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あなたの傍を飛んでみる

作者: 木山花名美

 

 あれ……私、もしかして死んじゃったの?


 鎖に繋がれていたような身体も、鉛みたいな心からも解放されて。風もないのにふわふわと浮かんで、とうとう高い天井まで届いてしまった。

 遥か下を見下ろせば、ベッドに横たわる私の抜け殻と、その枕元に座る夫の姿がある。

 蝋燭がチリチリと灯す仄暗い室内。静寂が生まれては吸い込まれていく異様な光景に、私は『死』を自覚した。


 ……馬鹿ね。庭の紫陽花を見たくなって、雨上がりの濡れた石畳を歩いていて。……足を滑らせて転んでしまうなんて。

 最期の記憶は、後頭部に感じた嫌な衝撃と鈍い痛み……そして、鉛色が折り重なる、昏く重たい空だった。


 まさかこんな形で、一生を終えるなんてね。永遠に続くかと……一日一日がとても長く感じた結婚生活も、私の死と共に幕を閉じる。

 まだ十九歳になったばかり。死ぬには少し早いけれど、未練や心残りなんて何もない。むしろこれでお互い自由になれるのだと、安堵さえしている。


 ……よかったわね、あなた。


 あの空と同じ鉛色の髪に浮かぶつむじも、何だかホッとしているように見えた。



 ところで、天国にはどうやって逝くのかしら。イメージでは、光の階段が降りてくるとか、天使達が優しく迎えに来てくれるとか。しばらく天井をすいすい泳いでみるも、それらしきものは一向に現れない。

 念の為……と窓の外も覗いてみるが、夜色を映す硝子を、ただ雨が流れていくだけだ。

 そうだわ、天国じゃなくて地獄かもしれない。あれこれ浮かぶ自分の罪に、慌てて手を組み懺悔する。だけど地の底まで続く穴も、地獄からの使者も、全く現れる気配はなかった。


 仕方ないわ。お迎えが来るまで、暇つぶしにあなたの傍を飛んでみようっと。

 若くして亡くなった哀れな妻の為に、どんな素敵な葬儀をしてくれるのか見せてもらわなきゃ。


 私は窓から離れると、すいっと夫の傍に降り立った。


 蝋燭が照らす、粗野な横顔。その右頬にある名誉の勲章と呼ばれる傷痕は、生まれつきそこにあったように彼に馴染んでいる。

 こうして改めて見ると、自分の夫は、軍人になるべくしてなった人なのだと思う。直接伝えたことはないけれど……自分の周りにいた、温室育ちのお坊っちゃま達の白い肌よりも、ずっと凛々しく誇らしいと思っていた。

 勇気を出して、たった一度でもそれに触れていたなら、私達は何かが変わっていたのかしら。

 ……いいえ、こんなに早くお別れしてしまうなら、やっぱり触れないままでよかったんだわ。


 結婚した当初は、怒っているのかしら? と心配した夫のし口。それの口角が徐々に上がり、ニヤニヤと笑い出す。

 あら、駄目よ。いくら嬉しいからって、そんなに素直に感情を出しては。今は一人だからいいけれど、人前ではちゃんと哀しみに暮れる夫を演じないと。涙の一滴くらいは流さなきゃ、悪い噂が立って再婚に支障が出てしまうわ。ほら、今のうちに練習しておきなさい。

 私の言葉は届かず、薄く開いた唇からは、ふんふんと楽しげな鼻歌まで漏れてくる。


 困った人ね……使用人達に聞かれたらどうするの。

 何とか気付いて欲しいと、蝋燭の周りを飛んでみるものの、ほんの僅かに炎が揺らぐだけ。案の定全く気付かれず、逞しい身体までがふんふんとリズムに乗り始めた。


 はあ……何の歌か知らないけど、せめてもう少し哀しげに歌ってくれたらいいのに。

 私は諦めて床に座り、笑い続ける夫を見上げた。



 夜が明けて、雨模様のくすんだ朝日が差し込んでも、やっぱり夫はニヤニヤと笑っていた。

 そんなに笑い続けて、頬っぺたが疲れないのかしら。


 家令が部屋に入って来ると、やっと顔が引き締まり、葬儀の日程や段取りを話し合う。

 よかった……あのままだったらどうしようかと思ったわ、とホッとしたのも束の間。

 今の時期は遺体が傷みやすい、遠方の親戚は間に合わない可能性もあるが、明日にでも葬儀をと勧める家令に対し、まだ早いの一点張りで首を縦に振らない夫に苛立つ。

 どうしてよ……家令ジョンの言う通りでしょう? 傷む前にちゃちゃっと埋葬しちゃってよ! こんなに雨続きでじめじめしているんだもの……別に死んだ顔なんか見てもらわなくても構わないから、綺麗なままで棺に入りたいわ。

