ドラゴンの谷
ドラゴンの谷の奥へと進む私たちを、濃い霧が包み込んでいた。
足元の岩は湿り気を帯び、滑りやすい。
時折、遠くから響く低いうなり声が、谷の空気を震わせる。
私の心臓は高鳴っていた。
けれどレオンには悟られないよう、冷静な顔を保つ。
「リナ、ほんとにこんなとこに虹苔なんて生えてんのか?」
レオンが剣の柄を握りながら、疑わしげに周囲を見回した。
霧の向こうは視界が悪く、岩場とわずかな木々の影しか見えない。
「生えてるわ。いつもの本に書いてあったもの。ドラゴンの谷の崖、特定の岩場にしか育たないの。…ほら、あそこ!」
私が腰にある魔法陣の描かれたいつもの古書をポンポンと叩く。
そして指さした先、霧の切れ間から、切り立った崖の表面がわずかに見えた。
そこには、七色にギラギラと輝く苔がびっしりと生えている。
虹苔だ。
「うわ、すげえ…ギランギランしてるな」
レオンが感嘆の声を漏らし、目を細めて崖を見つめた。私もその派手さに息をのんだ。
虹苔は、ただの植物じゃない。
書物によれば、ドラゴンが食料として溜め込む宝石を食べ、その排泄物が土壌に染み込むことで、苔が異常なまでに生命エネルギーを蓄えた結果生まれるのだ。
まさに、自然とドラゴンの力が交錯した奇跡の産物。
「これが…勇気を出させる原料。やっぱり、ただの苔じゃないわね」
私が呟くと、レオンがニヤリと笑った。
「そりゃ、ドラゴンのウン…いや、排泄物パワーだろ? 普通じゃねえよ」
「もう、レオン! 言い方!」
私は笑いながら彼を軽く肘でつついた。
でも、その軽い空気は、次の瞬間、谷の奥から響いた轟音によってかき消された。
ゴオオオオッ!
霧の向こうから、重低音の咆哮が響き、地面がわずかに揺れる。
私は思わず身構え、レオンも剣を半分抜いて周囲を警戒した。
「…来たか」
レオンの声は低く、緊張感に満ちていた。
霧がゆっくりと晴れ始め、崖の向こうに巨大な影が現れた。ドラゴンだ。
だが、私が想像していた姿とはまるで違った。
古くからよく知られる伝承では、ドラゴンは知恵に満ち、言葉を操る高貴な存在だった。
でも、目の前に現れたのは、鱗に苔や泥がこびりつき、目は濁って焦点を失った、まるで本能だけで動く獣のような姿だった。
「あれ? ドラゴンって、もっとこう…賢そうじゃなかったの?」
私が驚きを隠せずに呟くと、レオンも眉をひそめた。
「確かに…なんか、ただのデカいトカゲみたいだな。でも、油断はできねえ。ほら、宝石食ってるって話だろ? あいつ、腹の中キラキラしてんぞ」
レオンが指さした先、ドラゴンの口元には、噛み砕かれた宝石の破片がギラギラと光っていた。
確かに、虹苔の生命エネルギーの源は、あの宝石を喰らい、土壌に還元されたドラゴンの力だ。
ドラゴンは私たちに気づいたのか、濁った目をこちらに向け、ゆっくりと首を振った。
その動きは鈍重だったが、一撃で岩を砕くほどの力があるのは明らかだ。
霧の中から、尾が地面を叩く音が響き、ゴロゴロと小石が転がってきた。
「リナ、虹苔を取るにはあの崖に登らなきゃだろ? でも、あのドラゴンが邪魔だ」
レオンが剣を完全に抜き、構えながら言った。
「ええ…。ドラゴンをどうにかしないと、近づけないわ。書物には、ドラゴンが虹苔の岩場を守るって書いてあったけど…こんな状態のドラゴンだなんて」
私は少し動揺していた。
知性あるドラゴンなら、交渉の余地もあったかもしれない。でも、目の前の獣は、ただ本能で動いている。交渉なんて無理だ。
「よーし、俺に任せとけって」
レオンが突然、自信たっぷりに笑った。
剣を軽く振って構え、ドラゴンに向かって一歩踏み出す。
「レオン! 無茶しないで! あいつ、見た目以上に強いかもしれないわよ!」
私が慌てて呼び止めると、彼は振り返り、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「無茶じゃねえよ。おまえが欲しいって虹苔、絶対手に入れてやる。そんで、勇気の粉作って、俺がビビったら飲ませてくれ」
「もう…! 冗談言ってる場合じゃないわ!」
私は呆れつつも、彼のその大胆さに少し安心した。
レオンはいつもこうだ。
どんな危険な状況でも、どこか軽やかに、でも真剣に立ち向かっていく。
ドラゴンが再び咆哮を上げ、地面を這うようにゆっくりと近づいてきた。
その巨体が動くたびに、岩が砕ける音が響く。
私は拳を握り、レオンの背中を見つめた。
「リナ、崖に登る準備しとけ。俺があいつの注意を引く。隙ができたら、虹苔を取りに行くんだ」
レオンの声は、いつになく真剣だった。
彼は剣を握り直し、ドラゴンに向かってゆっくりと歩を進めた。
「…分かった。レオン、絶対無事でいてよ」
「はっ、心配すんな。こんなデカいトカゲ、ちょろいもんだぜ」
霧の中、レオンの背中がドラゴンに向かって進んでいく。
虹苔の輝く崖を背に、彼の剣が朝日を受けて一瞬光った。




