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舞いあがる五月 Soaring May  作者: 梅室しば
二章 反撃:彼女にとっての生物学
8/18

本を読む為に地の底へ

 週末、利玖は匠の運転するSUVで実家に向かった。

 潟杜からは下道で約一時間半の距離である。それだけ聞くと実家から大学に通う事もなんとか可能であるように思えるが、家が山側に引っ込んでおり、公共交通機関の利便性が絶望的である為、兄妹そろって大学の近くにアパートを借りている。

 出発が土曜日の朝に決まると、利玖は大急ぎで生物統計学のノートを見返して疑問点を洗い出した。

 必修単位でありながら、毎年多くの学生を再履修の坩堝(るつぼ)に引き込んでいるこの講義に、利玖も例に漏れず苦しめられている。期末試験はその最たる物で、ただでさえ他の講義と毛色が違って理解が容易でない統計学を、棚田教授の芸術的な思考フィルタに通して試験形式に出力しているので、並の努力では三十点台に乗る事すら叶わない。それを、匠は初年に満点で合格していた。

 彼の解答用紙は、記名欄を黒塗りした上で秘密裏に電子ファイル化され、様々な学生のUSBメモリを介して利玖達の代まで受け継がれている。

 しかし、試験内容は毎年変わる為、残念ながら平均点の向上にはそこまで貢献していないのが実情だった。偉業を成した当の本人から直接教わる事が出来るのなら、その機会の方がよっぽど貴重だった。

 まとめてきた質問は、実家に着いてから訊ねようと思っていたのだが、匠は車を発進させるや、

「で、どの辺りがわからないの?」

と訊いてきた。

 ルーズリーフを読み上げ、兄と議論を交わしていると、自分の理解が少し進んでは、振り出しに戻り、何とか再び同じ所まで戻ってきても答えを得るに至らず、ぐるぐると徘徊しているのがわかって情けなくなったが、兄は苛立つでもなく、利玖の理解度に合わせて話をしてくれた。

 一時間半かかって解決できた質問はたったの三つだったが、それでも利玖は体力を使い切ってしまい、実家の敷地の端が見えてきた頃には、ぼうっと熱に浮かされたようになっていた。

 佐倉川の屋敷は、市街地から離れた低い山の中にある。周辺のいくつかの小山ごと、まとめて佐倉川家の土地なのだ。一本道になってから少し走った所に警備所を設けてあるので、土地勘のない者が観光地と間違えて迷い込む事もない。

 警備所を抜けた後の田園地帯を、匠が気を遣って窓を開けてゆっくりと走ってくれたおかげで、実家に着く頃には何とか自力で動けるようになった。

「大丈夫? 上がって休んでいく?」

「いえ……。このまま書庫に行きます」

 帰りの時間は二十時と決まっている。食事の時間を入れても、あと九時間ほどしか残されていない。

 利玖を軒先に残して、匠は家から書庫の鍵を取ってきてくれた。

「はい。あと、これは母さんからの差し入れ」

 手渡されたバスケットにはラムネ菓子と水筒が入っていた。

 水筒は、蓋がコップ代わりに使用できる口径の太いもので、中には熱い茶が入っている。母は茶葉をたくさん揃えていて、帰省すると時節に合ったものを淹れてくれるのだ。

 今回は何が入っているのだろう、と考えると心が躍って、少し気分も良くなった。

「昼飯時にはちゃんと顔を見せに行きなさい。僕はこの後、淺井(あざい)の方に挨拶してくるから」

 利玖はバスケットを抱えて頷いた。淺井というのは、兄が婚約している女性の姓だ。

──そう、今まで忘れていたが、兄にも許嫁がいるのである。兄と同い年で、利玖も何度か会った事があるというが、利玖は相手の顔を覚えていない。

 兄の相手は、今の利玖ぐらいの年の頃には、もう兄との結婚が決まっていたらしいが、利玖にそのような話が舞い込む気配は一向にない。必要がないから回ってこないのだけなのか、両親が断ってくれているのか……。どちらにしろありがたい事である、という程度にしか思っていなかった。


 もらった鍵をぶらぶらと手の中で弄びながら、利玖は裏口に向かった。

 敷地が広いので、ただ裏手に回るだけでも結構な距離を歩かなければならない。家の背後はすぐ森が迫っていて、裏口の軒先は梢が被さって緑に飲み込まれつつあるようにも見える。

 裏口から、森に向かって短い舗装路が敷かれており、それが途切れると獣道になる。

 草で足を切らないように注意しながら奥に進むと、やがて行く手に小さな祠が見えてきた。

 利玖の胸ぐらいの高さに、赤い屋根がある。苔と雑草に覆われて今にも朽ち果てそうに見えるが、よく観察すると骨組みはしっかりと保たれている。それに、一般的な祠に比べて、やや奥行きが広い。

 来る途中は誰ともすれ違わなかったが、念の為、もう一度周囲に人気が無いのを確認してから、利玖は祠の錠を持ち上げて鍵を差し込んだ。

 見せかけだけの、何も祀られていない祠だとわかっていても、扉を開ける時にはいつも後ろめたい気持ちになってしまう。参拝した事のない神社の御守りでも、口を切って中を見る行為には強い抵抗感を覚えるのと同じだ。

 祠の内部には、およそ二メートル四方の空間があった。壁の上の方には、それらしく見せる為の護符を模した紙がぺたぺた貼られているが、床には何も置かれていない。

 床板の端にある小さな切り込みに手を入れて引っ張ると、その部分が蓋のように持ち上がって、鍵穴が現れた。

 利玖は、その鍵穴に、鍵を差し込んでひねった。時々家の者が手入れに来ているのか、仕掛けの割りに滑らかに鍵が回り、何かが外れる手ごたえがあった。

 利玖はポケットに鍵をしまって、一歩祠の外に出た。

 そして、外に立ったまま、鍵穴の両脇に作られた窪みに手をかけて力いっぱい持ち上げた。


 祠の床にうすく積もっていた砂埃を、ぶわっと巻き上げて床板が持ち上がり、その下から、地下通路に通じる入り口が現れた。

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