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「幼い頃から、お前が心の底から我がマティス領を思い、愛し、大切に思っていることは知っていた。だが、今回はお前のそんな気持ちを利用して、お前を追い詰めてしまったことに気付いた。私が間違っていたんだ、すまなかったグウェン」
「グウェン、貴方はわたくしたちを見て育ったのだもの。夫婦とは力を合わせるものだと、愛し合うものだと私も教えてきたわ。だから、貴方は思い詰めてしまったのよね…。自分にそれができるのかって。できないとすれば、貴方は自分を強く責めることなんて簡単に想像できるのに。ああ…、わたくしの愛おしいグウェン。大丈夫よ。貴方が愛する人は、貴方が決めていいって、この人とも話し合ったわ」
母上に抱きしめられながら、何度も頭を撫でられる。
「そう怖い顔をするなミリー。わかっている。もうこのようなことはしないさ。神に誓って、だ。グウェン、ミリーの言うとおり、お前の婚約者は、お前が出会った女性の中から好きに選ぶといい。私たちはお前の判断を尊重しよう」
父上が、目に涙を湛えて、わたしを見つめる。
わたしにはその言葉が、到底冗談や嘘をついているようには見えなかった。
父と母は、心の底からわたしを愛してくれているし、慈しんでくれている。それは昔から変わらない。だからこそ、余計に、気になった。
ーーーわたしに一体、何があったのか。
「父上、母上、…実は、わたしは何も憶えていません。その縁談のことも、飛び降りたことも。何一つ憶えていないのです」
両親は目を見張った後、戸惑うように眉根を寄せた。
同席している当家に専属している医者が
「そうでしたか、坊ちゃま…。ええ、強いショックを受けた後に、脳にも大きな衝撃がありました。後ほど詳しく確認いたしますが、記憶が無くなっていることも無いとは言い切れません」
と神妙な面持ちで補足する。
母上がより一層心配そうな顔をしたが、構わず続ける。
「ですので、教えて欲しいのです。わたしは一体何をしたのでしょう、どこへ行き、何を見たのでしょうか。わたしは母上から、夫婦は協力して生きていくものだとも教わりました。それは、たとえ愛し合っていなくとも、です。他の貴族の中にはそうしている家もあると」
そう。不可解なのは、記憶がなくなっていることだけではない。
わたしが、縁談が【嫌】になり、自決を選んだ。
そんな、我が儘で、身勝手な理由で、相手を傷付けることすら厭わずに、自分の身の可愛さに、死を選ぶなど。
このマティスの家に生まれ、次期伯爵として育ってきたわたしが、そんな選択をするなど、到底、思えなかった、信じられなかった。
「わたしは、たとえ愛することはできなくとも、協力することすら出来ないと、そう自分が考えたことが、信じられないのです。父様、母様、わたしに教えてくださいませんか。わたしにいったい何があったのかを」
わたしが強く訴えると、両親は顔を見合わせた後、静かに頷いた。
「いいわ、グウェン。話しましょう。でも、今は貴方の身体が心配なの。まずはゆっくりと身体を診てもらって、その後で話すわ。わたくしたちが貴方に何をさせたのかを。それでいいわよね、あなた」
「勿論だ。それに、決してグウェンの行動は悪いものではなかった。それは私が心から思っていることだ。全ては私たちに責任があるのだから、何があろうと自分を責めるなよ」
両親のその言葉に安堵するとともに、得体の知れない不安が胸の内に生まれた。
もしかしたらわたしは、記憶のない間に自らが犯した罪と向き合わなければならないかもしれない。"己は正しい"と信じてきたこれまでが、知らぬ間に覆されてしまうかもしれない。
そうなったとき、わたしはわたし自身の行いを受け入れられるだろうかーーー
ーーー大丈夫、人間なんてみんな醜いもんだよ。
そんな声が、頭の中で聞こえた気がする。
まるで、自分がそう思ったかのような感覚だ。
普段ならこんな厭世的なことは考えもしないのだが、何故だか心にストンと落ちた。自分ではない誰かの考えが、そのまま自分の一部となってしまったように。
しかし真正面から否定する気にもなれない。むしろ「正しい」とさえ思えてしまう。
だからだろうか。気づけば不安な気持ちも不思議と消えていたのだった。