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舞いあがる五月 Soaring May  作者: 梅室しば
二章 反撃:彼女にとっての生物学
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兄とカステラと工学部のアルバム

 バンドサークルの部室を後にした利玖は、悠々と食堂に向かって、待ち合わせていた友人の阿智茉莉花と一緒に昼食を取った。

 それから、再び単独行動に戻って、理学部研究棟に向かった。一限で使った講義室のある、理学部講義棟とは通路で連結されている建物で、一応の住み分けがなされているが、両者の間にこれといった敷居は存在しない。空いている講義室で院生が作業をしている事もあれば、教官が学部生を研究棟に呼んで実習で使う器材を運ばせる事もある。夜間はセキュリティ・システムが作動して各所の扉にロックが掛かるが、平日の昼間であれば、学部生である利玖が研究室を訪ねる事は難しくない。

 小枝をボンドでくっつけて「神保(じんぼ)研究室」の文字を作った木製プレートが掛かった扉をノックすると、若い院生が顔を出した。

 彼は、利玖の頭頂部から二十センチほど上を見た後、あわてて視線を下げた。

「生物科学科二年生の佐倉川利玖です」

 佐倉川、という名を聞いて合点がいったのか、彼は、利玖が会いに来た人物の名を聞いても、怪しむ素振りを見せなかった。

 その人物を呼びに行った院生と入れ替わりに、やがて、銀縁の眼鏡をかけた物腰の柔らかそうな男が戸口に現れた。

 利玖の実兄、佐倉川匠である。

「おはよう、利玖」

「おはようございます。兄さん」

 匠は、利玖より五つ年上で、潟杜大学院の博士課程に籍を置いている。神保研究室所属で、博士課程の学生が他にいないのと、当の神保教授が冬季以外はフィールドに出ずっぱりである事から、半ば助手のような扱いを受けている。

「一限は棚田教授の統計学?」

 隣の空き部屋の鍵を開けながら、匠は利玖に話しかけた。神保教授の私室だが、本人が留守の間は簡易的な応接室として使う許可をもらっているらしい。

「はい。講義終了後もたっぷり三十分間は、板書の解読作業で阿鼻叫喚の様相です」

「変わらないなあ。懐かしい……」

 匠は、利玖をソファへ座らせると、研究室から二人分のコーヒーとカステラの皿を運んで来た。

「珍しいアクセサリィをしているね」

 開口一番にそう指摘される。

 相変わらず時間を無駄に使わない人だ、と利玖は思った。

「借り物です。返してほしいと催促されているのですが、素直に従うには少々癪な事情がありまして」

「ああ、うん、なるほど。そういう事……」

 匠はこめかみに指を当てて、レンズ越しにじっと利玖の顔を見た。

「おまえ、今、自分の声で話していないね」

 コーヒーカップを手に取って、利玖は、ため息をついた。

「わかりますか」

「そりゃあね。僕がちょっと話しただけで気づくんだ。母さんがこっちに遊びにでも来たら大変な事になるよ。治せるなら早く何とかしなさい」

「…………」

「癪な事情って、何?」

 全ての経緯を説明するのは、兄に(すが)っているようで気が進まなかったのだが、上手く誤魔化す手も思いつかなくて、利玖は、結局、洗いざらい喋った。ただ、バンドサークルの部室で史岐が取った威圧的な行動については、彼の安全を(おもんばか)ってかなり控えめな表現にとどめておいた。

 話を聞き終えた匠は、しばらく眼鏡のフレームをコツコツと指で叩いていたが、やがて静かに言った。

「まあ、文献に残されている記述と一致するね。その方法にかこつけて変な事を吹き込んでいたら、とっちめてやろうと思ったけど」

 兄の「とっちめて」という言い方もまた、利玖の心象を慮っての改変であるが、そう気づく程度には利玖はそろそろ兄の人となりがわかる年頃になっていた。

 早くから佐倉川の後継者として教育を受けた匠は、利玖よりもよほど揉め事への対応に慣れている。大抵の相手なら、話術だけで丸め込む事が出来るほどだ。しかし、こと利玖の安全に関わるとなると、それをわかっていて先に手を出す人物なのである。匠には、武術の心得もあった。

「熊野史岐はこれからどうするだろうね?」

 数学の問題でも解かせるような口調で匠は訊ねた。

「半身が離れた経緯がはっきりとしないので推測しか出来ませんが、こうなってしまった以上、本家に持ち帰って指示を仰ぐか、わたしを懐柔するしかないのでは。今の所、わたしには、チョーカーを外せば彼の動きを止められるという優位性がありますから……。仮に、その命令を無力化できる何らかの方法を持っていたとしても、初めはわたしに有利だと思わせておいて、不意をつきたいはず」

 匠は頷き、先を促す。

「おそらく、熊野史岐は『五十六番』が完全に揃っていても、自身では生物を操る事が出来ないのだと思います。半身が離れたせいでその能力を失ってしまったのだとしたら、もっと慌てるでしょうし、わたしを後ろから襲って気絶させてから取り戻す、というぐらいの事はやってのけてもおかしくありません」

