第十三話 魔王が笑い、見届ける日常
試着を待つ間、俺は店内を見て回った。
「俺の装備も選ぶか」
独り言のように呟いて、壁際へと歩く。
目星はついていた。前と似た構成でいい。
ただ今回は、少しだけ高価な物を選ぼうとしていた。
三日前の、あの感覚がまだ指先にこびりついている。
黒い騎士に叩き落とされ、奈落へ向かって落ちていく絶望。風圧で鎧がひしゃげ、砕け散る音。地面に叩きつけられた衝撃で、愛用の短剣も呆気なく折れた。
装備は消耗品だ。そんなことは分かっている。だが、死の淵で何も持っていないことの恐ろしさは骨身にしみた。次は同じ目に遭わないように改善する。
店内を探していると壁のフックに、対になった黒鉄の短剣が並んでいた。
手に取ると、吸い付くような感覚がある。グリップに刻まれた細かな溝が、指の腹をしっかり捕らえた。鉄の密度が、以前の安物とは格が違った。迷わず二本を手に取る。
それから鉄の手甲。機動性を殺さない程度の薄い胴鎧。地面を蹴るための、厚底の革靴。小物を入れるポーチ。
投擲用のナイフと砥石だけは安物で帳尻を合わせた。
会計を済ませ、服の上から装備を纏う。短剣の鞘を腰の両側に収め、新しい靴の紐を締める。革のポーチにナイフと砥石を入れた。
「これでしばらくは大丈夫だろう」
準備は整ったが、リーファが出てこない。
怒っているのか、それとも着替えに手間取っているのか。
さっきの俺の配慮のなさを思い出し、足取りが重くなる。露出の多い鎧を持っていったのが俺の配慮不足。嫌われたかもしれない、という不安が胸の底でじわりと滲んだ。
胸の……底で。
――ドクンッ。
心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。
意識が内側へと引っ張られる感覚。
*< 魔王:ゼノン視点 >
【……我が寝ている間に何が起きたかと思えば……これは”面白い展開”になってきたな】
暗く深い。完全な暗闇の中で、我は静かに目を覚ました。
眠っていたわけではない。あの奴隷商人に意識を断ち切られて以来、体の主導権を奪い返す算段を練りながら、この人間の感覚器官を通して外の世界を眺め続けていた。
目に映るもの全てが我には腹立たしかった。
塵のように湧き出る人間の群れ。声、熱、臭い。
吐き気を催すほどの生の雑踏。
だが、我は見続けた。
なぜなら——感じていたからだ。
自身の魂核の欠片が、放つ微かな魂力の気配を。
この都市に来たのは最初からそのためだ。散らばった我の十二個の欠片。その一つが、ここにいる。
そして——"街を歩いている間"に、我は気づいてしまったのだ。
……。
ふ。
……ふ、ふ。
ふふふ……ふふふふふ……。
【……ふははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははーーーー!!!!】
…… せっかくだ。「00000000」と行こう ……。
はぁ~。しばらく気分が削がれていたが、興が乗ってきたな。
さて……問いかけるか。
ピンッ!
【聞こえているか? 人間。今夜、魂核で待っているぞ……】
*< ミロク視点 >
はっ……!!
