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「ーーーこれで、あと残り3,195日…!」
部屋全体が白色で統一された、豪奢な内装にそこかしこに高価な調度品が置かれた一室に、一人の少女がいた。
ここは、アラレタリア王国王家屋敷の地下室。
そして少女の名は、ベルベット=フォン=アラレタリア。この国の第一王女である。
この広すぎる部屋に一人で暮らす彼女は、職人が作り上げた精巧な装飾が施された椅子に座り、これまた緻密な造形の机に向かって日記を書いていた。
ベルベットは、この地に降りかかる災厄を払う太陽神の巫女である。そんな彼女は次代の巫女のため、自らの生きた記録を日記として書き記す役目があった。そして彼女自身も歴代の巫女が残した日記には全て目を通すことで、自らの役目を認識していた。
ただ日記と言っても彼女にとっては変わり映えのしない毎日にすでに書くことは無くなっており、今では自分が"死ぬまでのカウトダウン"としての機能しかなかったが。
巫女が災厄に対処するのは、決まって肉体的に最良の状態であるとされる20代の中盤あたりだ。歴代の巫女たちは、概ね26歳前後に厄災と出会い、役目を果たしている。
ベルベットは今年17歳。残り9年弱で、彼女は今代の厄災に対処しなければならない。
それは定められた明確な役目であり、彼女がこの先役目を果たすまで何があろうと生きていなければならない期間だ。そして同時に、「その日」が来れば彼女は役目を果たすことができる。
役目を果たせば、ベルベットは、もう"この世に生きる必要"はなくなる。
彼女にとって厄災に見えることは"解放"と同じであった。
厄災さえどうにかすれば、ーーーもう、この世に生きる理由なんてない。
役目から解放されることだけを心の依代に、ベルベットはこれまで生きていた。
誰からも、血を分けた両親からですら隠すことができない嫌悪を向けられて過ごす人生。
誰からも愛されず、誰からも求められることのない存在。
ただ在るのは、未来に起きる厄災への対処できる機能だけ。
そんな環境で生き続け、神の恩寵により肉体的にも精神的にも死ぬことのできない彼女にとって、"死"とは言葉通りの"救い"だった。
「あとたったの3,000日とちょっと…。はやく明日に、明後日に、100日後に、1000日後にならないかしら」
ふふふ、と微笑む彼女は、どこか諦めた顔で日記を閉じると目を瞑る。
彼女は基本この部屋で1人で過ごして生きてきた。ここ数年は、食事や睡眠、日記などの役目が終わると、ただただ時間が経つのを何も考えずに待つのが習慣になっていた。
普通の人間であれば、健全な成長には適度な運動や人との繋がりなどが必要だが、太陽神の巫女、とりわけベルベットは別だ。神の恩寵により自動的に身体も心も最適な状態へと維持されるため、最低限睡眠と食事があれば問題がない。
故にベルベットは、役目以外の時間はこうして何も考えず、明日が来るのを待っている。解放されるその日を、待っている。
「ベル、入るわね」
しばらくすると、扉をノックする音と共に一人の女性が入室してきた。
「お母様…?今日は面会の予定はなかったはずだけれど」
手入れの行き届いた栗色の髪を肩口まで伸ばしている妙齢の女性は、この国の正妃であるアローリア妃だ。
「あら、用もないのに来たらだめかしら?」
「ふふ、そんなことはないわお母様。変わり映えのしない毎日だもの、ここにきてくれるだけでも私は嬉しいわ」
和かに答える親子であったが、その視線はどこか外れている。いや、アローリア妃が、明らかに娘の目から視線を外していた。
ベルベットはずっと昔から気付いていた。母親ですら自分を嫌悪していることに。これまで一度たりとも彼女の目を見て話したことなど、父親も母親もありはしないのだから。
しかし、それでも両親が自分に向けてくれている愛があることは感じていたし、感謝していた。自分のためにこの部屋を用意し、欲しいものはなんでも与え、叶えられる限りの願いは全て聞いてくれた。
だからこそだろう。数年前から愛されることを強く求めるようになったのは。肉親ですら、本当の意味で自分を愛してはくれない。心では拒絶しつつも、それを理性で押さえ込んで、自分のことを愛しているーーーように見せている。
結局は、愛している"フリ"なのだ。親子の情なのか、巫女への忖度なのかはわからない。どちらにせよ、本心からの愛ではないからこそ、ベルベットは、純粋な愛に飢えているのだ。
