人魚の歌声
私たち、リナとレオンは、あの奇妙な音を立てる波鳴草の群生地を、まるで悪夢のように後にしていた。
風だけを頼りに、やっとの思いで抜け出した波鳴草の洞窟。
開けた岩場で息をついたものの、人魚の入り江はまだ先にある気がしていた。
遠くで響く波の音だけが、やけに大きく聞こえる。バッグの中で、あの波鳴草がまだ小さく「キューキュー」と鳴いているのが、どこか騒がしい。
「人魚の入り江、もっと奥なのかな?」
私がそう呟くと、隣のレオンはうんざりしたように肩をすくめた。
「さあな。あんなうるせぇ場所を抜けられただけでも、俺は十分ご褒美だぜ」
私たちは、岩場の奥へと続く暗い通路に足を踏み入れた。ひんやりとした潮風が肌を撫で、足元の海水は少しずつ浅くなっていく。
「この風、さっきよりも強くなったな。もしかしたら、もうすぐ外に出られるんじゃないか?」
レオンがそう言った通り、通路を抜けた瞬間、目の前に信じられない光景が広がった。
波鳴草は一本も見当たらない、ただただ広がる砂浜。そこに、吸い込まれるような静けさで、波が「ザザーン……」と打ち寄せている。
「やっと、群生地から解放された……!」
私は心底ホッとしたけれど、バッグの中の波鳴草はまだ「キューキュー」と、まるで抗議するように鳴き続けている。
なんだか、この騒がしさも少し懐かしい気さえしてきた。
ふと、奇妙なことに気がついた。バッグを手に持って右に動かすと、確かに波鳴草は「キューキュー」と鳴く。
けれど、左にゆっくりと動かすと……ピタリと、音が止んだのだ。
「ねえ、レオン、聞いて! 波鳴草が、まるで声を出さなくなる方角があるんだよ!」
私は興奮してそう言うと、彼は耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろした。
「あのうるさいのが静かになるなら、そっちに行くしかねぇだろ!」
レオンは心底嬉しそうな顔をして返事をする。
私は波鳴草を手に、慎重に左の方角を探った。
「こっちだ……! 間違いない! きっと、この先に人魚の入り江が繋がっているんだ!」
レオンは半信半疑といった表情で肩をすくめた。
「まあ、お前の勘は当たるしな。試しに行ってみるか」
私たちは、静まり返った砂浜を歩き始めた。
しばらく歩いていると、私は言いようのない違和感に襲われた。
まだ朝からそれほど時間が経っていないはずなのに、空の色が、信じられない速さで濃い藍色に染まっていく。
太陽が雲に隠れたわけではない。
ただ、頭上にはどこまでも深い青色が広がり、瞬く間に、無数の星々がキラキラと輝き始めたのだ。
「え……? 昼間なのに、星が見えるなんて……一体どういうこと?」
私は足を止め、信じられない光景に目を奪われた。
レオンも同じように立ち止まり、首を傾げている。
「確かに変だな。洞窟の中で、時間の感覚が狂っちまったか?」
彼の声には、いつもの軽薄さはなく、ほんの少しの緊張が混じっているように聞こえた。
潮風がひやりと冷たくなり、海岸の白い砂が、降り注ぐ星明かりを浴びて幻想的に輝いている。バッグの中で、あの賑やかだった波鳴草の音は、完全に消え去っていた。
「波鳴草が鳴かなくなった……何か、良くないことが起こるのかな?」
私が不安げに呟くと、レオンはいつものように軽口を叩く。私を励まそうとしているらしい。
「お前が騒がねぇなら、それでいいけどな」
けれど、私の胸にはじわじわと、言いようのない不気味な感覚が広がってくる。
「レオン、なんだか怖いね……星空はすごく綺麗だけど、こんな昼間に……」
正直な気持ちを打ち明けると、彼は少しだけ真剣な表情になった。
「まあ、確かに普通じゃねぇな。剣はちゃんと持ってるから、変なもんが出てきても、なんとかなるさ」
そう言って笑ってみせたけれど、その瞳が、星明かりの下で周囲を警戒しているのが分かった。
その時、遠くから、かすかに何かの音が聞こえてきた。
最初はただの波の音だと思ったけれど、それは違った。もっと柔らかくて、優しくて、そしてどこか、胸の奥を締め付けるような切ない旋律。それは、紛れもなく歌声だった。
「レオン、聞いて! 歌だよ……!」
私は息を潜め、耳を澄ませた。レオンも黙って立ち止まり、目を細めて遠くを見つめている。
歌声はだんだんと近づいてきて、やがて、はっきりと歌詞が聞こえてきた。
「これは……!」
エルフの里で教えてもらったあの歌だ!
これは人魚の声だ。
穏やかで、聴いていると心がじんわりと温かくなる。
♪〜
抱きしめて
永遠の夢を紡ぐ
繋ぐ手などなくとも
ゆけるところなくとも
永遠に夢を紡ぐ
私の声が
あなたの瞳が
永遠の夢を紡ぐ
〜♪
なんて、綺麗なんだろう……。私は思わず「綺麗な声……」と呟き、その歌声に完全に心を奪われていた。
昼間の星空の下で響く旋律は、海岸全体を優しく包み込み、まるで時間が止まってしまったかのようだった。
冷たい潮風も、波の音さえも、全てがこの歌の一部になっているように感じられた。