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【奴隷君主】滅びた魔王を宿す者の崩壊路~世界は知らない、魔王は今もなお、少年の中で生きていることを。  作者: T.T
第一章 魂の世界

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第十一話 商人は見た、二人の成長を

 新しい氷の結晶を、生み出す気配がない。白い膜の向こうで、彼女の表情が揺れているのが分かった。


「……馬鹿みたい」


 そんな彼女がぽつりと言った。


「血だらけになって、ボロボロになって……そこまでして。そんなに自由が大事なの?」

「あぁ、命を賭けるくらいには」


 沈黙が、また落ちた。

 ロウソクの炎が、細く長く揺れる。白い霧が、ゆっくりと、ほんの少しだけ薄くなった。

 彼女はうつむいた。枷に繋がれた両手が、膝の上でかすかに動く。

 次の瞬間、彼女の枷に繋がれた手が、ゆっくりと、ぎこちなく持ち上がった。

 震えている。

 俺の差し伸べた手の方向へ、おずおずと、迷いながら、それでも確かに伸びていく。

 触れるか触れないかの距離で、指先が止まった。少女の蒼い瞳が、俺を真っ直ぐに見上げる。

 その目の奥にある光は、もう怒りでも憎悪でもなかった。


「勘違いしないで。まだあなたのこと完全には信用していないから」


 彼女の指先が、俺の手の甲に、ふっと触れた。

 その瞬間だった。

 ヒュオォォォン、と空気が鳴り、霧が一気に収縮する。壁を覆っていた霜が砕け、天井からぱらぱらと細かい氷の欠片が音もなく降り注いだ。白い世界が崩れていく。まるで、ずっと張り詰めていた何かが、ようやく糸を緩めたように。


「私もここにいるよりは、自由に生きたいと思っただけ。ただ、それだけだから」

「……ありがとう」


 俺の口から、それだけが零れた……それと同時に彼女の身体は前へと傾いた。

 魂力を吸い取る手枷を付けたまま魂能を使い続けた反動か、それとも長い拘束による消耗か。彼女の細い肢体から突然、力が抜けた。

 俺は咄嗟に踏み込んだ。

 すでに感覚の消えた足で氷の上を蹴り、傷だらけの腕を広げ、彼女の身体を受け止めた。

 彼女は俺の胸に、静かに倒れ込んできた。

 恐ろしいほどに、軽かった。


「……」


 彼女は俺の胸の中で、しばらく動かなかった。

 地下室には、ロウソクの燃える音だけが残っていた。砕けた氷の欠片が、ぱらり、ぱらりと白い石畳に落ちていく。


「…………名前、なんていうの。番号じゃなくて、あなたの」


 胸の中から、かすれた声がした。

 俺は少し間を置いてから、答えた。


「ミロクだ」

「……ミロク。本名?」

「いや、本当の名前は知らない。自分で付けた名前だが、気に入っている」


 そういえば、彼女の名前をまだ知らなかった。俺は彼女の背中に視線を落としたまま、静かに問い返した。


「君の名前は?」

「……リーファ」

「そうか、素敵な名前だ」


 彼女はそれ以上何も言わなかった。


 パチパチパチパチ……。


 鉄格子の向こうから、乾いた拍手が聞こえた。

 振り返ると、レグナートが丁寧に両の手のひらを打ち合わせている。まるで観劇でも終えたかのような、満ち足りた顔をしていた。


「実に感動的な場面でした。お見事です」


 本当に思っているのやら、この男のせいでとんでもないことになったぞ。危うく死にかけた。


「御託はやめろ。金はいつ払えばいい。金貨でどれくらいだ?」

「エルフは大変貴重な商品でしてね。さらに人間とのハーフとなりますと……」


 レグナートは胸ポケットから年季の入ったそろばんを取り出し、指を走らせた。乾いた玉の音が地下室に軽やかに響く。ほんの数秒。彼はそろばんを俺の目の前に差し出した。

 ――金貨、二百五十枚。

 その数字を見た瞬間、俺の脳内が真っ白になった。

 俺とナナとイツキの三人で、地獄のような十年間、死地を潜り抜け、血を吐きながら積み上げてきた金額が、金貨二百枚だ。それすら超える値段を、この男は顔色一つ変えずに突きつけてくる。