もちろん、どんな形であれ自分に良くしてくれている両親には深く感謝している。両親が向けてくる虚構とも思える愛でも、彼女にとっては唯一無二のものだ。その情に甘えてしまうことも何度もあった。
それゆえに、2年前には随分な無茶を言ったと、ベルベット自身も反省している。
当時は精神的にも多感な時期で、そういった恋物語的な創作物に触れる機会も多かった。自分もこんな体験をしてみたいと、現実逃避に没頭する毎日だった。
そんな時期に無理を言った"お願い"を、2年も経ったいまでも諦めずに叶えようとしてくれているのが、母アローリアだ。
「この間面会したマティス家のグウェンくんは、どうだった?なかなか綺麗な魔力の流れをした子だったでしょ?」
グウェン=マティス。
つい10日ほど前に縁談と称して面会した伯爵家の嫡男。
黄色味がかった金髪を少し長めに切り揃えた貴公子。魔力の流れは湧水のように澄んだ色をしており、大きな湖を連想させる。
異性からもさぞ愛されるであろう魔力と容姿を兼ね備えた美男子であった。
ーーーでも、それだけだ。
「グウェン様も、やはり私の醜さには驚いていたようですわ。一言、二言しかお話できませんでしたから、二度と私に会おうとなどとは思っていないと思います」
ベルベットは、気にした風もなく答えた。
両親が用意してくれた縁談。もう何度同じことを繰り返しただろうか。
皆一様に、ベルベットと出会えば理解するのだ。その醜さと、本能から湧き上がる嫌悪感に。
(どうしてあの時、あんなことを言ってしまったのでしょう)
ベルベットは過去の自分が両親にした"お願い"に後悔していた。
初めから、不可能なのだ。実の両親ですら忌避感を抱く自分の存在を、受け入れることなど。この2年で、嫌というほど理解させられたその事実に、ベルベットはすでに諦めていた。
「そうなの…。それなら、これは捨ててしまったほうがよかったかしら」
そう言ったアローリアの手には、綺麗な刺繍が施された手紙があった。
「グウェンくんから、どーしても、ベルベット女王殿下にお渡しください!って情熱的に頼まれていたのだけど、ベルは乗り気じゃなさそうだものね?」
ふらりふらりと手紙を揺らしながら、アローリアは問いかける。
揶揄われている、とベルベットはすぐに気づいた。
数年前なら、反応できていただろうか。わずかな希望に縋って、送られた手紙を読んだだろうか。興味をもっただろうか。
だが、すでにベルベット=フォン=アナスタシアの心は、折れないまでも、ひどく疲れ切っていた。
もう、何をしたって自分が拒絶されるのは分かっているのだから。
だったら初めから、知らないほうがいい。関わらないほうが、いい。
「捨ててくださって構わないわ、お母様。殿方からの手紙を読んで、良いことなんてお父様からいただいたもの以外なかったもの。見ない方がいいに決まっているわ」
「ベル…」
ベルベットは拒むように背を向けて黙り込む。
娘の姿を尻目に、アローリアは悲しげに便箋へと目を落とした。
手紙の内容は、既にチェックしてあった。ベルベットに対する非礼への謝罪と、今後も仲良くしたいという内容だった。決して娘が傷付くような内容ではない。むしろ、一度面会した男から届くことは今まではあり得なかった内容だ。だからこそ、こうして直接渡しに来たのだ。
しかし、肝心のベルベット自身がそれを拒んでいた。これまでの経験が、彼女に希望を抱くより、希望を裏切られる痛みを避けることを優先させてしまっていた。
ひとまず、部屋中央にある大きなテーブルに手紙を置いた。
この場で口頭で内容を伝えてもよかった。でもそれではグウェンに対して失礼だ。
初めて愛娘に誠実に対応してくれた子だ。アローリアはグウェンのことも大切にしたかった。
だからこそ、賭けた。
興味が湧けば自分から中身を見るかもしれない。ふと視界に入って気になる程度でいい。もしかしたらすぐに捨てられてしまうかもしれないけれど、この優しい幸運に、できれば娘には自分から触れて欲しかった。
「グウェンくんから伝言よ。【返事をお待ちしております】だって。…じゃあねベル、私は戻るわ、ちゃんとご飯を食べてから寝るのよ」
そう言い残し、アローリアは部屋から出ていく。
後に残った手紙を、ベルベットは無感情に見つめると、無造作に丸めてゴミ箱へと捨てた。
勿論、中身など見てはいなかった。