強引に意識が浮上した。
水底から首根っこを掴んで引きずり出されたような、不快な感覚だ。
鼓動が速い。喉の奥が、嫌な熱を帯びている。
……夢、か。
違う。夢ではない。
俺の魂核の傍に、もう一つ別の魂核が宿っている。そいつが今、俺に向かって話しかけてきた。
黒く禍々しい輪郭だけの何か。名前も顔も分からない。
だが確かに、俺の奥底に根を張って、こちらを見ていた。
……今夜、魂核で待っている。
どうやって行くんだ。
「……ミロク、様」
控えめな声が、思考を断ち切った。俺は顔を上げ、試着室の方を向いた。
厚い仕切り布が、指一本分だけ開いている。
その隙間から——銀髪が、揺れていた。
俺は一度、頭の中の「もう一人」を押し込め、足音を殺して歩み寄った。
彼女の手が布の端をほんの少し握りしめていた。
リーファは小さく短く息を吸い込み、布を払った。それと同時に俺は言葉を失う。
深い海の底のような薄藍色。
鞣した革の滑らかな光沢が、店内の薄暗い灯りの中でも艶やかに浮き上がっている。細く絞れたウエストのベルトが、彼女の輪郭を静かに縁取る。すらりと伸びた脚が布一枚から解放されたことで、驚くほど綺麗に見えた。
そして——胸元のV字のラインから覗く、白磁のような首筋。
蒼い瞳が、真っ直ぐにこちらを向いている。
だが、その耳の先端だけが、隠しきれないほどに赤く燃えていた。
「……似合って、る?」
視線を泳がせながら、上目遣い。
俺が答えるより先に、彼女の指がほんの少し、鎧の裾を摘んだ。無意識の仕草だと思う。
「ああ。すごく、似合っている」
嘘をつく理由がなかった。本当に美しいと思ってしまった。
リーファは目を丸くした。
予想していなかったのか、それとも素直に褒められ慣れていないのか。少しだけ瞬きをして、それから眉尻を困ったように下げ、黙り込んだ。耳の赤みが、頬まで滲みてくる。
沈黙。何かまずいことを言ったのだろうかと心配になったが、今度は彼女が俺のことを爪先から頭の天辺まで、ゆっくりと見渡していた。
「……あなたも」
ぽつり、と。
「その……いい、わね」
言い切るや、すぐに顔を布の影に沈めてしまう。
布の内側から聞こえてくる、短い呼吸。いい、というのは彼女なりの、精一杯の言葉だと分かった。
その鎧を選んだことで完全に信用が無くなったと思っていた今の俺には救いの言葉にすら感じた。
見た目など二の次で選んだ装備だったが、彼女にそう言われると——悪くない気分だった。
「ありがとう」
バサリ、と布が引かれる。
「二着目、持ってきて」
布越しの声は、さっきよりも少しだけ、低い。
「今度は……えっちじゃないやつで」
やはり、まだ怒っているのかもしれない。信用を取り戻すのは本当に難しそうだ。
俺はため息を一つ零し、棚へと引き返した。
結論から言えば、防具の買い物に二時間かかった。
理由は単純だ。リーファが、選ばなかったからだ。
二着目を持っていくと、しばらくして「……これも、変」と布越しに返ってきた。
三着目。「……袖が邪魔」。
四着目。「……色が暗い」。
その後も続き、気づけば店内の女性防具をほぼ一周していた。
最終的にリーファが選んだのは——最初に俺が持っていった、あの薄藍色の革鎧だった。
ただし、胸元だけはさすがに気になったらしい。店員に食い下がって、V字のラインを細い共布で塞いでもらった。とは言ってもV字のラインが完全に消えたわけではなく、谷間の部分は見えていた……。俺は何も言わず見なかったことにする。
仕上がりを確認したリーファは、鏡の前で少しだけ長く立ち止まっていた。
会計の時、丸眼鏡の老店主が「娘さん、可愛いですな」と言った。
リーファは耳をわずかに赤くしたまま、俺とは逆の方向を向いた。
俺は余計なことを言わず金銭を払った。
……
次は食事だ。
思い返してみれば、今日は朝から何も口にしていない。
二人分の防具を買い終えた財布の中身は、金貨六枚と銀貨が数枚。貯金どころか借金の身だ。なるべく安く済ませたかった。どこか安価で済むところはないか?
するとその問いに答えるかのように風が、焼きたての麦の甘い香りを届けてきた。こんがりと焦げた皮の香ばしさが乾いた空気に乗って、鼻の奥まで真っ直ぐに届く。
石窯を表に据えた小さなパン屋が、路地の奥に灯りをともしていた。
俺が足を止めるより先に——隣でリーファの小さな鼻が、ひくりと動いた。
「……良い匂い」
声が、普段より少しだけ柔らかかった。本人は気づいていないだろう。
「ここでいいか」
「……私は、別に」
本当に素直ではないな。その姿も可愛いと思ってしまう。目線を逸らしているが鼻だけは正直なところも。匂いにつられて、ひくりひくりと動き続けている。
いい匂いだもんな。仕方ない。
「入るぞ」
扉を押した。
店内は小さく、石造りの壁に木の棚、焼きたてのパンが種類ごとに並んでいる。カウンターの奥では丸顔の中年の男が手を動かしていた。四組ほどの客が石造りの机を囲み、湯気の立つスープを前に話し込んでいた。
入った瞬間——全員が振り返り、騒がしかった店内に沈黙が一拍だけ落ちた。
視線が集まる先は、俺の首だ。「S666」の刻印。赤黒く烙印された奴隷紋。
「……奴隷じゃないか」
右の席の男が声を抑えず言った。連れの女がくすりと笑い、鼻に皺を寄せた。




