第十話 魂能(ソウルオリジン):『絶対零度(ホワイト・アウト)』
俺が首元の数字を見せた瞬間、彼女の瞳の激しい揺れが、嘘のようにピタリと止まった。
彼女は何も言わない。ただ、赤黒く烙印された醜い番号を、信じられないものを見るような目で凝視し続けている。
何から話せばいいか。
彼女は俺が奴隷で対等な立場であることを知り、少し落ち着いたように見える。だが、警戒心は決して解かれていない。だから、まず用件を話す。俺が何のためにここに来て、彼女に何を望んでいるのかを。
「――俺は金を稼ぐために、一緒に”冒険者”になって共に戦ってくれる相手を探していた」
俺はできるだけ声を低く、静かに保った。怯えた動物に近づく時のように。
「君が、一緒に来てくれると嬉しい」
鉄格子の向こうでヒュウ、と軽やかな口笛を鳴らすレグナート。
危険な仕事だと聞いているが、これから借金までする俺が最も効率よく稼ぐには冒険者しかないと、あんたの方が先に計算していたはずだ。だからこそ、金のない俺にこの商談を持ち掛けてきたんだろう。
彼女は糸が切れたように顔を伏せた。
「……何で」
消え入りそうな声だった。
かすれていて、薄くて、強い風が吹けばそのまま霧散してしまいそうなほどに。
「何で……私、なの」
俺はすぐには答えられなかった。
正直に言えば、答えは一つしかない。
――この部屋には、君しかいなかったからだ。
残酷なほどに、それだけだ。
だが、それを彼女に知られるわけにはいかなかった。
本当のことを話しながら、少しだけ嘘をついてでも、彼女に納得してもらうしかない。でなければ、彼女に何も届かない気がした。
「さっきも言ったが、俺は仲間を探していた。そこで偶然この男と再会してな」
親指でレグナートを指し示すと、男はハット帽の縁をつまんで軽く会釈した。
「A級の魔族で、人の言葉を話せる。戦場で意思疎通ができる強さは、何にも代えがたい。だから、君を選んだ」
実際はエルフについても何も知らない。今並べた情報も、この地下室に降りてきて初めて知ったことばかりだ。
彼女は膝の上に置いた両手を強く握り合わせた。手枷の鎖がジャラリと湿った石畳を引っ掻く。
「私は……弱いと、思うわ」
ぽつりと、彼女はこぼした。
「少なくとも俺よりは強い。俺はC級魔族一体すら、単独では仕留められない」
「……」
「だから、君が必要なんだ。俺にはできないことができる、君の力が」
種族も、性別も、歩んできた道も違う。
けれど、鎖に繋がれ、震える指先を必死に隠そうとしながら自分を守ろうとする彼女の姿を見ていると、どうしても昔の自分を思い出さずにはいられなかった。
レグナートに力ずくで押さえつけられ、オルローに奴隷紋を刻まれたあの日。あの時の俺には、選択肢なんて一つもなかった。嫌だと言う権利すら奪われ、ただ流れのままに地獄へと引きずり込まれた。抵抗する声も、抗う力さえも無駄だった。
だからこそ。
目の前の彼女には、自分の意思で選んでほしかった。
「君に決して危害は加えない。俺の仲間になってくれないか?」
俺は右手を、ゆっくりと彼女へ向けて差し伸べた。
枷に繋がれた手が届くか届かないか、その境界線の上に。
沈黙が落ちた。
地下室に残るのは、ロウソクの燃える微かな音と、少女の浅く乱れた呼吸だけ。俺は手を引かず、ただその答えを待った。
一秒が、十秒に感じた。十秒が、一分のように引き伸びた。
永遠にも思える停滞の果てに――彼女の薄い唇が、かすかに動いた。
「…………嘘よ」
全てを凍てつかせるような、一言だった。
「そんなの……嘘。あなたが今言ったこと、全部嘘なんでしょ?」
彼女は差し出した俺の手を、ひきつった顔で睨みつけた。
その蒼い瞳の奥で、恐怖と憎悪が激しく渦を巻いている。
「どうせあなたも、私の『体』が目的なんでしょ!?」
地下室に、彼女の悲痛な叫びが響き渡った。
「女のエルフが、人間に買われる。その末路がどうなるかなんて、決まっているじゃない! 慰み者にして、性奴隷としてボロボロになるまで使い回して……飽きたらゴミみたいに捨てるんでしょ! 私の故郷では、そんな話ばかり聞いてきたわ!」
彼女の肩が、呼吸をするたびに大きく上下に揺れる。
エルフについては何も知らない。だが、彼女が美しすぎることは俺にでも分かる。人の言葉を話す美しい奴隷の魔族がいたら、人間がどうするかなど、想像に難くなかった。
「危害を加えない? あり得ないわ。人間は皆、自分の欲のためなら平気で嘘をつく化け物だもの!」
「俺を信じられないのは当然だ」
できるだけ低く、穏やかに、俺は言った。
「初めはそうやって俺を疑ってくれて構わない。俺の言葉が嘘かどうかは、一緒にいれば分かる。だから――」
「来ないで」
彼女の声が、ひどく静かになった。
怒鳴り声より、それが遥かに恐ろしかった。
「白き吐息は慈悲、空想は氷刃と化す。描くは凍てつく景色、綴るは零の叙事詩。白き霧の帳よ、我が意思を依代に形を成せ」
ファンッ
「魂能:『絶対零度』」
ヒョオォォォォーーーー。
低く、空気が鳴った。ピキ、ピキピキ、ピキキキキキ。細い亀裂音が連続して生まれ、石畳の表面から純白の霜が広がり始める。地面から這うように。壁を伝うように。足元から空気を塗り替えていくように、白い霧が薄い膜となって部屋に広がる。