 ……あ、もしかして、わざと腐らせたいとか? いえいえ、いくら嬉しくて笑っちゃうくらい私のことが嫌いでも、軍人たるもの、死者の尊厳は守ってくれるはずよ。


 結局家令の必死の説得で、何とか明日葬儀を執り行えることになった。

 どうか気が変わりませんように……どうか傷みませんように。



 それからも一人になると、ずっと私の抜け殻を見ては、ニヤニヤと笑い続ける夫。

 驚いたことに、なんとこの部屋に食事を運ばせ、もぐもぐと三食きっちり美味しそうに食べている。そりゃあね、ちっとも哀しくないんだから食欲もあるでしょうけど、わざわざ抜け殻と一緒に食べなくても。生きていた時には、一緒に食事をしたことなんて数えるくらいしかないのに。


 それにしてもすごいご馳走!

 あ……あのステーキ、お肉が柔らかくて美味しそう。あ、あのレモンのタルトは私の大好物。ああっ!! 私が大切に取っておいたワインまで飲んじゃって!

 きっと見せびらかしているのね……抜け殻に対して、なんて大人げない。食べることが何よりの楽しみだったから、ニヤニヤ笑われるよりも鼻歌を歌われるよりも悔しいわ。

 うーん、抜け殻、今すぐ腐っちゃえ! ここで食べられないくらいに臭ってしまえ!


 死者の怒りに天が応えてくれたのか、小雨が急に大粒になり、激しい雷と共に窓硝子に打ち付ける。

 びくっと驚きワインを溢しそうになる夫に、私はふふんと笑った。



 死んでから二度目の夜中。

 私の夫は相変わらず、抜け殻の傍でニヤニヤふんふんと嬉しそうにしている。

 明日はいよいよ葬儀よ。今のうちに思う存分笑っていいから、本番はしっかり頼むわね。


 トントン、タン、トトッ……


 ノックみたいな雨音に、夫はふと顔を上げ、昏い窓の向こうをじっと見つめる。やがておもむろに立ち上がると、静かに部屋を出て行った。

 ……ご不浄かしら。あれだけ食べてたものね。



 しばらくすると、何かを手にし、部屋に戻って来た。

 あじ……さい?

 水で満たしたワイン瓶にたった一輪生けたそれは、私の一番好きな紫陽花。青い小花の周りを白い大きな花が縁取っているそれは、ちょうど一年前、ここに嫁いで来た時にも咲いていた。今年も咲いてくれたことが嬉しくて、毎日のようにあの石畳を歩いては、雨を彩る美しい木を眺めていたのだ。


 まさか……私がこの紫陽花を好きなことを、知っていたの?

 ポタリと雨粒が滴る花から視線を移せば、同じように彼からも雨の雫が滴り落ちている。拭うこともせず、ただぼんやりと。鉛色の髪からポタポタと落ちては、傷痕のある頬を伝い流れていく。

 ……笑っているのに、まるで泣いているみたいね。



 ◇◇◇


『……王命に逆らう訳にはいかないんだ。どうか分かって欲しい』


 あの時の苦しげな父の顔は、今でも忘れられない。


 戦勝に導く程の武勲を立て、国王陛下から爵位と領地を賜ったという、平民上がりの軍人。貴族としての箔を付ける為、その男の元へ嫁げと白羽の矢が立ったのが、王家の血を引く侯爵令嬢の私だった。

