出会い
ーーなんてことだ
沼から人間の足が突き出ている。
泥にまみれた踵が水面を割り、黒々としたぬかるみに半ば沈んだまま、ピクリとも動かない。
森の奥でそんな光景が目に飛び込んできた瞬間、私、リナは思わず息を呑んだ。
湿った空気が鼻をくすぐり、苔むした石が足元に転がる中、薬草を摘んでいたばかり。
薄暗い木々の隙間から陽光が漏れ、遠くで鳥のさえずりが微かに響く。
ふわっと広がる薬草の清涼な香りに目を細め、「あと少しで新しい薬が試せるかな……」と呟いた直後の出来事だった。
「え、ちょっと……。うそでしょ!? ……………あ……もしかして…新種の魔物………?」
好奇心がむくむくと湧いてくる。
私が星からこぼれ、産まれ落ちてきたときからなぜかあるーー工房にこもる毎日は退屈すぎて。
新しい素材ならエリクサーへの道が開けるかもしれない。
古びた本に記された「星の欠片もを癒やす、再生薬」の一節が頭をよぎり、期待が胸を膨らませる。
「ちょっと覗くだけよ……」と自分に言い聞かせ、そっと近づいた。
ゴボッと沼が泡立ち、同時にくぐもった声が響く。
「助けてくれ~!」
「……新種どころかただの人間じゃない。がっかりだわ!」
肩がガクリと落ちる。
見捨てて帰るのも何かモヤっとするし、沼のそばで膝を丸めて観察した。
泥に半分埋まった男の声がじたばたしながら、「助けてくれ~!」と情けない悲鳴を連発してる。
みすぼらしい服から覗く腕はガリガリで、泥まみれの姿はまるで巨大な芋虫がもぞもぞしてるみたい。
足元の泥がグチャグチャと音を立て、沼のくっさい臭いが鼻をつく。
面倒なことこの上ないけど、このままじゃ…。
「はぁ、全く、厄介なもの見つけちゃったわね」
大きなため息が漏れる。
こんな森の奥でこんな変な人に絡まれるなんて、運が悪すぎるにもほどがある。
でも、このうるさい声が頭にこびりついたら薬作りに集中できない。
渋々目を細め、男が溺れかけてるのを確認すると、私は手を上げて指を軽くパチンと鳴らした。
風がビュッと唸りを上げ、沼の泥を巻き上げながら男を引っ張り出す
。
ドボンと派手な音を立てて抜け出した男は、地面に転がってドロドロのまま、足元でゴホゴホと咳き込む。
泥がバシャッと飛び散り、服の裾まで汚れて、顔が思いっきり歪む。
全身にべっとり泥をまとったその姿は、人間って言うより泥だんごにしか見えない。
「おい、あんた! 魔女か? 魔法なんて初めて見たよ、すげぇな! !」
男が泥をバンバン払いながら立ち上がり、上半身の泥を雑に拭う。
髭だらけの顔は泥が落ちきらず、ぐっちゃぐちゃのまま。
声がやたらデカくて、眉がピクピク動く。
泥だらけの手で服をバシバシ叩き、ドロドロの水が地面にポタポタ落ちた。
「うっ……ねえ、ちょっと声でかい! 耳キーンってしたじゃない!」
「なんだよその態度、これでも俺は英雄だったんだぜ! レオンって言うんだ。聞いたことあるだろ?」
「レオン? ………英雄? こんなとこに?英雄?」
レオンと名乗る男をじーっと見つめる。
当然名前は聞いたことない。
腰に剣をぶら下げてるけど、刃は錆びてボッロボロ。こんな初心者向けの森で沼にハマってるような人が英雄って、冗談でしょ?
近づくと、泥の匂いに混じって酒臭さがプーンと漂ってきて、顔がさらに歪む。
一歩下がって呆れた声で言った。
「……落ちぶれ剣士ってとこが精々じゃない? 酔っぱらいの英雄さんはさっさと家に帰ったらどう?」
「ハハ!ま、こんな泥水に浸かってたのが英雄だって言っても、誰も信じねぇよな!だがな、一度掴んだモンは、そう簡単には手放さねぇのが俺の流儀でな!これもなんかの縁だし、」
レオンがバツの悪そうな顔でデカく笑う。
嘘なら黙っててほしいんだけど、この目はなんか純粋で憎めない感じがする。
泥だらけの手を放り出し、続ける。
「めんどくさいことやらせちまったお詫びに、何でもするからよ! あの沼、……マジで……まじで怖かったんだぜ。助かったよ。」
少し考える。
剣はあるし、見た目は泥だんごでも護衛くらいにはなるかな。
次の素材「星涙花」は崖の上に咲いてて、ちょっと怖い場所にあるし。
エリクサーへの旅がこんな泥くさい奴で始まるなんて笑っちゃう。けど……まあいい機会かもね。
「…じゃあさ、崖の上の星涙花を一緒に採りに行ってよ」
「星涙花? 何だそれ? 食べれるのか?」
レオンが首をかしげると、私は呆れた目を向けた。
薬草袋から古びた本をガサッと取り出してページをペラッとめくる。
「ほらここ、星涙花。」
そして本の中の花を指さした。
「星形のちっちゃい白い花で、朝露でキラキラ輝くの。中心に青い雫の模様があって、触るとほんのり温かい。エリクサーの気力回復と輝きの効果があるのよ。朝露も必要だから朝に採らないとダメなの。」
「へぇ、エリクサー? なんか良くわからねぇけど 面白そうじゃん!」
「もう……なんなのあなた、だいぶ変なやつよ。」
「お礼って言うなら、高いとこ苦手だからさ。一人じゃ怖いし、一緒に行ってくれると助かるんだけど」
「ああ、分かった! 任せとけって! 俺、昔は崖なんて一瞬で――。」
「はいはい、昔話はいいから!」
レオンが泥をバンバン払いながら立ち上がり、剣をドンッと叩いて気合を入れた。泥がパラパラ落ちて、服にまたちょっと飛び散る。
「ねえ、それ洗ってよね! 汚いって!」
「汚れも英雄の証ってな!」
とレオンがふざけた様子で笑う。
「本当に、こんな人でいいのかな……」
森の静寂が再び戻り、リナは泥だらけのレオンを横目に、自分の工房を思い出す。
埃っぽい棚に並ぶ薬瓶、夜な夜な調合した試作品、そして「エリクサーさえ作れれば」そう呟いた夢。
あの退屈な日々が、こんな馬鹿げた出会いで動き出すなんて。
レオンの「よし、行こうぜ!俺たちの旅へ!」という調子のいい泥臭い声が響き、心に小さな火が灯る。
星の欠片が囁くような、エリクサーへの第一歩が、今確かに始まったみたい。