採取の呪文
ドラゴンの咆哮が遠ざかり、谷に静寂が戻った。
嵐は去り、霧も薄れ、虹苔の輝く崖が朝日を浴びて七色にきらめいていた。
雨に濡れた岩場は滑りやすく、足元には砕けた宝石の欠片が散らばっている。
私はレオンと並び、崖を見上げた。
「やっと…虹苔だわ」
私の声には、興奮と安堵が混じっていた。
虹苔は、ただの植物ではない。
ドラゴンが宝石を喰らい、土に還り、生命エネルギーを過剰に蓄えた神秘の産物。
「よし、さっさと採っちまおうぜ。アイツが戻ってくる前にさ」
レオンは剣を鞘に収め、軽口を叩きながら崖に近づいた。
その目にはまだドラゴンとの戦いの緊張が残っている。
崖の表面は、すこし下品なくらいギラギラと輝いていた。
虹苔は一見、普通の苔と同じように岩に張り付いているが、触れると微かに脈動し、温かい光を放つ。
私は本——私が生まれたとき、持っていた古書で学んだ採取法を思い出した。
虹苔は、ただ剥がすだけでは力を失う。
特別な儀式が必要なのだ。
「レオン、ちょっと待って。虹苔は普通に採っちゃダメなの。ちゃんと準備しないと」
私がそう言うと、レオンは怪訝な顔で振り返った。
「準備? まさか、人魚みたいに歌でも歌うのか?」
「ふふ、歌じゃないけど…ちょっと似たようなものよ」
私は背囊から小さな革袋を取り出し、中から銀色の粉末を摘み出した。
この前手に入れた、子守唄貝が守っていた真珠の一部だ。
これを虹苔に捧げ、調和の言葉を唱えることで、苔の力を損なわずに採取できる。
私は崖の前に跪き、虹苔の輝く表面に手をそっとかざした。
温かい脈動が指先に伝わり、苔が私に語りかけている。
レオンは少し離れて見守りながら、興味深そうに首を傾げていた。
「虹苔よ、汝の力を分け与えんことを乞う。星の慈悲のもと、我が手にその輝きを預け給え」
私は静かに呪文を唱え、銀色の粉末を苔の上に振りまいた。
粉末が光を帯び、虹苔の表面でキラキラと踊る。
次に、乾燥ハーブを手に握り、そっと息を吹きかけた。
ハーブは風に乗り、苔の間を漂いながら淡い緑の光を放つ。
虹苔が一斉に輝きを増し、まるで応えるように脈動した。
崖全体が七色の光に包まれ、微かな鈴のような音が響き始めた。
しゃん、しゃん。しゃん、しゃん。
レオンが驚いたように目を丸くする。
「なんかまた…すげえな。詩人の世界を、見てるようだぜ」
「だから言ったでしょ? 虹苔は特別なのよ」
私は笑いながら、慎重に手を伸ばす。
虹苔は私の指先に反応し、まるで自ら進んで離れるように、薄い層となって剥がれ始めた。
光を放ちながら、ふわりと私の掌に収まる。
その感触は、まるで絹のように滑らかで、ほのかに温かかった。
「すごい…本当に生きてるみたい」
私は採取した虹苔を小さな水晶の瓶に納め、蓋を閉めた。
瓶の中で、苔はまだ微かに光を放ち、脈動している。
エリクサーの素材となる勇気の粉を作るには、これを乾燥させ、特別な方法で粉末にする必要がある。
「よし、採れたな! これで終わりか?」
レオンが私の肩越しに瓶を覗き込み、満足げに頷いた。
「うん、これで虹苔は手に入ったわ。後は、工房で粉にするだけ…でも、その前に少し休みたいわね。ドラゴンとの戦い、疲れたでしょう?」
私がそう言うと、レオンは大げさに肩をすくめた。
「疲れたなんてもんじゃねえ。あのデカトカゲ、めっちゃしつこかったぜ。こうやって虹苔を手に入れた事を考えたらトントンってとこだな。」
私たちは崖の脇に腰を下ろし、虹苔の光を眺めながら一息ついた。
谷の空気はまだ湿っていたが、朝日が雲を割り、柔らかな光が私たちを包んだ。
遠くで、鳥のさえずりが聞こえ、ドラゴンの気配はもう感じられない。
「ねえ、レオン。勇気の粉ができたら、最初に試してみる?」
私が冗談めかして言うと、彼は笑いながら手を振った。
「いいぜ。けど、ビビるような時はお前がそばにいるんだ。 それで十分だから、必要ねぇかもな。」
その言葉に、私は少し頬が熱くなるのを感じた。