 その命を受け入れることは、愛する婚約者との別れを意味しており、私は絶望に打ちひしがれた。


 それは夫となった男も同じだと、結婚した後で人伝に知った。彼の帰還を待ち続けていた恋人がいたのに、王命で無理やり私と結婚させられることになったのだと。


 そんな私達には、特別な何かなど生まれるはずはなかった。

 彼は貴族として恥をかかないよう、積極的に色々なことを学び、常に紳士であろうと努めていた。

 私も将軍の妻として、また伯爵家の女主人として、夫と家を支えることに必死だった。

 そこに信頼関係はあったと思うけれど、男女として、また夫婦としての情はない。夜も……初夜だけは同じベッドで過ごしたけれど、夫は一切私に触れることはなかった。それきり別の寝室を使っており、最初はあれこれ助言してきた侍女も、今ではもう何も言わなくなっていた。


 これが俗に言う、『白い結婚』なのだろう。


 夫は私に笑顔を向けてくれたことがない。じっと睨まれたり、目が合えばぷいと逸らされたり。割り切っていたはずなのに、いつしかそれを寂しい、哀しいと思うようになっていた。

 ……何故だろう。最初は怖かった粗野な顔も、その円らな瞳は、紫陽花みたいに優しい青だと知ったから? 国を守った厳つい大きな身体で、懸命にテーブルマナーを学んでいるから? 使用人達だけでなく馬や番犬、屋敷に迷い込んだ小さな虫にまで温かいから?


 もっとあなたのことを知りたくて、今のままではいけないと思って、結婚してから一年を迎える明日に、ちゃんと話をしようと思っていたのに。

 馬鹿な私のせいで、結婚記念日は葬儀に変わってしまった。明日の為にと大切に取っておいたワインも、二人で開けることは出来なかった。


 だけど、私の抜け殻を見て笑うあなたを見て、これでよかったと。心からそう思ったけれど────



 ◇◇◇


 ポタポタ……ポタタ……


 夫は雫を滴しながら、湿った手で抜け殻の頬を撫でる。ニヤリと口角の上がった唇からは、鼻歌ではなく掠れた低い声が漏れた。


「……馬鹿だな、俺は。結婚記念日なんか待たないで、もっと早く想いを伝えていればよかったのに」


 ……想い……?

 もっとよく聴こうと近寄れば、何かを感じたのか、辺りをキョロキョロと見回す。太い首を少し傾げるも、抜け殻に向かい話を続けてくれた。


「婚約者と別れて……こんな男の元に嫁がされた君が不憫で。いつか自由にしてあげなければと思っていた。だけど俺は、君のことを一目で好きになってしまったんだ。触れないよう、目を合わせないよう……近付けば近付く程手放せなくなってしまうから、出来るだけ距離を置いていた」


 一目で……好きに?

 嘘よ、だってあなたには恋人が……


「君は一見お姫様みたいに綺麗なのに、快活でとても面白かったよ。こんなに華奢なのに俺よりも沢山ご飯を食べたり、誰とでも分け隔てなく接して笑い合ったり、歌を歌いながら庭を踊ったりスキップしたり」


 やだ……いつ見てたの?

 本体に連動して、抜け殻の顔まで赤く見えるのは気のせいだろうか。


「本当は一緒に寝て……おはようを言って、一緒に朝食を食べて、笑い合って、君の歌を聴きながら庭を散歩したかった。触れなくても、目を合わせなくても、俺は結局君を手放すことなんて出来ない。そう気付いてからは、今のままではいけないと、ちゃんと話をしようと思っていた。それなのに……」


