を眺めながら、真剣な顔をしていた。文字を一字一字追っている。
A級魔族が知能が高いと聞いていたが、驚かされることばかりだ。
人の言葉は完全に理解できているし、俺との会話も問題はない。
ぼそぼそと依頼書の内容に対して口にしている限り、字も数字も読めているようだ。
「お待たせしました。書類に不備はないのですが、奴隷身分の方の登録には、通常の審査に加えて別室での”身体検査”が必要となります。こちらへどうぞ」
身体検査と丁寧な言葉で説明されたが、変な病や呪いの類を持っていないか、逃亡奴隷ではないかなどを確認するためだろう。
それが……約三時間ほど検査が行われた。
受付のところに戻ってきたころには二人とも精神的に疲れていた。
血の採血や魂術による検査があまりにも長かった。
時間が掛かると思ったが、まさかここまでとは……。
「登録料は、お二人合わせて銀貨六枚です。ランクはEからとなります。おめでとうございます」
女が事務的に言った。
俺は無言で銀貨を払い、表に「E」の刻印が刻まれた薄い金属の板を二枚受け取った。
……
ギルドを出た俺たちは宿を探していた。
時刻としては二十時頃。
大通りから一本入った路地に、軒を連ねるように宿屋が並んでいた。看板を確認しながら歩く。高そうな店はすぐに除外した。扉が煤けていて、窓から蝋燭の光が漏れているくらいの、庶民的な宿がいい。
三軒目。「夜鳥亭」という看板の宿に入った。
受付の老婆が顔を上げ、俺の首元を一秒見てから、何も言わずに料金を告げた。
「一泊、銀貨一枚」
「部屋は?」
「空いているのは小部屋だけだよ。ベッドは一つ。それでよければ」
一つ……か。
俺はちらりとリーファを見た。
リーファは腕を自身を抱きしめるように交差させながら言い放った。
「私に危害は?」
老婆ではなく、俺に向かって言っていた。
腕を胸の前で交差させ、上目遣いで俺を見ている。
「……加えないから安心しろ」
「どうだか。私にV字露出多め鎧を着せたご主人様~」
声が、少し大きかった。
老婆の視線が、俺に刺さった。
俺は無言で書類を受け取り、必要事項を記入した。名前。人数。滞在日数。
書き終えて顔を上げると、老婆はまだ俺を見ていた。
値踏みでも、蔑みでもない。
どこか哀れむような——それでいて、妙に納得したような目だった。
部屋に入ると、蝋燭の橙色が狭い室内の輪郭を浮かび上がらせた。
窓は一つ。拳さえ通らないほど小さな鎧窓から、外の雑踏がくぐもった音になって届いてくる。石造りの天井は低く、俺が両手を上げれば届きそうなほどだ。壁の厚みが外気を完全に遮断しており、蝋燭一本が放つ熱が、逃げ場もなくじんわりと室内に溜まっていた。
置かれているのは、一人用のベッドと、脚のぐらつく小さな木の机と椅子。それだけだ。
ベッドに目が行くと、喉の奥が微かに詰まった。
……横幅が、致命的に狭い。
俺とリーファが並んで寝れば必ず肩が触れる。まぁ俺が床に寝ればいいか。この際、寝心地など贅沢を言う立場ではない。
リーファはすでに部屋の隅へ歩き、壁際のクローゼットを開けていた。
「……着替えはある、みたいね」