「せめて金貨百で手を打ってくれ」


 苦渋を丸ごと飲み込んで、俺は言った。


「ダメですね。金貨二百五十枚です。前金として金貨五十枚はただちに頂きます。今すぐ銀行で借金をして、私に届けてください」

「……百二十五」

「二百五十」

「百五十」

「二百五十です」


 この男、びくともしない。


「……二百。これ以上は出せない」


 俺が歯を食いしばって絞り出した数字に、レグナートはそろばんの玉をぱちんと弾いた。


「商談成立です」


 初めから値段を高めに設定して、俺の限界まで引き出してきたか。

 一分足らずの交渉で、俺は完全に手玉に取られた。


「一応聞くが……彼女に奴隷紋は必ず刻まなければならないのか」


 できれば避けたかった。俺の首に刻まれたこの忌々しい数字が、彼女にも刻まれると思うと、胃の奥が重くなった。


「えぇ、必ずです。今、彼女は私を主人とした奴隷紋を刻まれています。それをあなたを主人とした奴隷紋へ上書きしなければなりません」


 主人の上書き。解除ではないが、切り替えること自体は容易。しなければ、彼女はこの男の奴隷のままいるのか。それは可哀そうだ。仕方ない、か。

 レグナートは懐から細い筆ペンと、紫色の小瓶を取り出した。栓を抜くと、鼻の奥を刺すような不思議な匂いが漂う。ペンの先にインクを含ませ、それを俺に手渡す。


「それを彼女の首に一周させてみてください。それだけで、奴隷紋が刻まれますよ」


 俺はペンを受け取り、檻の中に戻った。

 少女は俺を見上げていた。もう氷は出てこなかった。それでも、視線には緊張の色が残っていた。

 俺はそっと、その細い首に筆の先を当てた。

 柔らかい。一本一本の銀髪が、ペンの動きに合わせてさらりと揺れる。首筋の白い皮膚が近くにあり、俺はできるだけ視線を手元に固定したまま、首を一周させた。


「んッ……」


 彼女が小さく声を漏らした。

 ジュワァ、と微かな熱の音がして、紫のインクが肌に溶け込むように消えていく。

 俺は後退りながら確認したが、首には何も見当たらなかった。


「どこにも見えないが。奴隷紋はどこに刻まれた」

「魔族の場合、人間とは刻まれる場所が異なることが多いのですよ。首に無し……ということは大体”あそこ”ですね」


 頬を赤らめ、火照っている彼女に奴隷紋は見受けられなかった。

 俺も首に刻まれると思ったのだが、どこに刻まれたんだ。


「じゃあどこだ」

「今夜にでも分かりますよ」

「今夜?」


 まるで意味が分からなかった。彼女に視線を向けると耳まで赤くなって目を逸らした。

 俺は一ミリも理解できないまま、レグナートに続いて地下室を後にした。


 地上に出ると、昼の光が眩しく降り注いだ。

 入るときは重かったはずの空気が、今は少しだけ違う色をしている気がした。 

 懐は空っぽで、これから背負う借金の重さは金貨二百枚分だ。状況は何一つ解決していない。それでも、A級魔族が仲間になった。とは言え、心を許してもらったわけではない。奴隷という形で一時的にだ。俺は彼女を守りながら、少しずつ信頼を勝ち取っていく必要がある。

 その彼女は今、地下室の出口の前、石壁に片手をつきながら、ゆっくりと階段を上り切ったところだった。拘束で弱った足が、まだ覚束ない。


「前金五十だったな。今から借りてくる。銀行はどこだ?」

「突き当りを右、大きな建物と看板がありますので分かると思います」

「分かった。リーファ。君はレグナートと一緒に居てくれ。すぐに戻る」


 消耗した身体に、銀行の往復まで付き合わせるのは忍びなかった。

 だが、リーファは俺の言葉が終わるより早く、首を横に振った。


「待って。私も行く」

「でも体が――」

「あの男と二人でいるのは嫌」


 俺は思わずレグナートに視線を向けた。

 あんた、何をしたんだ。そう目で問いかけると、男は無表情のまま、ゆるやかに首を傾けた。特に何も、と言いたげな仕草だった。

 俺はため息を一つ吐いて、彼女の元へ向かい、その場にしゃがんだ。

 ……その時だった。

 屈んだ拍子に、ふと自分の腕が目に入った。

 傷が、ない。

 指先で左腕をなぞる。氷の結晶に深く切り裂かれ、血が止まらなかったはずの傷が跡形もなく消えている。脇腹も。足の裏も。地下室の白い霜を赤く染めていた血も俺の身体のどこにも痕跡を残していなかった。

 ……何が起きた?

 胸の奥の深いところが静かに疼いた。

 俺の中に宿る、もう一人の誰かの気配。名前も姿も理由も分からない。それでも確かに、俺の中に存在する何か。

 こいつは一体、何者なんだ。何の目的があって俺の中にいる。なぜ俺の体を修復した。

 そして、いつまた体の主導権を奪おうとする……。

 今は考えるな。答えは、これから探す。

 俺は思考を押し込め、リーファの方を向いた。


「歩くのはキツイだろ。俺が背負う。乗ってくれ」


 彼女は少しの間だけ、じっと俺の顔を見ていた。


「……うん」


 細い腕が、おずおずと俺の肩にかかる。背中に伝わる体重は恐ろしいほどに軽い。

 俺は立ち上がり、石畳を歩き出した。

 銀行で金貨六十枚の借金を作り、そのうちの五十枚を無言でレグナートに渡した。男はそろばんも弾かずに金貨を数え確認し、ハットの縁を静かに持ち上げた。


「良い旅を。S666番」


 俺は振り返らなかった。


*< 三人称視点 >


 石畳の上を、二つの影が並んで伸びていく。

 ミロクはリーファを背中に乗せたまま、人の波をゆっくりと歩いていく。行商人の掛け声と、馬車の轍の音と、子供たちの笑い声が混ざり合う昼の街の中へ、その後ろ姿はやがて飲み込まれ、見えなくなった。

 路地裏に一人残ったレグナートは、そろばんをそっとしまい、静かに空を見上げた。


「……"スカーレット"」


 男の唇が、誰にも届かない名前を呼んだ。

 風が路地を通り抜け、ハットの縁を揺らした。


「見ていますか?」


 返事はない。当然だ。返ってきたことなど、一度もない。


「あなたの息子は……また一つ、大きくなっていましたよ」


 レグナートは長い沈黙の中、ただ空を見つめていた。

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