「どうして最も『五十六番』を使いこなしているはずの血筋が、その能力が使えないんだろうね?」

 利玖は考えながら、兄の中にはすでに答えがあるのだろうな、と思う。匠には生まれつき卓越した記憶力が備わっているが、書籍に関しては超人的といっていい程で、幼い頃から出入りしていた実家の書庫に収められている本の内容は、ほとんど頭に入れてしまっている。

「たぶん、トレードオフの関係なのではないでしょうか。熊野家は、血筋として『五十六番』と契約を交わしていて、何らかの恩恵を受け取っている。その中に、声で生物を操る能力は含まれていない」

「うん。だいたい合っているね」

 匠は無造作にカステラを掴んで、頬張った。

「熊野の家自体はそれほど脅威ではないよ。記録によると『五十六番』は、憑いた人間に魅力的な声を与える代わりに、その声を使って人の心を動かす事を要求する、とされている。バンドサークルに入っているのも、その辺りに理由があるんだろう。案外ロマンチックな生態だよね」

 利玖は眉をひそめた。

「得体の知れないものを喉に寄生させる見返りが、ただの美声ですか? 割に合わない気がしますが……」

「古い妖だから、妖の機嫌を取っていれば家内安泰や商売繁盛もおまけでついてくるよ。ただ、その効果は劇的なものではない。効き目のある五百円の御守りくらいのものだね。だからこそ、彼も大学のサークルの一員程度に収まっているんだろう」

 兄は利玖にもカステラを勧めた。昼食を食べてきたばかりなので、一切れだけもらう。

「熊野の家だって、旧家の一つではあるけれど、そこまで莫大な財を築いているわけではない。実際の繁栄に『五十六番』が寄与している割合はごくわずかだろう。むしろ、妖を使い続ける事で、同じように妖を使役してもっと力をつけている他の家との繋がりを保ちたいって所が本音じゃないかな」

「…………」

 利玖は、頭が芯から茹だってくるような感覚と戦いながら、味のしないカステラを()んだ。

 なるほど匠の話は、必要最小限でありながら要点を押さえていて、考えるべき事が見えてくる。だが、今まで利玖が認識していた世界のはるか外にある話を、前置きもなしに次々と並べてくるので、本当にそんな事があり得るのだろうか、という所から悩み始めてしまうと、たちまち処理能力の限界に達してしまう。

(妖の力を借りて富を築いている家があるなんて……)

 それこそ本の中でしか目にした事のない話だった。だが、兄が言うからには紛れもない事実なのだろう。

 匠はコーヒーをすすって、息をついた。

「どうするかなあ。僕も、夏まで予定が詰まっていてね。おまえ、自分で何とかできそうかい?」

 利玖は頷いた。

 自身の好奇心によって窮地に陥った事も、それを匠に知られた事もこれが初めてではない。だが、兄はいつも、初めから手を差し伸べて助けようとはせず、利玖がどうしたいかを確かめて尊重してくれる人だった。

「手を尽くしてみます。兄さんに話したのは、仕損じた時の保険ですから」

「うん、わかったよ。それなら六月に入る前に何とかしなさい」

 利玖がきょとんとしていると、匠は続けて言った。

臼内岳(うすうちだけ)で泊まり込みの実習があるだろう」

「…………」

 忘れていた。

「あの実習はなかなかにハードだよ。山小屋に虫は入って来るし、教授が見せたい希少種はトラップに引っかからない。虫が見つからなければ、レポートの書きようもない。おまえがそうむやみに弱音を吐くとは思っていないけれど、同級生の愚痴に同意してしまうって事はあるんじゃないかい?

 臼内岳は、国内の多くの学者が研究の題材として取り扱っている。一晩で生態系が変わってしまったら、この大学の中だけの騒ぎじゃ収まらないよ」

「あの、ちなみに、欠席した場合は……」

「感染症の診断書でもない限り、確実に留年するだろうね。残念ながら、僕にはまだそこまで手を回す力がないんだ」

 匠はそう言って、柔和な笑みを浮かべた。

「というわけだから、頑張りなさい。実家の書庫を見たいのならいつでも車を出してあげるよ」

「……はい」

 時間を取ってくれた事への礼を述べて、利玖が席を発とうとすると、匠は思い出したように腰を浮かせた。

「あ、そうだ……。ちょっと待っていなさい」

 そして、いったん部屋を出ると、利玖より一学年上の代の入学記念アルバムを持って戻ってきた。

「はい。この中にいる?」

 有無を言わさぬ声色だった。

 利玖は、心の中で史岐に詫びながら、工学部のページを開いて、彼の顔写真を探し出して指で示した。

「うん。これで顔も覚えた。でも、思い出す事はないよ。次に利玖がここに来た時に、今みたいに思い悩んだ顔をしていない限りはね」

 利玖はアルバムを匠に返して、部屋を後にした。


 もし、その自分が全てを忘れていたとしても、兄はわかるのだろうか。──わかるのだろうな、と思いながら、利玖は扉を閉めた。

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