 彼の口角は更に上がり…………違う。酷く歪み、そこから哀しい言葉が溢れる。


「君は自由になりたかったのかな……だから……これでよかったのかな……」


 違う、違うわ、よくなんてない。

 ちっともよくなんてない。

 私だって話をしたかったのよ。大好きな紫陽花を飾って、とっておきのワインを開けて、沢山沢山、これからのことを話したかったのに。


 抜け殻の顔が、今度は泣きそうに見える。


 ……戻れるかしら。こんなに繋がっているなら、まだ戻れるんじゃないかしら。

 抜け殻の頭や胸目掛けて、何度も戻ろうと試すけれど、呆気なく弾かれてしまう。


 ザアッ…………


 激しい雨音に乗って、窓硝子から光の道が差し込む。

 いや……逝きたくないの……まだ逝きたくないの……

 抵抗も虚しく、すうっと光の方へ吸い寄せられてしまう。


 その時、あの楽しげな鼻歌が、私を強い力で掴んだ。鎖なのか鉛なのか……一気に重たくなり、道の手前で少しも動けなくなってしまう。


 そうか……この歌、私が散歩しながらよく歌っていた、故郷の子守唄だわ。

 ……あなたって音痴なのね。全然メロディーが違うから気付かなかったじゃないの。


 ……一緒に歌いたかった。

 ……もっと一緒にいたかった。



 ザアアアッ…………



 一層激しさを増す雨音と、優しい子守唄が混ざり合う。

 やめて……消さないで……あの人の声を消さないで……



 ザアアアアアッ…………



 そのまま、重く重く、深いどこかへ沈み込んでいった。



 ◇


 ぼやけた視界に、高い天井が見える。

 だけど身体も心も重くて、とても届きそうにない。


 不意に鼓膜を震わせるのは、柔らかい雨音と、調子外れの優しい鼻歌。低くて真っ直ぐなメロディーの中で、時折妙に高くなる……これは…………


 ガバッと身体を起こした瞬間、後頭部がズキリと痛む。


「……アニッサ!!」


 温かい……なんて温かいの。

 背中を支える逞しい腕から、あなたの温もりがじんと沁み渡る。


「大丈夫か? 痛みは……吐き気は? 俺が分かるか?」

「……ええ。あなたは……私の夫でしょう?」


 頬の傷に手を伸ばしそっとれれば、背中の腕が一瞬ぶるっと震える。そのまま、広い胸にギュウと抱き寄せられた。


「よかった……。転んで頭を強く打って、全然意識が戻らなかったから。……あっ、医師を!」


 そう言って勢いよく立ち上がる夫の手を、くんと引っ張って私は尋ねた。


「ねえ、私のワイン、まだ飲んでいない?」



 ◇


 一年目の結婚記念日はベッドの上で過ごした。少し頭が痛むくらいなのに、夫は起き上がることを許してくれない。

 だけど夜は、豪華な夕食が二人分と、あのワインもちゃんと未開栓の状態で部屋に運ばれてきた。空のワイン瓶じゃなく大きな陶器の花瓶には、大好きな紫陽花がたっぷりと飾られている。それをうっとりと眺める私の肩に、夫は紫陽花染めのショールを優しく掛けてくれた。


 あれは夢だったのか、もう一つの現実だったのかは分からない。でも……この世と繋がっている重い身体も、あなたと繋がっている心の重みも、今はただただ心地好かった。



 私達は話した。沢山沢山話した。

 今までのことも、これからのことも。


 私の婚約者は、私が嫁いだ頃に遠縁の女性と結婚し、今は幸せに暮らしている。もうすぐ子供も生まれるらしいと、手紙に書かれていたことを伝えた。

 夫の恋人は、彼の帰還を待ちきれずに他の男性と結婚してしまっていた。私と結婚する為に別れたのではないと教えてくれた。

 愛しい記憶も、張り裂けるような哀しみも、互いを創った大切な過去なのだと────


 私は自由になんかなりたくない、あなたの傍にずっと居たいのだと言えば、夫はし口をきつく結び固まってしまった。

 これは……どう受け取ればいいのかしら。

 戸惑っていると、彼の円らな瞳から、青い雫がほろっと溢れた。淡く繊細なその雨は、傷痕のある頬を伝い流れていく。

 ……泣いているのに、まるで笑っているみたいね。



 トントン、タン、トトッ……


 ノックみたいな雨音に、私達は顔を上げ、昏い窓の向こうをじっと見つめる。やがて潤んだ視線を交わすと、その向こうに晴れやかな未来を重ねた。



ありがとうございました。

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[良い点] 不遇のまま若くして…と思った主人公ですが、不思議な体験を通じて、真実と愛を知っていくところが、とても胸に響きました。 作中に登場する紫陽花も、とても印象的です。青い紫陽花には「辛抱強い愛…
[一言] しとやかな雨音、濡れて色鮮やかな紫陽花が目に浮かぶような素敵なお話でした。
[一言] 香りのしない紫陽花から、悲しみの香りがする ような、優しいお話。 タグに「ハピエン」なかったから、少し迷いましたが、読んでほんとに良かった。 うん、タグに「ハピエン」無しですね。
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