ドラゴンの進化
薄暗い谷の底に、かつては崇高なまでに輝いていたはずのドラゴン。
しかし、その体はもはや秩序だった鱗の輝きを失い、脈打つような紫色の光を放ち、ひび割れのような亀裂が全身を走っていた。
その亀裂からは、体内の宇宙が沸騰しているかのように、無数の小さな光の粒子が噴き出す。
「グオオオオオオオ!」
呻き声は、もはや威厳ある咆哮とはかけ離れ、苦痛に歪んだ獣の叫びだった。瞳は血走った赤色に染まり、焦点が定まらない。
時折、その巨大な体が痙攣するように震え、周囲の岩盤を砕くほどの衝撃波を放った。
それは、内側から体を食い破らんとする、抑えきれない進化のエネルギーの暴走。
卵の中で孵化の時を待ちきれずに暴れる雛のように、あるいは、狭い繭の中で変態を急ぐ幼虫のように。
その身に余る力が、存在そのものを引き裂こうとしているかのようだった。
「ドラゴンが…!苦しんでるのね…!」
私の声は、もはや涙で震えていた。
語り継がれるような子供の憧れが、目の前で自我を失い、ただの破壊衝動の塊と化している。
レオンは、普段の軽口を叩く余裕もなく、固唾を飲んでドラゴンの様子を見守っていた。
彼の握る剣の柄は、汗で湿っている。
「これが…進化の恐怖…なのか」
彼の呟きは、谷の呻きに吸い込まれていく。
ドラゴンは、自らの内に秘めた可能性と、それが制御不能なまでに溢れ出すことへの恐れに囚われていた。
その肉体は、進化の過程で生じるであろう、より高次の存在への変容に耐えきれず、精神は、未知なる変化への不安に苛まれていたのだ。
その時、レオンが私に合図を送った。「虹苔」を携えていた。
「今だ、リナ! 苔を!」
レオンの言葉に、私は震える手で、大切に包んでいた虹苔を取り出した。
それは、虹の欠片を集めて固めたかのように、ギラギラと七色の鮮烈な光を放っていた。
私は一歩、また一歩と、恐る恐るドラゴンに近づいた。
その巨体が再び痙攣し、熱風が吹き荒れる。
しかし、恐怖に打ち勝つ勇気を、私は持っていた。
私の投げた虹苔は、正確にドラゴンの胸元、最も激しく脈打つ場所に吸い込まれるように着地した。
その瞬間、信じられないほどの光が谷を包み込んだ。
それは、単なる閃光ではなく、虹苔が持つ純粋な生命の輝きが、ドラゴンの体内から溢れ出す進化のエネルギーと共鳴し、衝突し、そして調和する光だった。
光がドラゴンの体を優しく包み込むと、それまで荒々しく脈打っていた紫色の光は次第に穏やかになり、全身を走っていた亀裂もゆっくりと塞がっていく。
狂乱のエネルギーが静まっていくにつれて、ドラゴンの咆哮も、徐々に力なく、そして悲しみを帯びたものへと変わっていった。
「グ…オォ…」
最後に絞り出されたその声は、苦痛から解放された安堵のため息だった。
そして、固く閉ざされていた瞳が、ゆっくりと開かれる。血走っていた赤色は薄れ、代わりに深く澄んだ、玉のような輝きを取り戻していく。
完全に緑に戻った瞳には、もはや狂気の色はなく、ただ穏やかな光が宿っていた。
「もう大丈夫ね。レオン、離れよう。」
私の言葉は、確信に満ちていた。
レオンは迷わず剣を下ろし、ドラゴンから静かに距離を取った。
ドラゴンは、まるで深い眠りにつくかのように、ゆっくりと地面に横たわる。
その巨大な胸が、深い、深い呼吸を繰り返す。
荒々しく剥がれ落ちていた鱗は、一枚一枚、元の虹色の輝きを取り戻し、まるで真新しい生命の息吹を宿したかのように、谷の光を反射して煌めいた。
それは、進化の暴走から完全に解放され、本来の、あるいはそれ以上の崇高な姿を取り戻したドラゴンの姿だった。
「…ふう、なんとかなったな。虹苔、すげえな。うんこから出来てんのに、ドラゴンをこんな風に助けちまうなんて。」
レオンは剣を地面に突き立て、肩で息をしながら、しかし安堵に満ちた笑みを浮かべた。
彼の顔には、冒険の疲労と、達成感が入り混じっていた。
「うん…!なんて、もう!ちょっとデリカシーないんだから。ドラゴンは進化の恐怖で暴れてただけだったのよ。勇気の粉で心を落ち着けて、虹苔でエネルギーを整えたから…もうこの個体は、大丈夫。」
私はドラゴンの穏やかな姿を見やり、ほっと息を吐きながら呟いた。
谷には、以前のような暗い気配は微塵もなく、代わりに太陽の光がさんさんと降り注ぎ、空気は清らかに澄み渡っていた。どこからともなく、鳥たちのさえずりが響き渡り、まるで私たちを祝福しているかのようだった。谷の奥からは、清らかな水の流れる音が聞こえ、生命の息吹が満ちていることを知らせていた。
ドラゴンは、静かに瞼を閉じ、深い眠りについているようだった。
その姿は、もはや恐ろしい存在ではなく、谷の守護者として、再びその役割を果たす準備を整えているかのようだった。
「あー、もう一回作んなきゃな、ソレ。取ってきてやるよ。」
レオンが剣を握り直し、いつもの朗らかな笑みを私に向けた。
彼の瞳には、私たち二人ならばどんな困難でも乗り越えられるという、揺るぎない自信が宿っていた。
私は力強く頷き、もはや空になった勇気の粉の瓶を、まるで宝物のように握りしめた。