気温が落ちる。落ちる。さらに落ちる。
背筋どころか、肺の奥まで凍りつくような冷気だった。吐いた息が、白く煙になって虚空に溶けた。
俺は殺意を感じ、思わず後ろへと一歩退く。
何だこれは……「魂術を放てない」という話ではなかったのか。
俺は脳の片隅でそう思いながら、咄嗟に後ろのレグナートへ視線を走らせた。男は両腕を横に広げ、首を無表情に傾けている。自分は何も言っていないが?と言うような仕草だった。
……あぁ、なるほど。
魂術は放てない。だが、魂能は別の話だ、と。
手枷は魂力を吸い取るが、生まれつきその者だけが持つ固有の術が止まるかどうかまでは保証していない――と、そういうことか。屁理屈にもほどがある。
状況は冷静に把握できている。だが、状況そのものは、極めて悪い。
彼女は俺を見ていた。
蒼い瞳が、白い霧の向こうで静かに光っていた。
もう震えていなかった。覚悟に変わったのだ。自分を守る、唯一の方法に。
白い霧が光を帯び、小さく固まり始めた。
彼女の周囲に、三本の氷の結晶が現れる。先は鋭く尖っており、その矛先は――俺に向いていた。
「あなたは確かに奴隷。でも、種族は人間だもの。私の魔族としての本能が、あなたを殺したいと言っているの」
今の彼女に何を言っても否定される気がした。
拒絶。
彼女の過去に何があったのかは知らないが、全てを信用していないように見えた。
「ここから出て行って。でないと……本当に殺すから」
だとすれば俺は今、何をするべきか。
答えは一つだ。言葉ではなく、行動で見せるしかない。
俺は一歩踏み出した。その瞬間、少女の蒼い瞳が大きく見開かれた。
「近寄らないで……っ!」
ひゅッ、と空気を裂く音。
一本目の氷の結晶が放たれた。
回避しようとしたが、石畳はすでに氷の鏡面へと変わっていた。足が滑り、軸がぶれる。交わしきれず、結晶が左腕を掠めた。
ぱっと血が飛んだ。
鋭い痛みが腕を走り、熱い血が指先まで伝う。ポタッ、ポタッと、赤が白い氷の上に落ちた。
俺はそれでも足を止めなかった。
「……来ないでと言っているのに」
少女の声が、かすかに震えた。
二本目。
回避が間に合わず、今度は脇腹を抉るように掠めた。服が裂け、熱い感触と共に皮膚が深く切れる。膝が揺れた。それでも倒れなかった。
ずっと、彼女を見ていた。
少女は唇を歪ませた。哀れみではなく、恐れでもなく、困惑と怒りと、それから――もっと別の何かが混じった複雑な表情だった。
「どうして……どうしてそこまで」
「俺には夢がある」
俺は歩きながら、静かに口を開いた。べりべりと足の皮膚が氷に引っ付いて剥がれる感覚がする。靴を履いていなかったと、今になって思い出した。それでも、歩く。
「この奴隷紋から解放されて、自由に生きることだ」
「……嘘よ……人間は信用できない!」
三本目が放たれた。
俺は腕を前に出した。完全には防げず、前腕の外側を深く切り裂かれた。しかし、そのまま身体ごと押し込んで一歩、また一歩と距離を詰める。
ビリビリ……。ポタッ ポタッ。
「物心ついた時から、俺は誰かの奴隷だった。ずっと鎖で縛れているような毎日。自分で言うのも何だが、それなりに苦行は何度も超えてきた。その度に思ってきた。死んだ方がいいってな」
彼女が息を飲んだのが分かった。
「でも、諦めきれなかった」
俺は、ゆっくりと歩き続けた。
足元の氷が、血で赤く染まっていく。それでも俺は止まれなかった。止まったら、きっとこの少女は一生、誰も信じられないまま、この地下室と変わらない場所を生き続けるような気がして。
「俺が奴隷という鎖から解放されて、自由気ままに生きている姿。やりたいことを全部やっている姿……そんな、幼い頃に見た夢が忘れられないんだ」
少女は、氷の結晶を新たに生み出そうとした。だが、その動きが一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。でも、俺には分かった。彼女が迷っている。
「強制はしない。君がこの手を取らないのなら、俺は諦めるつもりだ」
そうなったら、またオルローの元へ帰るだけだ。ナナとイツキはもう自由を手にしている頃だろう。二人のいない戦場で戦果を上げるのは難しく、何年かかるかも分からない。二十年後か、三十年後か。途方もない年月かもしれない。
それでも。
「だが、手を取ってくれるのなら、君の自由は保障する。俺が死ねば、君に刻まれる奴隷紋も消える。だから君は最悪、俺が死ぬのを待てばいい。それが俺たちの契約だ」
今の彼女に綺麗事は要らない。
「俺の夢のためには、君の力が必要だ。頼む。俺に協力してくれ」
俺はいつの間にか、彼女の手が届く距離まで来ていた。
全身から血が滲んでいる。足の裏は感覚が消え、腕の傷は止まっていない。白い霧が俺の首元まで達し、吐く息は白く乱れていた。
それでも、俺は右手を差し伸べる。
あと少しで軽いエチチがあります!
あと少しで軽いエチチがあります!
あと少しで軽いエチチがあります!
あと少しで軽いエチチがあります!




